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  • アジアゾウの憂鬱(8) 2015年2月15日更新
 山脇は足置き台と椅子を手にとり、ノッコのもとに戻った。
 左前肢の前に、足置き台を置く。
「フース・ヒア」
 指示した足をここに置きなさい。手鉤で合図しながら命令した。
 サーカス団で育ったノッコへの命令語は、サーカスの調教師から伝えられたものをアレンジして使用しているため、英語とドイツ語のちゃんぽんだ。
 ノッコは素直に指示に従い、左足を足置き台に載せた。そのそばに椅子を引き寄せ、カラビナで腰に提げた布製の工具差しを開いた。工具差しのポケットには、ノミやナイフ、ヤスリなどが数種類ずつ差してある。その中から、細長い棒状のヤスリを選択した。本来はウシやウマの蹄(ひづめ)をケアするための道具だ。
 ノッコの足の爪にヤスリの刃をあて、上下に動かす。削り取られた爪の角質が、ぽろぽろと地面に落ちた。
 檻の外で、磯貝と美和が会話している。
「山脇さんは、いったいなにをしているんですか」
「爪を削っているんです。飼育下のゾウは野生のゾウのように毎日何キロも移動するわけではないから、爪が伸び過ぎちゃうんです。だから定期的に人間の手で削ってあげないと」
「なるほど……」
 話はまだ続いていたが、山脇の耳に届くのは、ヤスリの刃が爪を削る音だけだった。しゃっ、しゃっ、しゃっ。ヤスリを動かすたびに周囲の雑音が薄れ、ノッコの存在が際立ってくる。やがて、世界にはノッコと自分しか存在しないような感覚に陥る。
 いつだってそうだった。山脇は無言の対話で、ノッコとの絆をたしかめてきた。
 おまえ、駅前の祭の音がやかましかったのか。
 あれを地震とか津波だと勘違いしたのか。
 だから怖くて、パニックになっちまったのか。
 返事はない。だが薄茶色の澄んだ瞳が、雄弁に答えてくれている。飼育担当者の欲目と言われれば、そうかもしれない。だがゾウは賢い動物だ。きっと気持ちは伝わっている。
 大変だったな。だけどおれも大変だったよ。なにしろおまえさんがなんで機嫌を損ねているのか、見当もつかないんだから。この三か月近く、どれほど心配したと思うんだ。
 視線を上げると、長いまつ毛に覆われた眼がゆっくり二度、瞬きをした。ごめん、と謝られている気がした。
  山脇はふっ、と微笑む。
 謝るのはおれのほうだ。あんな単純な原因に、気づいてやれなかったんだから。四十二年も一緒だったのに、異動してきたばかりの素人園長のほうが先に気づくなんて、まったく情けなくて泣けてくるよな。本当に情けない。
 おまえだってそう思ってんだろ?
