井上荒野
キャーッという声が聞こえて、瑠衣(るい)と照子(てるこ)は窓辺に立つ。 信じられないことにあれからまた雪が降った。今朝は十五センチは積もっている。数日前に必死で雪かきしたスロープが、きれいに真っ白に戻って、「さあ雪かきしましょう」と、瑠衣も照子もまだ口にしていない。 声は、子供のものだった。前の道の上のほうで、橇(そり)遊びをしているらしい。黄色いジャケットを着た子供が、赤い平べったいものに跨(またが)って滑り降りてくるのが見えた。 「橇遊びができるくらい積もってるわけだね」 「そういうことね」 そしてまた沈黙が訪れた。うん、ようするにここは雪国なんだねと瑠衣は思う。雪国としての本領が、これから発揮されるわけだ。 子供は元気だ。橇を抱えて雪を漕(こ)ぎながら坂を上っていく。子供の姿が見えなくなると、入れ替わりのように降りてくるものがあった。やっぱり橇だ。子供のものよりずっと大きくて、何かを積んだ上にカバーが掛けてある。橇の上に人は乗っていない。人は橇を引いている。フードつきの黒いマントみたいなものにすっぽり包まれた小柄な人で、瑠衣はなんとなく「笠地蔵」(かさじぞう)を思い出した。 その笠地蔵と橇は、瑠衣と照子の「拝借している」家の敷地内に入ってきた。ふたりは、バタバタと階下に下りた。 ドアを開けると、その人はフードを脱いでニカッと笑った。頬(ほ)っぺたを真っ赤にしたウトヌマさんだった(瑠衣の中では、どうしても片仮名でその名前が出てくる)。 「ごきげんよう。薪(まき)を少しお持ちしたの。雪だし、寒いし、足りないんじゃないかしらと思って」 つまり、橇の上のカバーの下は薪らしい。 「というかね、橇で薪を運ぶ、っていうのをやってみたかったのね。せっかく積もったことだし」 「まあまあ……それはご親切に。とにかくお入りになって。温かい飲みものを作りますから」 照子が言ったが、ウトヌマさんは首を横に振った。 「ご近所付き合いっていうのが苦手なんですの。それでこんな山の中に住んでいるわけで……。お気持ちだけでじゅうぶん」 ウトヌマさんがさっさと橇から薪を下ろしはじめたので、瑠衣と照子も慌てて手伝った。ご近所付き合いが苦手ねえ……と、瑠衣は内心首をひねる。そういう人が、通りすがりに何度か会っただけのあたしたちに、わざわざ雪の中橇を引いて薪を持ってきてくれるだろうか? っていうか、あれ? ちょっと待って。ウトヌマさんにあたしたちの家の場所を教えたっけ? 教えてないよね。どうして彼女はこの家にあたしたちがいるって知ってるわけ? ちらりと照子のほうを窺(うかが)うと、同じことを考えているのだろう、むずかしい顔をしている。 「あ、そうそう」 薪をすべて下ろし終わると、ウトヌマさんはふと思いついた、というふうに言った。 「昨日、所用で管理事務所に行きましたら、管理人さんが池田(いけだ)さんのことを気にしていました。ほら、あの、フルーツケーキの池田さん。うちにもお送りくださいますのでね、存じ上げてますの。池田さんの家に遠縁だっていう女性がふたり来てるんだけど、池田さんはどうしたのかなあって管理人さんがおっしゃるので、外国旅行中らしいですよってお答えしておきました。あまり適切な答えじゃなかったかもしれませんけど、咄嗟(とっさ)だったので……。しばらくの間はそれでどうにかなると思いますわ」 それじゃ、ごめんくださいませと会釈して、ウトヌマさんは空(から)になった橇(というか、空になってわかったのだがそれはどうやら、照子が敷地内で見つけたのと似たような、大型のチリトリ的なものだった)をずるずる引きずって、スロープを下っていった。その後ろ姿を瑠衣と照子はなんとなく無言で見送った。瑠衣には――たぶん照子にも――いくつかのことがわかった。照子と瑠衣が「不法侵入者」であることを、たぶんしばらく前から、ウトヌマさんは気がついていたこと。ウトヌマさんが今日ここまで来たのは、薪を分けてくれるためというより、池田さん情報を知らせてくれるためであったこと――「しばらくの間はそれでどうにかなる」かもしれないけれど、危機が迫っていることを注告するためであったこと。 