佐藤青南
1 「ななっ……いきなりなにを言い出すかと思えば……いまなんと?」 田尾がビールを噴き出しそうになりながら、目を剥いた。口の周りが泡で白くなっている。 磯貝は先ほどと同じことを言った。 「だから、飼育日誌をお客さんに公開してみたらどうかと思うんです」 隣の愛未(あみ)もきょとんとしている。 「どうしてそんなことを……?」 「この前、アジアゾウの飼育日誌に目を通したときに思ったんです」 磯貝はグラスのノンアルコールビールで唇を潤してから、居酒屋の座敷に集った面々を見渡した。田尾、吉住、愛未、平山。自宅の方向が同じで、仕事帰りに一緒に飲むことが多いらしい。 たしか園長も、駅の向こう側っておっしゃってましたよね。よければ、いらっしゃいますか――? 平山が誘ってくれたのは、お互いに「外様」という出自だからだろうか。もしかしたら平山自身にも、部外者として冷遇された過去があるのかもしれない。 案の定、田尾と吉住の二人には歓迎されていないようだった。田尾はやたらと揚げ足取りをして突っかかってくるし、吉住はほとんど口を開かず、障子にもたれたまま不機嫌そうに日本酒を舐めている。 「アジアゾウの飼育日誌って、あのときですね。ワキさんでもどうにもならなかったノッコの問題を、園長がたちどころに解決してしまったという……」 平山がわざとらしく膝を打つと、田尾は不愉快げに顔を歪め、吉住は鼻白んだようにそっぽを向いた。 磯貝は手をひらひらとさせる。 「たまたま、ですよ。僕は担当ではありませんでしたが、『のあフェス』も企画部が絡んでいるイベントだったので、もしかしたらと思っただけです」 「それでも普通は結びつきませんよ。駅前のイベントが、動物園のゾウの不調の原因になっているなんて」 想像もできないなあ、と平山が調子よく両手を打ち鳴らす。気持ちはありがたいが、平山が新園長を持ち上げるたびに、田尾と吉住の態度が硬化している。 磯貝は話の筋を戻した。 「飼育日誌を読んでいると、ゾウたちの生活が見えてくるんです。今日はなにをどれだけ食べたとか、元気だったとか、逆に元気がなかったとか、サツキと喧嘩したとか、大好きなリンゴをモモコに分け与えていたとか……ゾウたちの日常を飼育員と一緒に見守っている気分になって、ゾウたちにも生活があるんだと実感できるんです。ゾウがたんなるゾウではなく、ちゃんとノッコとサツキとモモコという、性格の違う別々の個体として認識できるというか……」 例のごとく田尾は喧嘩腰だ。 「そんなの、当たり前じゃないですか」 「そうかな。たしかに田尾くんにとっては当たり前かもしれない。だけどお客さんにとっても、はたして同じだろうか。三頭のゾウを、それぞれ個性のある、ノッコとモモコとサツキとして認識しているだろうか。自分たちにとって当たり前のことが、お客さんにとっても当たり前だというのは、我々の思い上がりじゃないかな」 「なっ……」 むっと反駁する気配があったが、磯貝はかまわずに続けた。 「実は僕、子供のころに野亜動物園で、ノッコのスケッチをしたことがあるんです」 無関心を装っていた吉住が、ちらりとこちらに注意を向けるのがわかった。 「動物園主催の写生大会に参加して」 「あ、それ、いまでもやってます。そうか。園長も子供のころに参加していたんですね」 広報担当として運営に携わる平山は感慨深げだ。 磯貝は自分の左耳をつまんだ。 「ほら、ノッコって左耳が少し欠けているでしょう。それであのときのゾウだと気づいたんだけど。でも、あのゾウがノッコという名前だったと知ったのは、恥ずかしながら野亜動物園の園長になってからでした。当時の僕にとって、ノッコは『お耳が大きくてお鼻の長いゾウさん』でしかなかったんです。もちろん当時は本物のゾウを見ることができて感激したし、嬉しかったし、いまでも楽しい思い出として記憶に残っているけれど、あらためて振り返れば、あくまで絵本で見たキャラクターとしての『ゾウさん』と対面できたという喜びでしかありませんでした。それって、すごくもったいない気がするんです。あのゾウを、記号としての『ゾウさん』ではなく『ノッコ』という個体として認識できていれば、もっとゾウの生態に興味が湧いたかもしれないし、学ぼうと思えたかもしれない」 愛未が中空を見上げ、頷く。 「おもしろいかも……ようは来園者に、飼育過程の追体験をしてもらおうってことですよね」 「そう。ほとんどのお客さんにとって、動物園はごくたまに訪れるアミューズメントの一つでしかない。動物園側には種の保存、調査、研究などの崇高な理念があっても、レクリエーション以外の目的で来園するお客さんはほとんどいません。