物語がつまった宝箱
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  • 第三回 瑠衣(1) 2021年12月1日更新
 水は問題ない。
 なぜなら照子(てるこ)の調査によれば、この別荘地では水道代は管理費に含まれており、年度はじめに一年ぶんを払うシステムになっているから。一定量までは定額制なので、たとえば敷地内に温泉を掘って水を引き込んだりしないかぎりは、どれだけ使っても大丈夫。「誰も気にしないわ」
 電気は使えない。
 照子が言うには、ブレーカーを上げれば通電するはずだが、電気を使えば当然電気代がかかり、それはこの家の"本来の持ち主"に請求される。申し訳ないし、なによりそこから"足が付く"危険が大きい。ガスも然(しか)り。この辺りは都市ガスではなくプロパンで、照子にはその仕組みはよくわからないが、使えばメーターは動くのだろうし、とすれば電気と同じ危険がある。「やめておいたほうがいいと思うの」
 ここまでの説明を受けた時点で、瑠衣(るい)は事実をあらかた理解した。まあ、この家に入る際、照子がバッグからドライバーを取り出したときに、ある程度は察せられていたが。
「ここはあんたんちの別荘じゃないのね?」
 瑠衣は言った。照子はキッチンのほうで何かごそごそしている。返事はない。
「知り合いの誰かの別荘ってわけでもないのね? あんた、他人の別荘に不法侵入したのね?」
 素足の上を何かが通り過ぎた。思わずヒャッと叫んで飛び退(すさ)ると、太ったコオロギみたいな虫が埃(ほこり)だらけの床の上を跳ねていった。夕暮れにはまだ早い時間なのに家の中は薄暗く、湿気とカビの臭いが充満している。天井と壁の上のほうには蜘蛛(くも)の巣が張り巡らされている。
「不法侵入したのは私じゃないわよ、私たちよ」
 缶詰やレトルト食品の箱を両手に抱えた照子が戻ってきて、そう言った。食べられるもの、けっこういろいろ残ってたわ、と嬉(うれ)しそうだ。いつの間にかハンカチで姉(あね)さんかぶりをしている。
「よそ様のものだから、できるだけそのままにしておきたいけど、非常食があると思うと安心じゃない?」
「......ええと。念のために聞くけど、これは犯罪だよ? おまわりさんに見つかったら逮捕されるんだよ? そのことはわかってる?」
「それくらいのこと、わかってるわよ」
 ばかにしないで、という表情で照子は言った。
「......わかってるけど、かまわない、ってあんたは思ってるわけだ?」
「そうなのよ」
 照子は嬉しそうな顔で頷(うなず)いた。それで、瑠衣も頷いた。その時点で、照子の考えや決意が、全部ではないにしろ伝わってきたからだ。それに、照子がかまわないなら、あたしもかまわない。ごく自然に、そう思えたから。

 ふたりはまず家の掃除に取りかかった。さいわい、掃除道具は揃(そろ)っていたので――それ自体にカビが生えていたり蜘蛛の巣がかかっていたりしたが――とにかく今夜ここで眠るのがいやにならない程度にはきれいにした。あまり時間をかけられなかったのは、日が暮れないうちに車を出して、買い物に行きたかったからだ。
 照子がカーナビに、ホームセンターとスーパーマーケットの場所を入力した。周囲にどんな店や施設があるのか、あらかじめ調べてあったらしい。ようするに照子は用意周到にこの計画を練っていたというわけだ。
「漫喫も知らないくせに、よくもまあ、こんなこと思いつくものだね」
 今、車はすいすいとホームセンターに向かっている。瑠衣は感心せざるを得ない。
「必要なことだからよ」
 照子はすまして答える。カーラジオからアバの「ダンシング・クイーン」が流れていて、サビの部分を一緒にちょっと歌う。それから、「私と瑠衣、ふたりにとってね」と付け足した。そういえば東京から別荘地までの道中は、カーラジオも音楽もまったくかけなかった。それなりに照子は緊張していたのだろうか。その緊張が今は解けているとすれば、ちょっと早すぎるんじゃないのと瑠衣は思うわけだが。
 照子は掃除をしながらメモを取っていた。それは二枚あって、ホームセンターに着くと一枚を瑠衣に渡した。メモを見ながら、ふたり別々に店内を巡り、必要なものをカートに入れていった。カセットコンロ、カセットボンベ、毛布、枕、シーツ、掃除用具、ロウソク、ランタン、マッチ、鍋、フライパン、ザルやボウルなどの調理用具などなど。
