物語がつまった宝箱
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  • 第二回 2014年8月15日更新
 糸井夏子は、駒沢オリンピック公園の隣にある総合病院の急患用のロビーで、途方に暮れながらソファに座っていた。日曜日だというのに、十人近い患者が待っている。
 これからどうしよう。
 隣には、正体不明のもじゃもじゃ男。最初は、夏子と同じく酒の飲み過ぎによるブラックアウトだと思っていたが、信じられないことに何も覚えていない。しかも、スーツのポケットには、携帯電話や財布など身分を特定できるものが入っていなかった。夏子が面接官の如く名前、年齢、生年月日、血液型、住所、仕事、家族構成、趣味、特技を質問してもひとつも答えることができなかったのだ。夏子の部屋の姿見で自分を確認して、「誰だよ、この冴えない男は」と泣きそうになっていた。
「まさか、自分が記憶喪失になるなんて思わなかったよ」
 さっきから、もじゃもじゃ男の瞳孔は開きっぱなしだ。もちろん、警察を呼ばなくちゃとも考えたが、夏子の仕事上、なるべく大事にはしたくはなかった。酒に酔ったとはいえ、見ず知らずの男との〝ワンナイト・ラブ〟がバレると後々面倒になる。普段から敵対関係にある同僚たちに何を言われるかわかったもんじゃない。とりあえずは、もじゃもじゃ男の後頭部の怪我を治療するのが先決だと思い、自宅から徒歩五分もないこの病院に連れて来た。
 傷はそこまで深くはない。バスタオルで押さえていたら、ほとんど血は止まった。
「僕は強盗に襲われたのかも。だから、財布や携帯電話がないんだ」
「その可能性もあるわね」
 傷から推測すれば、背後から鈍器で殴られたのかもしれない。
「地面に倒れている僕を君が介抱してくれたのかな」
「かもね」
 もし、そうだとしたら、どれだけ男に飢えていたのだ。負傷した人間をお持ち帰りするなんて。恥ずかしくて顔から火が出そうになる。
「記憶喪失なんて映画の中だけの話かと思っていたよ」
「ねえ、好きな映画とかは覚えてないの」
 しつこく質問を続けるうちに、記憶が蘇ってはくれないだろうか。できれば、ここでお別れしたい。このままでは、せっかくの日曜日が台無しになってしまう。先週と先々週の日曜日は急な仕事が入って上司に呼び出されて、買い物もカフェも断念した。
「覚えてない。映画をまったく観たことがないとは思えないけど」
「俳優さんの名前は覚えてない? トム・クルーズとかブラッド・ピットとか」
 もじゃもじゃ男が、眉をひそめた。「その二人は有名人なのか」
「世界的なトップスターよ」
「どんなストーリーの映画に出演してるのかな」
「トム・クルーズはよく凄腕のスパイを演じてるわ」
「スパイが何をする物語なんだい」
「何をするって言われても……悪者を倒すのよ。あと、トム・クルーズはやたらと高い所に登りたがるわ」
 それしか説明のしようがない。
「もう一人の俳優はどんな人なのかな」
「ブラッド・ピットね。私が好きなのは『オーシャンズ11』って作品だけど。泥棒のチームがラスベガスのカジノの金庫を襲うの」
「泥棒」もじゃもじゃ男が、噛み締めるように呟く。
「泥棒というより詐欺師のチームだったかな。ブラッド・ピットはとにかく何かをモグモグと食べている役だったわ」
 ただ、夏子はどちらかといえば、ブラッド・ピットよりセクシーなおじさまのジョージ・クルーニーのほうが好みのタイプだった。史上最悪な元カレに引っかかったのも、それが原因だ。いつもの恋愛なら絶対にルックスだけでは選ばないのに、ジョージ・クルーニーに似ているというだけで目がくらんでしまった。まさに、一生の不覚だ。
「もう少しストーリーを丁寧に説明して欲しいな。そんな大雑把じゃなしに」もじゃもじゃ男が、不満げな顔で夏子を見る。
「ハリウッド映画なんて、みんなそんなもんよ」
「誰しもが観てるであろう映画はないかな。そのストーリーを話してくれれば、何かを思い出すきっかけになるかもしれないよ」
 注文の多い男だ。この状況でどこか飄々として見えるのは、生まれもっての性格なのだろうか。
