井上荒野
冬子(ふゆこ)。 冬に生まれたから冬子。瑠衣(るい)が提案して、最初の夫だった人が、賛成した。あの頃は幸せだった。夫のことはそろそろ物足りなくなっていたのだが、きらいになったわけではなかったし、子供の父親と母親として、うまくやっていけるだろう、と思っていた。 その考えがそもそも間違っていた。夫は瑠衣が自らに課す以上に、瑠衣を母親にしたがった。子供は可愛かったが、夫の言うことなすことに瑠衣は苛立(いらだ)つようになった。ジャズベーシストに惹(ひ)かれたのは、今考えればそのせいもあったのかもしれない。 駆け落ちしたとき、冬子は四歳になっていた。もちろん連れて行くつもりだった。だが、約束の夜には夫の両親が家にいたのだった。訪ねてくることを突然知らされ、どうしようもなかった。義父と義母は冬子を離そうとせず、娘はおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に寝ることになった。こっそり家を出ていくことだけで精一杯で、娘を連れ出すことができなかった。あとで迎えにいくつもりでいたが、出奔(しゅっぽん)後は、夫も夫の両親も、冬子を瑠衣に決して会わせようとしなかった。 しばらくの間は、娘を奪取する計画をあれこれと練っていた。でも、その決意は、日々が過ぎるとともに揺らいでいった。自分がしでかしたことを後悔するとともに、娘にどう思われているかが不安になった。こっそり連れ出しに行ったら、おとなしくついてきてくれるだろうか。行きたくないと言われるのではないだろうか。抱き上げたとたんに、悪漢にさらわれるみたいにぎゃあっと泣き出したりしたらどうしよう。 行動を起こせないでいるうちに、ベーシストが死んだ。そのダメージから立ち直り、日常生活と仕事にどうにか戻ったときには、娘にかんする気力はすっかり失われていた。その頃住んでいた西荻窪(にしおぎくぼ)のアパートから徒歩五分ほどの場所で、自転車で帰宅途中だったベーシストが車道から歩道に乗り上げようとして転んで、後ろから来た運送店のトラックに轢(ひ)かれて死んだのは、自分のせいのような気がしていた。娘を取り戻すともっと悪いことが起きるように思えた。あたしは人間失格なんだ。そんな母親の元であの子は育つべきじゃない、と思っていた。 「今日はイイコトがありました」 その日の、ジョージの店でのステージを、そんな言葉で瑠衣ははじめた。 「どんなイイコトかはまだひみつですけど。気分がいいので、アゲアゲでいきます」 一曲目は「オー・シャンゼリゼ」にした。まさにアゲアゲな曲だ。源(げん)ちゃんと依(より)ちゃんの了解をとって、ジョージにもおめでたのことを伝えたので――というかあのふたりは、世界中の人に知らせてOK、という様子だったが――ジョージもアゲアゲのノリノリでギターを弾(ひ)いた。客席には照子(てるこ)もいて、嬉(うれ)しそうに手を叩(たた)き、「オー・シャンゼリゼー」のところは口をいっぱいに開けて一緒に歌っていた。今日はイイコトがあったから、お祝いにちょっと飲みたい、と言い出したのだ。源ちゃんと依ちゃんも一緒に来たそうだったが、妊娠がわかって断酒を決意したばかりなので、今日はやめておく、とのことだった。 でも、どうにも調子が悪かった。さっぱり気分がアゲアゲにならない。 頭の中に浮かんでいるのはシャンゼリゼ通りでもなければエッフェル塔でもなく、佐世保(させぼ)市内のアーケード街だった。駆け落ちの日の前日、冬子の手を引いて買い物に行ったのだ。季節は早春で、もったりした空気に沈丁花(じんちょうげ)の匂いが混じっていた。冬子はラーメン屋のおでんを食べたがった。あの町ではなぜかラーメン屋に必ずおでんが置いてあって、温めた鍋の中に串に刺した卵や大根や練り物が入っていた。それを食べるというより選ぶのが冬子は好きだった。昼食を食べて来たばかりだったのに、ラーメン屋の前でおでん、おでんと泣いてぐずるので、仕方なく店の中に入り、顔見知りのおじさんに笑われながら、おでんを一本買った。