井上荒野
近づいてくるヘッドライト。 あのときの光景を、瑠衣(るい)は何度でも思い返してしまう。 ようやく電話が繋(つな)がって、照子(てるこ)の「これから帰るわ。待ってて」という声を聞いた後、瑠衣は何度も家の外に出てしまった。東京から戻ってくるのなら二時間はかかるだろうと思いつつ、一時間を過ぎた頃からはずっと外をうろうろしていた。 そうしてようやく、木々の向こうを走ってくる車のヘッドライトが見えた。車体はまだ見えなかったから、あのライトはこの家の前を通り過ぎどんどん遠ざかっていくかもしれない、とドキドキしながら追っていると、それはいったん木立(こだち)の中に隠れたが、やがてエンジン音が聞こえてきて、照子のBMWがあらわれた。まだまだ安心はできないよ。照子じゃなくて、照子を捕まえた誰かが降りてくるかもしれない。瑠衣はそう思いながら待ちかまえた。降りてきたのは照子だった。ばか照子。もちろん瑠衣は「ばか照子!」と叫んでやった。 ばか照子は、東京の家に戻っていたらしい。なんと、夫の退職金のいくらかを「分けてもらう」――照子はしばらく考えた末、その言いかたを採用することにしたらしい――ために。いくらかって、いくらよと聞いたら、一千万円だとのこと。退職金って、そもそもどれだけあったのと聞いたら、一千万よりは多かったわ、少しは残しておいてあげたのよ、と口を尖(とが)らせて答えた。何かをごまかしている顔だったけど、とにかく一千万円を自分の口座に移したというのは本当らしい。何の説明もなくあたしをこの家の前に置き去りにして車で出て行ってしまったばか照子は、あたしが死ぬほど心配している間に、映画に出てくる女スパイばりに、そういう活動をしていたというわけだ。 「そんならそうと、なんで言わないわけ? なんで勝手にひとりで出ていっちゃうわけ?」 瑠衣は怒鳴った。夜十一時、「お腹がペコペコなのよ」と言いながら、トマトと卵にすいとんみたいなものが入ったスープ――家に入って経緯を説明しながらそういうものをちゃちゃっと作った――を満足そうに啜(すす)っているばか照子に。 「瑠衣だって勝手なことしたじゃない」 それが照子の答えだった。照子に黙って、例のオヤジの家に歌いに行ったことだろう。 「じゃあ何? 仕返しだったってわけ?」 「今考えればそうだったのかも。でもちゃんと帰ってきたじゃない」 「当たり前でしょ」 それから瑠衣はキッチンへ行って、鍋の中に残っていたスープを器によそって戻り、照子の向かいに座って啜ったのだった。照子同様、自分もお腹がペコペコであったことにそのとき気づいた。照子の安否が心配で、食事のことなどすっかり忘れていたのだ。スープはおいしかった。温かくてまるい味がした。瑠衣はしばらく夢中で啜ってから、ちらりと照子を見た。やっぱりこちらを盗み見ていた照子が、ニコッと笑った。瑠衣は「フン」と鼻息を返してやった。 ばか照子。 今、瑠衣は総合病院の耳鼻咽喉科の待合室に座って、あの夜のことを思い出している。今日は照子の付き添いはない――瑠衣の喉にかんしては、もう診断がついているし、あとは回復を待つだけだということがわかったので、瑠衣を病院まで送ったあと、「マヤ」で待っている。 瑠衣はあらためて「フン」と鼻息を吐こうとして、その代わりに「ハハッ」と笑ってしまった。しまった。もうしばらくは「フン」でいこうと思っていたのに。 しかしひとたび笑ってしまうと、あとからあとから笑いが込み上げてきた。家に忍び込んで夫の手帳をめくって、恋人の誕生日を見つけてパスワードを割り出すなんて。恋人の誕生日をパスワードにしているなんて最低だし、笑い事じゃないのかもしれないけど、それを話していたときの照子の得意そうな表情を思い出すと、やっぱり笑ってしまう。もういいや。笑い事ってことにしよう、と瑠衣は思う。