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  • 第十九回 照子(1) 2022年8月1日更新
 結局、クリスマスパーティはジョージの店で開催することになった。
 ようするに、イブの夜、ジョージの店にみんなで集まる、ということだ。店は貸切にはしない。来る者は誰でも拒まない。そういうスタイル。
 参加が決まっているのはジョージ、依子(よりこ)さんと源太郎(げんたろう)さん、瑠衣(るい)と私。たぶん来てくれるのがウトヌマさんとみどりさん。もしかしたら来るかもしれないのがみどりさんの夫の砂川(すながわ)氏。そうして、もし間に合ったら、依子さんのお母さんとそのパートナーもやってくる。
 ジョージはカレー(カリー)と、「ずっと使ってないけどたぶんまだ使えるオーブン」で、ローストチキンを作ってくれるそうだ。依子さんと源太郎さんは、手打ちのピザを仕込んでくるとのこと。じゃあ、私は何を作ろうか……照子(てるこ)はダイニングテーブルの上で、考え考え、メモにボールペンを走らせていた。
 イブを明後日(あさって)に控えた昼下がりだった。昨日、今日とよく晴れて気温も上がり、雪はずいぶん溶けた。これから、またたくさん降る日があるのだろうけれど。とりあえず、年内の雪の予報はない。ホワイトクリスマスだったらよかったのにーと、依子さんと源太郎さんは残念がっていたけれど、照子と瑠衣にとっては、こと雪にかんしてはロマンよりも利便性――車が走れるかどうか――が重要だった。
 ケーキ、と照子はメモに書いた。誰も言い出さなかったから(たぶん、飲むことばかり考えているせいだろう)、これは私が作ろう、と思う。この家にはオーブンはないから、フライパンで。生クリームをたっぷりのせて、フルーツで飾って……クリスマスケーキというよりは、どちらかと言えば、依子さんと源太郎さんへのお祝いケーキになりそうだけれど。それから、何か煮込み料理。このあと買い物に行って、牛スジが手に入ったら、ワイン煮を作ろう。安いワインを二本くらい買って……。付け合わせにマッシュポテトをどっさり。あ、でも、依子さんのお母さんたちはイタリアから来るのよね。和食があったほうがいいかしら。押し寿司とか……もっとあったかいもののほうがいいかしら、じゃあ蒸し寿司を作って、ジョージのところで蒸してもらうとか。依子さんのお母さんって、何か好物はあるのかしら。子供の頃、好きだったものとか……。
 それで、照子の視線は無意識に瑠衣のほうへと向いた。瑠衣はリビングのソファに掛けて、せっせと編みものをしている。ここ数日、睡眠時間を削って編み続けているらしい。というのは、瑠衣は、生まれて来る赤ちゃん用の靴下やケープのほかに、参加者全員ぶんのミトンを編む、という無謀な目標を立てているからだ。
 だってひとりだけに編んだらえこひいきでしょ。瑠衣が言ったのはそれだけだったが、それだけで照子にはわかってしまった。瑠衣は、依子さんのお母さんの、冬子(ふゆこ)さんに手編みの手袋を贈りたいのだ。でも、冬子さんのためだけに編んだら、ほかのみんなも、冬子さんも不審に思うだろうから、そうならないようにしているのだ。
「気づいてた?」
 昨日、照子は瑠衣に言った。
「依子さんの『依』には、瑠衣の『衣』が入ってるのよ。これって偶然かしら。冬子さんからの、瑠衣へのメッセージじゃないかしら」
「気づいてたよ。依ちゃんの名前を知ったときに、なんかあたしの名前っぽい名前だなと思ってたし。あんたの話を聞いたあとで、そのことをあらためて考えてた。たしかに偶然じゃないかもしれない。でも、偶然かもしれない。だって依子って名前を考えたのが冬子だとはかぎらないでしょ。偶然じゃなくて、メッセージも込められてるのかもしれない。でも素敵なメッセージじゃないかもしれない。恨みがこもってるのかもしれない」
「恨んでたら、瑠衣の名前から一文字取ったりしないわよ」