「誰もが観てる映画って言われても、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』しか思いつかない」
 もじゃもじゃ男が首を傾げる。「そんなに面白い映画なの?」
「三部作なんだけど、一作目は歴史に残る映画よ」
「絶対に観てるはずだよなあ。どんなストーリーなんだろう」
「高校生の主人公が過去にタイムスリップして自分の両親に会う話。過去では両親も高校生なの」
「凄く面白そうだね」
「だから、名作なんだってば」
 もじゃもじゃ男が、はっと閃いた表情になる。「もしかして、主人公はその両親を殺そうとするんじゃないかな。戦争状態の未来を平和にしたいのが理由だ」
「違うわよ」
「主人公がムキムキのサイボーグだったような気がする」
「それはアーノルド・シュワルツェネッガー。他の映画が混ざってる」
「……恐竜は出てこなかったよね。混ざってる?」
「混ざり過ぎよ」
 どうやら、人並みには映画を観てきたようだ。だからといって、もじゃもじゃ男が何者かを特定するヒントにはならない。
 夏子ともじゃもじゃ男は、同時に深い溜め息をついた。
「やっぱり、警察に行ったほうがいいよな」
「そうね」
 夏子には、どうしても警察に行きたくない理由がある。それをもじゃもじゃ男に説明する気にはなれない。どんな男も、夏子の職業を聞いた途端にドン引きするのだ。
 計ったようなタイミングで、夏子のスマートフォンが鳴った。周りの患者の冷たい視線を受けながら、ロビーから離れた廊下で上司からの電話に出た。
「夏子、今どこだ」
「無理です」即答する。三週間連続の休日返上なんてありえない。
「どこであろうと十五分で渋谷に来い」
 上司の名前は千葉耕平。ハンサムだが、面長でどことなくラクダに似ている。目つきが鋭く、異常なほどの仕事人間なので、女友達に説明するときは「ラクダとゴルゴ13を足して二で割ったような男」と言っていた。とにかく強引な男で、部下の都合などまったく気にかけない。
「本当に今日は無理なんです」
「円山町にある『ローマの恋泥棒』というふざけた名前のラブホテルだ」
 夏子は、スマートフォンを叩き付けたい衝動を必死に抑えながら訊いた。
「殺しですか」
「そうだ。ラブホテルでデリヘル嬢を待っていた中年の男が、額に釘を打ち込まれた状態で発見された」
「管轄が違うじゃないですか」
「あと十四分だぞ」
 一方的に電話を切られた。取り付く島が一ミリもない。
 こんな話し方しかできないから奥さんと娘たちに捨てられるのよ。
 怒りを通り越して同情する。ただ、その離婚の原因は夏子にもあったが、今は過去を振り返っている場合じゃない。
 アイツをどうするかよね。
 もじゃもじゃ男は、捨てられた子犬のような目でこっちを見ている。残念ながら、夏子は小学生低学年のころ近所で飼われていた柴犬に噛まれてから犬が大嫌いだ。
「治療が終わったら私の部屋で待っていて。私が帰って来るまで警察には行かないでよ」夏子は、もじゃもじゃ男に近づき言った。
「えっ? どこに行くんだよ」
「仕事よ」
 警視庁原宿警察署刑事課強行犯係。それが、夏子の職場だ。

 中田安志は、総合病院のロビーに置いてあった絵本で顔を隠しながら、村上直道先生の尾行を続けていた。村上先生は、さっきから不安げな様子でベンチに座り、診察の順番を待っている。安志が立っている斜め後ろの公衆電話からも、激しい貧乏揺すりが見えた。
 それにしても、あの女はどこに行ったんだ。村上先生をここに連れて来た幸の薄そうな美人は、携帯電話を握りしめながら、血相を変えて出ていった。その前に、村上先生に鍵を渡したのを安志は見逃さなかった。
 たぶん、部屋の合鍵だ。予想どおり、村上先生はあの女の部屋に泊まっていたのだ。
 付き合ってどれくらいになるのだろう。二人はどこか余所余所しく、決してラブラブには見えなかった。もしかして、村上先生の頭の怪我は痴話喧嘩が原因なのかもしれない。ただ、合鍵を渡すということは、かなり親しく信頼している証拠だ。
