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  • 第十三回 照子(1) 2022年5月1日更新
 昨夜からはちみつに漬けておいた大根は、いい具合にしぼんでいた。そのシロップを照子(てるこ)はグラスに注ぎ、お湯で割った。
「飲んでみて。少しでも効けばいいけど」
 薪(まき)ストーブの前にぺたりと座っている瑠衣(るい)に手渡す。瑠衣は無言で受け取り、ちびちびと飲んだ。うん、いい感じ。照子を見上げてそう言ったが、その声はあきらかに掠(かす)れているし、表情もあまり「いい感じ」には見えなかった。数日前から瑠衣は喉の不調を訴えていて、違和感や痛みが悪化しているようだ。
「風邪じゃないのよね?」
 照子も瑠衣の隣に座った。十一月の最後の週に入って、寒さはなかなか厳しくなり、家の中ではストーブの前にいることが多くなった。薪を節約しているせいもあるのだろうが、この家はどうやらサマーハウスとして建てられていて断熱効果があまり高くないようで、ものの本にあるように「薪ストーブだけで家中がポカポカ」というわけにはいかない。
 午前十時、朝食はもう終わっていたが、瑠衣はカフェオレを一杯飲んだだけで食欲はほとんどないようだった。
「風邪じゃない。職業病みたいなもん。でも大丈夫、前も同じようになったことあるし。ほっといたらそのうち治ったし」
 全然大丈夫ではなさそうな様子で瑠衣は言った。部屋着と寝間着兼用のスウェットの上下に、オレンジ色のモヘアのセーターを重ねている。
「こないだ演歌を歌いまくったのがよくなかったんだよね、へんなふうに喉使っちゃって」
「そうよ、あれがよくなかったのよ」
 その件については照子はずっと「よくなかった」と思っていたので、思わず語気が強くなった。
 瑠衣は肩をすくめる。満を持して、あの時の男のことを機関銃みたいな勢いで瑠衣が罵倒(ばとう)するのを照子は期待するが、瑠衣は黙っている。
「そういえばさ、あのオヤジ、あれからまた来たんだよね」
 何を言うのかと思ったらそんなことを言ったので照子はびっくりした。なんですって? また来た? なぜ今まで黙っていたのだろう。
「……それで? また演歌を歌わされたの?」
「ううん。うるさくリクエストしてきたけど、今度はシャンソンばっかりだった。前回とはべつの人たちと来てて、自分がシャンソンに詳しいって自慢したかったみたいね」
「ほんっとにイヤな人ね、あの人。私ああいう人大きらい。ジョージさんもジョージさんよ。あんな人、追い出してしまえばいいのに」
「まあ、客商売だからね。あのオヤジってそれなりに影響力ありそうだし」
 瑠衣は照子をいなすように言い、照子は目を剥(む)いた。瑠衣の言葉とは思えない。影響力? 影響力ですって? そんなものがあるとして、だからどうだというのだろう。
「瑠衣……あなたそうとう具合が悪んじゃない?」
「大丈夫だってば」
 うるさそうに瑠衣は言った。その手は床の上のラグ——押入れの奥から見つけ出した、すっかり色褪(あ)せたペルシャ模様のボロ——の毛を、ぶちぶち抜きはじめた。
「あいつ、隣の別荘地の住人なんだよ」
「やだ。そうなの?」
「定年してから夫婦でこっちに定住してるんだって。もうすぐ奥さんの誕生日なんだって。同じ別荘地の定住者を家に呼んで、毎年盛大に誕生日パーティをやるらしいよ」
 照子は眉をひそめて黙っていた。あの男のことなど知りたくもない。どうして瑠衣はこんなことを私に話すのだろう。
 瑠衣はラグをむしり続けている。
「……でね、あたしに、その誕生日パーティに来て、歌ってくれないかって言うんだよね」
「はああ?」
 照子は声を上げた。「はあ?」という応答はテレビで若い人がよくやっていて、寿朗(としろう)も頻用していたが、照子は大きらいだった。だが今、それの一割り増しバージョンというべきものが、我知らず口をついて出た(人は本当に呆〈あき〉れると、「はあ?」と言ってしまうものなのね、流行〈はや〉り言葉みたいに思っていたけど、「はあ?」はそもそも人間の感情の自然な発露だったのかもしれないわね、と照子は瞬間、考えた)。
「よくもまあそんなことを。どこまでバカにすれば気がすむのかしら」
「でも、一時間で五万円出すって言うんだよ」
「はあああ?」
