物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

menu
  • 第一回 照子(1) 2021年11月1日更新
「あんたってそういう女よね」
 きっと瑠衣(るい)はそう言うだろう、と思いながら、照子(てるこ)はいなり寿司を作っていた。
 すし飯には大葉とちりめんじゃこと胡麻(ごま)を混ぜた。あんたってそういう女よね。これも、言われるだろう。呆(あき)れた顔で。でも、しょうがないじゃない、と照子はいつものように、頭の中の瑠衣に言い返す。おいしいほうがいいもの。おいしいほうが元気が出るもの。
 いなり寿司は全部で二十個。十個を持っていき、残り十個は寿朗(としろう)のために置いていくつもりだ。ピーッと、圧力鍋が音をたてる。照子はコンロの火を止める。あとは放っておけば、牛肉のワイン煮ができあがる。いくら寿朗でも、圧力鍋の蓋(ふた)を開けるくらいはできるだろう(いや――爆発物のように思って手を触れられないかもしれないから、冷めたら蓋を外してラップをかけておいたほうがいいかもしれない)。あんたってそういう女よね。本日三回目の瑠衣の声。最後なんだもの、それくらいしたっていいんじゃない? 照子は言い返す。
 牛肉のワイン煮は、それはもうおいしいのだが、赤ワインや香味野菜でマリネしておいた肉にトマト缶を加えて煮るだけでごく簡単にできてしまう。二日前、瑠衣から電話がかかってきた日に、買い物に行き材料を揃(そろ)え、マリネして冷蔵庫に入れておいた。ということは、あのときもう決めてたんだわ、と照子は思う。丸二日考えていた気がしたけど、電話のすぐ後に――というか、たぶん、瑠衣の「助けて」という声を聞いた瞬間に、決めてたんだわ。
 それで照子は、その「助けて」という瑠衣の声を、あらためて思い返した。照子と瑠衣はともに今年七十歳。隣市の公立中学校で出会ったのは十四のときだから、五十六年間の付き合い――「実質的に」と考えるなら三十歳のときからということになるが、それでも四十年あまり――になる。その間、瑠衣は照子に「助けて」なんて一度も言ったことがなかったし、あんなに切実な声を出したこともなかった。それで照子は、これまで頼る一方だった自分が頼られたということで、ちょっと溜飲(りゅういん)が下がったというか、ほくそ笑みたいような気分にもなっているのだが、その一方で、あの「助けて」は、自分の声であるようにも聞こえたのだ、と考えていた。
 いなり寿司が出来上がり、ついでにだし巻き玉子も作った。寿朗用のは塗りの重箱に、持っていくぶんは経木(きょうぎ)の弁当箱(そうだ、これもあの電話の日に買っておいたのだった)に詰めて、冷蔵庫にあった奈良漬もちょっと切って添えると、照子はひとまず安心した。いつになるかわからないが、とにかく今日の一食はおいしいものを食べることができる。さて、次は荷造りに取りかかろう――。
 壁の上の時計をちらりと見る。まだ十時を過ぎたところだ。今日、寿朗はゴルフに行っていて、クラブハウスで昼食をすませてから帰宅する予定になっている。大丈夫、彼が帰ってくるまでに余裕で家を出られる。でも、あんな切ない声を出す瑠衣を長く待たせるのは忍びないから、できるだけ急ごう。
 照子は寝室へ行き、ウォークインクロゼットからリモワのスーツケースを引っ張り出した。海外旅行用の大型のものだ。まずは下着や服や靴を詰める。これらは、なければないでどうにでもなるものだ。思い入れもないから、「丈夫で、手洗いできるもの」という基準で選ぶ。母から譲られたパールのネックレス――元々は祖母のものだった――は持っていくことにする。身につける機会が今後あるかどうかはわからないけれど。裁縫セット。お気に入りの小説を三冊。アルバム。これは結婚するときに持ってきたもので、とっくに亡くなった両親や、自分と姉の子供時代のスナップが貼ってある。結婚後のアルバムもあるが、こちらは持っていかない。結婚式の写真も、パリへ新婚旅行へ行ったときの写真も、持っていきたいという気持ちには全然ならない。自分のその未練のなさに、照子は少し悲しくなり、それ以上に心強さを感じた。
