井上荒野
呼び出し音三回で電話は繋(つな)がった。照子(てるこ)の心臓は意外に静かなままだった。 「照子。照子かっ」 寿朗(としろう)の声は上ずっていた。照子のほうは、その声を聞いて、いっそう心が静まり返るようだった——微(かす)かな罪悪感と、自分はもうこの人の妻をやめたのだという、圧倒的な安堵(あんど)。ただ、「照子」と呼ばれるのは新鮮だった。結婚してしばらくすると、彼は照子を「おい」「あんた」「そこの人」としか呼ばなくなっていたから。 「心配かけて、ごめんなさい」 照子は言った。コインパーキングに停めた車の中から電話をかけている。午後六時少し前。固定電話に出たのだから、寿朗は家にいたのだろう。 「何……何を……何をしてるんだっ。今……今どこだ。どこにいるんだっ」 「今、ちょっと遠くにいるの。これから東京へ向かうわ。七時に銀座(ぎんざ)で会えないかしら」 「ぎ、銀座?」 「銀座の、ドイツ料理のお店、覚えてる? 昔、何度か一緒に行ったところ。調べたら、あのお店、まだあるのよ。あそこで七時にお会いしたいの。これからのことを話したいの」 「なんで帰ってこないんだ? なんで家じゃだめなんだ? なんで……」 取り乱した寿朗の声を最後まで聞かず、照子は電話を切った。いかにも思わせぶりで、店名も言わないのは不親切このうえないが、しかたがない。自宅から銀座までは、電車でもタクシーでも小一時間はかかる。七時に到着するためには、間も無く家を出なければならない。寿朗は、そうするだろう。そうしなければ、出奔(しゅっぽん)した妻を取り戻す手段はないのだから。 照子はそのまま十五分待って、車から降りた。 ここから先には少し危険が伴う。なぜなら、寿朗に「ちょっと遠くにいるの」と言ったのは嘘(うそ)で、今、照子は自宅があるマンションのすぐそばにいるからだ。この道は、マンションから駅に向かうとき、徒歩でもタクシーでも通る道ではない。だから、この道を通って自宅に向かっても、寿朗と鉢合わせする心配はないのだが、百パーセントというわけではないし、そもそも寿朗がまだ家を出ていない場合、これから家を出る場合は、照子がマンションに向かうことそのものが危険になってしまう。 照子は、赤いニットのキャップを深く被(かぶ)り、大きなサングラスにマスクという姿で、そろそろと歩き出した。キャップとサングラスとマスクは、途中のサービスエリアで手に入れた。この程度の変装では寿朗をごまかすことはできないだろうけれど、マンションの顔見知りの住人に呼び止められることは避けられるだろう。 マンションに着くと、照子はオートロックキーを操作する前に、インターフォンを押してみた。応答はない。寿朗が家にいるなら、応答しない、ということはないだろう。もちろん、今家を出た、今エレベーターに乗った、という可能性もある。ここからは賭けだ。照子はマンションの中に入った。エレベーターホールを小走りに通り抜け階段で二階まで上がり、そこからエレベーターに乗り、八階で降りた。ドアが開くとき、目の前に寿朗が立っているのではないかとドキドキしたが、誰もいなかった。同じ階の住人にも会うことなく、部屋の前まで行けた。ドアには鍵がかかっていた。照子は鍵をそっと差し込んでそれを開けた。 玄関も廊下も、電気が煌々(こうこう)と点(つ)いている。三和土(たたき)には寿朗の靴が散乱している。暖かい——さっきまでエアコンをつけていたか、つけっぱなしのまま出かけたのだろう。饐(す)えたような臭(にお)いが微かにする。空気を入れ替えていないのだろう。ゴミも溜(た)めているのかも。 寿朗の書斎、洗面所、トイレ、寝室、リビングとダイニングの順番で、照子は部屋のドアを開け、寿朗がどこにもいないことをたしかめた。ほっと息を吐く。とにかく、彼は私からの電話を受けて、私に会うために家を出たんだわ。そうするだけの必要性をまだ自分に対して夫が持っているのだと思うと、罪悪感の目盛が数ミリ上がるようだったけれど、必要性と愛情はべつものよね、と考えて、すぐにその目盛を元に戻した。 臭いで予想できた通り、家の中は荒れ果てていた。キッチンのシンクには汚れた食器が溜まり、カップ麺の空き容器を詰め込んだレジ袋が床の上にいくつも置いてある。テーブルの上にも食器、それに郵便物やチラシの山。ソファの上には脱ぎ散らかしたスウェットやカーディガン。さっきちらっと覗(のぞ)いた寝室や洗面所やトイレなど、あらためてたしかめたくもない。 その中で、寿朗の書斎だけが照子がいたときとほぼ変わっていないように見えた。この部屋はもともと乱雑だった——「治外法権」で、照子の掃除が及ばなかった——ということと、もしかしたら照子の出奔以来、寿朗はあまりこの部屋を使っていないのではないか、という理由が考えられた。というのはつまり、照子がいなければ、書斎にこもってこそこそする必要もないだろうからだ。 照子は書斎の中に入った。この部屋こそが今日、ここまで来た目的だった。