 どこ見てやがるんだ。そうやって中のことばかり気にして外に意識を向けないから、大事なことを見過ごすんだ。静江の病気に気づくのが遅れた過ちを、また繰り返すつもりか――ってさ。
 しゃっ、しゃっ、しゃっ。
 五つの爪を慈しむように、伸びた部分を丹念に削り取る。ノッコは気持ちよさそうに目を細めていた。
 しかしおまえの足もデカくなったな。最初にこの動物園に来たときには、あんなに小さくてかわいかったのに……まあ、それを言ったらおれだって同じか。お互い歳食ったもんだな。初めて会ったときは、おれも男前だっただろう? これでも昔はけっこうモテたんだ。えっ……最初は静江に相手にもされなかったくせに……って? こりゃ参った。覚えてやがったか。
 たしかに、昔はこうやっておまえの爪を削りながら、いろんなことを話したよな。どうやったら静江をデートに誘えるのか、デートではどこに行ったらいいのか。付き合い始めてからは、いつプロポーズするべきか……ってことまで、おまえが他言できないのをいいことに、なんだって話した。助言なんてあるはずもないが、おれはおまえに相談しているつもりだった。おまえに話すことで、気持ちの整理をつけていたんだ。だからおまえは、どんなに仲のいい同僚よりも、おれのことを知っている。全部ぜんぶ、さらけ出してきたからな。
  そういえば静江へのプロポーズだって、ゾウの展示場の前だったっけ。二人が出会った思い出の場所だからだと、静江は解釈したみたいだが、そんなロマンチックなものじゃない。断られたらどうしようって不安で不安でしょうがなかったから、少しでも落ち着きたくて、おまえがいる場所を選んだってだけの話だ。もし断られたら、おまえに慰めてもらおうと思ってさ。
  プロポーズは上手くいったからそのときは必要はなかったが、おまえにはよく慰められたよ。隠していても、なんとなくわかるんだろうな。嫌なことがあっておれがしょげてると、おまえはおれの頭を撫でるように、鼻を伸ばしてくるんだ。おれが「やめろ」って手で払うと、今度は藁をかぶせてきたり、好物のリンゴをくれたり。おまえは本当に心根のやさしいやつだ。おれはおまえの世話をしながら、実際にはおまえに支えられていると感じることが、よくあった。
 静江が死んだときだって、そうだった。
 おれたち夫婦は子供に恵まれなかったから、静江を失ったおれは、独りぼっちになった。男ってのは、いざとなると弱いもんだな。静江を荼毘(だび)に付した後、おれはなにをする気力もなくなって、このまま動物園を辞めてしまおうって思ったんだ。
  おれはなんて馬鹿なんだ。なんでもっと、静江に楽しい思い出を作ってやらなかったんだ。それもこれもノッコの面倒ばかり見ていたせいだ。ノッコのせいだ。もうこんな仕事、辞めてしまおう……ってな。酷い話だよ。自分の女房をほったらかしにした責任を、おまえになすりつけようとしていたんだから。
  いまだから言うけどさ、実はな、忌引(きびき)明けで十日ぶりに出勤した時点でも、まだおまえにさようならを言うつもりだったんだ。静江は「子供はできなかったけど、あなたにノッコちゃんがいてくれてよかった」なんて本気か冗談かわからない調子で言っていたが、そんな馬鹿馬鹿しい話があるもんかと思っていた。しょせんはゾウだ。ゾウがなにをどうしてくれるっていうんだ。ノッコを見てたら静江を思い出して、逆につらくなるだけじゃないか……ってな。
  だがやっぱり、静江は正しかった。
  おまえと接していると、静江を思い出さずにいられない。そのせいで寂しさが募って、つらくなることだってある。
  それでも。
  目の細かいヤスリで仕上げると、山脇は手鉤で合図した。
「フース・ツルック」
 指示した足を下ろしなさい。
 左足を下ろさせると、反対側に回った。今度は足置き台に右の前足を載せさせる。
 ふたたびヤスリをかけ始めた。
 しゃっ、しゃっ、しゃっ。
 しゃっ、しゃっ、しゃっ。
 四十二年間繰り返した作業が、しかしここ最近はままならなかった作業が、淡々と進んでいく。硬い爪の繊維を削り落とすたびに、ノッコに抱いたはずの恐怖心も剥がれ落ちていく。卵の薄皮がめくれるように、剥き出しの感情が顕(あら)わになる。