 結局のところ、この家の中に、持ち出したいものはあまりなかった。スーツケースを持って寝室を出ていくと、それをリビングに置いてからキッチンへ戻り、大事にしていた食器を少しと、缶詰いくつかを入れ、蓋を閉めた。それから再び寝室へ行き、貯金通帳ほか、重要なものをショルダーバッグに入れた。最後にハッと思い出した。ドライバーのことを。肝心なものだ。忘れるところだった。思い出してよかった。
 照子は、玄関横の小部屋に入った。納戸として設計された部屋だが、寿朗が「書斎」として使っている。といってもこの部屋からキーボードを叩(たた)く音が聞こえてきたことはなく、にもかかわらず照子がうっかりノックをしないでドアを開けると、寿朗は慌てた様子でノートパソコンを閉じる、というのが常だったが。そんなことはどうでもいい。ドライバーだ。その種の道具は、デスクの横の作り付けの棚の、プラスチックのカゴの中に入っているということを知っている。ドライバーは寿朗のものだ――ということになっている――が、家の中でドライバーを使う必要が生じたとき、それを使うのは概(おおむ)ね照子だったから。だが今日、ドライバーは見当たらなかった。カゴの中には雑貨がごちゃごちゃと詰め込まれていて、ドライバーはいつでも一番上に載っていたのに。
 照子は焦って、カゴの中身を床の上にぶちまけた。あった。底のほうに入っていた。よかった。寿朗は整理整頓が本当に下手くそな人だから、やっぱりこのカゴの中に入れたはずの何かを探そうとして、ごちゃごちゃかき回して、ドライバーが底に沈んだのだろう。でも、おかげでドライバーがなくなったことをしばらく気づかれずにすみそうだ。そう思いながら中身をカゴに戻そうとして、あるものに気づいた。小さなもの。トークンだ。ネット決済をするときに使う道具。銀行名が書いてある。我が家とは取引がない銀行だ。いや、取引はあったのだろう。寿朗が、私に知らせず取引していたのがこの銀行だったのだろう。照子はそれをパンツのポケットに入れた。そしてカゴを元通りにした。
 最後に照子は、キッチンに置いた木製のスツールに座った。キッチンは照子の聖域であり、スツールは相棒でありこの家の中での唯一の味方だった。ここでこの椅子に座って栗(くり)を剥(む)いたりもやしのひげ根を取ったり、物思いに耽(ふけ)ったりし、必要なときにはキッチンから持ち出して踏み台にし、高いところでの作業をした――一度そういう作業を寿朗に頼んだら、ものすごい非難と説教とが返ってきたので、以来二度と頼まなかった。できれば持っていきたいくらいだ。
 食器棚の抽斗(ひきだし)から取り出した鳩居堂(きゅうきょどう)の便箋を、カウンターの上に広げる(つまりキッチンは、照子の「書斎」でもあったのだ)。書き残す文言を考えた。さようなら。それひと言で十分だと思えるが、深読みされて、いらぬ心配をされてあとが面倒になるかもしれない。
 さようなら。出ていきます。
 これならどうだろう。まだ深読みされるだろうか。私には出ていく場所なんてないと彼は思っているだろうから。もうちょっとあかるい感じ? グッドバイとか? さらに不安にさせるだろうか。寿朗は太宰治(だざいおさむ)なんて読んだことはないはずだけど。それに、彼との別れにグッドなんて形容詞は使いたくない。
 とにかく、私は死ぬつもりなんかない、ということはわかってもらわないと。警察に捜索願を出されるような事態になることは避けないと。自分は捨てられたのだということを寿朗にわかってもらわないと。外聞をごくごく気にする人間である寿朗に、警察沙汰にしたくない、周囲にも当分ひみつにしておこう、という心境になってもらわないと。
 照子は考え、最終的にこう書いた。
 さようなら。
 私はこれから生きていきます。
 そしてスーツケースを引っ張って、三十九年間暮らしたマンションのその部屋を――というか、四十五年に及ぶ寿朗との結婚生活を――出ていった。

 照子はハンドルを握っている。
 シルバーのBMW。寿朗の愛車だ。これを盗んだ(と、寿朗は思うだろう)ことはかなり気が咎(とが)めるけれど、この先は車がなければどうにもならないから、仕方がない。寿朗がゴルフをするときはいつも仲間のひとりが迎えにきて、彼の車に寿朗は乗っていく。そうすれば昼食のときにビールが飲めるからだ(迎えに来る人は下戸〈げこ〉らしい)。それを知っていたから、決行を今日にしたのだった。