 安志は意外と冷静だった。村上先生に惚れていると認めたばかりだからか、さほどショックはない。それよりも、村上先生が人並みに恋愛していることに安心した。
「モジャは絶対にゲイだってば」
 クラスの連中はそう決めつけていた。三十代後半の村上先生には浮いた噂が全然ないからだ。安志は、その噂も〝モジャ〟というセンスのないあだ名も気に入らなかった。
 酷い天然パーマを除けば村上先生のルックスは悪くない。年上好きの学校の女子たちからもそこそこの人気があった。基本は陽気な性格だが、ふとした拍子に見せる陰のある表情とのギャップが渋い。理科室で白衣を着れば、その渋さは二割増になる。女子生徒だけでなく、露骨に村上先生を狙っている婚活中の女教師もいた。
 安志は絵本を元の棚に戻し、小さく息を吐いた。
 俺は何がしたいんだ。これ以上、尾行を続けて何の意味があるんだよ。偶然を装って、話しかけろよ。
 冷静さが吹っ飛び、急に鼓動が速くなる。クラッシックのコンサートにヘビメタのバンドが乱入してきたみたいだ。
 ちょっと、待て。これが恋かよ。普通に話しかけるのが、ビルから飛び降りるぐらい怖いじゃないか。
 安志にとっては、記念すべき初恋ということになる。幼稚園から女子に囲まれた生活を送ってきて、常に受け身だった。仮面ライダーのお兄さんの変身のキレやお尻がプリプリなプロ野球選手をテレビで観てドキドキしたのも、単なる男の子の憧れだと勘違いしてきた。
 村上先生の隣が空いてるだろ。さりげなく座れよ。
 ベンチに近づこうとしたら、右足と右手がロボットダンスみたいに同時に出た。あまりのぎこちなさに、すれ違った看護師が怪訝な顔で安志を見る。左足が公衆電話の横の柱にぶつかり、おしゃれサンダルなので小指をモロに打ちつけ悶絶した。
 ダサい。ダサ過ぎるぞ。
 安志は恋愛ドラマが嫌いだ。主人公がやたらと好きな人の前でオタオタとするのが我慢できず、背筋が寒くなってチャンネルを変えてしまう。アクション映画での取ってつけたようなヒーローとヒロインの恋愛シーンもウザい。イチャイチャしている暇があるなら早く悪者を倒せよ、セックスするのは平和が訪れてからでいいだろと心の底から思う。
 そんな格好悪い連中の仲間入りをするなんて自分が許せない。しかも、これから先にさらなる恋の苦難が待ち受けている予感がビンビンにする。まるで、底なし沼に頭から突っ込んだみたいだ。
 涙目になりながら顔を上げると、村上先生の姿が消えていた。いつのまにか、病院から出て行こうとしている。後頭部を押さえていたバスタオルも持っていない。
 おいおい、どこに行くんだよ。
 安志は左足を引きずりながら、村上先生を追った。
「先生、こんなとこで何してんだよ」
 総合病院の前のロータリーで追いつき、偶然を装った。安志の声が聞こえなかったのか、村上先生は無視して大股で歩いている。
 ダメだ、心臓が破裂する。六人の不良と喧嘩してもビビらないのに、村上先生の背中を見ているだけで膝が震えた。
「先生ってば」
 安志はありったけの勇気を振り絞り、村上先生の肩を叩いた。
「はい?」ビクリと反応した村上先生が、怯えた顔で振り返る。
 ぎこちない沈黙が二人の間に流れた。どこかおかしい。村上先生は、まるで初めて安志と会ったみたいな目をしている。
「どうしたんだよ、先生」安志は、緊張で声が裏返らないように気をつけながら訊いた。
「先生?」村上先生が、自分の顔を指す。「それ、僕のことかな」
「何、とぼけたこと言ってんの」
 思わず、笑ってしまった。少しだけ、強張っていた肩の筋肉がほぐれる。
「君は僕を知っているのかい」
「えっ?」
「僕の名前を教えてくれないか」
 冗談にしてはまったく面白くないし、村上先生は普段からギャグを飛ばすキャラではない。
「頭を怪我して記憶喪失にでもなっちゃったのかよ」
 とりあえず、冗談で返してみる。クラスでは、村上先生と必要最低限の会話しかしないので、うまく距離感がつかめない。
「そうなんだよ」村上先生が、救助を受ける雪山遭難者みたいな顔で言った。「自分のことを何も覚えていないんだ」
「嘘だろ……」
「僕の名前を早く教えてくれ」
