物語がつまった宝箱
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  • 第一回 2014年8月1日更新
日曜日

 まだ蒸し暑さが残る九月の朝、糸井夏子は二日酔いによる猛烈な頭痛と後悔と共に自宅のベッドで目を覚ました。
 ゲップまで、ワインの味だわ。
 昨夜は、一年間禁酒していたにも拘らず、酒飲みの友人たちに連れていかれた自由が丘のスペインバルの誘惑に負けて、ワインをがぶ飲みした。とにかく料理が絶品で、イベリコ豚の生ハムやタコのガリシア風や甘エビとマッシュルームのアヒージョを前にして、夏子の強い意志はもろくも崩れ去った。どんな堅固なダムでも穴が空いたらそれで終わりだ。ましてや、無類の酒好きである夏子の心のダムは、長い禁酒との戦いで溢れんばかりのストレスが溜まっていた分、その崩壊ぶりは凄まじいものだった。
 また、やってしまった。
 夏子は、隣でぶっ壊れたフルートみたいな鼾をかいている男を見つめ、頭を抱えた。まったく見覚えのない男だ。巣作りをしている鳥でも頭に飼っているのかと思うほど、もじゃもじゃな髪の毛。少し顔が長く顎が出ているところを除けばハンサムではある。悪夢の真っ最中なのか、眉間に皺を寄せて、ときおりピクピクと頬を痙攣させては便秘に苦しむ大型犬みたいに低く唸る。
 なぜこんな事態になったのか。昨夜の記憶は見事にパエリアで途切れている。あのときテーブルにいたのは大学時代からの悪友の里美と良子だけだったはずだ。店は土曜の夜ということもあり満員だったけど、このもじゃもじゃ頭は見かけなかった。どういう経緯でこの男を連れ込んだのだろう。
 一年前に別れた彼氏との出会いと同じだ。あのときは新宿にある日本酒の品揃えが抜群の焼き鳥屋で深酒をし、二軒目のラムの品揃えが抜群のバーでモヒートをおかわりしたところで記憶を失った。翌朝目が覚めた場所は歌舞伎町のラブホテルで、男と寝ていた。二人とも素っ裸で。最悪の出会いの男と付き合うはめになり、最悪の別れ方をした。その男は『ER緊急救命室』のころのジョージ・クルーニーに似たイケメンで、都内にこだわりの高級焼肉店を三店舗経営するリッチマンで、体の相性も良かった。しかし、ナルシストで超のつくマザコン野郎だった。四十二歳にもなって別れ話に母親を同伴させて現れたとき、夏子は「何でこんな馬鹿と付き合ったのよ」と痛烈に自分を責め、禁酒を決意したのだ。
 まずは落ち着きを取り戻そう。夏子はもじゃもじゃ男を起こさないように、そっとベッドから降りた。Tシャツにノーブラ。下はパンティ一枚。おそらくセックスをしただろうけど、これまた覚えていない。もじゃもじゃ男が変態でないことを祈る。
 クローゼットの横に立てかけてある姿見に映る自分の顔に、赤ワイン風味の溜め息が漏れる。ひどい顔だわ、こりゃ。久しぶりのアルコールの摂取のせいで、顔が容赦なくパンパンに腫れ上がっている。
「陽気だけど幸の薄い美人」
 夏子の友人たちは声を揃えて言う。褒められているのか貶されているのか微妙なところだ。小学五年生の学芸会でシンデレラに抜擢されたものの、観に来てくれた母親に「ハッピーエンドだけど、どこか釈然としなかったわ」と言われたのが、ちょっとしたトラウマだ。
 夏子は先月の誕生日で三十三歳になった。週二回のボクシングジムと毎晩の半身浴とカフェに行ってもスイーツのメニューを無視することで、なんとか引き締まった体は維持しているつもりだ。まだ駅の階段を登っても息が切れることはない。しかし、肌はごまかせない。疲れが溜まると目の下にちょっとありえない隈ができるし、手の甲にも美白クリームを塗らないとすぐカサカサになる。
 もう若くはないのだ。記憶を失くすまで酒を飲んで、男をお持ち帰りしている場合ではない。実家の父親は正月とお盆のたびに、「この際、相手の男は犯罪者でなければ誰でもいいから早く孫の顔を拝ませてくれ」と真顔で迫ってくる。
 ああ、タバコを吸いたい。でも我慢する。酒と同時にやめていたので、こちらも一年になる。
