物語がつまった宝箱
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  • 第二回 2016年1月15日更新
 私たちは歩み寄りを始めた。ぎこちないながらも、二人の関係を恋愛に落とし込もうとお互い静かに努力していた。恋人同士の同棲、ということにしないと、まっつのメンタルと私の体面が守れないような気がしていた。高校時代どれだけ好きだったかなんて、思い出さなくても覚えているし、もう一度竈(かまど)に火を入れよう。今は火を熾(おこ)すのに時間がかかっているけど、きっとまたすぐにまっつに夢中になれる。
 たまにセックスも試みる。結構な確率で失敗するけれど、うまくいくこともある。まっつとのセックスがうまくいくとものすごい達成感があった。仕事で得るような種類の達成感で、自分に少し自信がつく。
 私たちは「なるべく二人で話す時間を作ろう」とやんわり約束をした。晩酌の時間を作り、テレビを見ながら二人で飲んだ。まっつは家賃と光熱費と言って結構多めに出してくれていたけれど、かたくなにビールは飲まなかった。まっつが飲むのは第三のビールか、安い焼酎ばかりだった。私が気を利かせてスーパードライとかヱビスを買っても手をつけない。注ごうとしても、「俺、ビールは家では飲まないから」と言って断る。
 ビールは飲まないけど、まっつの酒量は多かった。つまみにはほとんど手をつけないでひたすら飲んでいる。そして、延々グチった。
「俺は何をやってもだめだ」「あんな会社つぶれろ」「パートのババアの主張がウザい」
 うんうん、分かるよ。と聞いていたのは最初の方だけで、しばらく経つと「へー」とか言いながら私はテレビを観るようになった。私も仕事でクレームを受けることがある。クレーム処理の大変さは知っているつもりだけど、それが連日になるとかなりウザい。会社の詳しい仕組みが分からないから、何もアドバイスできない。そもそもまっつはアドバイスなんて求めていなかった。
 まっつと話すのがウザいときには、一緒に映画を観た。まっつも私も映画が好きだったので、Huluで適当に探したり、仕事の帰りにTSUTAYAで待ち合わせをして映画を選んだ。まっつは元教師だからなのか、「テーマ性」を見いだすのが得意で、漫然と映画を観ているだけの私には新鮮だった。私の何も考えていないような感想もまっつには新鮮なようで、「なんでそんなこと思うの?」と思いがけずウケをとれることもあった。会話の中でまっつが笑うとうれしくて、心の中にちゃんと恋として火が入っているのを実感する。
 だから順調だと思ってたんだけどなあ。

 知らない携帯番号から電話がかかってきたのは七月下旬の火曜日だった。仕事が休みだったので、洗濯機を回してソファに横になっていた。044から始まるその番号に見覚えはなかったけれど、お客様からかもしれないので一応電話には出てみた。
「はい、鳥井です」
 それからのことは、曖昧にしか覚えていない。私はジーパンにTシャツで、日焼け止めももちろん化粧もしないで、仕事用の鞄を持って家を出た。その電話は鉄道会社からで、まっつを保護しているとの連絡だった。今朝の会話を思い出す。
「あー死ぬほど、会社行きたくない」
「毎日それ言ってるし。じゃあ、休めば?」
「休んだら死にたくなるから」
「会社行っても死にたくなるんでしょ」
「そうなんだけどさあ、死にたいなあ」
「薬飲んだんでしょ? 死ぬか、会社行くか、病院行くかちゃんとしなよ」
「じゃあ、死ぬ。会社で死ぬ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 そう言って出て行くのはいつものことで、私はまっつの「死にたい」に慣れすぎていた。
 駅員さんの話では、まっつは最寄りの駅でふらりと線路に降りた。駅員さんが緊急停止ボタンを押し、ホームへ引っ張り上げてくれた。誰かが気づいてくれたから良かったようなものの、もしかしたら死んでいたのかもしれなかった。
 定期券売り場の奥のベッドで、まっつは毛布にくるまって小さくなっている。毛布の中のまっつは私が見たことのない目をしていた。泣きたくなるけれど、駅員さんの「救急車呼びますか?」の一言で我に返る。
