物語がつまった宝箱
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  • 最終回 由花(2) 2022年9月15日更新
 私は離れを出た。
 かまぼこ――母さんがさっそくお裾分けしたらしい――とお茶を持ってきてくれた祖母(ばあ)ちゃんには悪かったけれど、どうしようもなく落ち着かなくて。
 まだ三時にもなっていなかった。明(あきら)と気まずくなってから、時間の経(た)ちかたが遅くなった。
 明の家に行ってみようか。でもきっと、いやな顔をされるだろう。居留守を使われるかもしれない。そんなことを考えながら、気がついたら、私の足は「お食事処(どころ) なかよし」を目指していた。
 店がまだ見えないうちに、歌声が聞こえてきた。フランス語だけれど、聞いたことがあるメロディ。「オー、シャンゼリゼー」というサビのところで、ああ、あの歌か、とわかった。
 浜に沿った通りに「なかよし」はあって、蔵がある広い中庭を挟んで、斜め後ろに離れがある。中庭に照子(てるこ)さんと瑠衣(るい)さんがいた。照子さんは干した鯵(あじ)をひっくり返していて、瑠衣さんは歌っていた。ふたりはそれぞれしていることを続けながら、私を見た。
「こんにちは」
 私はほかにどうしようもなくて、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、また会ったわね」
 照子さんがニコニコし、
「オ〜、シャンゼリゼ〜〜」
 瑠衣さんが歌いながら、私の周りをくるくる回った。ふたりともなんだか異様に幸せそうで、楽しそうだ。
「あら、やだ」
 照子さんが私の顔を覗(のぞ)き込んだ。私はなぜかこのタイミングで泣いてしまったのだ。ありゃりゃ。瑠衣さんも気がついて、そのまま私はふたりに手を引かれて、離れの中に招き入れられた。
 ここに入るのはもちろんはじめてだった。六畳間の座敷と細長い板の間があった。板の間には小さな流しがついていて、その横にカセットコンロが置かれ、ミニキッチンふうなスペースになっていた。
 座敷には服――主に派手なドレス――がどっさり掛かったハンガーラックと、木製の丸いちゃぶ台のほかには、家具らしい家具はなかった。これ、こないだのフリーマーケットで買ったのよ、掘り出し物だったのよ、と照子さんがちゃぶ台について楽しげに説明した。瑠衣さんが座布団を出してくれて、私は座った。しばらくして、照子さんがシナモンの香りがするミルクティーみたいなものと、チョコレートケーキみたいなものを運んできた。
「お店のオーブン借りて、ブラウニー焼いたところだったのよ」
ミルクティーみたいなものは、チャイだと教えてくれた。
「涙、止まった?」
 座ったときに涙はもう止まっていたのだけれど、瑠衣さんに聞かれたらまたグズグズしてきてしまった。あらあら。ありゃりゃ。ふたりは慌てた様子だったけれど、私が泣いている理由は聞かなかった。私はしゃくり上げながら、チャイを飲み、ブラウニーを食べた。どちらもすごく甘くておいしかった。
「いいとこだよね、ここ。あったかくて」
 瑠衣さんが言った。ふたりもチャイを飲んでいる。「あったかい」というのは瑠衣さんにとって重要なことらしい。
「海辺っていいわよねえ」
 照子さんも言った。ブラウニーをひとつ取って、断面――くるみがぎっしり詰まっている――をつくづく眺め、よしよしというふうに頷(うなず)いたりしている。
「捜してる人って、誰なんですか」
 私は聞いた。本当はべつのことを聞きたかったのだが、まず口に出すことができたのはその質問だった。
「あら。誰に聞いたの」
 照子さんが目を輝かせた。
「この人の、昔の想い人」
 と瑠衣さんが言った。
「想い人……?」
 つまり、照子さんのかつての恋人を捜しに、ふたりはここへ来た、ということだろうか。
「見つかったんですか」
「まあ、ね」
「本人はもう死んじゃってたけどね」
「そんなのわかってたわ。でも、ね。捜してみたかったのよね」
 照子さんと瑠衣さんは、顔を見合わせてニヤニヤし、その顔のまま揃(そろ)って私を見た。捜している恋人がもう死んじゃっていたのに、どうしてそんなに嬉(うれ)しそうなのだろう。それに、どうしてそんなふうに私を見るのだろう。
「照子さんと瑠衣さんって……誰なんですか」
 次に私の口から出てきたのはそれだった。本当は私は、自分がどうして彼女たちに会いに来たのかを知りたかったのだけれど。
「トランプ占い、してあげましょうか」
 照子さんが言った。

