物語がつまった宝箱
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  • 第三回 2016年2月15日更新
  そう思ったんだけどなあ。まっつが退院して、休職の手続きして、通院の手伝いをして、自分の仕事に行って家事をしていたらあっという間に二ヶ月経っていて、気がつけば「まっつ死ね」と思っている。
 こわいな、と思ってる間に電車は渋谷に着いている。押し出されるみたいにホームに降りた。
 立ち止まると、すぐに後ろにいたらしい若い女にぶつかって舌打ちをされる。女が持っていたらしいスマートフォンのかどが当たって背中が痛かった。何度も来ているはずの渋谷なのに心もとない。服装がきちんとしていないというだけで、こんなにアウェーになるなんて思いもしなかった。
 最寄りのドトールで私をときめかせた考えは電車に乗ってる間にしぼみきって少しも光っていない。私は自分を奮い立たせる。しっかりしないと。万里との約束を断って帰ってしまえば、大きな後悔が残る気がする。その後悔は私の知らない間に心に根を張り、自信を奪っていくのだ、きっと。
 一回深呼吸してみる。万里との待ち合わせまではまだ五時間もあった。やっぱり一番初めにどうにかすべきは服だろう。
 でも服、と考えて最初に浮かんだのはスーツだった。でも、と打ち消す。こんな日に仕事アイテムを買ってどうする。今日買うのは、もっと私服っぽくて贅沢っぽくて女子っぽいもの。そう、たとえばワンピース! 
 思いついた瞬間にしっくりきた。それに合わせてハイヒールも買おう。具体的に買うものが決まればまた勢いが戻ってくる。考えてみたら今年はバーゲン行ってないし、学生時代の友達と会うのも仕事の後だったから一年くらい服買ってないかもしれない。服が買えるって思うと、自分でも意外なくらい心が躍った。来月、大学の先輩の結婚式の二次会がある。相変わらず仕事の後だったからスーツで行くつもりだったけれど、そこでも着られるようなきれいなワンピースを買おう、と決意する。
 足が向かうのは、いつも通りヒカリエだった。一瞬、すっぴんに部屋着なことを思い出すけど、怯(ひる)むものか、私は客なんだから。
 地下鉄はヒカリエに直結しているから、勇敢な私の気分を阻害することなくそのまま中に入れた。エスカレーターの横の鏡に映る自分の姿に怯みそうになるけれど、鏡くらいじゃ私の心は折れない。
 キャリアファッションとうたわれている三階をうろうろし始めると、気持ちはさらに勢いづいた。各店に置いてあるマネキンが全部かわいく見えるけれどさっき心に浮かんだ理想のワンピースとは全部違うような気もする。全店のぞいてみてから考えよう、と勇敢な私は思う。
 テンションが上がっているのは間違いないけれど、部屋着ですっぴんの私に店員さんが全然話しかけてくれないことに気がつくと怖気付きそうになる。いつもは店員さんに話しかけられるのを迷惑に思うはずなのに、「いらっしゃいませ」と言ったきり無関心な店員さんの態度になんか傷ついちゃうような……。いやいや、こういうときこそ平常心だ。私は深緑のワンピースに目をとめる。頭の中で描いた理想のワンピースにとても近い。ノースリーブで、ウエストが絞られていてシルエットがきれいだ。何より私の心をときめかせるのは、真夏の木の葉の重なりを思わせるような深い色合いだった。私はワンピースをラックからはずして店員さんに声をかける。
「すみません、試着したいんですけど」
 試着室で着替えているときに、鏡に映った下着姿の自分が思ったよりやせててビビる。そういえば、まっつがあんまりご飯食べないから、私も食べる量が減った。まっつの飲んでる薬が本当はアルコールとの併用不可だと退院後に知って、それからは家で晩酌もしなくなった。やせたい、と物心ついたときから思っていたけれど、自分の意志とは関係ないところでやせてるとちょっと不安になる。でも身体のラインが出るワンピースにはいい感じで、テンションが上がる。
「いかがですか?」
 カーテンの向こうから、店員さんに声をかけられた。
「この服に合う、羽織りものってありますか?」
「少々お待ちください」
 店員さんが持ってきてくれたのは、黒のスーツっぽいボレロだった。深緑のワンピースと合いまくり、というか私自身この服装がとても似合っている気がしてならない。
 私はカーテン越しに、この服装に合う靴とアクセサリーも持ってきてもらうように頼んだ。銀色のラメの入ったハイヒールと、イミテーション丸出しのごてごてしたネックレスをカーテン越しに渡されて、一瞬冷めた。せっかくきれいな格好なのに、こんな安っぽいアイテムを渡されるなんて、と落胆した。でも実際につけてみたら、この靴とアクセ無しにこのワンピースは成立しないというくらいマッチしているように見えてきた。
 お値段合わせまして六万五千円也。即お財布の中のお金だけじゃ足りなくなるけど、クレジットカードがある。毎日働いているからカードで買い物ができる、とわざわざ思ってみる。そうやってまでどうして心の中でまっつのことずたずたにしちゃうんだろう。
 この格好、全部着ていきたいですとお会計のときに言うと、店員さんは笑った。
「でも、それだとタグ切っちゃうんで、返品できなくなっちゃいますけどいいですか?」
「大丈夫です」
「はーい、ありがとうございます」
 店員さんは笑顔で、タグにはさみを入れた。ブツン、と音がした。