「いいの。考えたってわからないんだから。そうだよ、あたし何にもわかんないんだよ、自分の娘のこと。でも冬子はちゃんと大きくなって、いいことばっかりじゃなかったかもしれないけど、依ちゃんっていう素敵な子を産んで育てて、今はシチリアで暮らしてる。それでいいの。それがわかっただけで、もういいの」
 瑠衣がいきなり顔を上げたので、目が合ってしまった。瑠衣はジロリと照子を見上げ、やっぱり首を振った。これは、「もう聞く耳は持たないよ」という意味だろう。照子はコクコクと頷(うなず)いた。この件にかんしては、昨日、たっぷり話した。照子は瑠衣の説得を試みたのだが、瑠衣の気持ちは頑として変わらなかった。それで、照子も今は納得している。瑠衣がそう決めたのなら、その気持ちを尊重しよう、と思っている。
「編みもの、私も手伝いましょうか? 砂川さんのぶんくらい、私が編んだっていいんじゃない?」
 それで、照子はそう言ってみた。瑠衣はやっぱり首を振る。
「編み目が違うとわかっちゃうし。それに全員ぶん、編みたいんだ、マジで」
 意外に頑固だ。編み目の違いなんて誰にもわからないわよと照子は思ったけれど、それ以上言うのはやめた。実際のところ、砂川氏のことは、照子は瑠衣のようには許していない。いや、根に持っているということでもないのだが、彼のために手袋を編むのは(瑠衣にはああ言ったけれど)気が進まない。でも、瑠衣は彼のぶんも断固として自分で編むつもりらしい。これは瑠衣の心の広さというより、決意と覚悟のあらわれなのかもしれない。

 照子が、「冬子」を探しはじめたのは、三年前――瑠衣の最初の夫が亡くなったときだった。
 瑠衣は、彼の葬儀には「もちろん」参列しないと言った。なぜなら、葬儀に赴けば、冬子に会ってしまうから。そんなの許されないでしょ? あっちには、再婚した奥さんもいるわけだし。冬子はその人のことをじつの母親だと思ってるかもしれないし。瑠衣はそう言った。私なら許すわ、と照子は言ったが、瑠衣は耳を貸さなかった。というか、早々にその話を打ち切りにした。葬儀には行かないと瑠衣が決めている以上、もう話したくない、という気持ちはわかる。でも、話したくないということは、こだわっている、ということでもあるわ、と照子は考えた。
 四十年前、クラス会で再会してふたりだけの二次会をしたとき、大泣きしながら打ち明けた以上のことを、以後、瑠衣は照子にほとんど明かさなかった。照子も、自分のほうから質問するということは慎んでいたので、三年前の時点で照子が冬子について知り得ていたことは、瑠衣の最初の夫の苗字が小此木(おこのぎ)であること、つまり結婚して姓が変わるまでは瑠衣の娘のフルネームは小此木冬子であろうこと、冬子の誕生日と生まれ年、生まれ育った場所が長崎県佐世保(させぼ)市であること――くらいだった。そこで照子は、瑠衣の手を借りずに冬子を探し出すために、熟練の(と、自分では思っている)検索能力を駆使したのだった。簡単ではなかったが、やがて、小此木冬子さんがアカウントだけ作ってその後ほとんど放置しているツイッターのアカウントに行き着いて、そのフォロワーの中に――といっても、フォロワーは三人だったが――小此木依子という名前を見つけた。そうして小此木依子で検索をかけると、彼女のフェイスブックがヒットして、小此木依子さん――小此木冬子さんの娘にして瑠衣の孫である彼女が、大岬(おおみさき)源太郎さんとの結婚を機に、長野に移住してカフェを開く、という情報をゲットしたのだった。
 小此木依子さんのフェイスブックを追ううちに、小此木冬子さんは離婚後、その後サルバトーレ氏と出会って今はフユコ・サルバトーレとしてシチリアで暮らしているということがわかった。照子はいったんガッカリしたのだが、でも孫の依子さんは長野にいるわけだ、と前向きに考えることにした。長野は、シチリアよりはずっと近い、と。
 私は子供を持たなかったから、母性とか、子供への愛情といったことについてよく知っているとはいえない、と照子は思う。でも、瑠衣のことはよく知っている。瑠衣のことは、きっと誰よりもよくわかっている。だから、冬子に会おうとしない瑠衣の気持ちがよくわかる。同時に、実際は会いたくてたまらないはずだということも。
