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  • 第二十回 照子(2) 2022年8月15日更新
 もちろん照子(てるこ)も、全員ぶんのクリスマスプレゼントを用意した。瑠衣(るい)ほどには手間がかかっていないけれど、ちゃんと考えて、選んだつもりだ。
 ウトヌマさんには、ここへ来るときに持ってきた三冊の本のうちの一冊――サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』を。百円ショップで買った空色の厚紙でしおりを作って、それを、とくにお気に入りの一編「コネティカットのひょこひょこおじさん」のページに挟んだ。みどりさんには、刺青(いれずみ)柄のアームカバーを。その効力を照子はあまり発揮させることができなかったが、みどりさんは活用してくれるかもしれない(「遠目が肝心」という点をカードに書き添えておこうと思う)。砂川(すながわ)氏のためにはこれも百円ショップで小さな鉄のフライパンを選んだ。願わくば彼がそれで、みどりさんのためにホットケーキや目玉焼きを焼く日が来ますように、という願いを込めて。もしも砂川氏がクリスマスパーティに姿を見せなかったら、フライパンもみどりさんにあげようと思っている(頭に来たときにそれも活用してみて、というひと言を添えて)。
 源太郎(げんたろう)さんには、バフ色のハンチング。量販店で買った安価なものに、紺色の糸で「G」の刺繍(ししゅう)を入れた。サルバトーレ氏には、同じ店で買った黒と白のタンクトップで、こちらは胸元に錨(いかり)の刺繍(照子にとっての「シチリア」とはそのようなイメージなので)。ジョージには黒地に赤とピンクのダリアのような花が散っているシャツを、やっぱり量販店で探し出した(奇〔く〕しくも、瑠衣が編んだミトンと同じような配色だ)。依子(よりこ)さんと冬子(ふゆこ)さんには、それぞれお皿にした。本同様に、ここに来るとき選んで持ってきたお気に入りのお皿だ。依子さんには、フランスのサングルミンヌの花柄の小皿を。冬子さんには古伊万里(こいまり)のざくろの絵付けのを。どちらもアンティークショップで手に入れて、とても大事にしていたものだから、手放すことに躊躇(ためら)いがないわけではなかったけれど、譲りたいと思う人ができたのは嬉(うれ)しかったし、これからはどんどん身軽になりたい、という欲求もあった。
 クリームシチュー、鯛(たい)の押し寿司といなり寿司、野菜のペーストとクリームチーズで作った三層のテリーヌ――ジョージの店に持っていく料理は、結局そういうラインナップになった――を少しずつ摘(つま)んで、「試食」兼、軽い昼食にした(料理の出来栄〔ば〕えについては瑠衣から満点をもらった。「あんたって、ここぞというときにはいなり寿司を作るよね」という言葉も)。ケーキは試食できないが、こちらも完成していて、眺めながら料理を食べた。
 それからそれぞれ、ラッピングに取りかかった(包装紙とリボンも百円ショップでたくさん買っておいた)。出来上がると、ふたりで満足げにそれらを眺め、そのあとはいよいよ大掃除に取りかかった。
 箒(ほうき)で床を掃き、雑巾(ぞうきん)掛けをし、水回りもできるかぎりピカピカにした。ストーブの中もきれいにしておきたいところだったが、さっきまで薪(まき)を焚(た)いていた炉内はまだ熱かったから、これはあきらめた。ベッドのシーツと枕カバーは、昨日のうちにコインランドリーで洗濯しておいた。アイロンがかけられないのが残念だったが、手でできるかぎりシワを伸ばしてベッドメイクした。元からこの家にあった缶詰類には、結局手をつけていなかった。その缶詰類が入っている戸棚に、桃の缶詰ひとつと、ちょっとだけ上等なオリーブオイルをひと瓶、加えておいた。
 どうすることもできなかったのは、ドライバーでこじ開けてしまった玄関ドアの鍵で、これは照子にとっては――瑠衣は「そんなのどうってことないわよ」という意見だったが――心残りだった。結局、表から南京錠(なんきんじょう)を取り付けて、その鍵をウトヌマさんに預けていくことにした(彼女へのプレゼントの中に手紙と一緒に同封した)。壊した鍵をあらたに取り付けるためのお金を置いておくべきかどうかについて、瑠衣としばらく議論を交わし、三万円を置いていくことに決めた。瑠衣は財布から出した札を包装紙で包んで、マジックで謝罪とお礼をしたためた――「鍵、壊してしまって申し訳ありません。素敵なお家をしばし拝借しました。すばらしい日々でした。ありがとうございました。T&R」。
