物語がつまった宝箱
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  • 第一回 2015年12月15日更新
 大好き大好き大好き。まっつとちょっとしゃべっただけで、セブンスターの匂いが髪にうつってる。家に帰ってもまっつのこと思い出せるね、最高。まっつがそばにいてくれるんだったら、副流煙で死んでもいい! だって、もうまっつのことがめちゃくちゃ大好きなんだもん!

 ラジオで十年前のヒット曲がかかったら、十年前の愚かな思考が一気によみがえった。ラジオでかかってる曲なんてそっちのけで、十年前の私の叫びが頭の中をぐるぐる回る。まっつ大好き大好き。あーあ、十年前のものってなんで全部ダサく見えるんだろう。服だって、思考だって、曲だって、まっつだって。大好き大好き大好きいつまでもそばにいてね。
 うっせー! 立ち上がってラジオのスイッチを切って、私は口を開く。
「ねえ、部屋で煙草吸わないでよ」
 ソファで空き缶を灰皿代わりに煙草を吸っていたまっつは、返事をしないで私の方を振り返った。顔は目やにで汚れていて、髭は伸び、髪に変な癖がついている。私だってこんなこと思いたくないけど、なんかおっさんになったね。思わず顔をしかめる。まっつは私の目をじっと見つめ返した。黙ってじっと私の目を見るまっつの目は。目は。なんなのよその目は、ねえ。
「つーか、煙草やめてっていつも言ってるじゃん」
 まっつは何も答えずに立ち上がり、ベランダへ出た。ガラスの引き戸を乱暴に閉めたので、大きな音がした。その途端、私はガラス戸へ向かってクッションを投げている。クッションが手から離れた瞬間「セーフ」と私は思う。まだセーフ、私には理性が残っている。クッションならガラスは割れないから大丈夫、と脳は咄嗟に判断してゴーサインを出したの。大丈夫、絶対大丈夫だってば。
 ガラス戸に当たって、クッションが非難がましく床に落ちた。いや、クッションはものも言わず床に落ちたのだった。
 私は肩で息をしながら、ガラス越しにまっつの背中を見る。灰色のスウェットを着たまっつは、灰色の煙を吐いている。ねえ、まっつ。そんなことしてたら肺が真っ黒になっちゃうよ。

 まっつが休職してから二ヶ月。状況は少しも良くなっているように見えない。むしろどんどん悪化しているような気がする。最近では私までめちゃくちゃイライラしていて、どっちかっていうと私の方がやばいような? 1LDKで、寝食をともにしてるんだから伝染したって仕方なさそうな気もするけど、鬱はウイルスじゃないし。もともと自分が怒りっぽいタイプだったことを忘れて、人のせいにしてはいけない。怒りをエネルギーにできるタイプなんだから、ここでしっかりしなければ。生きてるってだけで、お金がかかるんだから、私までつられて不安定になっている場合じゃない。とにかく、今はまっつの回復を待とう。まっつは元教師だからなのか几帳面に服薬時間や容量を守っている。本人に治す気があるんだから、私が焦ったって仕方ない。
 で、私ができることは何か? お金を稼ぐこと、まっつの面倒を見ること。落ち着いて考えれば、昨日と同じことをするだけだ。でもここ数日残業が多くて、今日はせっかくの休みなのになんで私は自分の家でゆっくりすることができないのかな? 答えは、まっつがいるから。平日休日ともに濁った目のまっつが部屋にいるからです。あー、まっつうぜーなー。
 死ね。
 ふわっと浮いてきた殺意に私は驚く。死ね、は冗談でもだめでしょ。最近ようやく希死念慮?とかいうのがなくなってきたわけだから、ここはぐっとこらえて……。
 あー、うっぜー、なんでまっつは少しも気を使わないのに私がまっつに気を使わないといけないんだろう。
 と、またクッションに手が伸びそうになるのを抑えて、私は部屋着のまま財布とケータイを会社用のランチトートに入れて部屋を出た。深呼吸すると、もう一度ドアを開けて、部屋に向かって「冷蔵庫に昨日の残りの炒め物あるからおなか空いたらそれ食べてよ」と大声で言う。返事がないことに苛立って、私は乱暴にドアを閉めた。
