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  • 第十四回 照子(2) 2022年5月15日更新
 結局、瑠衣(るい)の予想通りだった。
 診断は、以前にも見舞われた「声帯結節(せいたいけっせつ)」で、一種の職業病、喉の使いすぎが原因というのも、瑠衣が言った通りだった。瑠衣が白状したところによれば、今回は以前と違ってかなり痛みがあったので、「声帯結節」よりもやっかいな「声帯ポリープ」を心配していたらしい。
「まあ、声帯結節もひどい場合は手術しなくちゃならないみたいなんだけど、とりあえず保存療法で行きましょうって」
 家に帰り、葱(ねぎ)とジャガイモのポタージュ——お腹が空(す)いたというので、照子(てるこ)が急遽(きゅうきょ)こしらえた——を啜(すす)りながら、瑠衣は医者の見立てを報告した。
「保存療法って?」
 自分もスープを啜りながら、照子は聞いた。慌てて作ったにしては、おいしくできたわ、と思う。さっきまでは目眩(めまい)がするほど不安で、涙まで流していたのに、今はスープを作って味わう気分になっていることが嬉(うれ)しかった。
「なるべく声を出さないってこと」
「出してるじゃない、今」
「喋(しゃべ)るくらいはさせてよ。ようするに、炎症が治まるまでは歌うなってこと」
「そうか! そうよね! 治るまでは仕方がないわよね!」
 照子はつい、はしゃいだ声を出してしまった。しばらく歌えないことは気の毒だが、必然的に、あの男のパーティに歌いに行く件も流れるだろうからだ。
「お金のことなら大丈夫。なんとかするから」
 瑠衣がいてくれるならなんでもできるわ、と決意を新たにしながら照子は言った。瑠衣は何も言わなかったけれど、それは「保存療法」に早速取りかかっているせいだろうと照子は考えたのだった。

 その週の土曜日、瑠衣はジョージの店でのステージを休む、と言った。
 照子はホッとした——病院へ行ってから二日が経(た)って、瑠衣の掠(かす)れ声はかなり治ってきており、文字通りの「咽喉元(のどもと)過ぎれば」で、やっぱり仕事に行ってくると言い出しかねないと心配していたからだ。
「私はお買い物に行くけど、一緒に行く?」
 誘ってみると、
「今日は家でおとなしくしてる。スーパーで常連さんに会っちゃったりしても気まずいし」
 という返事だった。それもそうね。照子はそう思い、その午後、ひとりで車に乗った。瑠衣の様子に微(かす)かな違和感はあったのだが、瑠衣は本調子じゃないんだからいつもと違って当たり前だわと考えることにした。そして買い物を終えたら、ジョージに会いに行こうと決めた。
 道の前方に、鹿がひょっこり顔を出し、照子はスピードを緩めた。続いて一頭、少し小さいのがまた一頭——三頭の鹿が、ゆっくりと道に出てきて、照子の車のほうをじっと見た。
 カモシカには一度会ったきりだが、鹿はよく見かける。照子も瑠衣ももう慣れて、最初の頃のようにいちいち大騒ぎはしなくなったが、鹿のほうでも人間には——あるいは、照子と瑠衣には?——すでに倦(う)んでいるようで、退屈そうにしばらく眺めたあと、何事もなかったように斜面の木立(こだち)の中に姿を消した。照子は車の速度を上げながら、クスッと笑った。鹿と日常的に出会う場所。自分の人生が、そんなところに行き着くなんて夢にも思っていなかった。
 でも、ここが終点なのかしら? 照子はふと、そうも考えた。ここに来たばかりのときは、そう思っていた。自分や瑠衣の人生は、もうそんなに残ってはいないと。でも、そうでもないのかもしれない。それは寿命の刻限までの時間の量ではなくて、質の問題なのかもしれない。私たちは死ぬまでは生きている。時間なんて主観的なものだ。そんなに残っていないのか、こんなに残っているのか、決めるのは私たちなのではないか。
 そんなことをずっと考え続けていたので、車を停めてスーパーマーケットに入ってからも、照子はどこか上(うわ)の空だった。突然肩を叩かれて、キャッ、と声を上げてしまった。
「脅(おど)かしちゃった? ごめんなさい」
 ニコニコしているのはウトヌマさんだった。烏(からす)に、兎(うさぎ)に、沼、と書いてウトヌマ。本人がそう説明したのを覚えていたが、照子は(たぶん瑠衣も)その語感のほうが印象的で、いつも片仮名が先に浮かんでくる。
「今年は松茸(まつたけ)がお安いのよね」
 そう言われて気がついたが、照子とウトヌマさんがいるのはキノコ売り場だった。地産の野菜を売る一角で、この時期は東京では見かけないジコボウ、クリタケ、タマゴタケなどが並んでいる。その横に、ちょっと別格な感じで、国産松茸のコーナーもある。この辺りで獲(と)れることもあって、東京の通常価格に比べれば安い。それでも、カゴに中くらいの二本が恭(うやうや)しく入っているいちばん安いものが、二千円だ。