「いえ、大丈夫です!」
 私は咄嗟に返事をして、毛布にくるまったままのまっつを揺り起こす。「ほら、帰るよ」と声をかけたけれど、まっつは何も答えなかった。駅員さんたちは心配そうに「救急車呼んだ方がいいんじゃないですか?」と声をかけてくれたけれど、救急車という単語自体が私の混乱を助長させる。私は無理やりまっつをベッドから起こした。怪訝そうな駅員さんたちに謝り倒して、まっつの手を引いた。私の手も、まっつの手も震えていた。
「びょういんへいく」
 駅を出るとまっつが小さくつぶやいたのが聞こえたので、タクシーに乗って、スマホで調べた総合病院へ向かった。診察室の椅子の上で「セーラー服の女の子がいて、髪が短くて、泣きそうな顔をしていて、それがちらついていて……」と言ったきりまっつは黙った。代わりに私がお医者さんに今朝の自殺未遂の話をした。話しながら、頭の中で「セーラー服の女の子」がなんのことだか思い当たる。私たちの通っていた女子校の制服はセーラー服で、今もなおまっつのことを縛っているのは、万里。涙が出そうになる。
 お医者さんの判断で、まっつはとりあえず七日間の入院が決まった。こんなに簡単に入院が決まるなんて思ってなかったので、驚きのあまり私の思考は停止する。涙が引っ込む。だけど、停止させたままでいさせてくれないのがさすが現実という感じで、私はまっつの入院の手続き用紙を書き、お金を払い、着替えをとりにうちへ帰る。
 うちへ帰るタクシーのシートに深く腰かけた。この間会ったときの万里の顔に少しも翳(かげ)りはなかった。セーラー服なんて全然しっくりこないほど年相応に成長している。でもまだまっつは……。爪のあとが残るくらいきつく自分の腕を握った。悔しくてたまらないけど、これから私がまっつにしてあげられることはいくらでもある。深く息を吐いた。
 実際やることはたくさんあった。なのに、うちに帰ってまっつのボストンバッグに荷物をつめながら私は泣いた。まっつの荷物はとても少なかった。
 病院へ戻ると、まっつは六人部屋の隅で点滴をされて眠っていた。
 眠っているまっつは、死んでるのとどう違うのか分からないくらい生気がない。眠るまっつの顔は、一番初めに浮かんでくるまっつの顔より十年分年を取っていた。表情なんてないのに、起きているよりずっとまともな顔に見えた。
 点滴の針が、蛍光灯の下で光っている。色も細さも枯れ木みたいな腕に刺さった針が、まっつの生を主張していた。
 ベッドの横に置かれたいすに腰かけて、まっつのぎこちなく曲がっている指に触れる。まっつを家にあげて一緒に暮らしていたことはちょっとした罪滅ぼしのつもりだった。まっつが学校を辞めるとき、私はまっつに向かって「うそつき」と叫んだ。

 高校一年の六月、私は進路相談の名目で講師室までまっつに話しかけにいった。次の週までに進路調査票を出さなくてはいけなかった。でも、どこの大学のどの学部を受けたらいいのか分からなかったから、下心込みでまっつに相談しようとしていた。
 その日も講師室にはまっつ目当てのグループが何組か来ていた。まっつは生徒をさばくのがうまかった。国語関連の質問になれば楽しげに答えるけれど「彼女いるの?」「休みの日何してるの?」「どこ住んでるの?」なんて質問はいやな感じにならないようにスルーして雑談を打ち切る。ほかのグループの子が国語の質問にかこつけたその類の質問をしているのを聞いて、「なんかバカみたいだな」と思った。前の週に、私は同じことをしていたのだが。何組かのグループの後に私の番がきた。
「今日はなんの質問?」
 まっつに一人で話しかけるのは初めてで、ちょっと緊張していた。
「まっつはなんで、先生になろうと思ったの?」
「えっ、なんで?」
 まっつはちょっと驚いた声を出した。
「進路調査票出さないといけないの。お母さんがどこの大学でも文系学部に進むんだったら教職だけはとれるようにしろって言うから、先生になった人に教職とってどうだったか聞いてみたいと思って」
 それを聞くとまっつはまじめな顔になった。