 エレベーターを待ちながら、かかとをトントンと鳴らした。落ち着こう。とりあえず駅前のドトールでいいから、コーヒー飲んで甘いものを食べよう。ミルクレープとか、シュークリームとか、とにかく糖分をとる。そうすれば、少しは落ち着くはず。
 私のアパートから駅までは二十分近くかかる。バスに乗ろうかと思ったけれど、前の便が行ったばかりだったので歩いていくことにした。歩調に合わせてまっつ死ねまっつ死ねとばかり思っていたけれど、歩いているうちに少しずつ落ち着いてきた。何も死ぬことないよね。まっつが白装束で、寝ているのを想像するだけでぞっとする。ちょっと前にまっつがふざけて寝転がりながら顔にティッシュを乗せたときだって、考えるより先に動悸がして慌ててやめさせたほどだ。よくも死ねなんて思えたな、と歩きながら思う。駅に着く少し前で、バスに追い越された。

 無事ドトールへ着き、ミルクレープへフォークを入れながら、これからどうしようか考えた。
 今日の夜は仕事終わりの友達と待ち合わせて、渋谷でご飯を食べる約束をしている。高校からつきあいのある万里は父親が経営する会社の事務職で働いている。だから仕事なんて楽勝、って感じなのか、AneCanの丸写しで個性がないと言えばないけれど、いつも小綺麗な服装をしている。
 なのに、私は部屋着のワンピースにパーカを羽織っただけの格好で出てきてしまった。鞄はランチトートだし、もちろんすっぴんで、足下もクロックス……。この格好で万里と向き合うなんて絶対無理だ。
 まだ時間はあるし、家に帰って着替えて化粧をするのが一番なのは分かっているけれど、まっつにまだ会いたくない。それに帰りは上り坂だ。どんどん面倒くさくなってくる。何より、このテンションで万里に会うのがキツい。額に手をやってみる。……なんか熱っぽい気がする。たぶん風邪じゃないかな? だんだんそんな気がしてきた。風邪をうつしても悪いし、断っちゃおう! 
 トートの中の携帯に手を伸ばす。トートの中で先に手が触れたのは、携帯じゃなくて財布だった。今年の春買ったフルラのピンク色の長財布。店員さんから風水的にいいと勧められて、牛革の財布を選んだ。中には二万円入っている。それを見て、私はひらめく。
 全部お金でなんとかなるじゃん! 服も新しく買えばいいし、メイクもしてもらえばいい。この状況で万里に会うんだから、気に入った服で会いたい。財布にはクレジットカードだってある。気が済むのならいくら使ったっていい。だって、私働いてるんだもん! 毎月お金が入ってくるし、来月報奨金出るし、ボーナスだって出るし、正社員だし、なんだかんだ毎月貯金もしている。
 興奮でしばらく私は口を閉じられなかった。電気が走ったみたいに後頭部がじんじんする。私にはお金がある。私はお皿の上のケーキを半分食べたところで、残して下げ台へ戻した。毎月食費を二万円台に抑えるように努力しているのに、こうしてやる! ちょっと笑ってしまいそうだった。私には使えるお金がある。
 私はドトールを出て、とりあえず駅の改札をくぐる。パスモの残額が3758と表示されていて気分が良くなる。この間、五千円チャージした自分をほめてやりたい。駅に来ていた急行に乗って、渋谷へと向かった。
 電車の中で思い出すのはやっぱりまっつのことだった。まっつご飯あっためて食べられるかな?……大丈夫か、三十五歳だし。年取ったなあ、初めて会ったときまっつは二十五歳だった。私は今年二十七歳になる。あのときのまっつよりも年上になってしまった。