 血走った目で両腕を掴まれた。嬉しいけど、ちょっと怖い。
「村上直道ですよ」
「ムラカミ……ナオミチ……漢字はどう書くんだ」
「マジで覚えてないの」
 村上先生が、真顔で頷く。嘘を言っているようには見えないし、こんなくだらない嘘をつく意味もない。
「直進の〝直〟に、道路の〝道〟だよ」
「本当にその名前であっているのか」村上先生が眉をひそめ、首を傾げる。「会ったことのない他人の名前みたいだ」
「病院に戻ったほうがよくない?」
「頭はもう大丈夫だ。血は止まった」
「頭の中身が大丈夫じゃないだろ」
「夏子さんがいないと医者にどう説明していいかわからない」
「夏子さん? 先生の恋人じゃないのかよ」
「違う。今朝、目が覚めたら彼女の部屋にいた。向こうもひどい二日酔いで僕との出会いを覚えてないらしい」
 あの幸薄顔(そんな言葉があるかは知らない)の女が逆ナンしたのか。学校での村上先生からは、ナンパに励む姿は想像できない。どれだけスカートの丈が短い女子高生が目の前を横切ろうとも、眉ひとつ動かさない男なのだ。サザエさんのワカメちゃんの如く、常にパンツを丸出しにしている猛者がいても、注意しようともしない。いつも、遠い何かを思い出すような目でとぼとぼと廊下を歩いている。
「その夏子さんとやらはどこに行ったわけ」
「急な仕事が入ったみたいだ。何の仕事かは訊きそびれたけどね」村上先生が深い溜め息を漏らす。「ところで僕は君の何の先生なんだい」
「俺のクラスの担任だよ。担当教科は理科」
「僕は教師……」
「自由が丘学院中学校のね」
「その学校はどこにあるんだ」
「自由が丘駅の近くだよ。近くって言っても歩いて十分はかかるけど」
 村上先生が、呆然とした顔になる。「自由が丘駅はどこなのかな」
「そこからかよ」
「ここが東京だというのは夏子さんから聞いたけど……」
「東京がわかるんだったら、自由が丘もわかるだろ。俺はあまり好きじゃないけど人気のスポットだよ」
 自由が丘は、お洒落で落ち着いた街として通っている。安志の地元ではあるが、土日は絵に描いたようなハッピーな家族連れやカップルがやたらと多くて鬱陶しい。まだ渋谷の猥雑な雰囲気のほうが人間らしくてホッとできる。
「僕もその街に住んでいるのだろうか……」
 自分の家も覚えてないなんて、本格的な記憶喪失だ。このまま記憶が戻らなかったら、確実に教師をクビになる。
「せめてもう少し記憶が回復するまで、学校には知らせないほうがいいかもね。学校中が大騒ぎになると思うよ」安志は、やんわりと忠告した。
「でも、ちゃんと連絡をしないと色んな方面に迷惑がかかるじゃないか。だって、僕の仕事は責任ある教師なわけだし」村上先生が、実感のない顔で答える。
「体調不良だということにして休みなよ。俺も協力するからさ。何かきっかけを掴めば、どんどん思い出すって」
 あくまでも、映画で得た知識だけど。
 村上先生は充血した目で、安志をジッと見つめた。治まりかけた鼓動がふたたび速度を上げる。
「君の名前は?」
「中田安志」やっぱり覚えていない。ちょっとショックだ。「安志でいいよ。前はそう呼んでくれてたから」
 嘘だ。いつもは、「中田君」だ。それに、村上先生に名前を呼ばれるのは、出席を取るときだけだった。
 記憶喪失も悪くないね。村上先生が何も覚えてないのを利用するのは卑怯だけど、初恋なんだからこれくらいのハンデは欲しい。
 村上先生が、安志の肩に優しく手を置いた。「ありがとう、安志」
 安志は顔が赤くなるのを悟られないように、慌てて顔を逸らしながら言った。
「大丈夫。先生は俺が守るよ」

(つづく) 次回は2014年9月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 木下半太

    「劇団ニコルソンズ」主宰。映画専門学校中退後、脚本家、俳優として活動を始める。2006年『悪夢のエレベーター』で作家デビュー。同作品はテレビドラマ、舞台、映画化されベストセラーとなり『悪夢シリーズ』が人気を博す。他の著書に『オーシティ』『サンブンノイチ』『宝探しトラジェディー』『女王ゲーム』など多数。