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  • 第十回 照子(2) 2022年3月15日更新
 クラス会。
 あれももう、四十年前のことになる。中学卒業以来、十五年ぶりの、はじめてのクラス会。照子(てるこ)と瑠衣(るい)は(もちろんほかのクラスメートたちも)三十歳になっていた。
 照子は気が進まなかった。クラスメートたちの現在への興味よりも、今の自分を知られたくない、という思いのほうが上回っていた。当時は瑠衣はまだ特別な友だちではなかったから、とくに会いたいとも思わなかった。でも、出かけていった。自分がクラス会に行きたくない状態であることを、受け入れたくなくて。会場は渋谷(しぶや)の居酒屋の個室で、十五人ほどがふたつのテーブルに分かれて座り、それぞれのテーブルの中央ではカセットコンロの上で寄せ鍋が煮えていた。なぜかあまり誰も手を出さぬまま――照子にしても食指はさっぱり動かなかったが――鍋の中身がどんどん煮詰まっていくのを、ぼんやり眺めていた記憶がある。
 そこで語られる各人の現在とは、つまりは会社の名前だった。男性の場合は勤め先、女性の場合は結婚した相手の勤め先。当時はまだ、女性のゴールは結婚だと思われている時代だった。照子が聞かれるままに、既婚であることと、寿朗(としろう)の勤め先の社名を明かすと、称賛の声が上がった。一方で、照子に子供がいないことを聞き出して、同情したり見下したりする者たちもいた。クラスメートたちは大人になったというより、いっそ人ではなく、彼らが口にする社名そのものに変身してしまったように照子は感じた。
 瑠衣と照子はべつべつのテーブルだった。襟ぐりが大きく開いた、体のラインを際立たせる真っ赤なニットワンピースという姿の瑠衣が、よく飲み、よく喋(しゃべ)っているのが照子のテーブルからも見えた。「旦那を捨てて男と駆け落ちしたらしいよ」と、口伝(くちづて)で瑠衣の現在が聞こえてきた。さすが森田(もりた)さん。森田さんらしいね。照子のテーブルの人たちは、それを聞いてそう言った(森田さんというのは瑠衣のことだ、そのときまで照子にとっても彼女は瑠衣ではなくて森田さんだった)。駆け落ち。そんなことができるのね。森田さんだからできたのね。私には到底無理ね。――というのが、そのとき照子が思ったことで、大意としては、ほかの人たちの感想とさほどは変わらなかったと言える。
 照子自身はアルコールに強いし、適量を飲んでいたのでほとんど酔っていなかったが、隣の席にいた塚本(つかもと)くんという男性が、最初から何かと照子に絡んでいたのが、酔うにつれてひどくなってきた。「優等生だって家庭に入ればただの奥さんになるんだよな」と言ったかと思えば、「結婚すれば一生食わせてもらえるんだから、女はいいよな」と言ったりして、照子はうんざりしながら適当にあしらっていた。一次会はお開きということになり、出口へ向かおうとした照子を塚本くんは追いかけてきて、二次会にも来るんだろうと言った。行かないと照子は答えた。すると塚本くんは「いいじゃん行こうぜ〜」と言いながら照子の肩に腕を回した。照子がゾッとして体を離すと、すでに足元が覚束なかった塚本くんは、はずみで尻餅をついてしまった。なにすんだよこのクソ女! 塚本くんの酔いに濁った怒声が店中に響き渡った。