 初めて会った頃のまっつはすごかった。男の人なのに肌が綺麗で中性的で、細く見えるのに筋肉がついているのかスーツがすごく似合っていた。最終的にまっつというあだ名で定着したけど最初は「王子」なんて呼ばれていたくらいだ。まっつは私の高校の国語の先生だった。私の通っていた学校は女子校だったので、若いってだけで男の先生はモテる。まっつみたいな美形が入ってきたのは初めてで、すぐにアイドルみたいな存在になった。まっつは一、二年の数クラスしか担当していなかったのに、それ以外のクラスの子たちまでもが注目していた。
 まっつは講師だったので、週に三回しか私たちの学校には来なかった。ほかの曜日に行っている学校が男子校だと聞いて私たちは安堵したものだ。まっつが学校に来ている月木金は講師室の周りにはなんとなく列ができていた。でもまっつは二年経たないうちに、私たちの学校を去った。
 まっつが学校を辞めたとき、私は十七歳だった。ご多分に漏れず私もまっつのファンだった。でも、学校を去るまっつに花も贈らなかった。暴言を吐いて見送った。
 まっつが高校を辞めることになったのは、生徒との交際がバレたからだ。交際していたのは私の同級生だった。その子は美人でもないし、とりわけ特徴がなかったので納得がいかなかった。私はすっかり拗(す)ね、まっつが大好きだったことなんてなかったことにして残りの高校生活を送った。それから大学受験で第一志望に合格したとき「あ、ここまっつの母校だ」とか思い出して「だから必死に勉強してたのかな?」とか思い至りそうになったが、自分で自分の思考にフタをして思い出さないようにしていた。
 入学式の日に、地味だけど高そうなスーツを着てた見覚えのある女の子に会う。それが万里。
「あ、うそ。トリイちゃん」
 私の驚きをよそに万里はうれしそうに私に駆け寄ってくる。まさかこの大学に進むと思わなかった。そもそも万里の成績が良くなかったということもあったけれど、ここはまっつの母校……。
「トリイちゃんも同じ大学だったんだね、よかったー誰も知ってる人いなくて」
 万里は無邪気に笑っている。まっつがつきあっていたというのが万里だった。クビになったまっつとは対照的に万里にはなんのおとがめもなかった。くすくす笑いとともに噂はすぐに広がった。おかしそうに話す子もいれば、心底憤っている子もいて反応は様々だった。
「すっごいよねー、お金持ちは」
「超感じ悪いよね。ていうか、まっつセンス悪くね?」
「万里もバカだよねー、自慢して自分でペラペラ話してたんでしょ?」
 その手の噂話に私は一切加担しないつもりだったけれど、いやでも耳に入ってきた。交際がバレたのは万里の茶道部の後輩が学年主任にリークしたからだった。万里は茶道部内でまっつとの関係を自慢げに話していた。後輩の中にもまっつのファンは多く、自慢の内容も生々しかったので反感を買った。普通だったら教師とつきあっていたら生徒も停学になるのに、万里は何も罰を受けずに済んだ。それは万里の家がお金持ちで、学校への寄付の額が大きいからだという。万里の親の前で、まっつはもう万里に会わないことを約束させられた。そのとき、万里は泣きもしなかった。万里は教室で「信じていたのになんでバラしちゃうんだろう」ってあんなに泣いていたのに。まっつと万里にかかわることなんて一つも知りたくなかったのに、私はいつの間にかほとんどのことを知っていた。

 まっつに再会したのは半年前になる。まっつがお客さんとして私の職場に来たのがきっかけだった。
 私は大学卒業後に不動産会社に就職した。ドアをくぐって入ってきたときに、なんだか見覚えがあるような気がした。事務の子にお茶とお客様カードを出してもらって、カウンターへ出た。名刺を出して挨拶を済ます。
「はじめまして、営業の鳥井と申します。このあたりの1R(ワンルーム)でお探しですか?」
 話しかけてはいるけれど、男の反応は良くない。氏名の欄に記入されたのは、松谷孝志。名前の漢字に見覚えはないけれどマツタニタカシ、とふられたカタカナを見たとたんに勝手に記憶がよみがえる。まっつだ。『山月記』を教えていたまっつ。紫色のチョークを好んで使うまっつ。ポールスミスのネクタイをしてたまっつ。あの、まっつだ。その様子は全く変わっていた。あんなにおしゃれだったまっつは、汚いジーパンに色あせたTシャツを合わせていて、話していても語尾が消えかかる。