 運転は手慣れたものだった。というのは、ゴルフの場合と似たような理由で、お酒を飲んだ寿朗を迎えにいくことがたびたびあったから。彼が定年になる前は週に三日は、新橋(しんばし)や銀座(ぎんざ)に向かって日付が変わる頃に車を発進させていた。寿朗が照子に免許を取らせたのは、そのため――と、週末の食料品の買い出しに自分が付き合わずにすませるため――だったと言っていい。私はこの車があまり好きじゃないけど、車のほうは、寿朗じゃなくて私こそがドライバーだと認識しているに違いないわ、と照子は思った。
 車に乗り込んだときに瑠衣にはこれから出る旨を電話していた。駅前のロータリーに、彼女がすでに立っているのが見えた。赤い大きなつば広帽子、黒と白のボーダー柄のニット、鮮やかなグリーンのパンタロン(瑠衣が好む形状のパンツについて、照子にはこの名称しか思いつかない)。大柄でグラマラスな体形やパーツのすべてが大きくて目立つ顔立ちは、イタリアやスペインの女優の晩年を思わせる。容姿も性格も、瑠衣と自分はすべてがきれいに真逆だと照子は思っていた。ちなみに照子は白髪の耳下までのボブヘアで、背丈は瑠衣と同じくらいだが幅は半分くらいしかなくて、顔立ちは和風で、ストライプの麻のシャツにゆったりしたチノパン、というのが今日の出(い)で立ちだった。
「瑠衣ー!」
 照子は車を停めて窓を開け、呼んだ。瑠衣はちょっとびっくりしたようだった――これまで照子が瑠衣と会うとき、車を使ったことはなかったから。瑠衣は助手席に乗り込んだ。荷物は小さな旅行鞄(かばん)ひとつだ。それは後部座席に置いた。
「おそい」
 というのが瑠衣の第一声だった。肉感的なその唇がきれいに朱赤に染められていることに、照子は感心する。
「電話してから十分もかからなかったでしょう?」
 ロータリーを出ながら言う。
「"あたし"が電話したのは一昨日じゃない。それから二日も待たせてさあ。この年で、ずうっと漫喫にいたんだから」
「まんきつ?」
「漫画喫茶! 安く泊まれるのよ、ビジホとかよりずうっと」
「びじほ?」
「ビジネスホテル!」
「なんでも略すからわからないのよ」
「わからないのは、あんたが箱入り奥様で、ビーエムを乗り回してるご身分だからよ。で、二日かけてご主人様の許可は下りたの? あたしはあんたんちに泊まらせてもらえるの?」
「ご主人様っていうのはやめてくれる?」
 複合ビル横の交差点の赤信号で、車が溜(た)まっている。瑠衣はちょっと黙った。悪かった、と思っているのかもしれない。照子と寿朗の関係については、よく知っているのだから。でも「ごめん」とは言わないだろう。それが瑠衣だ。
「まあ楽しみっちゃ楽しみだな。はじめてだからね、あたしが、あんたのその……連れ合いに会うの」
 連れ合いときたか。瑠衣にしては上出来だと照子は思う。
「会わないわよ」
 照子は言った。
「え? 彼、いないの? どっか行ったの? あたしが来るから?」
「違う。あの人がいる家には、戻らないの」
「え? どういうこと? じゃあ、どこ行くの?」
「長野」
 車が動き出した。照子は左にハンドルを切った。この道の先には、高速道路の入り口がある。

 道は空(す)いている。
 お盆はもう終わったし、今日は平日だから。快晴で、気温は高い。エアコンを利(き)かせた車内に、夏の最後の悪あがきみたいな日差しがじりじりと入り込んでくる。
 あっちで、お水は使えるのかしら。
 照子はそう考えている。というのは、瑠衣から少々ヘンな匂いがするからだ。臭い、というのでもない――何か人工的なフルーツの匂い。きっと「まんきつ」のシャンプーかボディソープの匂いだわ、と考える。もちろんそんなことを口に出したりはしない。「まんきつ」――それがどのような場所なのかはよくわからないけれど――で二日間もがまんさせてかわいそうだった、と思う。
「別荘持ってたなんて知らなかった」
 瑠衣が言う。この話は一度終わっていたのだが、やはりまだ気になるらしい。まあね、と照子は言った。
「いつ買ったの? 教えてくれたら遊びに行ったのに。今年も行ったの? 富裕層の夏ってわけね。またあたしに嫌味言われると思って、黙ってたのね」
