井上荒野
恥の多い生涯を送って来ました。 『人間失格』の「第一の手記」は、そういう文章ではじまっていた。 ほほう。恥の多い生涯とな。どういう生涯なんだろうね。瑠衣(るい)はそう考えながら、しばらく読んだ。そして静かにページを閉じた。「人間の生活というものが、見当つかないのです」とか、「空腹という事を知りませんでした」とか――あまり参考になりそうにない。最後まで読めばなにかしらはわかるのかもしれないが、なんだか陰気くさい文章で、読み続ける気にならなかった(実際のところ、瑠衣もジョージに負けず劣らず「読書家」とは到底名乗れないタイプである)。明日、ジョージに返そう。そう決めた。 隣で照子(てるこ)が小さく唸(うな)った。瑠衣はナイトテーブルの上のろうそくを吹き消した。寝つきがいいことには自信があって、いつもはベッドに入るとすぐに寝入ってしまう――「横になってから一分かからないわよね」と照子から呆(あき)れたように言われる――のだが、今夜は照子の寝息が聞こえてきても、瑠衣はなぜか眠れずにいた。それで常備してあるろうそくに火をつけて――電気が使えないというのはロマンチックかつ不便なことだ――、ジョージから借りた本をめくっていたのだった。 瑠衣は暗闇の中で目をぱっちり開けて、天井を見つめた。小さなシェードが三つついたランプのかたちが、ぼんやりと見える。あたしたちがここに来てから一度も明かりを灯(とも)されたことがない、かわいそうなランプ。瑠衣はそう思い、それから、七十歳か、と突然思った。よくまあ生きてきたよね、と。その思いには、自分の逞(たくま)しさに驚く気持ちと、呆れる気持ちがあった。十二月になれば七十一歳になる。そしてあたしと同じ誕生日のあの子は、四十九歳だ。生きているとして、だけれど。生きているに決まってるじゃない、と瑠衣は自分の頬を叩(たた)くようにして思ったが、実際のところ、あの子がすくすく成長して無事に四十九歳を迎えられるのか、それとも不慮の事故とか病気とかでもはやこの世にいないのか、それすら自分は知らないのだ、ということに呆然(ぼうぜん)とした。 『人間失格』は瑠衣のほうから言い出して借りた。あんたがどんな本を読んでるか興味があるのよ、と言ったらジョージはなぜか異様に嬉(うれ)しそうな顔になって、貸してくれた(『人間失格』は読破したそうで、「深いよ」と、悪いけどいかにも浅い調子で言っていた。ちなみに今は、『痴人(ちじん)の愛』を読んでいるらしい)。実際には、ジョージが読んだ本だから自分も読んでみたかったわけではなくて、タイトルのせいだった。自分のことを「人間失格」だと思っていた時期が瑠衣にはあったからだ。いや、今はそう思っていない、というわけではない。ただ、思い出さないようにする技術が少し上達しただけだ。 『人間失格』を膝の上に置いて、瑠衣は照子のBMWの助手席に座っている。 今日は土曜日で、瑠衣の出勤日なのだが、照子が買い物をしたいと言うので、早めに出てきた。 「それ、中学生のときに読んだわ」 照子が言う。今日も寒くて、ふたりとも例のダウンジャケットを着込んでいる。瑠衣としては出勤の日くらい、お気に入りのフェイクファーのコートを着たいのだが、別荘地内同様に、町でもなるべく目立たないようにしたほうがいい、と照子が言うのでしぶしぶ従っている――あんたがトランプ占い師で、あたしがシャンソンを歌ってる件はOKなわけ? と抗弁してみたのだが、「私たちの仕事は、瑠衣のコートよりずっと目立たないわ」と言い返された。とはいえ蛍光ピンクのダウンの下に今日着ているのは豹柄(ひょうがら)のニットワンピースなので、ロングコートで全身を覆っているより目立つようにも思えるのだが。 「読書感想文の課題図書だったんじゃないかしら。瑠衣も読んでるはずよ」 「マジ? 全然、覚えてない」 「読まないで書いたんじゃない?」 「ありえるね」 「ワザ、ワザ、っていう子が出てくるのよね。ワザ、ワザ、って、しばらく流行(はや)ってたじゃない」 瑠衣は肩をすくめた。それもさっぱり記憶になかった。ようするにあの頃、自分と照子は同じクラスにいてもまったくべつの世界で生きていたということだろう。 それで、ちらちらと照子を窺(うかが)った。赤いダウンに、白いクルーネックのセーター、ベージュのコーデュロイのワイドパンツ。セーターの首元には黄色と紺のストライプのハンカチがさりげなく巻かれている。何を着ても上品でセンス良く見えるのが照子だ。なんであたしたち親友なんだろうね、と瑠衣はつくづく不思議になる。 スマートフォンにメッセージが届いた。通信会社からの「おすすめのお得プラン」の通知だった。どのくらいお得なのかと読んでみたが、なにやら複雑なことが書いてあり、途中でやめた。 「そういえば、あんたの通信料はあんたが払ってるの?」 ふと思いついてそう聞くと、「ううん」と照子は憂鬱そうに首を振った。 