そういう状況で、どうやってお客さんに動物園の理念を理解し、興味を抱いてもらうか。ずっと考えていたんです」 「その結果が飼育日誌の一般公開、というわけですか」 興味深そうに頷く平山は、いつの間にか正座している。 「お客さんが訪れたその日だけではなく、それまでの飼育過程を知ることで、より感情移入ができます。それが動物の生態への興味に繋がります。そしてなにより、そんな目的以前に、単純に読み物として興味深いんですよ。ノッコに薬を飲ませるために、パンに薬を混ぜて与えたら、綺麗にパンだけを残した。だから翌日は乾草に混ぜてみる。それでも駄目なら今度はバナナに埋め込んでみる。サツキは嫌いな調教の時間が近づくといつもプールに逃げてしまうから、調教の時間を変えてみる。食欲旺盛なモモコはノッコやサツキのぶんの餌まで食べてしまって太りがちだから、放飼場に出すタイミングをずらそう。次々と課題が見つかり、どうやって解決しようかと担当者みんなで試行錯誤している。毎日動物に接している職員にはなんの変哲もない出来事が、たまに訪れるお客さんにとっては、新鮮な発見になるんです。保証します。なにせ僕は素人で、ノッコの飼育日誌をとてもおもしろく読みましたから」 「なんすかそれ。そもそも飼育日誌は動物の栄養や健康状態といった情報を職員同士で共有するためのもので、客に公開するものじゃない」 田尾はすっかりふてくされたようだった。 「ならば今後は、公開する前提で書いてくれないかな」 「なんでそこまで客のこと考えなきゃいけないんだ。動物園は遊園地じゃねえっての」 「そうとも。それに、公開するには不都合な情報もあるんじゃないか」 今度は吉住が突っかかってきた。 「不都合な情報とは」 「病気になったとか、死んだとかさ」 「たしかにそれは、悲しい現実です。ですが動物園にとって、不都合な情報だとは思いません。生あるものは必ず死を迎えます。むしろ動物の赤ちゃんが生まれたときにだけ大々的にアナウンスして、死を隠蔽する姿勢のほうが不誠実じゃないですか」 「そんなん、綺麗ごとだろ」 「そうは思いません。お客さんにとって耳ざわりの良い情報のみを公開することこそ、綺麗ごとですよ。それに動物園は遊園地じゃないと言うのなら、教育研究機関としての役割を担うつもりならなおさら、不都合だと思う事実を隠すべきじゃない。生を喜び、死を悼む。当たり前のようにそれを行うことで、動物たちも人間と同じ、尊い命なんだという強いメッセージになりませんか」 「あんたはわかってねえんだよ。市民様ってやつが、どれほどわがままなのか」 「そうっすよ。動物園に来ておきながら、獣臭さが堪えられないってクレームつける馬鹿もいますからね」 「動物なんだから病気だってするし、いずれは死ぬ。そんな当たり前の現実が受け入れられない連中は、たしかにいるんだ」 「そうそう。金を払うんだからサービスされて当たり前。動物のかわいい姿だけを見せろってね」 舌鋒鋭く反論する吉住と田尾とは対照的に、愛未は目を輝かせながら質問してくる。 「ところで、どういうかたちで公開するんですか。公開する前提ということは、日誌にはイラストとかも描いていいんですか」 「もちろんです。目で見て楽しめる工夫は大歓迎だよ」 磯貝は微笑で頷いた。 「公開するのはコピーにするつもりです。オリジナルを公開して、誰かに持ち去られても困りますからね。コピーをバインダーに綴じたものを公開します。すべての動物の展示場には、動物の名前や生態の書かれたパネルが設置されているでしょう。あの近くに簡単な棚かなにかを設置して、そこにバインダーを収納しておくんです。お客さんは自由にバインダーを取り出して、飼育日誌を閲覧することができる」 平山が正座の腿を打つ。 「それ、すごく画期的ですね。飼育日誌を読みながら動物を観察できるってわけか」 「うん。目の前の動物が昨日おとといなにをどれだけ食べたとか、体重が増えたとか減ったとか、そんな情報を確認しながら観察する。ちょっとした飼育員気分が味わえる」 「はいはいはーい。それならそれなら」 愛未はすっかり乗り気になったようだ。手を上げて提案する。 「同じものを何部か用意したほうがいいんじゃないですか。一部しかなかったら、平日ならともかく、土日祝日は取り合いになっちゃうもの」 「そうだね。それほど費用のかかるものじゃないし、最初は五、六部程度用意して様子を見てみようか。評判が良ければ、追加でコピーを作ることにして」 「評判、ぜったい良いですよ。だって自分が来園者だったら読みたいもん」 早くも張り切る愛未から、平山に視線を移した。 