探すのはパスワードだった。出奔する日に偶然見つけたトークンを使えるようにするための、彼の隠し口座へのログインパスワード。 じつのところ、照子はたかをくくっていたのだった。これまで、寿朗が使うパスワードは一種類だった。寿朗の頭文字(大文字)の「T」と、照子の頭文字(小文字)の「t」、それにふたりの生年月日を繋げた文字列。照子がそれを知っているのは、彼に言いつけられてお金を振り込んだりカード決済したりすることがあったからだ。もっと複雑なパスワードにしたほうがいいんじゃない? と何度か言ったが、覚えられないからという理由でずっとそのまま、何にでもこのパスワードを使っていた。四文字のパスワードの場合は、照子の誕生日の数字を入れていた。だから、あのトークンも、同じパスワードで使えるようになると思っていたのだ。でも、だめだった。組み合わせを変えてやってみたが、三回ミスしてログインを拒否されてしまった。 スマートフォンで時間をたしかめる。六時二十三分。寿朗が銀座に着いて、「昔、何度か一緒に行った」ドイツ料理店の名前を思い出し、そこへ辿(たど)り着いて、照子を待ち、待つことをあきらめて、ここへ戻ってくるまでにどのくらいかかるだろう。短い時間ではないが、十分というわけでもない。パソコンの前に直行する。運がよければ、パスワードを記した付箋か何かを、パソコンの周りに貼ってあるかもしれないと期待していたが、それらしいものはなかった。貼っていないとすればパソコンの中か。パソコンはスリープ状態になっていて、パスワードも設定されていなかったので、易々(やすやす)と立ち上げることができた。パスワードを探して、照子はファイルをしらみつぶしに開いていった。 見つからない。 ファイルは大半が、寿朗が勤め人だった頃の名残(なご)りの、仕事関係のもので、そうでなければネットで拾い集めたらしいいやらしい画像だった。約一時間後、照子はうんざりしてパソコンから離れた。寿朗はパスワードをパソコン上には保存していないのだろう。とすれば、紙の上か、すぐに思い出せる記号や数列だということになる。 照子には、山にいたときからずっと考えていたことがあった。でも、それを実行するにはそれなりの覚悟が必要だった。照子は覚悟した。そして寿朗のデスクの抽斗(ひきだし)を探りはじめた。 今度は目的のものをあっさり見つけることができた。照子がいなくなったからというより、照子がいる頃から、とくに隠してもいなかったのだろう。自分の妻が夫のデスクの抽斗を漁るような人間だとは、寿朗は夢にも思っていなかったはずだから。ましてやそこにしまってある手帳を盗み見るなんて——照子自身も、そんな真似(まね)をしたいなんてこれまで一度も考えたことはなかった。 でも今、照子は寿朗の手帳をめくっていた。それは会社から支給されるダイアリー型の手帳で、右側の袖机の最下段に、二十数冊がまとまって収納されていた。心当たりがある年のものをピックアップして照子はめくった。それらの年は寿朗に恋人がいた期間だった。 もちろん、寿朗は隠していたが、その種のことは探らなくてもわかってしまうものだ。帰宅時間の変化、照子にことさら辛(つら)く当たるようになったこと、かと思えば突発的に「いい夫」を演じたりすること。休日、寿朗が家にいるときには度々、照子が出ると切れてしまう電話がかかってくるようになり、ああ、なるほどね、と照子は思った。交際期間は、たぶん三年前後だった。あるときから寿朗が、「部下の女子社員」のひとりについて、仕事ができないだの化粧が濃すぎるだのと悪(あ)し様(ざま)に照子に報告することが続いて、たぶんその部下が彼女なのだろう、ふたりはもう別れたのだろう、と照子は理解したのだった。 その最中ですら、照子は夫の手帳を(もちろん携帯電話も)盗み見ようとは思わなかった。「証拠」を掴(つか)んで寿朗を責め、恋人と別れさせるとか、でなければ離婚するとか、そういう成り行きに自分が耐えられる気がしなかった。私には勇気がなかった、と照子は思った。いや、私は自分で自分を閉じ込めていたのだ。寿朗によって閉じ込められているようにあの頃は思っていたけれど、私を閉じ込めていたのは私だったのだ。 それで今照子は、勇気と気力を振り絞って、寿朗の手帳のページをめくり、彼と恋人との記録を探していた。手帳に書かれている文字は、仕事とゴルフのスケジュールばかりだったが、「N」というアルファベットとともに19:30とか、20:00とかの時間が記されているのが、恋人とのデートの予定だろうと推察された。三年分の手帳を、照子はつぶさに調べた。すると三年とも、十月三日だけ、「N」の字が丸で囲んであった。誕生日だわ。照子はそう推理した。自分のでも、寿朗のでもない——恋人の誕生日に違いない。 照子は早速、見つけたトークンの銀行のネットバンキングにアクセスした。パスワード欄に、寿朗の「T」と恋人の「N」それに寿朗の生年月日0809と、恋人の生年月日1003を合わせたものを入れてログインしてみる。