 塚本くんは体を起こして照子の前に立ちはだかり三時間くらい怒鳴っていた――ように、照子には思えた。実際のところは、せいぜい三分くらいだったろう。気取ってんじゃない、食わせてもらってるくせに、何もできないくせに、酌くらいしろ。それらの意味の言葉に、いろんなバリエーションをつけ、「クソ女」を交ぜて、つまり、より汚い、耳に耐えない言葉にして怒鳴り続けた。照子は呆気(あっけ)にとられ、体が麻痺(まひ)して動かせないような心地になっていたが、そのことも含めて、はじめての経験ではなかった。寿朗が癇癪(かんしゃく)を起こすと、同じようなことになったから。私って、そういう人を引き寄せる何かを持っているのかしらと、怒鳴られながら照子は考えていた。家の中でも外でも同じ目に遭うということが情けなく、泣きそうになるのを一生懸命こらえていた。そのとき突然、視界から塚本くんが消えた。
 瑠衣が、塚本くんを突き飛ばしたのだ。塚本くんは再び尻餅をつき、ついでに観葉植物の鉢にぶつかって、偽物のベンジャミンを抱きかかえる格好で、それこそ呆気にとられた顔をしていた。照子は腕を掴(つか)まれていることに気がついた。掴んでいたのは瑠衣だった。行こう、と瑠衣は言った。照子は瑠衣に引っ張られるままに店を出た。ビルのエレベータに乗り、ビルの外へ。外は夜だった。ビル街の明かりを見て、美しい、と照子は思った。その夜の中にふたりは走り出ていった。あの夜の景色を、まるで夜というものをはじめて見たかのようなあのときの気持ちを、照子ははっきりと覚えている。
 そのあとふたりだけで「二次会」をした。瑠衣が馴染(なじ)みだというバーで。照子はこの店ではじめて、自分の結婚生活について他人に語った。人前で泣いたのもこのときがはじめてだった。自分のことで泣いたのではなかった。瑠衣が先に泣き出した。大泣きだった。照子はそのとき、瑠衣のために泣いたのだった。

 今日もいい天気だ――気温は、また一段と下がったようだけれど。
 釘(くぎ)を打つ音が聞こえてくる。瑠衣が早起きして、二階の雨戸の木枠が劣化してひどい有様になっているのを直しているのだ。照子にしてみれば――これまでの暮らしでは、外構の不具合はすべて業者を手配していたので――いったいどこをどうすればボロボロの雨戸がちゃんとした雨戸になるのか、見当もつかないのだが、瑠衣はこともなげに「こんなの生まれたときからやってるから」などと言うのだった。
 釘を打つ音は、いい音だった。もちろんこれまで、雨戸のような大物でなければ自分で釘を打ってどうにかした経験がないわけではないけれど、こんな秋晴れの朝に、同じ家で暮らしている人が釘を打つ音が聞こえてくるのはいいものだわ、と照子は思った。照子はといえば、小麦粉を捏(こ)ねていた。キッチンの床下収納庫の中に、大きな鍋を見つけたので、皿を組み合わせて蒸し器にして、肉まんを作ろうと考えている。今、自分は幸せだと照子は思った。この頃、何かにつけ強くそう思うのは、この幸せはいつまで続くだろう、ということを考えはじめたせいかもしれなかった。
「ふおおっ、い、し、い〜」
 蒸したての肉まんにかぶりつく瑠衣を見て、照子は目を細める。雨戸の修理は終わり、さっき外から見てきたが、木が剥(は)がれてバタバタと風になびいていた部分がきれいに修復されていた。
「たくさん作ったから、ジョージさんにもおすそ分けしようかしら」
 たくさん作ったからというより、会心の出来栄えだったから、照子はそう言った。先日のお礼をしなければとずっと考えていた。
「ジョージに! いいんじゃない、いいんじゃない! ぜひそうして!」
 肉まんの脂(あぶら)で唇をギラギラさせた瑠衣はさらに目をギラギラさせて叫んだ。その勢いに照子はたじろぎながら、「じゃあ今日、マヤに行くとき、一緒に行く?」と聞いた。
「ううん、行かない。今日は、まだいろいろ直すところがあるから。あんたひとりで会いにいって。肉まんの食べかたとか、あんたがこういうのチャチャっと作っちゃうこととか、よおくジョージに教えてやって」
 そういうわけでその日照子は、肉まんを入れたタッパーがわりの鍋を傍らに、ひとりで町まで車を運転していった――ジョージに対する瑠衣のあの熱意はなんなのかしらと訝(いぶか)りながら。「マヤ」へ行く前にジョージの店に立ち寄ることにした。店のドアは開いていたがジョージの姿はなかった。それで「マヤ」へ向かうと、店の前に彼はいた。