 何か忘れていることはないか、ほかにするべきことはないか、ふたりはあらためて家の中を歩き回った。そして最後はリビングに戻って、ソファには座らず突っ立ったまま辺りを見渡し、顔を見合わせ、また見渡して、ほとんど同時に大きな息を吐いた。
 ここにいたのは五カ月足らずだった。
 照子にとってここは別天地だった。あたらしい国であり、いっそあたらしい星だった。包装紙に書いたことは本当だった――埃(ほこり)だらけで黴(かび)臭くてあちこち壊れていて、電気もガスも使えなかった家だったけれど、素敵なお家だったし、すばらしい日々だった。できることなら、いつまでもここにいたかった。でも、もちろんそれは叶(かな)わない。
「この家のこと、きっと一生忘れないわ」
 照子が呟(つぶや)くと、
「今、すごくいいこと言ったね」
 と瑠衣が言った。
「なんか、あたしたちの一生が、この先まだまだたっぷりあるみたいじゃない?」
「その通りよ。たっぷりあるわよ」
「そうだね、たっぷりあるね」
 ふたりはあらためて顔を見合わせ、声を立てて笑った。

 照子は、照子のワードローブの中ではめずらしい、真紅(しんく)のワンピースを着て、パールのネックレスをつけた。瑠衣は濃い緑色のパンタロンに、ラメ入りの黒いトップス。もちろん、パーティのための装いだ。
 パーティの開始時間は午後七時だった。
 準備を手伝うために依子さんと源太郎さん、それに照子と瑠衣は六時に集合することになっていたが、照子と瑠衣は五時前に店に着いた。
 ジョージは脚立(きゃたつ)に乗って、ガーランドを壁に取りつけているところだった。大きな本物の樅(もみ)の木はもう飾りつけが終わっていて、赤と緑の豆電球をチカチカさせている。カウンターの上には、あとは焼くばかりに成型された丸鶏が二羽、載っている。
「すごい。もうあたしたちがやること残ってないじゃん」
 瑠衣が声をかけた。
「ないよ。っていうか、来るの早いよ」
 ジョージはガーランドを取りつけ終わり、脚立から降りてきた。大型の灯油ストーブが店内を暖めていたけれど、それにしてもよれよれの半袖Tシャツにデニムという、季節感ゼロの出(い)で立ちだ。ジョージはふたりの出で立ちを称賛した。
「俺もビシッと決めて出迎えようと思ってたのに」
「あらま。それは申し訳なかったね」
 照子と瑠衣は、それぞれ提げてきた紙袋の中から、料理を入れたタッパーを取り出してカウンターの上に並べた。そのあとまたふたりで車にとって返して、ケーキを載せた皿とシチューの鍋を運んできた。おおーっ。ジョージが感嘆の声を上げ、パチパチと拍手した。ケーキは、フライパンで丸く平べったく焼いた土台の上に、生クリームをたっぷり絞り出し、冷凍のベリーミックスを甘く煮たものでデコレーションしてある。中央にチョコレートで絞り出した文字は「Merry X'mas and Happy Baby」。
「こりゃあ依ちゃん、喜ぶだろうな」
「依ちゃんより源ちゃんのほうが大喜びするかもね」
「みんな喜ぶよ」
 そんな会話を交わす瑠衣とジョージを、照子は少々複雑な気持ちで眺めた。一週間ほど前、ジョージが瑠衣に向ける気持ちのことを照子から聞いた瑠衣は、「カタをつけて来るわ」とひとりでジョージの店へ行った。戻ってきたのは翌日だった。その間のことを詮索する気は微塵(みじん)もないけれど、今、ジョージと瑠衣との間には、これまでにはなかった気配があきらかにある。
 一緒に暮らしたいと言ったら、ジョージは喜ぶと思うわ。照子は瑠衣に、そう言った。トランプ占いにジョージがやってきたことを話した日にも言ったし、冬子さんのことで瑠衣の説得を試みたとき、あらためてジョージのことも言った。あんた、あたしを見捨てる気? と瑠衣は言った(一回目)。あたしが一緒に暮らしたいのはジョージじゃなくて照子だから、とも言った(二回目)。その言葉のどこまでが本音なのかはわからないけれど、実際のところ、照子は嬉しくて、二回目の瑠衣の返答を聞いたときには、思わず涙ぐんでしまった。この先の一生が「まだまだたっぷりある」と思える、というよりそう思いたくなるかどうかは、瑠衣が一緒なら、という条件付きだから。
「料理も、めちゃくちゃうまそうだなあ。照子さん、うちで働かない? カリーの店じゃなくてレストランジョージってことで。いや、レストラン照子でもいいよ。料理とシャンソンの店・レストラン照子&瑠衣」