 ベッドの脇に落ちていたブラを着け、クローゼットからアディダスのジャージの短パンを引っぱり出す。色気がないけど、もじゃもじゃ男が起きたときにその気にさせないためだ。
 キッチンに行き、冷蔵庫を開けて賞味期限ギリギリの牛乳をグラスに注ぐ。卵と毎朝食べている納豆もない。もじゃもじゃ男を帰したあとで買い物に行かなくちゃ。せっかくの日曜日を有意義に過ごしたい。天気もいいし、久しぶりに自転車に乗って代官山辺りまで繰り出すのもありだ。お気に入りの代官山蔦屋書店でサスペンスかホラーのDVDを借りて(恋愛ものは当分ご免だ)、スタバでチャイティーラテに蜂蜜とたっぷりのシナモンをかけて飲む。ランチは明治通りにあるお気に入りのカレー屋でエビのマサラカレーにチャナ豆をトッピングしたい。
 この世田谷区深沢にある2LDKのマンションは夏子の城だ。家具はイケアで揃えた。家賃は管理費込みで十三万円。築年数が古く駅からも遠いが、駒沢オリンピック公園が徒歩一分の距離にあるのが気に入っている。ちなみに前の彼氏と別れてすぐに引っ越してから男を入れたことはない。
 電子レンジのデジタル時計は午前九時五十七分を指している。あと三分でもじゃもじゃ男を叩き起こす。
 トイレに行くために廊下に出て驚いた。玄関を入ってすぐのところに夏子のディーゼルのデニムと濃いグレーのスーツが脱ぎ捨てられている。
 ここから、始めたの? 付き合い立ての高校生カップルじゃあるまいし。
 夏子はトイレの便器に座り、昨夜の記憶を必死に辿ろうとした。だが、すぐに自己嫌悪に押し潰されそうになって叫びたくなる。トイレのドアに貼付けてある名言(夏子は気に入った名言をメモして部屋のあらゆるところに貼るのだ)を見て何とか心を落ち着かせようとする。
『出る前に負けること考える馬鹿いるかよ』
 アントニオ猪木の言葉だ。なぜ、トイレにこの言葉を貼ったのか自分でも理解できない。たぶん、そういうテンションだったのだろう。いい加減、この行き当たりばったりの性格を直したい。せっかく、禁酒、禁煙、禁男が習慣づいていたのに情けなくて涙が出そうだ。
 トイレを出た瞬間、夏子は尻に浣腸をぶち込まれたロバみたいな悲鳴を上げた。
「ごめん、驚かせて」
 もじゃもじゃ男がいつの間にか起き出していて、トイレの前で仁王立ちをしていた。Tシャツとボクサーパンツ姿だ。思ったより身長が高く、肩幅も広い。
「ごめん」もじゃもじゃ男が、ばつの悪そうな顔で、もう一度謝った。「何も覚えてないんだ。おれ、そんなに酔っぱらってたかな。割れそうなほど、頭が痛いんだけれど」
 不思議なことに、もじゃもじゃ男からは酒の臭いがしない。
「私もあまり覚えていないの」
「おれたち、どこで出会ったんだっけ」
 夏子は返事の代わりに、大げさに肩をすくめた。
「もしかして、君に対して失礼な真似をしたかな」
 もじゃもじゃ男の顔が、みるみると青ざめる。酒に酔い潰れる経験が初めてなのかもしれない。年齢は明らかに夏子よりも上だが、よく見るとキュートな顔をしている。
「気にしないで。お互い様だから」
「はあ……」
 溜め息か相槌かわからない返事だ。もじゃもじゃ男は、まだ、状況を把握できずに目をしばしばさせて、夏子の顔を見つめた。
「私の名前を覚えてないだろうし、自己紹介するね」メイクがボロボロだが気にしている場合ではない。「糸井夏子よ。よろしく」
 夏子は、右手を差し出した。セックスのあとの握手ほど陳腐なものはない。勘のいい男なら、これで帰ってくれるはずだ。「少なくともあなたと恋人同士にはならないわ」という合図なのだから。
「よろしく」もじゃもじゃ男が、引き攣った笑みを浮かべて夏子の手を握った。温かく、そして、異様に美しい指をしている。
 夏子の心が、ジェンガのようにグラグラと揺れた。「好きな男のタイプは」と訊かれたら、即座に「指が奇麗な人」と答えるほどの指フェチなのだ。
「名前を教えてよ」
 もちろん、恋はしない。恋愛の段取りをすっ飛ばした関係は、前の彼氏で懲りている。
「僕の名前は」もじゃもじゃ男は、口を尖らせて自分の名前を言おうとしたが、そのまま瞬間冷凍されたみたいに動かなくなった。