「家族割っていうの? そういうので加入してるから、夫の口座から一緒に引き落とされてるの。いやなんだけど、夫じゃないと手続きできないみたいで」 「そっちから居場所がばれたりする危険はないわけ?」 「ないと思うわ。あっ、そうだ、通信料が引き落とされてれば、私が無事でいることはわかるのよね。その点ではいいかも。私が自分の意思で帰らないんだってことがわかるものね」 「通信料くらい、バカ夫に払わせておけばいいよ」 瑠衣はそう言って笑ったが、実のところ、ほんの少し胸がチクチクしていた。家族割か、と思っていた――なんだかんだ言って、照子とバカ夫とは、「家族割」に加入するくらいの家族ではあったんだよね、と。 自分だって、曲がりなりにもそういうものを持っていた時期があった――しかも、二回――けれど、あれらはなんというか、家族未満だった。っていうか、ちゃんとした家族になる前に、一度めは自分がぶち壊し、二度目はパートナーが死んでしまった。あの頃は携帯電話なんてものはなかったから、もちろん家族割もなかったけれど、もし携帯やスマホがあの頃にあったとしたって、家族割に加入するヒマもなかった、というところだ。 車はスーパーマーケットの駐車場に入っていく。隣接する、農具などを扱う店舗の表で、薪(まき)が売られているのだった。十本ほどが束になっていて、「ナラ」と「雑木(ざつぼく)」の束がある。「ナラ」はひと束五百円で、「雑木」は少し安くて四百五十円だった。雑木を六束買うことにした。六束というのは金額の問題ではなく、BMWのトランクに積み込むのにはそれが限度だからだ。 「あらー。こんにちは」 会計を済ませ、猫車を借りて店頭から車へと薪を運んでいると、軽やかな声がかかった。誰だっけ。瑠衣は一瞬、考えた。 「カモシカ!」 思わず声に出してしまった。散歩の途中で会った人だ。 「ウフフ、そう、カモシカ。カモシカばあさん」 女性は嬉しそうに言った。この前別荘地内で会ったときと同じ、焦げ茶色のざっくりしたコートを着ているが、今日は頭にちょこんと緑色のベレーを載せていて可愛らしい。 「薪、いつもここで買ってらっしゃるの?」 瑠衣はちらりと照子を窺う。同じ別荘地の住人であるこの女性に、どう答えるのがいちばん危険がないか。 「いつもは知り合いに融通してもらってるんですけれど、次回までにちょっと足りなくなりそうなので、間に合わせに……」 ほほほと笑い返して、照子が答えた。うんうん。答えてるようで答えてない答えだね、と照子は心中感心する。 「薪を買うなら、個人の薪屋さんから買うのがいちばんお安いわよ。軽トラの荷台いっぱいに積んで運んできてくれるから、いちいち買いにいく手間もないですよ。その車じゃ、いくらも積めないでしょう? よろしければ、うちが頼んでいる薪屋さんをお教えしましょうか」 「ありがとうございます。来週あたり知り合いの薪が届くと思いますので……」 「あら、そうなんですね。何かお困りのことがあったら、いつでも声をかけてくださいね。何しろほら、私は古株なので、いろいろお役に立てると思いますので」 「ご親切に、ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします」 「そのベレー、とっても素敵ですね」 自分も何か言わなければと焦って瑠衣はそう言った。まあ、ほほほと、カモシカばあさんは笑う。 「おふたりもとっても素敵。今度お洋服のお話でもいたしましょ。私、烏兎沼(うとぬま)と申しますの。烏(からす)に、兎(うさぎ)に、沼、と書いて、ウトヌマ。家は池のそばのB150です」 今日こそあたしたちも名乗らないわけにはいかないだろうか。緊張が走ったが、それじゃ、ごきげんようと、カモシカばあさんことウトヌマさんは立ち去っていった。スリリングかつなんとなく不可思議なひとときだった。 「ね、ウトヌマさんって、ちょっとあんたに似たところあるよね」 車が走り出すと、先ほどの印象を、瑠衣はそんなふうに口に出した。 「あら。私は、瑠衣に似たところがあると思ってたわ」 照子はちょっとびっくりしたように、そう答えた。 「マヤ」のドアにはリースが掛かっていた。マーガレットに似た白い小花と、黄色いリボンがあしらわれた、乙女チックな感じのもの。クリスマスの飾りつけだとしたら、ずいぶん気が早いことだね、と瑠衣は思う。 「わー、瑠衣さん! 照子さん! いらっしゃい!」 いつものように熱烈に歓迎されて、瑠衣は例によって「うわあっ」となった。源(げん)ちゃんと依(より)ちゃん、このふたりはまったく愛すべきふたりだし、人の好ききらいが激しい自分でも、大好きだと思えるふたりなのだが、どうして毎回「うわあっ」となるのだろう、と瑠衣は不思議になる。 「今日、おふたりが来ればいいなって、依子(よりこ)と話してたんですよ。ねー」 「ねー」 ふたりはニコニコしながら口々に言った。 「リース見ました?」 見た、と瑠衣と照子は答えた。 