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  • 第二回 照子(2) 2021年11月15日更新
 照子(てるこ)と瑠衣(るい)が中学生だった頃、ふたりが住んでいた東京郊外のその辺りには、田んぼや畑がまだふんだんに残っていた。
 照子が思い出すのはトマトだ。通学路にトマト畑があった。畑と畑の間の狭いあぜ道を通って学校へ通っていた。夏、小さな青いトマトの実は次第に大きくなっていき、まだ十分に赤くならないうちにある日収穫されて畑から消えてしまうのだが、ひとつふたつ、残って赤くなるものがあり、そんなトマトを見るたび当時の照子は、瑠衣を思い浮かべていた。
 割れ目が入っていたり形が歪(いびつ)だったりして、取り残されて赤く熟(う)れていくトマト。たくましく生き延びているイメージがあったが、そのたくましさにはどこか悲壮感もあった。割れたトマトが笑っているように見えるとき、その表情は瑠衣の笑い顔に重なった。
 といっても、仲が良かったわけではなかった。中学二年と三年の間、照子と瑠衣は同じクラスだったのだが、かかわりはほとんどなかった。サバンナの草食獣と肉食獣みたいなものだった。いやサバンナであればライオンがシマウマに襲いかかるということが起きるだろうが、その種のかかわりさえないエリアにそれぞれ生息していた。端的に言えば照子は校内模試でつねに上位三番以内の点数を取る優等生で、瑠衣は校内模試の途中で教室を出ていってしまったり、鞄の中にタバコを隠しているのを見つかったりして、始終職員室に呼び出されている不良少女だった。お互いに相手の存在を知っているだけで、言葉を交わすきっかけも必要もないまま中学二年は過ぎていた。
 中学三年の一学期の終わりに、台風みたいな大雨が降った。朝、家を出るときには止(や)んでいたのだが、照子がトマト畑まで来てみると、あぜ道がすっかり水没していた。恐怖に駆られて突っ立っていると、そこに瑠衣がやってきたのだった。
 後から瑠衣の家の住所を調べたら、そのあぜ道は瑠衣の通学路でもあったのだった。通常は照子よりずっと遅くそこを通っていたのが――というのは瑠衣は、遅刻の常習者でもあったから――その日は近くの川の増水を見物に行ってそのままそこへ来たらしい(と、後から聞いた)。そうしたら同じクラスの、シマウマあるいはキリン的な女が足を竦(すく)ませていた。そういう成り行きだった。ひゃーっ。小川のようになったあぜ道を見て瑠衣は嬉しそうな声を上げた。
「行こう」
 と瑠衣は照子に言った。照子が呆然としていると、手を引っ張られた。今日はいったん家に帰ったほうがいいのではと考えていたのに、瑠衣と一緒に泥濘(ぬかるみ)にずぶずぶ入っていくことになった。ひゃあ。うひゃっ。すごっ。瑠衣は賑(にぎ)やかに声を上げながら、照子をぐいぐい引っ張って歩いていった。
「あんた、そんなに学校行きたいの?」
 途中で水かさがぐんと深くなり、スカートをブルマーみたいにたくし上げながら瑠衣は言った。
「え? いや……」
 照子も瑠衣に倣(なら)いながら、そういうわけじゃない、ということを説明しようとした。
「さっすが優等生だね」
 照子が何か言う前に瑠衣がそう言い、そのいかにも適当な納得に、照子は思わず笑ってしまった。あははは。思えばそれが、照子が瑠衣の前で笑い声を上げた最初だった。
 水がない場所に行き着くと、じゃあねと片手を上げて瑠衣は走って行ってしまった。あれはあんたに気を遣ったのよ、一緒に登校するとあれこれ言われるからね、あんたもあたしも。あとから瑠衣はそう説明した。靴もスカートもびしょびしょで、その日はふたりとも体操着で授業を受けたのだが、それをきっかけにして交流をはじめる、ということはまだなかった。それはそれから十六年後のことになる。