瑠衣は思わず駆け出していた。 ウトヌマさんは雪に慣れているのか、もうスロープを下りきり、道を上りはじめていた。ウトヌマさーん。瑠衣は叫んだ。怪訝(けげん)そうに振り返って足を止めたウトヌマさんのほうへ、雪に足を取られながら、よろよろと近づいていく。 「ク、クリスマス」 「クリスマス?」 ウトヌマさんは首を傾(かし)げた。 「クリスマスパーティやるから。来て。絶対来て。近所付き合いが苦手でも、来て。お願い」 ウトヌマさんはちょっと考えてから、頷(うなず)いた。その瞬間、そのこととは無関係に、でもたぶんそのことが何かのスイッチになって、瑠衣はある合点をした。粉砂糖をまぶしたように雪をかぶった頭上の枝々が、ふいに激しくきらめいた。 「ウトヌマさんのこと、クリスマスパーティに誘ったよ」 もらった薪を家の中に運び込みながら、瑠衣は照子に報告した。 「いらっしゃるって?」 「いちおう、頷いてたけど」 「クリスマスパーティは、ご近所付き合いとはべつだものね」 「だね」 べつだとは思えなかったが、ウトヌマさんが頷いたことを奇妙には思わなかった。ウトヌマさんはたぶん、行くべきだ、と思ってくれたのだ。 「みどりさんも呼んだのよね」 牛乳を小鍋に注ぎながら、照子が言った。カフェオレを作るつもりだろう。 「うん。なんなら砂川(すながわ)オヤジも呼ぼうかと思ってるんだけど。もちろん、みどりさんがよければだけど。砂川オヤジが来る気になるかはわかんないけど」 「面白そうね、それ。もし来たら、私、あの人のことちょっと見直すわ」 「そういうこと」 カフェオレが出来上がり、ふたりでテーブルに向かい合って飲んだ。約半分ほど飲み終わるまで、瑠衣は黙っていた。照子もなぜか喋(しゃべ)ろうとしなかった。瑠衣はカップをテーブルに置くと、照子をじっと見た。 「あんたさ、何か、あたしに隠してることない?」 照子は目をぐるぐるさせた。 「何かって、何かしら」 「冬子(ふゆこ)」 瑠衣は思い切ってそう言った。照子は目をぐるぐるさせるのをやめて、瑠衣をじっと見つめ返した。 「依(より)ちゃんの、お母さん」 瑠衣はさらに言った。照子の唇のかたちがゆっくり変化し、照子は静かに微笑(ほほえ)んだ。 「隠してなんかないわよ。今、言おうと思ってたのよ」 「ジョージの店」のドアを開けると、吹雪(ふぶき)がゴオッと店内に吹き込んで、カウンターで例によって文庫本を読んでいたジョージはびくっと腰を浮かせた。吹雪にというより、頭からショールをぐるぐる巻きにして黒いゴム長靴を履いた瑠衣の姿に驚いたのかもしれない。 「え? 今日、土曜日だっけ? え?」 動揺してそんなことを言っている。もちろん今日は土曜日ではなく、吹雪の中、重装備でここまで来たのは、ステージのためではない。照子が車で送ると申し出てくれたのだが、照子のBMWはノーマルタイヤだし、それでなくても今日は運転が不安になるほどの吹雪だしということで、瑠衣は別荘地内にあるバス停から、バスに乗ってひとりで来た。車事情のほかにも、ひとりで来る、というところにたぶん意味があり、照子もそこを尊重してくれたようだった。 「店、休みにしようと思ってたんだよ。こんな天気じゃ、誰も来ないだろ」 「ちょうどいいよ。ふたりで飲もうよ」 時間は午後六時過ぎだった。別荘地に戻る最終便のバスはもう終わっている。 「照子さんも来るの?」 「来ない。この雪だもん」 「えっ。じゃあどうやって帰るんだよ」 「帰らない。一晩中飲み明かすつもりで来たの。どう? 受けて立つ?」 「お……おう」 ジョージは受けて立った。そうこなくっちゃ。瑠衣は、ショールとコート――別荘地で暮らすようになってから、照子から着用を控えるように言われていたお気に入りのフェイクファーのコート――を脱いで、カウンターの奥に置いた。コートの下には大きなバラの形のカットレースが胸元に嵌(は)め込まれた、体の線をあらわにするロングドレスを身につけてきた。