「ヤッホウ」
 とジョージは片手を挙げた。困ったような顔に見えるし、どこかいつものジョージらしくない。
「今、お店にうかがったところだったのよ。肉まんをお届けしたくて。マヤに来たところ? それとも帰るところ?」
 来たところだとジョージは答えた。それでふたりは一緒に店内に入った。
「あの。占い。お願いできますか」
 ジョージがそう言ったのは、それぞれテーブルに着き、依子(よりこ)さんにコーヒーを頼み、照子が席を立って肉まんの鍋をジョージに渡し、今すぐ食べるならこのままで大丈夫だけど、あとで食べるなら温めてね、電子レンジでも大丈夫だと思うわ、と説明し、ジョージが礼を言い、依子さんと源(げん)ちゃんが肉まんの作りかたについてわあわあ質問し、照子が今度教えることを約束し、自分のテーブルに戻った、そのすぐあとだった。もちろん、と照子は答えた。その時点で、「トランプ占い師の勘」によって、これは恋愛相談に違いない、とほとんど確信していた。
 その確信は大当たりだった。

 その日の夕方、照子は「マヤ」を出ると、スーパーマーケットで買い物をした。スルメイカが安く出ていたので、今夜はイカのお刺身にして、ゲソはサツマイモと切り昆布と一緒に煮ようと決めた。瑠衣は毎回、料理の感想を言ってくれるだけでなく、寿朗のような好ききらいがないから、献立を考えるのはずっと楽だ。
 車を発進させると間もなく、カーラジオから「あの素晴らしい愛をもう一度」が流れてきた。大学時代に流行(はや)っていた、照子が好きな歌だ。合わせて口ずさみながら運転した。さっきのジョージの様子や言葉のひとつひとつがよみがえり、我知らずニコニコしてしまう。
 毎日、彼女のことばっかり考えちまうんですよね。週に一度会ってるのに、別れるとすぐまた会いたくなるんです。これって恋ですかね? 俺は、どうしたらいいんでしょうか? だってこの歳で……いや、相手も若くないんです、俺より年上なんですよ。実年齢が、っていう意味で、彼女そのものは、俺よりずっと若々しくてエネルギーがあって、可愛い人ですけど。告白、するべきですかね? いやいや、告白してどうこうなろうとかじゃないですよ。ただ自分の思いを打ち明けたいという欲求があって。変ですかね? せっかく今、雇い主と歌手っていう関係でうまくいってるのに、ぶちこわしですかね? 
 歌が終わり、照子は声を出してクスクス笑った。あれで彼は、意中の相手を隠しているつもりだったんだから、傑作ね。「雇い主と歌手っていう関係」と言ってしまったのはたぶん話に夢中になるあまりの無意識で、決定的な情報を明かしてしまったということに本人は気づいていないみたいだったけど……。申し訳ないけど、あれで私だけじゃなくて、依子さんにも源太郎(げんたろう)さんにも、わかっちゃったわね。ジョージが瑠衣に夢中だっていうことが。
 もちろん照子のカードは――というか照子は――「自分の心に従うべし」という道を示した。瑠衣の反応はわからないけれど、誰かから想われるのはすてきなことだし、たとえ瑠衣にその気がないとしたって、以後のふたりの関係が悪くなるとは思えない。瑠衣はそこらへん、ちゃんとうまくやるはずだわ、と照子は思った。それに、瑠衣がジョージを憎からず思っているのは間違いないし、うまくいく可能性のほうが高いわ。そうよ、瑠衣はまだあんなにエネルギーに満ちていて、若々しいし可愛いし、雨戸だって直せるんだから、もう一度恋をするべきだわ。あの素晴らしい愛をもう一度、よ。

(つづく) 次回は2022年4月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。