冬子が選んだのは――じっくり迷った末に、たいていいつでもそれを選ぶのだけれど――うずらの卵が三つ刺さった串だった。危ないから瑠衣が持って、歩きながら食べさせた。はい、お口を開けて。うずらの卵に向かって突き出された小さな唇。繋(つな)いだ小さな手から伝わってきた、生意気なほどちゃんとした体温。これが娘と過ごす最後の日になるなんて、思ってもいなかった。 次のイントロがはじまる。打ち合わせ通り「夢見るシャンソン人形」だ。これは日本語で歌う――というか、その昔、この歌を日本でヒットさせたダニエル・ビダルっぽく歌って、盛り上げる。瑠衣は可愛らしく体を動かしながら、舌ったらずの甘い声で歌いはじめた。 「ババア無理すんなー」 客席から声が上がった。今夜の客は、カウンターの端に慎ましく座っている照子のほかに、テーブル席にふた組。最近よく来てくれるようになった、町内にある精密機器メーカーの男性社員四人と、もうひと組ははじめて見る顔の男性三人組だった。精密機器グループは三十代から四十代、はじめてのほうは五十代から六十代と言ったところか。声を上げたのは、六十代に見える男だった。 「よけいなお世話ー」 曲に合わせて瑠衣はかるく応じた。長年歌っていればもちろん、こういうヤジは経験済みで、その場合の応答としては「ご忠告どうもー」と「よけいなお世話ー」のふた通りを用意してあるのだが、「よけいなお世話ー」は、機嫌が悪いときに採用することが多かった――というか、この応答を返すと、瑠衣は自分のメンタルがちょっと不調であることに気づくわけだった。彼らはステージがはじまる前から飲んでいて、かなり調子を上げていた。酔っ払いというものに対して瑠衣は原則的に、世間の人よりずっと甘いけれども、この三人にかんしては、その時からなんとなくいやな予感もあった。 「聞き苦しいっつってんだようー。やめろやー」 男がまた声を上げた。余裕を見せて、半笑いの口調だが、さっきの「よけいなお世話ー」に自尊心が傷つけられて腹を立てていることが経験上、瑠衣にはわかる。しまった。「ご忠告どうもー」でごまかすべきだった。面倒を呼び寄せてしまった。男の連れの二人は、ニヤニヤ笑ってはいるが、やや居心地悪そうにしている。 空気が悪くなってきた。「どうする?」という顔でジョージが見上げる。精密機器グループは動かなくなった。体を硬くし、やっぱり目だけで「どうする?」と窺(うかが)い合っているのだろう。そしてカウンターの照子はといえば、窺うのではなく、キッとした強い視線でこちらを見ている。その視線をヤジ男のほうにも向ける。怒っていることが伝わってくる。あっ、立ち上がろうとしている。今日は例の刺青柄(いれずみがら)のアームカバーは装着してないだろうけれど、あのサービスエリアのときと似たようなことをやりかねない。 「はいはーい」 瑠衣はジョージに目で合図して、伴奏を止(や)めさせた。 「じゃあ何かリクエストございます? エディット・ピアフでもイブ・モンタンでも、何なりとお好みを……」 「八代亜紀(やしろあき)!」 男はがなった。なるほど、そう来るわけね。瑠衣はげんなりしたが、もちろん顔には出さなかった。「舟唄(ふなうた)」が弾けるかとジョージに聞いた。ジョージは頷(うなず)いて、弾きはじめた。 「お酒はぬるめの〜〜」 ダニエル・ビダルになりきることができるのだから、八代亜紀にもなりきれる。瑠衣はこぶしを利(き)かせて歌い出した。カラオケ・タイムはなんでもありだから、客の求めに応じて歌謡曲や演歌のデュエットの相手をすることもある。それを今やっているのだ、と考えることにした。 「やればできるじゃねーか! いいぞーババア!」 機嫌が直ったらしい男に向かってニッコリ微笑んで頭を下げて、瑠衣はステージから客席に降りた。まずはカウンターの照子に近づき、「しみじみ〜飲めば〜」とサビを歌い上げながら、どうどうというふうに背中を叩(たた)いた。