 怖かった……。
 山脇はふと悟った。
 怖かったのは、ノッコに怪我させられることじゃない。ふたたび妻を失うことだった。山脇はノッコの飼育を通じて、亡き妻の面影に寄り添っていた。ノッコを失うことで、ノッコの中に生きる妻をも死なせてしまうことになる。それこそが恐れの正体だった。
 ああ、よかった。戻ってきたんだ。
 ノッコも、静江も。
 安堵で全身が熱を持った。
「本当に、よかった……」
 思いを口にした瞬間、ふいに視界がぼやけた。
「畜生。風邪ひいちまったのかな。ノッコ、伝染るんじゃねえぞ」
 わざとらしく鼻をすすって誤魔化した。袖で顔を拭って視線を上げると、ノッコは幼獣になっていた。胴を一周した太いリボンが、背中で大きな結び目を作っている。うふふ、と背後から静江の笑い声が聞こえてきそうな気がした。
 潤んだ視界の輪郭が曖昧になり、やがて過去が重なる。
 山脇は手すりにもたれて、アジアゾウの放飼場を眺めていた。いったいいつの記憶だろう。疑問はすぐに解消した。折れた木の枝に鼻を巻きつけ、指揮者のように上下に振って遊ぶノッコの身体はまだ成長しきっていなかったし、展示場の柵にもたれる山脇の指先は、小刻みに震えていたからだ。
 ああ、あのときか。
 案の定、山脇が顔をひねると、隣には静江がいた。白いブラウスにジーンズというカジュアルな服装で、手でひさしを作りながら眩しそうに笑っていた。
 山脇は早鐘を打つ心臓をなだめながら、震える手をブルゾンのポケットに突っ込んだ。取り出した手にはジュエリーケース。その中には、ボーナス全額叩(はた)いて購入した指輪。
 指輪を差し出されたときの、静江の顔は忘れられない。目を大きく見開き、唇を薄く開き、肩をすくめた、どこか怯えたようにも見える表情だった。答えを待つ数秒が、永遠に感じられた。
 突然、静江が泣き出したので、プロポーズは失敗だと思った。
 ――ごめん。ごめん。そういうつもりじゃ……。
 あたふたと覗き込む山脇の胸を、静江は手で押した。
 ――馬鹿。どうして謝るの。これが悲しくて泣いているように見える?
 静江は泣きながら笑っていた。
 ――ゾウの気持ちはわかるのに、人間の気持ちはぜんぜんなのね。あなたには私がいないと、駄目ね。

 そう、本当にわがままな男だった。駄目な夫だった。好きなことに没頭して、静江を振り回し続けた結婚生活だった。
 しゃっ、しゃっ、しゃっ。無言でヤスリを動かし続ける。
 ノッコ、どう思う。静江のやつ、おれを選んで後悔してないかな。おれでよかったって、思ってくれてるかな。よかった、なんて厚かましいかもしれないけど、せめて、悪くない結婚生活だったと、思ってくれてるかな。身勝手な旦那だったのは百も承知さ。なんにもしてやれなかったし、迷惑や心配ばかりかけちまったし。
 また自分のことばっかり……いつもすまないな、じじいのつまんない愚痴ばっかで。
 だけどこれからも、おれの話聞いてくれよ。
 手を止め、顔を上げる。ノッコの眼を見つめているうちに、ふいに鼻の奥がつんとした。喉の奥に力をこめたが、堪えきれない。一筋の涙が頬を伝うと、あとはもう駄目だった。堤防が決壊した。
 ――なんかかゆいな。目にゴミでも入ったかな。
 誤魔化しの言葉は嗚咽に阻まれた。山脇はおいおいと声を上げ、しゃくり上げながら泣いた。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭うこともせずに、ヤスリを動かし続けた。

               9

 鉄の扉がレールを滑る音がして、四角く切り取られた朝の陽が現れた。
  彼は寝室から出て、こぶしと足の裏で土の感触をたしかめる。目で、耳で、鼻で、生を確認する。
 いつものようにコンクリートの壁沿いに歩いて、ぐるりと世界を一周する。
 ぺたりと腰を下ろすと、朝露に濡れた芝生の冷たさが心地よかった。
 今朝はご機嫌だ。彼の変化の乏しい日常に、珍しく変化があった。
  来客だ。