それに、思わぬ大金を手に入れたわけだし(それについては、まだ今ひとつ実感がない)。 「森田(もりた)瑠衣さーん」 名前を呼ばれ、瑠衣はニヤニヤしたまま立ち上がった。 診察の結果も上々で、一週間後には無理をしなければ歌ってもいいと言われたので、瑠衣は上機嫌で病院を出た。 駐車場を横切ろうとしたとき、行く手に停まっていた車のドアが開いて、知っている顔が降りてきた。砂川(すながわ)とその妻だった。砂川は、先日の誕生日パーティに瑠衣を呼んだ男だ。そして照子から、五万円を燃やされた男でもある。 ふたりは瑠衣に気づいた。瑠衣は思わず身構えたが、砂川は仏頂面で一瞥(いちべつ)したあと、すぐ目を逸(そ)らした。妻は困ったような表情で、ぺこりと会釈した。それで、瑠衣も会釈を返して、彼らの前を通り過ぎた。 砂川のことだから、五万円に慰謝料をつけて返せ、くらいは言ってくるかと思ったが、拍子抜けした。病院に来ているわけだし、どこか具合が悪いのだろうか。その妻については、先日会ったときから、悪い印象は持っていなかった。 妻の名前を瑠衣は知らなかった。「うちの妻」としか紹介されなかったからだ。砂川と同じ年頃――六十代半ばくらい――で、大柄でぽちゃっと太っていて、あの日も終始、困ったような顔をしていた。あの日、リビングには砂川夫妻のほかに夫婦がふた組いた。瑠衣が部屋に入っていくと、砂川が「歌姫のご到着です〜!」と大仰なポーズで紹介し、客たちはパチパチと手を叩(たた)いた。その表情や、砂川のふるまいから、ジョージの店での一件をこの人たちは砂川から聞かされているんだろうなと瑠衣は推測した。砂川以外は、みんなちょっと困ったような顔をしていたが、その中でいちばん困ったような顔をしていたのが、その日の主役であるはずの砂川の妻だった。 こんにちは。今日はごめんなさい。 砂川の妻は、立ち上がってそう言った。いやいやいや。瑠衣はぎこちない笑顔を作った。この人なんで砂川みたいな男と結婚したんだろう、というのがそのときまず頭に浮かんだことだったが、妻の表情は、それは聞かないで、と懇願しているように見えた。 言わせてもらえば――というのはつまり、照子に言いたい、ということなのだが――、瑠衣があの日、砂川の家に行ったのは、そこで開かれるのが砂川のではなくて妻の誕生日パーティだったからだ。砂川の妻を見てみたいという気持ちがあったし、実際に彼女を見た後は、砂川はどうでもいいが彼女には楽しんでもらいたい、とも思ったのだった。ふーん、という照子の小馬鹿にしたような相槌(あいづち)が聞こえるようだけれど。砂川家のキッチンにはバースデイケーキが待機していて、砂川がそれを恭(うやうや)しく運んできたタイミングで、瑠衣がマリリン・モンローの物真似(ものまね)で、セクシーに「ハッピー・バースデー」を歌うという段取りになっていた。それを皮切りにプライベートのミニ・コンサートを開演するつもりだったのだ。結局、マリリン・モンローの前に照子に引きずられてあの家を出てきてしまったわけだが――。 「マヤ」に到着すると、笑い声がドアの外まで聞こえてきた。ここはいつでもあかるくて呑気(のんき)だよねと苦笑しながら、瑠衣はドアを開けた。依(より)ちゃんと源(げん)ちゃんが、ピョンピョン跳(は)ねながら手を振って出迎えてくれる。例によって「うわあっ」が瑠衣をおそってきたが、それへの耐性もそろそろついてきた。もとより、「うわあっ」は悪い感覚ではない。幸せと不幸のどちらに近いかといえば、間違いなく幸せに近い。でも、たぶんそのことが、落ち着かなくなる要因でもあるようだった。 「暮れに、依ちゃんのお母さんが来日するんですって」 前置きもなしに照子が言った。えっ、来日。とっさに意味がわからず、瑠衣はその言葉を繰り返した。 