「どうしたの」
「名前が出てこないんだ」
「はあ?」
「自分の名前がどうしても思い出せないんだよ」
 もじゃもじゃ男が、顔を歪めて後頭部を触る。その手には、べったりと血がこびりついていた。

 十四歳の中田安志にとって、日曜日のデートほど苦痛なものはなかった。
 安志は、駒沢オリンピック公園の入口にある大きな階段に座り、iPodを聴きながら彼女を待っていた。目の前の3on3専用のバスケットコートでは、高校生ぐらいの若者たちが汗を流してはしゃいでいる。
 正直、羨ましい。せっかく雲ひとつなく晴れているのだから、俺も男友達と馬鹿騒ぎがしたい。まあ、その男友達がいないのが問題なのだけれど。
 日曜日の午前十時三十分。幸せそうな家族連れやカップルが続々と駒沢オリンピック公園を訪れる。
 iPodの選曲がダフト・パンクからファットボーイ・スリムに変わってもテンションは上がらない。年齢の離れた二人の兄の影響で、音楽の趣味が学校の連中と噛み合わなかった。音楽だけじゃない。ファッションや映画、読んでいる本の系統も違う。安志は、テレビのバラエティ番組の話で盛り上がるクラスの輪に入れず、浮いた存在でいた。
 しかし女子たちは、窓際の一番うしろに座って一人でiPodを聴いている安志を無視することはできなかった。それほど、安志のルックスが飛び抜けているからである。休み時間ともなると、学校中のアグレッシブな女子たちが学年関係なく教室に集まり(中には目の保養に来た女教師もいた)、野獣の目で遠巻きに安志を鑑賞した。
 安志にとって、この自分の姿は鬱陶しいものでしかなかった。不自然なほど彫りが深く、整えられた顔は必ず「ハーフでしょ」と決めつけられるし、身長も中学一年生の時点で百八十センチを超えた。手足も異様に長く、同級生と並べばブレザーの制服を着ていても引率の教師と勘違いされる。原宿だろうが渋谷だろうが近所のコンビニだろうが、一日一回は芸能事務所のスカウトに声をかけられるか、女子高生からセレブのおばさままでの幅広い女性陣に逆ナンされる。
 普通の中学生男子として暮らしたい。それが、安志のささやかな願いだ。
 一応、彼女はいる。今からデートする相手だ。三つ年上の女子高生で、渋谷で強引にナンパされた。モデルか何かやっているらしく、男なら誰もが振り返る美人だ。安志と二人で歩いていると、道行く人々は映画かドラマの撮影だと勘違いしてカメラがないか周りを確認するほどだ。
 できれば、今日別れたい。そのために駒沢オリンピック公園に呼び出した。飲食店で泣かれるのは勘弁して欲しいからだ(前の彼女はモスバーガーで二時間も泣き喚かれた)。しかし、今回の彼女はエベレストよりも高いプライドの持ち主だから、切り出し方を間違えれば修羅場になって面倒臭いことになる。
 どうして、いつもこうなるのだろう。歴代の彼女は、男なら誰もが羨むいい女揃いなのに。もちろんルックスだけじゃなく、性格美人も試してみた。いくら努力しても一ヶ月以上、関係が続かないのだ。
 まず、キスができない。女の子たちがうっとりした目で迫ってきたら、つい、顔を逸らせてしまう。当然、童貞のままだ(誰も信じてくれないが)。
 安志は、薄々気づいていた。これは、どうやら自分に問題があるぞ、と。
 現に、担任の村上直道先生が教壇に立つと、胸の鼓動が普段の十倍は速くなり、耳まで熱くなる。直視できないけど、見つめてしまう。理科の授業をする村上先生が、おしべとめしべの話をするだけで、信じられないほど興奮した。
 この半年間、ずっと戸惑っている。なぜ、四十歳を目前にした中年のおっさん相手にときめいているんだ。飯も美味くないし、夜も眠れない。人付き合いが苦手な性格に拍車がかかって友達もできない。どんよりと落ち込んでいるだけなのに、「ミステリアスでかっこいい」と女の子にはやたらとモテる。まさに抜け出せない負のスパイラルだ。もちろん、誰にも相談できずにいた。
 快晴の下でぐじぐじと悩む安志の顔面に、バスケットボールが飛んで来た。反射神経のいい安志は、咄嗟に弾き返す。