「あれ、お祝いに源ちゃんが買ってくれたんです」 「ほんとはもっとでっかい花輪を置きたいくらいだったんですけど」 何のお祝い? と瑠衣と照子は聞いた。 「私と源ちゃんに」 「子供ができましたあ」 瞬間、瑠衣の「うわあっ」は最高潮になった。 そのあとはお祝いの言葉と質問と詳報の応酬になった(今日も今日とてほかに客がいないので、気兼ねの必要もなく)。三日前に妊娠検査薬でプラスが出て、昨日病院に行って診断されたから、間違いない。現在妊娠六週で、予定日は六月二十七日。それらの情報が公開され、その度に歓声が上がった。 もちろん瑠衣も、叫んだり飛び跳ねたり依ちゃんに抱きついたり源ちゃんと握手したり、「男の子と女の子、どっちがほしい? このこのー」と源ちゃんを肘でつついたりした(「どっちもほしい」という答えだった)。若いふたりと新しい生命のために嬉しく思う気持ちに嘘(うそ)はなかった。ただ、「うわあっ」は瑠衣の中で荒れくるって、その結果なぜか、目の前のおめでたくてハッピーな光景の向こうに、瑠衣はべつの光景を見ていた。 自分の笑い声を、まず思い出す。 耳障りな声だった。うるさいな、黙れ、と自分自身に腹を立てながら。あの日の瑠衣は笑い続けていた。 十五年ぶりにクラス会が開かれるということを、瑠衣は偶然知ったのだった。新橋(しんばし)のクラブに歌いに行く前、ちょっと時間があったので三越(みつこし)をぶらついていたら、「森田(もりた)さんじゃない?」と声をかけられた。しばらく立ち話するうちに、中学で同じクラスだった女子だと思い出した。瑠衣から見れば何事もそつなくこなす感じの「主流派」に属している子だったから、中学時代はもちろん交流はなかった。 「クラス会のお知らせ、届いた?」 彼女の両手に、三歳くらいの男の子と、五歳くらいの女の子の手が繋(つな)がれていた。子供たちが動くせいで彼女も始終グラグラ揺れていたけれど、家来を従えているみたいでもあって、何だか妙に強そうに見えた。クラス会の知らせは届いていなかった。瑠衣の波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生に、ハガキが追いつかなかったのだろう。教えてくれてありがとう、行くよ、絶対行く、と瑠衣は、ラズベリー色の口紅を塗った唇をぎゅうっと動かして笑顔を作った。 それはただの社交辞令だった。クラス会に行くつもりなど毛頭なかった。中学時代にもあのクラスにも、何の思い入れもなかったから。けれども教えられたその日が近づくにつれ、行かなければならないような気持ちになってきた。行かないと、あの強そうに見えた子に負かされたことになる、となぜか思った。その点では――あとからわかったことだが――照子がクラス会に来た理由とほとんど似たようなものだった。 当日、瑠衣は、ときどきステージ衣装にすることもある、体の線をバッチリ見せつける赤いニットワンピースに、カラフルな玉を繋げたネックレスを幾重(いくえ)にも巻き、ラズベリー色の口紅をいつもの一割り増しくらいこってり塗って唇を大きく見せて、クラス会に参戦した。そしてずっと笑っていた。聞かれれば、何でも答えた――全部は答えなかったけれど。最初の結婚をしているときに大恋愛して駆け落ちした。それだけしか明かさなかったし、それ以後のことは言わなかった。 会の終わりに照子を助けたのは、彼女に絡んでいた酔っ払い男が喚(わめ)き散らしている汚い言葉にがまんできなくなったからだったが、そいつ――中学時代から、面と向かっては何も言えないくせに、廊下などで瑠衣とすれ違うたびに舌打ちするいやなやつだった――を突き飛ばした瞬間に、瑠衣の中で何かのタガが外れた。照子を連れて店を出て、宮益坂(みやますざか)のビル地下にある薄暗いバー――そこのウェイターが、ときどき瑠衣の歌を聴きにくるという縁があった――のボックス席に並んで座って、照子がポツポツと彼女の暗黒の結婚生活について話すのに憤怒(ふんぬ)の声を上げているうちに、そのタガはいよいよ外れてきて、気がつくと目の縁(ふち)に涙が盛り上がっていた。 「森田さんみたいに、駆け落ちでもできればいいんだけど。そういう相手も、勇気もないのよね」 瑠衣の目から水滴がテーブルの上に落ちたことには気づかない照子が、そう言った。 「駆け落ちした人、死んじゃったんだ」 瑠衣は言った。あらたな涙がテーブルに落ちて、今度は照子も気がついた。 「死んじゃった?」 「去年。交通事故で。ばっかみたい。四年しか一緒に暮らしてないんだよ。あたし、夫も子供も捨ててきたのに」 「子供? 森田さん、子供がいるの?」 うわあああんと、瑠衣は泣いた。人前で泣いたのも、冬子(ふゆこ)のことを明かしたのも、そのときがはじめてだった。(つづく) 次回は2022年4月15日更新予定です。
東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。