「あたし、引き受けようと思ってるんだ」
 照子は呆気(あっけ)にとられて瑠衣を見た。今度は声も出なかった。それまで、叱られている子供みたいだった瑠衣が、きっとした顔になった。
「だってお金は必要でしょ。薪代稼がなきゃならないでしょ。お金稼ぐためには、多少のいやなこともがまんしなくちゃ。生きていくってそういうことでしょ」
「……そういうことなの?」
 照子は混乱しながら、かろうじてそれだけ呟(つぶや)いた。瑠衣の顔がまた一段階険しくなった。
「照子にはわかんないのよ。なんだかんだ言ったって、小さいときからついこの間まで、お金の苦労なんかしたことなかったんだからさ。食うために働くなんてこと、したことなかったんだから。ていうかそもそもあんた、働いたことないじゃん」
 瑠衣の口調は今こそ機関銃のようだった。その勢いで攻撃しているのは、あの失礼な男ではなくて照子なのだった。照子はわけがわからなくなった。
「……あるわよ、働いたこと」
 かろうじてそう言い返したが、椎橋(しいはし)先生のアシスタントをしていたときのことは、労働の記憶ではなく恋の記憶だったから、その口調は弱々しいものになった。瑠衣も、あれが「働いたこと」だとは認めてくれないだろう。
  でも、瑠衣はそう言うかわりに、ひどく咳(せ)き込んだ。
「あたし、ちょっと寝るから」
 掠れた声でそう言い捨てて、瑠衣は階段を上っていった。

 瑠衣の姿が見えなくなると、照子は立ち上がり、ソファに移動した。
 部屋の中は一段と寒くなった気がした。それに薄暗い。今日は気が滅入
(めい)るような曇天だ。昼間なのに、ロウソクかカンテラを灯(とも)したくなるほどの暗さだったが、それらの明かりを灯すといっそう気が滅入るように思えた。
 ソファの端に置いてあったバッグの中から財布を取り出し、中身をあらためた。千円札が四枚。それに小銭がいくらか入っている。
 もちろん、これが全財産というわけじゃない。口座の貯金はまだそんなには減っていない。年金も入ってくる。でも、増える、ということはない。入ってくるより出ていくほうが多いからだ。そのスピードは思っていたよりも速い。収入は年金のほかに、瑠衣が歌で稼いでくれるお金があるけれど、実のところ、そのスピードにはほとんど影響していない。ましてや私のトランプ占いの報酬——これまでで総額三千円——なんて、焼け石に水どころか、焼け石に蚤(のみ)の脂汗(あぶらあせ)といったところだ。
 照子にはわかんないのよ。
 食うために働くなんてこと、したことなかったんだから。
 ていうかそもそもあんた、働いたことないじゃん。
 瑠衣の言葉がよみがえった。瑠衣の言う通りだと照子は思った。瑠衣はきっと、私よりもずっと現実的に、お金のことを考えていたのだろう。私はといえば、考えているようで考えていなかった。今いる場所を天国みたいに思っていて、だから心のどこかで、もう現世じゃないみたいな気分でいて、お金が尽きる頃に寿命も尽きるだろう、と都合よく考えていた。でも、そんなわけはない。お金は、もっと早く尽きる。というか、私たちはもっと生きる。
 もっと生きなくちゃいけないんだわ、と照子は思った。
 だからといって、あの男の家に歌いに行くことにはとうてい賛成できないけど。
 照子はちらっと天井を見てから、溜息(ためいき)をひとつ吐(つ)き、スマートフォンを操作しはじめた。じつはこれまでにも何度か試みていたことを、今日もやってみた。今日はこれまでとは真剣味が違う。だからうまくいくかもしれない。そう思ったのだが、やっぱりなかなかうまくいかなかった。例の計画を実行に移すしかないかもしれない——。
 さらに試してみながら、照子はふとソファの端に目をやった。そこには編みかけの毛糸がある。編んでいるのはケープだそうだ。ケープが出来上がったら、お揃(そろ)いの帽子も編むのだとか。数日前、一緒に買い物に行ったとき、「毛糸買ってもいいかな」と瑠衣はおずおずと言ったのだった。源(げん)ちゃんと依(より)ちゃんへの出産祝いを編みたいのだと。「男の子でも女の子でも使えるように」と、瑠衣はクリーム色のモヘアを選んだ。