 私が明の家に行ったのは、翌日の夕方だった。
 月曜日だったけれどうちの高校の三年生は、この時期は自宅学習ということになっていて、学校で明と顔を合わせることもなく一日が過ぎていた。
 明の家はうちよりもっと高台――山に張りついた住宅街の中にある。坂道と石段を毎日上り下りするけん、ご近所さんは爺(じい)さんも婆さんもみんなマッチョたい、と明は言っていた。そのときの明と自分の笑い声を思い出しながら、私も石段を上がった。
 この辺りの家はみんな同じような形をしている。でも、もちろん、私には明の家がすぐ目に飛び込んでくる。明は私の家に来たことはないけれど、私は一度だけ明の家に入ったことがある。去年の冬。明の家族が誰もいない日、ふたりだけで二時間過ごした。こたつに入ってゲームをして、それから、こたつの中で明が私の足をつっついて、私もつっつき返して、それから、明が私をじっと見て、私も見返して、明がそろそろと顔を近づけて来て、私からも少しだけ近づいて、私たちははじめてのキスをした。
 二階の右端が明の部屋。その部屋には明かりがついている。一階のキッチンの窓もあかるいから、明のお母さんも(明の妹も)家にいるだろう。私はドキドキしてきた。でも、逃げ帰る選択肢はなかった。照子さんにトランプ占いをしてもらってから、さっきまでずっと、考えて考えて、ここに来たのだから。
 私は大きく息を吸った。
「明!」
 窓に向かって呼びかけた。
「あーきーらー! 出てこんね!」
 窓が開いた――二階の窓ではなくて、キッチンの窓が。明のお母さんが、私を見て手招きしている。そんなところで怒鳴ってないで、入ってらっしゃい、と言いたいのだろう。私はお母さんにぺこりと頭を下げて、また二階を見上げた。窓が開く。明が顔を出した。どんな顔をしているのか、逆光でよく見えない。
「バーカーヤーロー!」
 私は叫んだ。照子さんのアドバイス通りだ。「バカヤローって言ってやればいいんじゃないかしら」照子さんは、私の相談を聞いて、そう言ったのだ。すぐに「あ、カードにはそう出てるわ。バカヤローって言うべし、って」と付け加えたが。
「私、東京に行くから!」
 明は何も言い返さなかったし、身動きもしなかった。お母さんがそっと窓を閉めた。私は踵(きびす)を返し、石段をゆっくりと下りた。

 そのあとずっと、明には会わなかった。
 誰にも何も言わなかったけれど、クラスメートの美佑(みゆ)や茜(あかね)から、「別れたの?」というLINEが来た。私と明が一緒にいる姿を全然見ないせいかもしれないし、明が誰かに何か言ったのかもしれない。私は、色がなくなった風景の中で、上京までの日を過ごした。
 当日は最寄り駅まで家族が見送りに来た(父さんと祖父〈じい〉ちゃんは空港まで来たがったけど、思いとどまらせた。絶対泣きそうだったから)。結局、父さんと祖父ちゃんは駅の改札口の前でボロボロ泣いた。母さんと祖母ちゃんはニコニコしながら手を振った。行ってきます。夏には帰るけん。私もニコニコしながら手を振って、改札を通った。
 私はひそかに期待していた――明が来てくれるんじゃないかって。もしかしたらホームにいるんじゃないかって。でも、明の姿はなかった。列車が来てしまい、私は乗った。始発電車だったから、乗客は少なかった。窓際の席に座って、列車が動き出すと、抑えていた涙が出てきた。
 海が見えてきた。それから浜も。私は目をこすった。誰かが走っている。こっちを見て、両手をブンブン振っている。
 明だ。
 私は慌てて窓を開けた。あきらー、と叫びながら手を振った。明には見えているだろうか。明も叫んでいる。なんて言っているのかわからない。でも、叫んでいることはわかる。明が来てくれたこともわかる。
 明の姿は、たちまち列車の後方になった。私はずっと見ていた。明の少し後ろに、赤とピンクの人影があった。私は泣きながらちょっと笑ってしまった。いつも笑っている、いつも上機嫌なふたり。あの人たちはどこから来たのだろう。そしてどこへ行こうとしているのだろう。そう思うのは、照子さんと瑠衣さんには、いつでも次の行き先があるみたいに思えるからだった。
 私の次の行き先は東京だ。
 列車はトンネルに入った。トンネルを出たとき、スマホが明からのLINEメッセージを着信した。

(完) ご愛読ありがとうございました。この作品は2023年9月に単行本として刊行予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。