物語がつまった宝箱
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  • 第二十一回 由花(1) 2022年9月1日更新
 空はグレイがかった水色で、海は黒っぽい青、浜辺は白。砂の白さはこの浜の特徴で、地名にもなっている。その白い浜辺の向こうから、赤とピンクが近づいてくる。
 ダウンの色だ。赤が照子(てるこ)さんで、ピンクが瑠衣(るい)さんだということを、私を含め、この辺りの人たちはもうみんな知っている。瑠衣さんが、ダウンを脱ぐ。片手で持って、頭の上で振り回す。ダウンの下はふたりともワンピースで、あれは先週の日曜日、白浜(しらはま)公園で開催されたフリーマーケットで、うちのお母さんが出した服だ。古臭い花柄のロングワンピースで、こんなの誰も買わないよと私は思っていたのだが、照子さんと瑠衣さんが一着ずつ買って、そしてなんだか似合っていて、全然べつの服みたいにすてきに見える。
「あっついわねー」
 あいかわらずダウンを振り回しながら、瑠衣さんが言った。いや……今日はぽかぽか陽気だけど、あっついってことはないでしょう……二月だし。
「由花(ゆか)ちゃん、第一志望受かったんですって? よかったわねえ。おめでとう!」
 照子さんが言う。ふたりがもう知っていることに私はちょっとびっくりする。きっと母が言いふらしているのだろう。父かもしれない。父はこの頃、瑠衣さんが歌っているスナックによく立ち寄っているみたいだから。
「ありがとうございます」
 私は精一杯嬉(うれ)しそうに言った。実際、めちゃくちゃ嬉しかったのだ、ついこの前までは。ふたりは手を振りながら通り過ぎていった。赤とピンクと花柄の後ろ姿を、私はしばらくぼんやり見送っていた。百メートルくらい離れたところで、瑠衣さんがダウンを羽織るのが見えた。

 浜の先に入江があって、そこで明(あきら)と待ち合わせしていた。
 岩場の平らな場所に、明はもう座っていた。私が来たことに気がついているはずなのに、こちらを見ようともしない。
「怒っとると?」
 私がそう言うと、しかたなさそうに顔を向けた。
「べつに」
「怒っとるたい。全然、何も言わんし。LINEもくれんし」
「そがん毎日話すことないし」
 グエーッと濁った声を上げて、海鳥が一羽空を横切った。今日は日曜日だったが、入江にいるのは私たちだけだった。
 明はカーキ色のモッズコートを着ていた。今年のはじめに、町のデパートまで行ってふたりで選んだものだ。あの頃の明と今の明は全然違う。あのとき、私が東京の大学を受験することはもちろん明に知らせていた。そして明は、応援するたい、受かるといいな、と言ってくれていたのに。
「東京に行くから怒っとるとね?」
 私は明のそばに立ったまま言った。明が座っている平らな岩はふたり掛けのベンチくらいの大きさで、いつもならそこにふたりでくっついて座る。でも今日は、明が真ん中に座っているから、私は座ることができない。
「だから、怒っとらんて。怒ったってしょうがなかろうもん。もう決めたとやろ?」
「決めたっていうか……だって、受かったから」
「決めてるとなら、俺が言えることなんて何もなかやろ。東京へ行けばよかたい」
 明も東京の大学を受けた。でも落ちたから、第二志望だった長崎の大学に行くことになっている。「ふたりで一緒に合格して、一緒に上京しよう」という約束はかなわなかった。でも、それは私のせいじゃない。
「東京に行ったって、休みには会えるやろ」
 明は黙っている。
「ねえ」
「だから、行けばいいって言うとるやろ」
「じゃあ、怒るのはやめてほしか。ちゃんとこっち見て話さんね」
「何様ね、あんたは」
 明は突然大きな声を出して、立ち上がった。
「なして出て行く者の機嫌取らんといけんとか。東京行って楽しくやってくださいって、嬉しそうに言わんといけんとか。俺は何も言いたくなか。黙っとることもできんとね?」
 明は私を押しのけるようにして、行ってしまった。私のまわりの風景の色が、すうっと薄くなっていくような感じがした。