コート以上にお気に入りのドレスで、とっておきの日に着ようと思って、ステージでもまだ着ていない。「とっておきの日」というのがどういう日であるのかは、まったく考えていなかったのだが、つまり、こういう日だったわけだ。予想外だが、まあ、悪くはないね、と瑠衣は思う。 「シャンパンで乾杯といきたいけど、ないよね、ここには」 「なめんなよ。あるよ」 瑠衣の出(い)で立ちにあらためて動揺しているらしいジョージは、小学生みたいな口調でそう言って、パントリーから瓶を一本持ってきた。 「シャンパンって賞味期限あるのかな」 「ビンテージってことでいいんじゃない? っていうか、いつからあるのよ、それ?」 いつから、どうしてそこにあるのかさえ覚えていないらしいシャンパン(でも、モエ・エ・シャンドンだった)の栓を、ジョージがスポンと開けて、ふたりだけの酒宴ははじまった。 「なんかあったの」 グラスを打ち合わせ、最初のひと口をそれぞれ飲んだところで、ジョージが聞く。パントリーの中は外と同じくらいの気温なので、モエはよく冷えている。 「あんたって、どうしていつも花柄のシャツ着てんの?」 瑠衣は質問に質問で返した。今日のジョージのシャツはコーデュロイで、辛子(からし)色の地に青いチューリップ柄だ。一枚ではさすがに寒いのだろう、その上に黒いモコモコしたカーディガンを羽織っているのが、まあ自由っていうかこの男らしいっていうか、セクシーだと言えないこともないね、と瑠衣は考えてみる。 「似合うって言われたからさ」 「あら。誰に」 「もうちょっと飲まないと言えないね」 それで、もうちょっと飲んだ。三十分でモエが空き、次は白ワインを開けた。 「なんかあったの?」 ジョージがまた聞いた。 「なんであたし今、こんなところにいるんだろ」 瑠衣は言った。 「嘆いてるんじゃないよ、単純に不思議だって話。九州に骨を埋(うず)めることになるんだって思ってた頃もあったのよ。それが今、こんな雪国で、花柄のシャツの男と飲んでるなんてさ」 「九州にいたんだ?」 ジョージが聞いた。瑠衣は頷く。 「なんか、お腹空(す)かない? ソーセージかなんか炒(いた)めてよ」 「カレー食えよ。カレーの店だぞ」 「カリーの店ね。意外とおいしいんだよね、ジョージのカリーは。どこで覚えたの?」 「もうちょっと飲まないと言えないね」 結局ジョージはパントリーと冷蔵庫をごそごそやって、スパムと豆腐の炒めものを作ってくれた。店の客には基本的に食べものは、乾きもののほかは「カリー」しか出さないのだが、意外に料理が上手(うま)い(照子には負けるが)ということを瑠衣は今日はじめて知った。もちろんあとでカリーも食べよう。夜は長いのだから。 照子が「隠してたわけじゃなくて、今、言おうと思ってた」ことはふたつあった。そのうちのひとつは、瑠衣が考えていた通りのことで、もうひとつが、ジョージのことだった。ジョージが照子のトランプ占いを受けにきたこと。そしてどうやら、あたしに惚(ほ)れてるらしいこと。それで瑠衣は今、ここにいるのだった。本当はジョージと照子をくっつけたかったのだが、照子には全然その気がなさそうだし、ジョージがあたしにイカれてしまったのなら、仕方がない。 いろんな意味で、ジョージの恋心には応えられないけれど、ジョージはいいやつだし、世話にもなったのだから、それなりの気持ちを尽くそう、と瑠衣は考えたのだった。 白ワインももうすぐ空きそうだった。たぶんそのうちジョージは、花柄が似合うと言った人のことや、意外に料理が上手なわけなんかを、話してくれるだろう。そしてあたしもポツポツと話し出すだろう。全部は話すつもりはないけれど、話せるところまで。あたしがいなくなったあと、ジョージがあたしを思い出すときに、なんていうか、細いいろんな水路から本流に辿(たど)り着けるように。それがあたしの、ジョージへの気持ちだ。(つづく) 次回は2022年8月1日更新予定です。
東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。