  彼の世界の中心には、丸太で櫓(やぐら)が組まれている。その天辺に、三羽の雀が留まっていたのだ。雀のことは知っている。たまにやって来る、茶色くて小さくてかわいらしい鳥だ。かなり臆病でもあるらしく、以前、一緒に遊ぼうと近づいたとたんに逃げられたことがあった。
  だから彼は来訪者を怯えさせないように、世界の隅で背を丸めて小さくなった。せっかくだから、できる限り寛いで帰って欲しい。そうすれば、また遊びに来てくれるかもしれないし、もしかすると新たに友人を連れてきてくれるかもしれない。餌場を独り占めするつもりなど毛頭ない。その代わり、友達が欲しい。
  素知らぬ顔を装いつつ雀たちの様子をうかがっていると、デリカシーの欠片もないだみ声が飛んできた。
「おい、コータロー。どうした。今日は元気ないな」
 ヨシズミだった。寝室の掃き掃除をしながら、格子に顔をつけて覗き込むようにしてくる。
 元気がないわけじゃないんだ。頼むから少し静かにしてくれ。お客さんが怖がるじゃないか。
 下唇を突き出して抗議したが、粗野な人間のオスはかまわずに喋り続ける。
「この前も話したけどさ、ゾウのノッコのこと。ここのところ週末になるときまって調子が悪かったのに、どういうわけか先週末は無事に乗り切ることができたんだと。藤野は、それが新しく来た園長のおかげだってふれ回ってる。信じられるか?」
 信じられるかどうかは、エンチョウをよく知らないおれには判断できない。
 だけど、あんたが信じたくないと思っていることだけは、よくわかる。
「だよな。信じられるはずないよな、そんな話。だって素人だぞ。動物のことなんか、なあんも知らないやつが、就任早々にベテランのワキさんですらどうにもできなかった問題を解決しちまったっていうんだから、どう考えても出来すぎてる。おかしい」
 なら、どう説明するつもりだ。
 いや、どうこじつけるつもりだ――と、言ったほうがいいかもしれないな。
 彼がひややかな横目を向けると、ヨシズミは自信ありげに頷いていた。こういうときのヨシズミは、ろくなことを言い出さない。
「おれは気づいたんだ。これはきっと……あの男の策略だ」
 ほれ見たことか。
「こう考えたらどうだろう。なんらかの働きかけをして、ノッコを情緒不安定にしていたのは、あの新しい園長だった。園長こそが犯人だったのさ。だから園長は問題を解決したんじゃなく、問題を起こすことをやめただけなんだ。動機もはっきりしている。市役所から派遣される代々の素人園長に、動物園の職員はつれなかった。だからわざわざ問題を起こし、自分が解決してみせることで、職員たちの気持ちを?もうとしたんだ。現にあの新しい園長、意外にもけっこうな切れ者なんじゃないかって、ちょっと認め始めてるやつもいるしな。馬鹿言ってるんじゃないよ。ぜんぶ仕組まれたことだっての。おれは騙されないぜ」
 アホ。
 そもそも「なんらかの働きかけ」とはなんなんだ。おまえの言うようにエンチョウが無能だったら、その「なんらかの働きかけ」すらできないはずじゃないのか。
 あきれてものも言えない。
 もっともおれがなにを言おうと、ヨシズミには理解できないようだが。
「そうだ。そうに違いない」
 ヨシズミは得心がいった様子でぶつぶつと独りごちながら、竹ぼうきを動かし始めた。
 やれやれ、人間というのはつくづく野蛮な動物だ。やたらと敵を作りたがるし、争いたがる。
 喧嘩はしないほうがいい。喧嘩しない方法も簡単だ。ほかの群れと餌場が重なったら、別の安全な餌場を探せばいい。全部はいらないのだ。群れが食べていけるだけの餌があれば、あとは分け合えばいい。
 なのにどうして人間は――。
 彼は指で下唇を弾いて、ぶるるんと音をさせた。
 チュン、チュンとかわいらしい声がする。
 ちらりと視線を滑らせると、いつの間にか櫓から下りた雀たちが、しきりに芝生をついばんでいた。

(つづく) 次回は2015年3月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 佐藤青南

    第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。