「それで平山くん。今後は報道機関向けに、まめにプレスリリースを流すようにしたいんです」 「プレスリリース、ですか」 「うん。もうやっていますか」 「いえ。広報はおもに市内掲示板のポスターと、市民だよりで行っています。プレスリリースなんて、うちみたいな小さな動物園がやって効果あるものですかね」 「すぐにてきめんな効果があるようなものではありません。報道機関には毎日山のようなプレスリリースが届きますから。だけど、もちろんやらないよりは、やったほうがいい。それほど手間のかかることでもありませんしね。マスコミだって日々ネタを探しているんだから、たまたまほかにめぼしいニュースがないときに、地元のテレビ局なんかが、じゃあプレスリリースをくれた動物園に取材に行ってみるかってならないとも限りませんよ」 「嘘! テレビ? どうしよう私、美容院行かないと!」 両手を頬にあてる愛未に、平山が苦笑を向ける。 「なに言ってんだよ。すぐに効果は出ないって、園長も言ったじゃないか」 「わかってますよーだ。だけどいつかそうなったときのために、心の準備は必要でしょう」 「早すぎだろ」 あきれた様子で肩をすくめ、こちらを向く。 「ともかくわかりました。やってみます。飼育日誌の公開なんてほかではあまり聞いたことがないから、たしかにニュースで取り上げてくれそうですし」 「ぜひ頼みます。地元のテレビやラジオ、新聞、タウン誌はもちろん、中央のマスコミや雑誌なんかにもどんどんアプローチしていきましょう。なにがきっかけで取り上げてもらえるかわからないから、種だけは蒔いておくんです」 「すごいすごい! 『美人過ぎる飼育係』とかで雑誌に載っちゃったらどうしよう」 愛未と平山がはしゃぐほど、吉住と田尾の表情は曇っていく。 やがて田尾が鼻を鳴らした。 「なんだそれ。勘違いもたいがいにしろっての」 「なによ」 愛未が鼻に皺を寄せる。 「なにが『美人過ぎる飼育係』だ。飼育担当が動物より前に出てどうするんだよ。動物園の主役は動物だろ。おれたちは人前に出ない裏方だ。タレントにでもなりたいんだったら、うち辞めてオーディションでも受けてろよ」 「田尾。たんなるもののたとえじゃないか。今後はマスコミ向けに積極的な広報をすることになるから、じゃあ取材されるかもって冗談を言っただけで、なにも大前は本気でタレントになりたいわけじゃない」 平山が諌める。愛未もふくれっ面で頷いた。 「そうよ。なにマジに受け取ってるの。なんでキレてるのか知らないけど、八つ当たりしないでよね。すごく感じ悪い」 「八つ当たりじゃねえし」 「八つ当たりじゃん」 「ちょっといいですか」 険悪になりかけた二人の間に、磯貝は割って入った。 座り直して姿勢を正し、一同の顔を見回してから言う。 「かりにマスコミが『美人過ぎる飼育員』を取材に来てくれるなら、それはそれで大歓迎だと僕は思います。お客さんが動物でなく、『美人過ぎる飼育員』目当てだったとしても、入場者数が増えるのならばじゅうぶんにありがたい。それが本来の動物園の存在意義から外れているとしても、です」 口を開こうとする田尾を視線で制して、続ける。 「皆さんがどれほど実情を把握しているのかは知りませんが、うちの動物園は赤字経営です。市の財政のお荷物になっていると言っても過言ではありません。もっとはっきり言えば、市議会でいつ閉園が議題に上ってもおかしくない。少なくとも、僕が市議会議員だったら真っ先に議題に上げる」 なにか言いたげに顔を上げた吉住だったが、結局は空気の重さに押し潰されるようにうつむいた。 「お客さんにどういう目的で来て欲しいなどと、贅沢は言っていられません。とにかく最優先すべきは、経営の健全化です。動物園は利潤を追求するような性格の施設ではありませんが、だからこそ市民の需要がなくなれば存在意義もなくなるんです。まずはどんな動機であれ、市民に興味を持ってもらい、足を運んでもらえる魅力をそなえた施設にならなければならない」 平山が神妙な面持ちで頷く。 「園長のおっしゃることは、よくわかります。たしかにこのままじゃいけないと、誰もが思っています。そうだよな、みんな」 同意を求めるように視線を動かしたが、頷いたのは愛未だけだった。 吉住が自分の肩を揉みながら言う。 「あんた、最近まで役所にいたんなら知ってるんだろ。閉園の噂は、本当なのか」 「詳しくは知りません。僕はずっと企画部でテーマパーク誘致に携わっていて、動物園とは無関係でしたから。だけど、たしかに市役所でもたまに噂にはなっていました」 「あんたはどう思ってたんだ」 磯貝が眉をひそめると、吉住はいちだんと声を低くした。 