 私は服を着替えて、大きな紙袋に着てきた服とクロックスを入れてもらった。店を出るまでのわずかな距離を店員さんが紙袋を持ってくれた。「ありがとうございました」を背中に浴びながら私は店を出た。
 エスカレーターを降りるときに鏡に映った自分を見たらぞくぞくする。来たときと全然違う格好。最高。これがお金のなせるわざだ。この格好を完成させるにはやっぱヘアメイク。私は地下一階まで降りて、メイクサロンに入るとフルメイクとヘアアレンジを頼んだ。髪の毛をゆるく巻いてもらって、「フェミニンに」とわざわざ注文をしてベースからメイクをしてもらう。
 メイク用品は私が持っているものと同じものがいくつかあるのにプロはやっぱり違う。私はメイクさんの一挙一動に感心してしまう。そうしてできあがった顔は、普段の自分のメイクとは微妙にニュアンスが違っていて、なんだか女っぽい気がする。私は満足して五千円払った。
 わざわざトイレに入って全身を鏡に映す。来たときと全部が変わっていてひとりでおかしくなってくる。笑いをこらえながら鏡を見ていると、まっつに見せたいな、と思う。まっつはたぶん「いいんじゃない」と言うだろう。言ってみただけに違いないけれど、私はそれで気が済むだろう。
 ここまでやってもまだ時間があった。飛び込みでネイルサロンに入り、ジェルネイルをしてもらう。仕事でも大丈夫なようにベージュピンクの逆フレンチで、ストーンを人差し指にだけ入れた。八千百円。
 これで、万里がいつ来ても大丈夫だ。私はヒカリエの八階にある喫茶店に入り、万里に「早めに着いたのでお茶してます。着く時間分かったら連絡下さい」とラインを入れた。万里からはすぐに走っているスタンプが来た。急いで来るって意味だろう。
 だんだん暗くなってくる街を見下ろしていると、心細くなってきた。慣れない格好をしているからかな、と思ったけれど、万里と二人だけで会うときはいつもわずかに緊張しているのを思い出した。こんなことならまっつの薬盗んでくれば良かった。精神が安定した状態で万里に会えたかもしれない。
 万里と二人きりで会うのは、久しぶりだ。先月も万里には会っていたけれど、それはサークルのOB会だった。そのときには万里にまっつと暮らしているとは言わなかった。万里に私たちの暮らしに踏み込まれたくなかった。
 万里とは、高校一年のとき同じクラスで同じグループだった。二年、三年のときはクラスが離れたので、ほとんど話すことはなかった。まっつのことがあって、ちょっと避けていたのかもしれない。
 大学の入学式でばったり会って以来、万里は私になついた。入学式の後で私が勧誘されて行った旅行サークルの新歓コンパにもついてきて一緒に入部した。学科は違ったけれど、学部は同じだったので万里とは体育の授業も同じだった。サークルの中では万里は私の親友という立ち位置になった。
「なんで、私の真似ばっかすんの?」
 大学を卒業する前の飲み会のときに聞いてみたことがある。なんだか無性に腹が立っていたのだ。そのときは私がヨガ教室に通い始めると、万里も「同じクラスに入る」と言い出した。これまで、万里が私に合わせようとすることに何か言ったことは今まで一度もなかったから、万里はすごく驚いた顔をした。
「別にあんたがやりたいならいいけどさ、別に合わせなくてもいいんだよ」
 私は慌てて、フォローをした。そうしないと会話が成立しないような気がした。
「ごめんね、トリイちゃんかっこいいから真似したくなるの」
 万里は照れたみたいに笑った。
「本当は高校時代から、トリイちゃんかっこいいと思ってた。同じグループだったけどあんまり話せなくてずっと残念だったの。私地味だったし、トリイちゃんは私のことなんてどうでもよかったかもだけど」
 万里はたしかに地味だった。つやつやした黒髪を一度も染めず、校則通りに制服を着ていた。だからこそ、万里がまっつとつきあっていたことはおもしろおかしく拡散された。
 それに対して、自分で言うのもなんだけど、ルーム委員に担ぎ出されるような私はクラスでも中心的な人物だった。今では黒歴史でしかないけれど、髪形もショートカットでバドミントン部の部長をやっていたので、話したこともない後輩から手紙をもらうこともあった。
 私のいたグループはクラスの上位層で、美人か秀才かおもしろいか運動部のエースか、キャラが立っている子ばかりだった。いつのまにか、万里も同じグループにいた。たいして美人でもないし話がおもしろいわけでも勉強ができるわけでもない茶道部の子がなんでこのグループにいるんだろ、と初めのうちは何度か思った。
 でも、つきあううちにわかった。万里は特別に扱ってやらないといけないような、そんな気配をまとっていた。あとから万里がお嬢様だと知って妙に納得した。まっつのことがあっても万里が誰からも表だって排斥されなかったのは、あの気配のせいで手出しができなかったからだと思う。万里がまとっていたあの気配は、小さな頃から他人から大事にされてきた経験の積み重ねだ。人から大切にされるのが当然だった万里は、誰にだってその丁寧さを無邪気に要求する。他人から大事にされることを万里自身が少しも疑っていないから、心ならずも万里にはきちんと接してしまう。それは私が全然持ってないものだった。

(つづく) 次回は2016年3月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • くぼ田あずさ

    2015年「ふざけろ」で第9回小説宝石新人賞を受賞。