「ね、これ、半分こしない?」
 その二千円のカゴを指して、ウトヌマさんは言った。
「一本ずつでも、松茸ごはんには十分でしょ? 私は独り暮らしだし、小さいほうでいいから」
 照子はしばし、考えた。もしウトヌマさんに声をかけられなければ、二千円の松茸を見て買おうか買うまいか、しばらく悩んだに違いなかった。ウトヌマさんと分ければ、千円になる。彼女が言う通り、一本あればちゃんとした松茸ごはんを作ることができる。夫の寿朗(としろう)は松茸ごはんも松茸の土瓶蒸しもちっとも喜ばなかったから、彼と暮らしていたときには、照子はむしろ松茸を買おうという気にすらならなかった。
「そうしましょう」
 それぞれ買い物を済ませて、レジの外で落ち合った。松茸はウトヌマさんが買って、大きなほうを渡してくれたから、照子は余分にお金を払おうとしたのだが、ウトヌマさんは「大した違いじゃないわよ」と笑って受け取らなかった。
 ウトヌマさんって、外国のどこかにそういう名前の神様がいそうよね。松茸を分け合った後はとくにお喋りをするでもなく、ひらひらと手を振りながら自分の車に乗り込んでいくウトヌマさんの後ろ姿を見送りながら、照子は思った。

「カリーと酒の店 ジョージ」のドアを、照子は控えめにたたいた。
 カウンターの奥の端に座って本を読んでいるジョージは気づかない。照子はもう一度、強めにたたいた。ジョージはようやく顔を上げ、慌てた様子でドアを開けにやってきた。
「鍵はかかってないんですよ」
「知ってたけど、いきなり開けたら失礼かしらって」
「瑠衣さんは、自分の家みたいな顔で入ってきますよ」
「自分の家のつもりでいるんじゃないかしら?」
 ウフフフと照子が笑うと、エヘヘへと、ジョージも嬉しそうに笑った。ジョージは今日も花柄のシャツを着ている。いろんな花柄を持っているのかしら、それとも同じ柄のを何枚も持っているのかしら。ドアの前で向かい合ったまま、それからふたりともしばらく黙っていた。照子がひとりでここへ来た理由を、ジョージは考えているのだろう。照子は表向きの理由を考えていなかった。
「あの、そのシャツ」
「瑠衣さん、具合どうなんですか」
 ふたりの声が揃(そろ)った。
「あっ、そうそう。それを説明しに来たの。ジョージが心配してるといけないからって、瑠衣に頼まれたの」
 ジョージが聞いてくれて助かった。どうぞ、とジョージが——幾らか不審げながらも——言ってくれたので、照子はカウンターの椅子に座った。ジョージは中に入ったが、カウンターの上にはさっきまで彼が読んでいたらしい文庫本があった。サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』。照子は思わず「あら!」と声を上げてしまった。それは家を出るときにスーツケースに入れてきた、三冊のうちの一冊だったからだ。
「これ、すっごく面白いわよね」
「うーん……面白いようなよくわからんような」
 照子の前にコーヒーを置きながら、ジョージは頭をかいた。
「あ、でも、ひとつ面白いのがあったな。ってうか、照子さんと瑠衣さんみたいな話がありましたよね」
「“コネティカットのひょこひょこおじさん”でしょう? そうなのよ! 私もあれ、読むたびにそう思ってたの!」
 その短編は、久しぶりに再会したふたりの女が、酔っ払いながら思い出話にあけくれる話だった。
「あれも、面白いんだか悲しいんだかわからんけど。あのふたりの、ふたりの間だけで通じる何かみたいなのに、俺、ちょっとぐっときたっていうか。それが、照子さんと瑠衣さんみたいだなあって」
「そうなのよ、そうなのよ! ね、その話、今度瑠衣にもしてあげて」
 照子の勢いに臆したように、ジョージはこくこくと頷(うなず)いた。
「お店が開いてからじゃ、ゆっくり話せないでしょう? 今度うちに話しに来て。私がいないときに」
「いや、照子さんも一緒に話しましょうよ」
「私、こう見えてなかなか忙しいのよ」
 ジョージは再び張子(はりこ)の虎のように頷いた。
「これからも瑠衣をよろしくね」
 そう、今日、照子がここへ来た目的は、これを言うためだった。ジョージは戸惑い顔で、こちらこそ、と返した。
「照子さんも、どこか具合が悪いんですか」
「え? 全然。元気はつらつよ。どうして?」
「いや、なんか遺言みたいな言いかただから」
「まさか。でも、そうね、強(し)いて言うなら、生前葬のご挨拶みたいなものかしら」
「生前葬のご挨拶……」