 まっつが内見を希望していたのは、駅から十五分ほどのぼろアパートだった。家賃は四万と安かったけれど安いだけの理由があった。事故物件だった。前の住人がこの部屋で練炭自殺している。どうしてもまっつにここに住んでほしくない、と思った。
 案内のときに私は思わず、まっつに「先生」と声をかけた。まっつは驚いた顔をしたけれど、私のことを思い出すことはなかった。「俺のこと覚えてる人なんかいるんだ」と自嘲的に笑ったくせに、その日の晩、まっつは私の部屋のベッドにいた。まっつと仕事の後、待ち合わせて飲みに行き、私はうちに誘った。
 でも、自分自身の初恋を冒涜(ぼうとく)しようとしたからだろうか。私たちの初めてのセックスは未遂に終わる。
「ごめん、俺安定剤を飲んでると勃たないんだよね」
 まっつが精神安定剤を飲んでるっていう事実に打ちのめされたくせに、私は「そうらしいね」と分かったような口を利く。ベッドの下に落ちているブラを拾ってつけて、Tシャツを着た。
「ごめん」
 黙々と服を着ながらまっつはつぶやくように言った。私は思わず、「しばらくうちにいて」と口にしている。まっつは目をしばしばさせていた。
「さっきも言いましたけど、私も男と別れたばっかなんです。よかったら、ここにしばらく住んでくれませんか?」
「寂しいもの同士ってやつ?」
 まっつも恋人に別れを切り出されて、住まいを探していたのだった。
「いや、違います」私は否定してからはっきりと続ける。「私、まっつのことずっと好きだったんです」
「うそでしょ」
「ずっと、っていうのはうそですけど。好きでした」
 そう言うと、まっつは笑う。
「そういえば、俺、まっつとか言われてたね」
 まっつが困ったみたいな顔をしているので、じっと見つめていたのに気がついた。「まっつ」と私が呼ぶと、ぎこちなくキスをしてくれた。
「とりあえず寝て、結論出すわ」
 そう言うと、まっつは寝返りを打った。その背中に私はへばりついて眠った。まっつの心臓がどきどきいう音を聞いた。
 まっつは朝食をとりながら、ちょっと照れたみたいに笑うと「それじゃこれからよろしく」と頭を下げた。夜、私が仕事から帰ってくると、まっつは小さなスーツケースとボストンバッグをうちに持ち込んでいて、家賃は折半すると約束してくれた。
 意外だったのは、まっつはちゃんとした会社の正社員で、給料だって悲惨なものじゃなかった。私の知っているまっつよりずっと落ちぶれているかんじがしたので、最悪無職だと思っていた。まっつは半年くらい前に化粧品会社に転職していたそうだ。まっつは私たちの学校をクビになってから、何度か転職しながら会社員をやっていた。
 前の会社より、今いる会社の方がよっぽど安定しているらしいけれど、まっつがいる部署はお客様相談センターの統括で、つまりクレーム処理係の最前線だった。前職とはまた別のストレスがかかっていた。
「墓場って言われてんだって。入ってから聞いたけど」
 面倒くさそうにそう言ってたことがある。まっつの前任者も、前々任者も鬱で辞めているとか。まっつ自身もなんとなく不調でメンタルクリニックに通院してるという。おいおい、とは思ったけど、簡単には踏み込めない話題だし本人が「いや、薬飲んでる分には大丈夫」とか言ってたから「無理しないようにねー」なんて私ものんきに答えていた。
 土日祝休みのまっつと、火曜水曜休みの私とは休日がほぼかぶらなかったけど、意外とそれがちょうど良かった。休みは今まで通り好きなように過ごせたし、家事もなんだかんだ分担できて負担が減った。

(つづく) 次回は2016年1月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • くぼ田あずさ

    2015年「ふざけろ」で第9回小説宝石新人賞を受賞。