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  • 第十七回 瑠衣(2) 2022年7月1日更新
 砂川(すながわ)の妻の名前はみどりだった。
 砂川みどり。寝室に帽子と手袋を取りにきた瑠衣(るい)は、なんとなくその名前を口ずさんだ。今度会ったら、「奥さん」じゃなくて「みどりさん」と呼ぼう。もう会う機会はないかもしれないけど。
 フユコ。
 それから、その名前が浮かんできた。フユコ・サルバトーレ。依(より)ちゃんのお母さんの名前だ。フユコはどういう漢字なのか、聞きそびれたままになっている。布由子かもしれないし、芙優子かもしれない。富裕子だってありえる。仮に冬子だったとしても、それがあたしの冬子であるはずはない。依ちゃんのお母さんがあたしの娘だなんて、そんな偶然、そんな都合がいい話があるものか。
 それでも、どうしても考えてしまう。依ちゃんはいくつだっけ。二十三、四? 二十四としよう。私の冬子は今年四十九歳になるのだから、フユコ・サルバトーレがもしも私の冬子だったとすると、二十五歳のときに依ちゃんを産んだということになる。ありえる。年齢的には可能性はある。いやいや……そんな年回りの母娘はこの世にいくらでもいるだろう。照子(てるこ)が適当に選んだ別荘地の近くの町のカフェをやっているのがあたしの孫? そんな偶然ありっこない。
 誰も見ていないのに、瑠衣はひらひらと手を振った。その手が、ふっと止まった。何かが心に引っかかったのだ。別荘地の近くのカフェ……? いや、そこじゃない。別荘地……? 照子が適当に選んだ……?
 窓の外で赤いものが動いている。白の中の赤。昨日の夕方に降り出したみぞれが夜中に雪になったらしく、今朝起きたら外は真っ白だった。車が出せなくなりそうなのでこれから照子とふたりで雪かきをする。赤いのは照子のダウンだ。もう外に出ている。瑠衣はフユコの件を頭の隅(すみ)に押しやって、急いで帽子と手袋を身につけた。
「ひゃあああ」
 外に出ると、思わず声が出た。雪はもう止(や)んで太陽が顔を出している。積雪は五センチくらいだが、家を囲む木々の枝という枝がびっしりと雪で覆われて、キラキラ光っている。とてもきれいだ。とてもきれいだけれど、とても手ごわい感じだ。
 スコップと、大型のチリトリみたいな道具を照子が見つけ出していた。道路から家までの緩いスロープの雪を、照子がチリトリで下に落とし、落ちきらなかったぶんを瑠衣がスコップで片付ける、という分業にした。
「あんた、雪かきって経験ある?」
 作業開始後、約五分経(た)ったところで、瑠衣は照子に声をかけた。照子は首を横に振った。
「マンションの前の雪かきは、管理人さんがやってくれたもの」
 照子も作業の手を止めて、そう答えた。
「だよねえ」
 高齢者マンションに移る前に瑠衣が住んでいたのはアパートだったが、それでもやっぱり雪かきはしたことがなかった。あれは自然に溶けていたんだろうか、それとも誰かが――たとえば、下の階の大学生とかが――やってくれていたんだろうか。すごい恩恵に与(あずか)っていたんだねえと、瑠衣はしみじみと思った。
「これさ、自然に溶けるんじゃない?」
 瑠衣は再び声を放った。作業開始十分後。
「気温が低いから、溶ける前に凍ると思うのよね。凍っちゃったら、今よりもっと大変じゃない?」
 息を切らせながら照子が答えた。息を切らせているくせに冷静だ。そしてたしかに言う通りだ。瑠衣は覚悟を決めた。
「道路もやるわけ?」
 瑠衣は三度目の声を上げた。開始後三十分。スロープはほとんど土が見えるようになった。腰が痛い。
「うーん……やらないと、買い物に行けないわねえ」
 うげーっ。瑠衣が心の中で嘆いたそのとき、ガタゴト、ガガガ、という奇妙な音が聞こえてきた。スロープの下方にいた照子が、瑠衣がいる敷地の入口まで上ってきた。道の向こうに、黒いジープが姿をあらわした。車の前面に、今、照子が持っているチリトリ的道具を大型にしたようなものを取り付けている。車を走らせながら雪を取り除いているようだ。
「わーっ! 救世主! 正義の味方!」
 瑠衣は思わずスコップを放り出し、飛び上がって手を叩(たた)いてしまった。ちょっと、瑠衣ったら。照子に腕を掴(つか)まれたが、もう遅かった。ジープはスピードを落とし、ふたりの前で止まった。黒いダウン姿の青年が降りてきた。
「おはようございます」
 青年は愛想よく挨拶した。
「おはようございます。おつかれ様です」
 照子がにこやかに挨拶を返す。瑠衣も慌てて頭を下げた。
「めずらしいですね、冬のご来荘……あれ?」
 青年はサングラスを外して、瑠衣と照子を不思議そうに眺めた。
「すみません、池田(いけだ)さんだとばかり……。池田さんもいらっしゃってるんですよね?」
「あ、所用でちょっと遅れておりますの」
 照子がしれっと答えた。
「あたしたち、遠縁の者なんですう」
 瑠衣もそう言ってクネッと体を曲げてみた。
「あ……そうなんですね」
 青年はいくらか不審げに、サングラスを再び装着した。
「池田さんがいらっしゃったら、フルーツケーキのお礼をお伝えください。事務所のみんなでおいしくいただきました。また、あらためてこちらからうかがいますが」
 瑠衣と照子はニコニコと頷(うなず)いた。もちろん心の中では、冷や汗をたっぷりかきながら。