 ジョージはさっぱり意味がわからないようだった。照子はコーヒーを飲み干すと「ごちそうさま」と微笑(ほほえ)んで席を立った。店を出てから、瑠衣の容態についてジョージに説明するのを忘れていたことに気がついた。まあいいわ。きっとジョージは自分で瑠衣に電話をするわ。瑠衣から彼にかけるかもしれない。そのほうがずっといいわよね、と照子は思った。

 といって照子の決心は、その時点ではまだはっきりと固まっていなかった。
 固まったのは、家に戻ってからだった。瑠衣がいなくなっていた。そしてテーブルの上に、走り書きのメモがあった。
 仕事に行ってきます。R
 照子はジョージに電話をかけた。瑠衣が行っているかどうかたしかめるためではなくて、あの男の住所を聞き出すためだった。ジョージは彼の名前と、別荘地名を知っていた。展望台のすぐ横だって自慢してたよ、でもなんで? なんかあったんですか? なんでもないの、ちょっと届けるものがあるのよと照子は言った。それから、買ってきた食材を床の上に放り出したまま、さっき降りたばかりの車に再び乗った。
 瑠衣が言っていた通りそこは隣の別荘地で、車なら十分とかからない距離だった。でも徒歩なら、だらだらした上り坂を三十分は歩かなければならない。瑠衣はタクシーを呼んだのだろうか、それとも節約のために歩いたのだろうか。いずれにしても、瑠衣は最初から行く気だったんだわ。照子はいろんな感情で頭が破裂しそうだった。
 管理事務所の前に別荘地内の地図があったので、展望台を探した。展望台は二箇所あって、最初に向かったほうの周囲はひっそりとしていたが、ふたつ目の展望台の手前に、車が三台停まっている家を見つけた。照子は路肩にBMWを停めて、敷地内に入っていった。スウェーデンふうの、黄緑色の壁に白い窓枠を配したその家——いかにも彼の家らしいわ、と照子は忌々(いまいま)しく思った——に近づくにつれ、家の中の声が聞こえてきて、笑っているのはまぎれもなくあの男の声だった。瑠衣の声は聞こえない。
 照子は呼び鈴(りん)を鳴らした。何しろ頭が破裂しかかっているので、ジョージの店のときとは違って、ボタンを連打した。ドアを開けたのはあの男だった。なんという名前だったか——ジョージに聞いたばかりなのに、忘れてしまった。名前なんて覚える必要ないわ。男で十分だわ。照子はそう思いながら、
「友だちを迎えにきました」
 と言った。
「え? 友だち? え?」
 照子の迫力に気圧(けお)された様子の男の背後にドアがあり、それが開け放たれたままだったので、照子には室内が見えた。赤々と燃える薪(まき)ストーブがあり、その前にソファがある。何人かの客と一緒に、瑠衣はそのひとつに座っていた。「ステージ」はまだはじまっていないのか、あるいは何曲か歌い終えたところか。
「瑠衣!」
 照子が叫ぶと、瑠衣はぎょっとしたように立ち上がった。
「なんだあんた。この歌うたいの知り合いか」
 態勢を立て直すように男が言った。
「友だちです」
「何しに来たんだ」
「連れて帰るんです」
「何言ってんだ。今日はうちの家内の誕生日なんだぞ。それで雇ったんだ。タダじゃないぞ。ほれ」
 男はポケットからたたんだ数枚の札を取り出して、照子の鼻先に突きつけた。なんて……なんて失礼なのだろう。照子はカッとして、それを摑(つか)んだ。
 それから靴を脱ぎ——土足で上がらないだけの分別はかろうじてあった——、部屋の中に入っていった。そこは現在のふたりの家よりもずっと暖かくて、花やら絵やらシャンデリアやらで装飾された空間で、食べものの匂いが漂っていた。何もかも違うのに、照子は先日の病院の待合室を思い出した。ただし、待合室のときのように気分が落ち込んだりはせず、今は怒りによって高揚していた。瑠衣を含むその場の男女が、ぽかんとこちらを見ている前を通り過ぎ、薪ストーブの前まで行った。その扉を開けると、男からもぎ取った札を炉内に放り込んだ。札はあっという間に炎に包まれた。ふん。照子は思った。他愛もない。お金なんて、この程度のものだわ、と。
「瑠衣、帰りましょう」
 手を引っぱると瑠衣は呆気(あっけ)にとられた顔のまま素直に付いてきた。やっぱり口を半開きにしている男を押しのけるようにしてその家を出た。
「ごめん」
 車に乗り込むと、小さな声で瑠衣は言った。
「ばか」
 と照子は言った。それきりふたりは喋らなかった。
「降りないの?」
 家に着いたとき、瑠衣が聞いた。
「先に入ってて」
 と照子は言って、家の鍵を渡した。
 瑠衣が車を降りて、家のドアに鍵を差し込んだのを見届けると、照子は車を発進させた。

(つづく) 次回は2022年6月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。