「来日アーティストとかじゃないですよ」 源ちゃんが言った。アハハ。アハハハ。依ちゃんと照子が嬉(うれ)しそうに笑う。 瑠衣は照子の向かいに座った。例によって、ほかに客はいない。 「私の母、イタリア人と結婚して、シチリアで暮らしてるんです」 依ちゃんが説明した。なるほど、それで来日か。 「つまり……赤ちゃんが生まれるから?」 「お義母(かあ)さんに赤ちゃんが生まれるわけじゃないですけどね!」 源ちゃんがまた混ぜ返し、さっきよりも大きな笑い声が起きた。この三人は、とにかくこの事態が楽しくてしょうがないらしい。 それから競い合うように、口々に説明を追加してくれたのをまとめると、依ちゃんの出産後、依ちゃんのお母さんは助っ人としてやってくる予定なのだが、その場合長期滞在になるので、いろいろ下準備をするための、暮れの来日、ということだった。もっと簡単に言うならば、依ちゃんのお母さんは娘の妊娠の知らせを聞いて、もういてもたってもいられなくなってしまったらしい。イタリア人のパートナーも一緒に来るそうだ。 「それは楽しみだね。依ちゃんも、お母さんも。あとイタリア人も」 瑠衣はそう言ってから、ふと、砂川の妻のことを思い出した。 「イタリア人は、なんて名前なの」 「マッシモです」 「依ちゃんのお母さんは?」 「名前ですか?」 「うん。これからは誰のことも名前で呼ぶことにしたから」 「フユコです」 「フユコ?」 「そう。フユコ・サルバトーレ」 「フユコって……」 瑠衣が言いかけたそのとき、ドアが開いた。いらっしゃいませー。依ちゃんと源ちゃんが声を揃(そろ)える。わっ、と瑠衣は声を上げてしまった。入ってきたのが、砂川とその妻だったから。 ふたりも、瑠衣と照子がいることに驚いている。踵(きびす)を返して出ていくかと思ったが、砂川は入口にいちばん近い椅子を引いてすとんと腰を下ろした。かなり弱っている感じだ。砂川の妻がこちらに向かって目礼した。瑠衣は思わず照子を見たが、照子は先日のことなどなかったかのようにすまして会釈を返した。砂川に新たな攻撃を加える気はないようだ。 それでも、気まずいのはたしかだった。砂川は無視しようと思いつつ、なんとなく砂川夫妻の会話に耳をそばだててしまう。小声なのではっきりとは聞こえないが、砂川の妻が一生懸命、何かを夫に言い聞かせている気配がある。 「そうそう、クリスマスパーティしようっていう話をしてたのよ」 ややわざとらしいあかるさで、照子が言った。 「ここを貸し切りにして、ジョージさんも呼んで。間に合うようなら、もちろん依ちゃんのお母さまたちも……」 「いいんじゃない」 瑠衣は再び、名前のことを思い出した。依ちゃんのお母さんの名前はフユコ。どういう字を書くのか、聞いてみたい、と思っている。 そのときガタンと、椅子を引く音がした。砂川が立ち上がり、ふらふらとトイレに向かっていく。俯(うつむ)いていて、いかにも具合が悪そうだ。 「大丈夫ですか?」 瑠衣は思わず、砂川の妻に聞いた。砂川の妻は、あいかわらずの困った顔で頷(うなず)いた。 「トイレに泣きに行ったんです。おふたりの前で泣きたくなかったんでしょう。ちょっと調子を崩して医者に行ったら、検査ということになってしまって。こわい病気の可能性もあるって言われて、落ち込んでるんです。気が小さい人なんですよ」 「あら、まあ……」 瑠衣と照子の声が揃った。砂川の妻は微笑した。もちろんこの人だって、心配で泣きたい気分なのじゃないだろうか。 「あの、失礼ですけど」 瑠衣は砂川の妻に呼びかけた。 「お名前なんておっしゃるんですか」(つづく) 次回は2022年7月1日更新予定です。
東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。