「ふふ、ありがとう」
 照子は微笑(ほほえ)んだ。
「冗談だと思ってる? 俺、わりと本気なんだけど」
 照子と瑠衣は客席に置いていた紙袋をひとつずつ持ってきた。
「これは私たちからみんなへのプレゼント。宛名を書いたカードが挟んであるから、間違えないように渡してね」
 照子は言った。ジョージはちょっと不審げな顔になった。
「俺も用意してあるけど……自分で渡すもんじゃないの?」
「あっ、ほら、ジョージがサンタの格好して、配ってくれるのかなって」
 すかさず瑠衣が言った。ジョージがニヤッと笑う。
「なんだよ、俺がサンタの衣装用意してるの、知ってんの?」
「あんたのことはお見通し」
「ビシッと決めて……って、サンタの衣装のことだったの?」
 三人の笑い声が揃(そろ)ったときだった。「こんばんはー」という声とともに、ドアが開いた。
 振り向くと、女性が立っていた。スキンヘッドに近い短髪でサングラス、赤い唇で、派手な花柄のロングワンピースに赤いファーのコートを羽織っている。
「依子いますかー?」
 女性はそう言ったが、その前にサングラスを外し、だから彼女が誰だかは決定的になっていた。瑠衣にそっくり、と照子は思った。
「もしかして依ちゃんのお母さん?」
 ジョージが言った。彼には、依子さんにそっくりに見えるらしい。そうでーすと、女性は瑠衣そっくりの笑顔になった。
「“マヤ”に行ったんだけど、あの子たちいなくて。パーティ会場はこちらだって聞いてたので、来てみましたー。あっ、はじめまして、依子がいつもお世話になってます、依子の母の冬子ですー」
 冬子さんはそこであらためて、照子と瑠衣の存在に気がついたようだった。
「ジョージです」
 とジョージが自己紹介したから、
「音無(おとなし)照子です、はじめまして」
 と照子も言った。
「山田幸子(やまださちこ)です」
 と瑠衣は言った。ははは、とジョージが笑った。何かのジョークだと思ったらしい。
「瑠衣はステージネームなんだよ」
 瑠衣は早口で囁(ささや)き、ジョージは照子の顔を見た。照子は視線に意思を込めた。ジョージは何かを感じたようだった。
「素敵な友だち、って依子が言ってたのはきっとお三人のことですね」
 冬子さんはニコニコしながら言った。「素敵な友だち」のひとりの名前が「瑠衣」であることまでは伝わっていなかったのだろう。
「幸子さんのお洋服、あたしのとお揃いみたいですね。なんか嬉しいなー」
 一瞬の間の後、
「だねー」
 と瑠衣は言った。
「あたしも嬉しいよ、すっごく」
 そのときドアがまた開いた。入ってきたのは依子さんと源太郎さん、そして黒と白のボーダーTシャツに革ジャンという姿の外国人だった(シチリア人に対する私のイメージは正しかったわ、と照子は瞬間、思った)。
「おかあさーん! お帰りー」
「依子ー! キャー」
「ハロー!」
「あっ、照子さんたちももう来てるよー」
 それぞれの声がいちどきに上がる中、照子は瑠衣から腕を掴(つか)まれた。瑠衣は立ち上がり、コートを羽織っている。照子も慌てて倣(なら)った。
「あれ、どこ行くの」
 ジョージがいち早く気がついた。照子は突然、この店の中だけ時が止まったような感覚に襲われた。一枚の写真を見るように、みんなの顔や、声までもがくっきりと焼きつくような。
「あたしたち、ちょっと買い物しなきゃならないの」
 瑠衣が言っている。
「すぐ戻ってくるから、先に飲んでて。戻ったら、がんがん歌うわよ。みんな、リクエスト考えておいて」
 もうはじめるのかよ、とジョージが苦笑し、あっチキンだ、と源太郎さんが言い、オーブンを予熱するためにジョージが体を屈(かが)め、私も手伝いますと依子さんがカウンターの中に入っていき、サルバトーレ氏がイタリア語で何か言い、そして冬子さんが、
「買い物って?」
 と呟いた。笑顔が少し曇って、考える顔になっていた。
「幸子さんも、歌う方なんですよね。私の母もシャンソン歌手だったんです」
「あたしたち、偶然ばっかりだね」
 瑠衣は冬子さんに微笑みかけた。その顔を、照子はやっぱり、一生忘れられないだろうと思った。行こう。瑠衣はあらためて照子の腕を取った。
「じゃあ、あとで!」
「あとでね」
 ふたりは店を出た。ドアを閉める前、「幸子って?」という源太郎さんの声が聞こえた。照子、と瑠衣が呟いた。照子、ありがと、ほんとに。

(つづく) 次回は2022年9月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。