 照子さんと瑠衣さんは、「お食事処(どころ) なかよし」の離れに住んでいる。
「なかよし」の板前さんだったご主人は去年の夏、夜釣りに行って溺れて死んだ。それからずっとお店は閉まっていたのだが、今年になって営業を再開した。そのときには店には奥さんと一緒に照子さんがいて、離れをふたりが借りていて、町のスナック「プリティ・ウーマン」で瑠衣さんが歌っていたというわけだった。
「あのふたりって、姉妹じゃなかとよね?」
 家に戻ると母さんのパート仲間の良枝(よしえ)さんが来ていて、ダイニングでかまぼこをつまみながら、やっぱり照子さんと瑠衣さんの話をしていた。最近、この辺りで「あのふたり」と誰かが言い出すときは、照子さんと瑠衣さんのことに決まっている。
「由花ちゃんおかえり。第一志望受かったんやってねえ、すごかねえ、おめでとう」
「由花もかまぼこ食べる? 良枝さんが菊屋(きくや)で買ってきてくれたとよ。やっぱあそこのがいちばんおいしかとよねえ」
 私に気づいた良枝さんと母が口々に言い、私は適当に返事をして、二階の自分の部屋に上がった。菊屋のかまぼこはたしかにおいしいけど、今は全然、食欲がわかない。
 うちは浜から離れているけれど、高台にあるので、私の部屋からは海や浜が見える。私はしばらく窓から外を眺めていた。でも、見たいと思っていたものは何も見えなかった。赤とピンクのダウンも、明の姿も。これまでにも明とは小さなケンカをいくつもした。たいていは私がむくれて彼を置いてひとりで帰って、そういう日に二階の窓から外を見ると、たいていは明が下から、困ったような顔で見上げていた。これまではそうだった。
 寒くなってきたけれど、私は窓を開けっ放しにしたまま、壁にもたれて座った。寒いとか、寒いと風邪をひくとか、だからストーブをつけたほうがいいとか、ストーブをつけると暖かくなるとか、そういうことが全部、意味のないことに思えた。同じようにいろんなことがどうでもよくなったことが以前にもあって、それは去年の夏、明から告白された日だった(そのときは、暑いとか汗をかくとか、こまめに顔を洗わないとニキビができるとかが、意味がないことに思えた)。でも、気分は全然、違う。
「ただみたいな家賃で貸しとるらしか。朱美(あけみ)さんが、あのふたりをすっかり気にいってしもうて」
 下から声が聞こえてくる。まだ、照子さんと瑠衣さんの話が続いている。
「東京から来らしたとよね」
「そいがようわからんとよ。東のほうとか、遠くからとか、寒いところから来たとか、聞かれるごとに答えが違うらしか」
「そがん身元のあやしか者を店やら家やらに入れたりして心配はなかとやろか」
「最初はみんなそがん言うとったばってん……」
「あれは悪か人たちではなかよ」
 座敷で昼寝していたらしい父さんも会話に加わっている。なーん。またあー。母さんと良枝さんが、からかうような声を上げる。この辺りの男の人たちの多くが、瑠衣さんに「イカレてる」と、この辺りの女の人たちの間で評判なのだ。
「目的があって、全国を放浪しとるったい」
 父さんは怯(ひる)まず、知ったふうに言う。
「なんね、目的って」
「人を捜しとるらしか。見つけちゃったと、この前言うとったばってんね」
「ちゃった!」
 瑠衣さんの言葉をそのまま口にした父親のことを、母さんと良枝さんはあらためてケラケラ笑った(「〜しちゃった」というのはこの土地の人間にとって、いかにも東京っぽい言いかたなのだ)。私は窓を閉めた。閉める前にもう一度外を見渡したけれど、明の姿はやっぱりなかった。

 私は、足音を忍ばせて――また、母さんや良枝さんに話しかけられないように――階下に下りた。
 廊下の奥にドアがあって、それを開けると短い渡り廊下があり、離れに通じている。
「また来たとか」
 私が入っていくと、祖母(ばあ)ちゃんが顔をしかめて出迎える。私が行くたびに、祖母ちゃんはいつもそう言うのだが、喜んでいることはわかっている。
「祖父(じい)ちゃんは」
「碁会所(ごかいしょ)」
「本、見てもよか?」
「よかよか」
 祖母ちゃんはしかめっ面(つら)をやめて、笑う。私は奥の間へ行った。
 ここは祖父ちゃんの「書斎」ということになっている――いちおう書き物机もある――けれど、実際には書庫といったほうが正しい。十畳ほどの広さがある部屋で、三方の壁が天井まで書棚で埋まっている。
 書棚に詰まっているのは、「大おじちゃん」と私たちが呼んでいる人――祖父ちゃんのお母さんのお兄さん――の蔵書だ。大おじちゃんは歴史学者で、本を何冊も書いた人だったらしい。その影響で、祖父ちゃんは中学の日本史の先生になった。教師を退職した今は、地元の郷土博物館で働いている。祖父ちゃんは東京の大学に進学したとき、四年間を大おじちゃんの家で過ごした。そういう縁があって、大おじちゃんが亡くなったとき、大おじちゃんの蔵書の一部を祖父ちゃんは譲り受け――残りは図書館と大学に寄贈した――この家に運んだのだった。
 私が、史学科がある大学に進学したいと言ったとき、うちの家族たちはみんな「遺伝やねえ」と言ったのだけれど、私に言わせれば、子供の頃からこの部屋にいりびたって、かたっぱしから本をめくり、読めない漢字を飛ばしながら面白そうなところを繰り返し読むのが日常だったから、と思える。
 私は書棚を見上げ、見慣れた本を眺めた。私の読解力や知識では理解できない本が、まだまだここにたくさんある。大学に行って勉強して、ここにある本を全部読みたい。そしてゆくゆくは、大おじちゃんのように、歴史の研究をして、本を書きたい、というのが私の夢だ。
 歴史の勉強は、東京に行かなくてもできるかもしれない。
 私はそう考えてみた。地元の大学の史学科にも受かっていた。東京の大学の史学科を受けたのは、この部屋にある本の著者の何人かが、そこで教えていたからだ。でも、地元の大学でもいいのかもしれない。どんな先生に教わったって、私がぼーっとしていれば何もならないのだろうし。私が努力すれば、一生懸命勉強すれば、どこの史学科だっていいのかもしれない。上京する必要がなくなれば、仕送りだっていらなくなるし、父さん母さんだって助かるし。明とは好きなときに会えるし。やっぱり東京には行かないことにした。そう言ったら、明はきっと喜ぶだろう。以前みたいにやさしくなるだろう。

(つづく) 次回は2022年9月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。