「あんたってそういう女よね」
 瑠衣が言う。今ふたりは、双葉(ふたば)SAのハーブガーデンの中にあるベンチに座っている。朝、ペットボトルのミルクティーを飲んだだけだと瑠衣が言い出して、いなり寿司をここで食べることになった。
「どんなときだって、わざわざこういうの作ってきてくれちゃうのよね。まあ、ずっとコンビニ弁当ばっかり食べてた身としてはありがたいけどさ」
 やっぱり言ったわ。照子はそう思うが、本当の意味で、私が「そういう女」であることを瑠衣はまだわかっていない、と考えている。寿朗(としろう)に置き手紙を残してきたことも、これからの計画もまだ打ち明けてないから。
「ひゃあ。ちりめんじゃこが入ってるじゃない。凝るわねえ。料理にかんしては、あんたいつも徹底的にやるよね」
 おーいーしーい! と瑠衣は声を上げる。照子も食べた。もちろん、おいしい。どんなときでも――こんなときでさえ――こんなにおいしいものを作れてしまうというのは、私のいいところだろうか、悪いところだろうか。寿朗はこれを食べるだろうか、とふと考える。食べてほしいと思っているのか、バカにするなと怒鳴ってゴミ箱に放り込んでくれたほうが気が楽になるのか、それもよくわからなかった。寿朗がどんな男であったにせよ、まがりなりにも四十五年間も共に暮らしていたのだから。
 瑠衣は三つめのいなり寿司に手を伸ばし、照子ももうひとつ食べようと思ったときだった。「まだ食ってんのかよ?」というダミ声が頭上から降ってきた。
「俺ら、さっきから待ってんだけど。サービスエリアでピクニックすんなよ。少しは人の迷惑考えろよ」
 文句を言っているのは三十歳くらいの体格のいい男だった。言葉や態度の横暴さに比べると、赤いポロシャツと白いジーパンという出で立ちはごくふつうだった。横に、彼より少し若いくらいの女性――ミニスカートにタンクトップ、透けるボレロみたいな羽織りもの――が立っていて、きれいに化粧した顔でこちらを睨(にら)みつけている。
「ここに来たらそこに座るのがあたしたちの決まりなんですけどぉー」
 女性は怖い顔のままそう言った。照子はちらりと瑠衣を見た。目を丸くして、闖入者(ちんにゅうしゃ)を凝視している。口を利(き)かないのは、今口いっぱいにいなり寿司が入っているせいだろう。
 照子は躊躇(ちゅうちょ)しなかった。なぜなら、躊躇しない、というのはこれから先のテーマのひとつであるからだ。ショルダーバッグの中を探ってサングラス――みっつ持っている中でいちばん濃いグラスのを持ってきた――を取り出し、それをかけた。それから、おもむろに右腕のシャツの袖をまくりあげた。
 こちらの腕には、びっしりと刺青(いれずみ)が入っているのだ。
 赤いポロシャツの男とミニスカートの女の表情が、一瞬にして強(こわ)ばった。やったわ。照子は胸の中でガッツポーズした。だが次の瞬間、ミニスカートの女が吹き出した。
「それアームカバーじゃん」
 しまった。距離が近すぎたんだわ。車の窓からさりげなくこの腕を出すと、「煽(あお)られる危険が少なくなります」って書いてあったんだけど。
「何ドヤ顔で見せてんの? 意味わかんない」
「なめてんじゃねえぞババア」
 また攻撃がはじまってしまった。照子は再び瑠衣を見た。情けないが、すがるような表情になっていただろう。瑠衣の目がカッと見開かれた。いなり寿司をようやく飲み下したのだ。
「なめてんのはそっちでしょうが。人が座ってる場所に座りたいならそれなりに礼儀を尽くして頼みなさいよ。“あたしたちの決まり”って何よ。なんであたしらがあんたたちの決まりに従わなきゃなんないのよ。ババアだと思うんなら年寄りに敬意を表しなさいよ。意味わかんないのはこっちだよ。だーっもう! 頭にくる! だーーーーっ!」
 さすがの迫力だった。瑠衣はシャンソン歌手だから、声量があるのだ。ガーデン内にいる家族連れがこちらを見ている。駐車場のほうでも首を伸ばしている人たちがいる。
 若いふたりはあきらかに気圧(けお)されていた。「ババア」から反撃されるなんて想定外だったのだろう。いいよもう、行こうよ。女が男に囁(ささや)いた。チッ。男がわざとらしく大きな舌打ちをして、ふたりは立ち去っていった。
 照子は三度、瑠衣を見た――今度は恐る恐る、窺(うかが)うように。
「よく、がんばりました」
 腹立たしいことに、瑠衣はやさしげにそう言って、うんうんと頷(うなず)いて見せた――笑いをかみ殺した顔で。
 

 高速を降りて、車の中は静かになった。
 刺青柄のアームカバーについて、ひとしきり面白がっていた瑠衣は、ようやく気が済んだらしい。
 照子の真剣さが伝わってくるせいもあるのかもしれない。あるいは何かおかしい、と察知しはじめているのかも。今、車は、八ヶ岳(やつがたけ)の麓(ふもと)の別荘地の中を走っていた。ここまではちゃんと調べておいたのだ。でも、どの家がいいかは、実際に見てみないとわからない。
「自分の別荘の場所、忘れちゃったの?」
 登り切った坂の上で照子が車をUターンさせると、瑠衣はやや不安そうにそう聞いた。
「黙ってて」
 照子は右の道に入った。この季節、別荘地内はひと気がなくて、ほかの車にも居住者にもまったく出逢わない。もちろん、そういう時期だと知ってこの計画を立てたのだ。あまり管理が行き届いていない、山深い別荘地だというのもポイントだった。ぐるぐる走っている間に、候補を二軒見つけていた。この通りもよさそうだ。うっそうとした木々の向こうに一軒ある。照子はそこへ入っていった。
 車を停める。木に遮られて表から車が丸見えにならないところもいい。家は焦げ茶色の木肌のシンプルな作りで、いかにも古く、朽ちかけていると言ってもいいほどだが、それは安心材料にもなる。ここにしましょう。そう決めた。
「ここ?」
 瑠衣が、失望をあらわにした声を出す。もっとモダンできれいな別荘を想像していたのだろう。でもそういう家には、いつ持ち主がやってくるかわからない。
「ここよ」
 照子は決然とそう言って、玄関に向かった。ドアノブを回してみたが、もちろん鍵がかかっていた。何年も放りっぱなしでも、鍵くらいはかけておくだろう。大丈夫。そのためにこれを持ってきたんだから。
 照子はショルダーバッグの中から、ドライバーを取り出した。

(つづく) 次回は2021年12月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。