 勝手に答えを考えてくれたので、照子は黙っていた。
「あーっ。せいせいする」
 瑠衣は両腕を伸ばした。車の中では帽子を脱いでいて、金色に近い藁(わら)色に染めたベリーショートの頭が上下に揺れる。
「狭っ苦しい車の中でも、ホームよりずっといい。息ができる。空気がおいしい」
「だから、やめときなさいって言ったのに」
 照子は反撃に転じることにした。
「老人ホームで暮らすなんて、瑠衣にできるわけないじゃない」
「老人ホームじゃないわよ、老人マンションよ」
 自分でホームと言ったくせに、瑠衣は訂正した。
「"老人"っていうところは同じでしょ」
 照子は言い返した。実際のところ、「老人ホーム」と「老人マンション」の違いが――瑠衣から再三説明されたけれど――いまだよくわかっていない。
「だってあたしたち、老人じゃん」
 瑠衣が口を尖(とが)らせる。「老人」は「ロージン」と聞こえ、そうするとなんだか、両手を前に上げて「うあ~」「うあ~」と呻(うめ)きながら徘徊(はいかい)するゾンビみたいなものが浮かんでくる。
「そんなこと思ってないくせに」
 照子が言うと、瑠衣はしばらく黙ってから「まあ、そうだね」と同意した。照子は笑い、瑠衣も笑った。
 照子はがぜん楽しくなった。いつもそうなのだ。瑠衣と一緒にいると、いつも楽しい。口喧嘩(くちげんか)をしているときでさえ、結局は楽しくなる。自分の暗黒の人生が、彼女の存在によってどれほど助けられてきたことか。
「気弱になってたことは認めるよ」
「信じられなかったわ、せっかく当たった宝くじを、老人ホームに入るのに使っちゃうなんて」
 当選金は十万円だった。それを初期費用の足しにして、瑠衣は老人ホーム――老人マンションだったか――の一部屋を賃貸する、という決断をしたのだ。やめときなさいと照子が言ったのは本当だが、そのときには瑠衣はすべての手続きをすませていた。
「楽しい場所じゃないとは思ってたけど、あそこまで楽しくないとは想像してなかった」
 瑠衣は前方を睨(にら)むようにして言った。その、楽しくなさすぎる出来事については電話でざっと聞いていて、照子は瑠衣同様に憤慨したり呆れたりしたのだが、もっと詳しく聞きたくてたまらない。もちろん、その先に繋(つな)がる武勇伝――瑠衣が老人ホーム(マンション)から逃げ出してくる理由となったこと――についても。
「思い知らせてやったって、何やったの?」
 現地に着いてからのことにしようと考えていたのだが、がまんできなくて聞いてしまった。瑠衣はちらっと照子を見、膝の上のまがいもののバーキンの中をゴソゴソ探った。
「これ」
 取り出して見せたのは口紅だった。瑠衣が蓋を開けると、磨(す)り減った赤いスティックがあらわれる。今日の瑠衣の唇と同じ色だ。
「これでさ、でっかいバツ印を書いてやったの。悪い奴らの部屋のドアに。なんだっけあれ、アラビアのロレンスじゃなくて……"ひらけゴマ"が出てくるやつ」
「アリババね!」
 すっかり嬉(うれ)しくなって照子は叫んだ。「アリババと四十人の盗賊」だ。盗賊がアリババの家を見つけてドアに印をつけたとき、モルジアナという賢い娘――あの娘は、アリババとはどういう関係だったかしら――が、近隣の家のすべてのドアに印をつけてアリババの家を隠したのだ。
「そうそう。それよ。隠したんじゃなくてむしろあいつらの悪事を知らしめるためにやったんだけどね。あいつらが盗賊みたいなものだったから」
「その口紅で! ドアに! バッテンを! それは逃げ出すしかないわね!」
 あははは、と照子は笑った。瑠衣といるとき、こんなふうに笑うことはよくあって、そのたびに新しい良い空気が肺に入ってくるような心地がした。
「あんたのその笑いかたは、あたしの好きなもののひとつだよ」
 瑠衣がニヤニヤしながら言った。あら! と照子は応じた。
「あたしにとっては、瑠衣そのものがあたしの好きなもののひとつよ」
「言うわね」
 瑠衣は照れて、肘で照子を小突いた。照子は再びあはははと存分に笑って、あたらしい空気を吸い込んだ。

(つづく) 次回は2021年11月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。