「あー、俺はねー、教職は絶対とるつもりで大学選んだよ。両親も教師やってたから漠然と小さい頃から、仕事といえば教師っていうのがあって」
「なんだ、それだけぇ?」
 まじめな顔をしたまっつに私は照れた。茶化したくなって笑ったけれど、まっつはまじめな顔で続けた。
「いやいや、その話には続きがあって。きみはさ、何をしてるときが楽しい?」
「そりゃ、自分の好きな人や、友達と話してるときとかだけど……って何が関係あるの?」
「俺はね、自分が好きなものについて『ここがいいんだよ』って人に話すのが好きだなって高校生くらいのときに気づいて。で、俺は人よりも少し小説とか古文とか、物語が好きで、その良さを伝えたいって思ったから。それで、教職とったんだよね」
「へーえ、意外とちゃんとしてる」
「意外ってなんだよ」
 まっつは、そう言って笑った。まっすぐ目を見て話してくれたことがうれしかった。授業内では話さない自分の話をしてくれたことが、まじめに答えてくれたことが、うれしかった。私だけに向けられた言葉は宝物で、ずっと大事にしていた。何をしていても「私は何をおもしろいと思うのかな、どんな仕事に就こうかな」と考えていた。まだ全然結論は出なかったけれど、まっつと同じ大学を目指すことだけは決めた。
 まっつと万里の噂はどんどん具体性が増していく。まっつと万里は偶然近所に住んでいて、近くのコンビニや駅で会うたびに話すようになった。夜中に家を飛び出してきた万里をまっつは家に泊めて、そのまま抱いた。誕生日に万里はまっつからティファニーのネックレスをもらった。私がまだ何も知らなかったとき、廊下で会った万里のネックレスを褒めていた。目の前が真っ赤になる。私が一人でまっつのことを考えているのと同じ頃、万里はまっつとヤッている。
 まっつがクビになると知った一週間後、私は大胆に寝坊した。十時くらいに学校の最寄り駅に着くと、偶然まっつに会った。どんどん出てくる噂話に私は参っていた。一週間経って落ち込み終わったと思っていたのに、まっつの顔を見た途端感情が爆発した。
「まっつのうそつき、物語の良さを伝えたいから先生になったって言ってたくせに!」駅前だったのに、私は早口で責め立てた。「うそつき、先生から小説の面白さを私全然教わってない!」
 まっつに、自分の大事なものをめちゃくちゃにされたような気がしていた。私がにらみつけると、いつも目を見て話をしてくれたまっつはそのとき初めてうつむいた。私の目を見ないで「ごめんね」と言った。
「ごめんで済んだら……」
 言いかけて、私はやめた。自分がなんで怒っているのか自分で分かってしまった。そのまま、まっつに背を向けて学校へ向かった。涙が出そうだった。
 十年後再会したまっつは、私のことなんて全く覚えていなかった。顔を見ても名前を見ても少しも思い当たらないようだったけれど、私の方にはまだ罪悪感が残っていた。それで弱っているまっつに会って今少しでも償えたら、という思いで部屋に誘ったのだった。でも、それが野良猫を拾ったくらいの気持ちだったんじゃないかと誰かに聞かれたら否定できない。
 人間だった。私はまっつの人間性を軽視していた。仕事のやりがいや、もしくは趣味の充実、男としての自尊心といった部分を満たしてこそ、人間らしく生きるということだ。過去を吹っ切って、私の知ってるまっつに戻るのは、心を満たしてからだ。私は一緒に暮らしておいて、そのケアを完全に怠っていた。人間を背負うのなら、本当はそこまでしなきゃいけない。結婚もしていないし、私はただの会社員で、まだまだ仕事も未熟だ。人間を背負うのは重すぎる。それは事実として分かっているつもりだけど、まっつの寝顔を見ていて思わず口をついて出るのは。
「まっつ、大丈夫だよ」
 まっつは眠っていて、返事なんかしない。それでもいい。まっつの心臓は動いていてまだ未来がある。
 良かった、死ななくて。

(つづく) 次回は2016年2月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • くぼ田あずさ

    2015年「ふざけろ」で第9回小説宝石新人賞を受賞。