 自分からは会わないと瑠衣が決めているのなら、偶然を用意すればいい。照子は、そう考えたのだった。これは三年前からの、照子の人生のテーマのひとつだったとも言える。まずは偶然、孫に会う。そこからきっと気持ちが解(ほど)けて、いずれ娘に会うことができるかもしれない。再会しないまま人生を終えるなんて、そんなの悲しすぎるもの。
 とはいえシチリアはあまりに遠く、冬子さんに会える日は来るのだろうか、と半(なか)ば諦めていたところに、依子さんの妊娠、冬子さんの来日、という嬉(うれ)しいサプライズが続いて、天は我に味方したわ、と照子は内心ガッツポーズしていたのだけれど――。

「手が痛い……」
 瑠衣が全員ぶんの手袋を編み終えたのは、イブの日の正午過ぎだった。
 照子は、瑠衣の手と肩をマッサージしてやった。「あーっ」と瑠衣は吐息のような、雄叫(おたけ)びのような声を上げた。そこに込められている気持ちの全部が、照子にはわかる気がした。
「がんばったわねえ」
 リビングのテーブルの上に並べられた七組のミトンを、照子は感動とともに眺めた。黒地にフューシャピンクでチューリップを編み込んであるのがジョージ用、水色の地に、焦げ茶色でカモシカらしき動物が編み込んであるのが、ウトヌマさん用。鮮やかな緑の地に、白い花を刺繍(ししゅう)してあるのが、みどりさん用。真っ赤で、親指だけ黒い糸で編んであるのは、砂川氏用(このデザインについて含むところはないと瑠衣は言ったけれど、大いにあるような気が照子はしている)。源太郎さんには青と黄色のストライプ。依子さんにはフューシャピンクと黄色のストライプ。真っ青な地に白い糸で波みたいな刺繍をしてあるのは、サルバトーレ氏に。そして冬子さんへのミトンは明るい黄色で、真ん中に小さな赤いハートの刺繍が刺してあった。
「黄色が好きだったんだよね、あの子。本人はたぶん覚えてないと思うけど」
 瑠衣は言った。
「覚えてたとしたって、偶然だと思うよね。ハートもさ。お花やカモシカの刺繍と同じに、ちょっとなんか思いついて刺してみた、って感じだよね」
 照子はうんうん、と頷いた。でも本当は、その小さなハートには、瑠衣の思いの丈(たけ)が詰まってるのよね。その思いを直接本人に伝えるべきじゃないかしら、とやっぱり思うけれど、口に出すことはやっぱり控えた。
「いい匂いがするねえ」
 瑠衣は鼻をヒクヒクさせた。前日、瑠衣がせっせと編んでいる間に照子はひとりで買い物に行き、今日の午前中に料理の仕込みはほぼ終えていた。
「クリームシチューよ。味見する?」
「えっ。クリームシチュー……」
 ワイン煮をやめてクリームシチューを作ることにしたのは、それが子供の頃の冬子さんの好物だったと、瑠衣から聞いたからだった。
 照子より先に瑠衣が立ち上がり、キッチンへ行った。わあっという声が聞こえてくる。
「どう? おいしい? 再現できてる?」
 クリームシチューには玉ねぎ、人参(にんじん)、じゃがいも、ブロッコリーのほかに、大きなミートボールがゴロゴロと入っている。人参は、瑠衣が作るそれに入っていたのは花型人参だったそうだが、照子は星型にくり抜いた。ぴったり同じだと偶然とは言い張れないし(言い張らなくてもいいんじゃない、と照子はやっぱり思うわけだが)、星なら、クリスマスっぽくもあるから。
 瑠衣からの返事はなかった。まだ食べてるのかしらと思いながらキッチンへ行くと、瑠衣は調理台に置いたシチューの鍋の前で俯(うつむ)いていた。
「全然違う。こっちのほうが、断然おいしい」
 俯いたまま瑠衣はぼそぼそと言った。
「泣くくらいなら……」
 と照子は言いかけてやめた。
「泣いてないし」
 と瑠衣は言って、星型の人参をお玉ですくって、ぱくりと口に入れた。

(つづく) 次回は2022年8月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。