 これで三回目だ。バスケットコートの若者たちは、仲良しをアピールしたいのか、全員がヒップホップのダボダボファッションで、腕にタトゥーしている奴もいる。
「いい加減にしろよ」安志は、iPodのイヤホンを耳から外して立ち上がった。
「何だよ。俺たちに文句でもあるのかよ」
 ニューヨーク・ヤンキースのベースボールキャップを斜めにかぶっている男が、バスケットボールを足で止める。タンクトップから伸びる腕は太く、かなり筋肉質だ。
「さっきから、わざと狙っているだろ」
 若者たちは、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべて安志を囲みはじめた。
「イケメン君、因縁つけるのはやめたほうがいいんじゃねえの。泣かしちゃうよ」丸坊主の鼻ピアス。こいつが一番デカい。身長も安志よりある。
「俺がお前たちを泣かす」
 安志の宣言に、若者たちが目を丸くした。
「マジで言ってんのか、てめえ」ヤンキースが、安志のTシャツの胸ぐらを掴んだ。
 安志は、どこに行っても不良たちに絡まれた。それも、この美し過ぎるルックスを憎む原因のひとつだ。
 全員で六人。勝てない数じゃない。
「ビビってんのか、コラッ」ヤンキースが、さらに顔を近づける。
 女だったら顔を逸らすが、男には対処が違う。安志は、ヤンキースの鼻にめがけて額を突き出した。ぐしゃりと軟骨が潰れる音がする。
「て、てめえ、何やってんだ」
 安志の反撃に、鼻ピアスが怯む。ハーフのモデルみたいな美男子が、喧嘩上等の不良気質だとは夢にも思わなかったのだろう。子供のころから警察官の父親に柔道を習わされ、大学生の二人の兄は全日本学生柔道体重別選手権大会でともに準優勝している。そんな二人とぶつかり稽古を繰り返してきたのだから、どんな相手でも素手なら負ける気がしない。ちなみに、父親と二人の兄はハンサムなゴリラのような風貌だ。安志だけが、元ミス日本候補の母親に似た。
 安志は長い腕を伸ばし、鼻ピアスの耳を掴んで引き寄せる。若者たちが格好だけなのはすぐにわかった。
「今日は機嫌が悪いんだ。続けるなら手加減しないけど」声を低くして凄んでみせた。「お友達も連れて帰れよ」
「お、おう」
 若者たちが、鼻血を出してうずくまっているヤンキースの両脇を抱えて、駒沢通りを退散した。
 少し気分を変えよう。
 安志は、階段に置いていたiPodのイヤホンを耳に差して、アデルの『メイク・ユー・フィール・マイ・ラブ』をチョイスした。ボブ・ディランの名曲のカバーだ。イントロの切ないピアノの音色で早くも泣きそうになる。
 だから、目の前を村上直道先生が通った瞬間、アデルのソウルフルな歌声が見せる幻だと思った。
 でも、幻にしてはどうもおかしい。ヨレヨレのスーツ姿の村上先生は、幸の薄そうな美人にバスタオルで頭を押さえられながら歩いていた。黄色いバスタオルに付いている赤い斑点が血のように見えるのは気のせいだろうか。
 あの女は誰だ? 村上先生は独身で、彼女もいないはずなのに(クラスの女子の質問に村上先生が答えるのを盗み聞きした)。
 心配そうに、村上先生に付き添っている。Tシャツにジーンズとスニーカーのこざっぱりした服装に、ほぼノーメイク。長めのボブの髪もまともにセットしていない。
 胸がざわつき、途端に息苦しくなった。
 安志は、アデルを聴きながら二人を尾行することに決めた。モデルの彼女との待ち合わせなんて、もうどうでもいい。ずっと、認めずにいたこの気持ちが確信に変わったのだ。
 俺は、村上先生に恋をしている。

(つづく) 次回は2014年8月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 木下半太

    「劇団ニコルソンズ」主宰。映画専門学校中退後、脚本家、俳優として活動を始める。2006年『悪夢のエレベーター』で作家デビュー。同作品はテレビドラマ、舞台、映画化されベストセラーとなり『悪夢シリーズ』が人気を博す。他の著書に『オーシティ』『サンブンノイチ』『宝探しトラジェディー』『女王ゲーム』など多数。