「あんた自身はどう思っていたんだ。役所の中にいたころ、動物園のことを」 「どう……って」 吉住だけではなく、全員が固唾を飲んでいるのがわかった。 「見下してたんだろう」 否定しようとしたが、声が出なかった。 ほら見たことかという感じに、吉住が手をひらひらとさせる。 「そんなやつの言うことを、信じられると思うのか」 「以前はともかく、僕はもう動物園の人間です」 「いまはそうだってだけだ。結局、あんたは動物園が潰れたら役所に戻る。いや……それどころか、一刻も早く戻りたいと思ってるんじゃないか」 「そんなことは……」 「じゃあ戻りたい気持ちは、ぜんぜんないのか。あんたがかかわってたテーマパーク誘致ってのは、何十億も金をかけた一大プロジェクトなんだろう。そんな華やかなところから赤字経営の動物園にやってきて、まだ二週間ぐらいだよな。すっぱりさっぱり気持ち切り替えて、動物園に骨を埋める気になったのか」 答えに詰まった。吉住が鼻で笑う。 「ほらな。しょせんあんたはお役人だよ。いざとなったら動物園なんて見捨てて逃げちまう。ハナからおれらとは立場が違うんだ。それどころかもしかしたらあんた、役所から派遣されて動物園を潰しに来たスパイなんじゃないのか」 ばしん、とテーブルを叩く音がした。愛未がテーブルに手をつき、身を乗り出していた。 「それっていくらなんでもひどい! スパイなわけないじゃない。園長はノッコのことだって助けてくれたじゃない!」 「それだけでコロッと信じちまったのかよ。大前も歳のわりにはしっかりしてると思っていたが、案外単純だな。騙されてるかもしれないのに」 「騙されてなんてないもん! ノッコはちゃんと元気になったでしょう。ワキさんだって、泣いて喜んでたんでしょう」 愛未に同意を求められ、田尾が困惑したように視線を泳がせる。 「あ……ああ、まあ……」 「ほら」 愛未が顎を突き出す。 「だったらなんなんだよ。そんなの、ベテランのワキさんを押さえとこうっていう戦略だろ、戦略」 「いえ。そういうわけでは……」 さすがに誤解だ。弁解しようとしたとき、平山がとりなすように言った。 「吉住さん、飲み過ぎですよ」 なだめるように、背後から吉住の両肩に手を置いている。 「うるせえんだよ」 「まあまあ。落ち着いて。いろいろ溜まってるのはお互い様じゃないですか」 「離せ」 「毎日顔合わせるんだし、仲良くやっていきましょうって」 「うるせえ……余計なお世話なんだよっ」 「あっ!」 吉住に突き飛ばされ、平山が倒れ込む。その拍子にテーブルのグラスが倒れ、畳が水浸しになった。 「大丈夫ですか」 「ああ、すいません。申し訳ない。ぜんぜん平気です」 磯貝はテーブルをまわり込んで平山を抱き起こした。濡れた座布団と畳をおしぼりで拭う。 愛未が憤然となった。 「ちょっと吉住さん、なにやってるの! どうしてそんな乱暴なことするの。このところ変だよ! なんでそんなにいらいらしてるの」 吉住は答えない。倒れた平山を気にしながらも、後に引けずに不機嫌を保っているという雰囲気だ。 「仕事の話はともかくとして、まずは平山さんに謝ってよ」 むすっと黙り込んでいた吉住が、おもむろに立ち上がった。障子のほうへと歩き出す。 「どこ行くの」 「帰る」 「ちょっと待って! ねえ、平山さんに謝りなさいってば」 吉住は障子を開きながら背後を振り返り、軽く手刀を立てた。 「すまなかったな、平山」 「いえ。気にしないでください」 「そんなので謝ったって言えるの。もっとちゃんと謝って」 無視してそのまま靴を履く。このまま一人残されたらいたたまれないと考えたのか、田尾も「おれも帰る」と言ってそそくさと席を立った。 「待ちなさいよ。逃げるの? ちょっと……ちょっと!」 追いかけようとする愛未を、平山が呼び止めた。 「待て、大前」 「だって……」 「いいからいいから。今日のところは、頭を冷やそう」 二人が帰った座敷には、気まずい空気と三人が取り残された。 「なんでこうなるの。意味わかんない。ぜんぜん意味わかんない」 しばらく恨めしげに障子を見つめていた愛未が、半べそで天を仰いだ。(つづく) 次回は2015年4月15日更新予定です。
第9回『このミステリーがすごい!』大賞・優秀賞を受賞し、2011年『ある少女にまつわる殺人の告白』でデビュー。他の著書に『ジャッジメント』(小社刊)『消防女子!!女性消防士・高柳蘭の誕生』『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』などがある。