照子は瑠衣を見上げた。その顔がひどく悲しげであることに心が痛んだ。瑠衣は唇をぎゅっと動かして笑顔を作った。 友だちはすばらしい。というか照子が友だちであることはすばらしい。照子の存在――あたしが生きているこの世界に、照子も生きているという事実は、間違いなくあたしを励ますけれど、でもときどき、脅(おびや)かされることもある、と瑠衣は思う。照子はときどき鍵になる。その鍵であたしは、今まで知らなかった場所、行ったことがない場所、行きたくても行けなかった場所、行く勇気がなかった場所へ行けるけれど、その鍵は、あたしが見ないふりをしてきた場所に通じるドアも、するりと開けてしまうからだ。 「ねえねえ、それ、着てみていい?」 翌朝、散歩に出るとき、瑠衣は言った。自分でもなぜそんなことを言ったのかわからない。 「いいわよ。でも……」 その先は言わずに、照子はすでに羽織っていたダウンを脱いで、瑠衣に渡した。その先はたぶん、「でも、窮屈なんじゃない?」と言いたかったのだろう。 瑠衣は照子の赤いダウンに袖を通した。Lサイズの瑠衣にMサイズの照子のダウンはたしかに窮屈だった。でも、着られないことはない。 「今日はダウンを交換しない?」 照子は不審げに瑠衣を見た。が、質問はせずに「いいわよ」と頷いた。照子が瑠衣のピンクのダウンを羽織ると、その色と照子の体形に対するボリュームとが相まって、奇妙な動物の着ぐるみみたいに見えた。 今日は天気が悪い。曇天にしても、妙に暗い。一段と冷え込んだ感もある。降りそうね、と照子が言い、だね、と瑠衣が返したきり、ふたりは黙々と歩いていた。昨日の「ジョージの店」でのことを、照子が思い出しているのが瑠衣にはわかった。瑠衣自身もそうだったから。 結局昨夜はあれから、延々、演歌を歌わされたのだった。「舟唄」のあとは「北の宿から」「越冬つばめ」「なみだの操(みさお)」……と続いた。あの男と、瑠衣同様にあいつの機嫌をとる必要があるらしい連れたちが、矢継ぎ早にリクエストを繰り出したのだ。見かねたらしい精密機器グループが一度「さくらんぼの実る頃」というシャンソンの名曲をリクエストしてくれたが、瑠衣がそれを歌いはじめると再び男のヤジがはじまったので、彼らはげんなりした様子で帰ってしまった。それで瑠衣はいよいよ、男の要求を受け入れざるを得なくなった。男に逆らって彼らまで店から出ていってしまったら、ジョージに申し訳ないと思ったのだ。そのジョージは、伴奏しながらあいかわらずちらちらと瑠衣を窺っていて、どうするべきか悩んでいるふうだった。瑠衣は例によって唇をぎゅっと動かして、彼を安心させた。客商売としてはがまんのしどころだと考えた。若い頃ならこういう場合、男を追い出すか場合によってはそうする前に自分がマイクを叩きつけて店を出ていっただろうが、今はもう若くないし、お金もあの頃よりさらにない、と。 そして、照子はおとなしかった。もう腰を浮かしたりはせず、悲しい顔のままじっと、演歌を歌う瑠衣を見つめていた。その夜、一緒に帰るときも、ジンフィズ三杯も飲んじゃったわとか、源ちゃんと依ちゃんは本当に良かったわねとか、そんなことは喋(しゃべ)ったが、その夜の出来事については一言も口にしなかった。何よりもそのことで、瑠衣は自分の足に鉛の玉が鎖で繋がれているような気分になっていた。 道のずっと先に人影があらわれた。あれはたぶんウトヌマさんだ。瑠衣と照子は、どちらからともなく、ちょうど差しかかった角をすいっと曲がった。散歩なのだから、角を曲がることだってある。照子ともっと何か喋りたい、喋るべきだと瑠衣は思っていたが、照子以外の人とは喋りたくなかった。 照子が肩を上下させて、「重いわ、これ」と呟(つぶや)いた。(つづく) 次回は2022年5月1日更新予定です。
東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。