 拝借している――というのは照子の言いかただ――別荘の持ち主の名前は、「池田さん」であるわけだ。
 食料品以外の、個人情報がわかるものが入っていそうな抽斗(ひきだし)などは極力開けないようにしていることもあって、今日はじめてそれを知った。管理人の青年は自分たちを見て、池田さんが来ている、と最初は間違えたわけだから、池田さんは、少なくとも池田家の誰かひとりは、年配の女性であるのかもしれない。そして池田さんは、おそらくお手製のフルーツケーキを、毎年管理事務所に届けている――照子が言うには、「管理事務所だけじゃないわね、十個くらい焼いて、お歳暮かクリスマスプレゼントとしていろんな人に送ってるんだと思うわ。カポーティの小説みたいに」とのことだが――人であるわけだ。
「池田さん、おそるべしだね」
「カポーティの小説」は読んだことがなかったが、とりあえず瑠衣はそう言った。
「おそるべしだわね」
 照子も頷いた。しかし実際のところ恐れなければいけないのは、池田さんその人ではないことはふたりともわかっていた。ただ、まだその件については話さなかった。

「クリスマスパーティ、やろうと思ってるんだよねー」
 それで、とりあえず楽しいことを考えるべく、瑠衣はジョージにそう言う。夜の営業はもうはじまっているが、まだ客は来ていない。ジョージはカウンターの中、瑠衣はカウンター席の端に座っている。
「えっ。どこで。誰と」
 ジョージがくわっと目を見開いて聞く。
「源(げん)ちゃんと依ちゃんのお店で。あたしと照子と……あんたも来るでしょ?」
「呼んでくれんの?」
「呼ぶ呼ぶ」
「行くよ。何があっても絶対に行く」
 いちいち大げさな男だねと瑠衣は思う。あ、もしかして、照子とのロマンチックな聖夜を想定してるんだろうか。
「てか、ここでやってもいいよ。楽器の演奏もできるし、歌も歌えるし。貸切にするよ」
「そうだね、それもいいね」
 相談をはじめたところで、扉が開いた。今夜最初の客だ。振り返って瑠衣はびっくりした。みどりさんだったからだ。思わず彼女の背後に、砂川の姿を探した。
「どしたの? ひとり?」
「ひとり。……でもいいですか?」
「もちろん」
 瑠衣とジョージの声が揃(そろ)って、みどりさんは瑠衣の隣に座った。白ワインを所望したので、瑠衣も付き合って同じものを飲むことにした。ジョージも、缶ビールを開けた。
「とりあえずカンパーイ」
 何に乾杯なのかわからないまま瑠衣は音頭(おんど)をとった。三人はグラスと缶をカチンと合わせた。
「今日は砂川さんは? あとから来るの?」
 瑠衣が聞くと、「来ない」とみどりさんはぼそっと答えた。
「検査の結果、もう出たの? 悪かったの?」
「悪くなかったの」
「あら……」
 てっきり悪かったのだと思った。それで、相談というか慰めを求めて、ここへ来たのだと。
「先に受けていた検査の結果が今日わかったの。夫は自分は絶対肺がんだ、もうだめだって早々に絶望してたんだけど、肺がんじゃなかったの。息苦しい感じがするのも、声がかすれるのも、たぶん老化のせいでしょうって、先生が」
「なーんだ。よかったじゃない。じゃあ今日はお祝い? あれ? でも砂川さんは来ないんだよね?」
「来ない。今頃私のこと、捜してるわ。私がいるって絶対彼は思わないところに来たの、私」
 瑠衣はジョージと顔を見合わせた。
「ケンカ?」
 とジョージが聞く。みどりさんは首を横に振る。
「夫があんまり大騒ぎするから、私もその気になってたの。ああ、この人死んじゃうんだなあって。でもどうやら当分死なないことがわかって、そしたらなんだか、気が抜けちゃって」
 うんうんと、瑠衣は頷いた。自分がみどりさんでも、そうなる気がした。
「死んじゃえばいいとまでは、思ってないのよ。でもねえ……結局この先ずうっと、あの人と一緒なのねって思ったらねえ……」
「ここで飲みたくなったってわけだね。いいじゃん、飲もう飲もう」
 瑠衣はあらためてグラスを掲げた。
 ほかの客が入ってくるまでに、四十分ほどあった。その間に瑠衣は、「ある友だち」の話をした。その友だちもね、自分の夫にもうどうにもがまんならなくなってね、ある日飛び出したんだよ、家を。そりゃまあ、そのあと何もかもうまくいきましたってわけじゃないけど、とにかく楽しそうだよ彼女は。うん、あたしが今まで知っていた彼女の中でいちばん楽しそう。生き生きしてる。彼女の歳? えーと、あたしよりちょっと上くらいかな(ここは、少し盛った)。
 それから瑠衣はステージに立ち、途中、みどりさんのリクエストで「シェリーに口づけ」を歌った。みどりさんは若い頃、ミッシェル・ポルナレフのファンだったそうだ。ステージのあとまた彼女の隣に瑠衣は戻って、そんな話を聞いた。そして九時過ぎになって帰ることにしたみどりさんの背中に「ねえ、クリスマスパーティにおいでよ」と瑠衣は声をかけた。

(つづく) 次回は2022年7月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。