 まだ編みはじめたばかりだが、きれいに網目の揃った模様編みが並んでいる。裁縫同様に、瑠衣が編み物が得意だというのは意外なことで、同時に照子は切なくもなる。自分自身の娘のためにも、瑠衣はせっせと編んだり縫ったりしていたのではないだろうか。今、ケープを編みながら、そのときのことを思い出したりしているのではないだろうか——。
 足音に顔を上げると、階段の途中で瑠衣が幽霊みたいにこちらを見下ろしていた。
「悪いけど、病院に連れて行ってくれる?」
 掠れた声で、瑠衣は言った。

 いつも行くスーパーの、駅を挟んで反対側にある総合病院まで、照子は車を走らせた。
 午後三時で、午後の診療時間の開始直後だったが、耳鼻咽喉科の待合室は、ふたりが到着したときにはすでに患者でいっぱいだった。
「あんた、車で待ってれば? いったん帰っててもいいよ。終わったら電話するから」
「ここで一緒に待ってるわ」
「だってきっと相当待つよ。初診だし、予約もしてないし。座るところもないし」
「あ、ほら、空(あ)いたわよ」
 ふたりと同じ年頃の男性と、その付き添いらしい女性のところに看護師がやってきて、彼らはソファから立ち上がった。照子と瑠衣はそちらへ行き、瑠衣はソファに収まったが、照子はその横の壁にもたれて立っていた。
「座んなよ」
「結構よ。私は病人じゃないもの」
「じゃあ帰んなよ」
「いやよ」
 だが結局、照子は瑠衣の隣に座った。なんだか頭がグラグラして、立っているのがつらくなってきたからだ。隣合って座っていても、ふたりともまったく口を利(き)かなかった。瑠衣は声を出すのがしんどいのだろうし、照子のほうは、体の中でむくむく膨らんでくる不安に内側から口を塞がれたようになっていた。
 病院に足を踏み入れるのは久しぶりだった。いつ以来だろう——二年ほど前、脇腹の激痛を訴えた寿朗に付き添ったときが最後だったかもしれない。寿朗の腹痛の原因は尿路結石で、投薬で治ったし、照子自身も幸いなことに、これまでずっと健康だった。それで照子はいつからか、病院という場所のことを意識から締め出していたのかもしれなかった。
 今、照子はそこにいた。瑠衣の付き添いとして。壁は薄いピンク色で、ソファは黄土色で、いろんな色の服を着た、様々な年齢の人たちがそこに詰め込まれていた。ソファの合皮と消毒薬が混じった匂いがした。壁にはお知らせの紙がベタベタ貼られていた。情報量が多いのに、ひそひそ声で話している人たちもいるのに、診療の順番を知らせるための呼び出し音がひっきりなしに鳴るのに、しんとした場所。
 瑠衣の喉の不調が、大変な病気のせいだったらどうしよう。
 こんなに元気がない瑠衣は見たことがない。自分から病院に連れていってほしいと頼むなんて、よっぽど具合が悪いに違いない。前にも同じような不調があってすぐ治ったなんて言っていたけれど、嘘(うそ)かもしれない。今回はそのときよりずっと悪いのかもしれない。喉だけじゃなくて、言わないだけで、本当はほかにも具合が悪いところがあるのかもしれない——。
 病気。
 死。
 ふたつの言葉が、これまでとはまったくべつの、鋭い刃物みたいな輪郭になって、照子の中を跳ね回った。これらに見舞われる可能性を、これまで考えなかったわけではなかった。でも、お金のことと同じように、やっぱりちゃんとは考えていなかった。
 死ぬのなんかこわくない、と思っていた。でも、瑠衣が死ぬのはこわかった。ものすごくこわい。あるいは自分が先に病気になったり死んだりして、瑠衣がひとりきりで山の中の家(他人の家)にいるところも、想像したくない。この日々は、この冒険は、この自由は、瑠衣と自分、ふたりだから飛び込むことができたものだったんだわと照子は思った。
 二時間近く待たされた後、ようやく番号が呼ばれて、瑠衣は診察室に入っていった。出てきたのは三十分あまり経(た)ってからだった。ドアが開き、瑠衣の姿があらわれると、照子は思わず涙ぐんでしまった。もう二度と会えないような気持ちになっていたのだ。
「ちょっと……何泣いてんの。まるであたしが不治の病みたいじゃない。え? もしかしてそうなの? あたしがいない間に誰かがあんたに言いにきたの?」
 照子は泣きながら首を振った。瑠衣の声はあいかわらず掠れていたが、家にいたときよりはハリが出てきたように感じられた。

(つづく) 次回は2022年5月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。