「パスワードが正しくありません」。がっかりしたが、アッと思いつき、寿朗の「T」のあとを「n」にして再度入れてみた。大当たり! 考えてみればわかることだった。ほかの口座のパスワードと同じ法則だったのだ。自分の頭文字は大文字で。妻なり恋人なりの頭文字は小文字で。そしてそれぞれの生年月日。 その口座には、約三千万円が入っていた。寿朗の退職金だ。退職金用の口座を寿朗がべつに用意したのは、できるかぎり手をつけないでおこう、というつもりだったのかもしれない。その口座のパスワードに元・恋人のイニシアルと生年月日を使うという心理は理解したくもないけれど、そういうことをしそうだという予想が当たってログインできたので良しとしよう。照子は、一千万円を、その口座から自分の口座に振り込んだ。少しだけ気持ちが咎(とが)めたが、自分にはこのくらいはもらう権利があるはずだ、と思い直した。車に乗ったときは、退職金の半分はもらうつもりだったのだ。でも、ここまで来たら、遠慮の気持ちが働いて、三分の一にした。この遠慮は、私のいいところかしら、悪いところかしら。瑠衣(るい)だったら、悪いところに決まってるでしょ、と言いそうねと照子は考えた。 これで、目的は果たした。照子はトークンを元あった場所に戻そうとして、少し考え、持って帰ることにした。寿朗が口座のお金が引き出されていることに気がついて、パスワードを変えるなり口座を解約するなりの対処をするかもしれないが、もしかしたら長い間気がつかないかもしれないし、今後、また必要になるときが――遠慮なんかしていられないときが――来るかもしれない。この用意周到さ(?)は、私のいいところかしら、悪いところかしら。 そうして照子は、寿朗の書斎を出た。玄関に向かおうと思いながら、廊下を進んで、リビングに入った。あらためて、辺りを見渡す。 わかってるわよ、照子。あんた、この家の中を片付けたいんでしょう。せめてお皿だけでも洗って行きたい、とか思ってるんでしょう。 照子の中の照子が――あるいは瑠衣が――言った。いいえ、と照子は首を振った。実際、照子はその場から動かなかった。せっせと片付けている自分の幻――あるいは残像――が見えた。あれは以前の私だわ、と照子は思った。ここにいたときの私。おかしな考えだけど、以前ここにいたときの私なら、きっと今、この家の中を片付けはじめるだろう。かわいそうな、だめな私。勇気がなくて、自分で自分を不自由にしていた私。でも、私はもう、以前の私じゃないわ。 大きな溜息(ためいき)をひとつ吐(つ)き――その溜息には様々な思いがこもっていた――照子は今度こそ玄関に向かった。 午後八時二十二分だった。八時半までは大丈夫だろうと照子は考えていたが、用心のため、エレベーターをやっぱり二階で降りた。 足音を立てないように、階段を降りていく。踊り場まで来たとき、マンション入り口のドアが開く音が聞こえて、立ち止まった。予感というか、ほぼ確信に近いものを感じて、照子は踊り場から頭だけをそっと出して、エレベーターホールを窺(うかが)った。寿朗が歩いてくる。 俯(うつむ)き加減で、首を振っている。ホールに着くと、壁のボタンを押して、エレベーターと向かい合って立った。階段とは直角の向きに顔を向けているので、物音を立てなければ、気づかれる心配はなさそうだ。手にはレジ袋を提げている。きっと中身はコンビニの弁当とかカップ麺とか――今夜食べるものだろう。ドイツ料理店では何も注文しなかったのだろうか。そもそも辿り着けたのだろうか。寿朗の左足が床をトントン叩(たた)く。「チッ」という――照子が大きらいな――舌打ちが聞こえてきそうだ。照子はぎょっとした――自分が涙ぐんでいることに気がついたからだ。奇妙な懐かしさとともに、自分はもう二度とこの人と会うことはないだろうという確信があった。さようなら、と照子は声に出さず呟(つぶや)いた。エレベーターが来て、寿朗は乗り込んだ。 マンションを出て無事に車に乗り込み、発進させようとしたとき、照子ははっと気がついて、スマートフォンの電源を入れた。予想通り寿朗からの数件の着信と、予想以上の数の瑠衣からの着信が入っていた。それを眺めているうちに早速呼び出し音が鳴り出した。 「照子? 照子?」 瑠衣の声を聞いたら、また涙腺が緩んできた。私はもう寿朗の妻じゃない。私には瑠衣がいる。なんて幸せなことなんだろう。 「心配かけてごめん」 「何やってるの? 今どこ? なんで……」 やりとりの言葉が、数時間前の寿朗とのそれとほとんど同じであることに気がついた。でも、実質は全然違う、と照子は思った。 「これから帰るわ。待ってて」 照子は鼻を啜(すす)り上げ、スマートフォンに向かって明るい声を放った。(つづく) 次回は2022年6月15日更新予定です。
東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。