 それからスーパーマーケットへ行ったが、ここではメモは分けられておらず、照子ひとりが品物を選んだ。瑠衣はカゴを入れたカートを押して照子の後ろをついてまわった。それは当然で、瑠衣は食べることは好きだが、料理はからきしだからだ。そこは地元産にこだわった品揃えのスーパーらしく、入り口すぐの野菜コーナーを見て照子は小さな歓声を上げた。こうした日常の買い物をする照子の姿を瑠衣が見るのははじめてだった。いかにも愉(たの)しげに、売り場から売り場へと歩き回り、品物を手にとって頷いたり首を傾(かし)げたり、カゴに入れたりいったん入れたものをまた戻したりしている。スーパーマーケットの妖精といったところだね。瑠衣は思う。いや妖精は少々美化しすぎか。さっきの太ったコオロギみたいでもあるね。いやいや、飛び跳ねてるところは似てるけど照子は太ってはいないし、やっぱり妖精だね、そういうことにしておいてあげよう。
 ホームセンターでもスーパーでも、お金は照子が財布の中から現金を出して払った。お金。そうお金の問題がある、と瑠衣は思う。これはあとでちゃんと相談しないと。とりあえず今は払ってもらっておくとして(だってあたしは持ち合わせがないから)。
 別荘に戻ったのは午後六時少し前だった。あたりは薄闇になっている。照子はまるきり自分の家に帰って来たという態度で車を停め、家の中に入ると「あらまあ! 素敵な家じゃないの!」と芝居掛かった声を上げた。照子が料理にとりかかっている間、瑠衣はランタンに明かりを灯(とも)して家のあちこちに置き、玄関ドアの内側には南京錠を取り付けた。留守している間の侵入者は防げないが、家の中にいるふたりの安全はこれでそれなりに守ることはできる。ドアの外側ではなく内側に錠をつけることにしたのは、侵入者としてのふたりの矜持(きょうじ)だ。
 この家は二階建てで、一階にキッチンとリビングダイニングと浴室、二階に寝室がひと部屋あるコンパクトな造りだった。寝室にはシングルベッドが二台あった。瑠衣がその部屋へ行き、買ってきたシーツを敷いていると、いい匂いが漂ってきて、「ごはんよー」という照子の声が聞こえた。
 木製の丸いダイニングテーブルの上に、食事の支度が整っていた。青い葉っぱと肉――匂いからして羊だろう、精肉売り場で「瑠衣は羊、大丈夫?」とたしかめられていた――の炒(いた)めもの、巨大な椎茸(しいたけ)のバター焼き、切り干し大根、それに鍋で炊いたごはん。二百五十mlの缶ビールもふたつ。料理はどれもちゃんとした――紙皿とかではない――食器に盛り付けられていて、銘々皿に、塗り物の箸が添えられている。
「すごい」
 完成度というより、この状況下においてこれほどに発揮されている照子の情熱に対して、瑠衣は心からの感心――と、いくらかの呆気(あっけ)――の声を発した。
「そんなに贅沢(ぜいたく)できないから、これからずっとこんな感じだと思うんだけど。いいかしら」
「十分贅沢だよ」
 缶ビールで乾杯し、瑠衣が「これ何の葉っぱ?」と訊(たず)ねたことをきっかけにして、照子は料理の説明をはじめた。青い葉っぱはツルナというものらしい。「東京でも売ってるけど、こんなきれいなツルナははじめて見たわ」「羊と炒めたのは、羊がいちばん安かったっていうのもあるんだけど、ツルナのクセには羊が合うと思って。ね、合うでしょ? 味付けはニンニクとお醤油(しょうゆ)とお酒と、お味噌(みそ)もちょっと入ってるの。お味噌はこの辺の農家の人が作ってるものよ」「椎茸、食べてみて! これも地元産なのよ。絶対おいしいと思ったから、シンプルにバター焼きにしたの。ね、おいしいでしょ?」「あ、かきたま汁も作ってあるのよ。ごはんと一緒がいいでしょう? ほしくなったら言ってね」
 瑠衣は照子の顔をまじまじと見た。なんて嬉々(きき)としていて、生き生きとしていることだろう。
「あんた、本当に愉しそうだね」
「愉しいわよ。こんなに愉しいの、はじめてなのよ」
 照子の目はキラキラと輝き、頬が赤くなっている。アルコールには自分と同じくらい強いことを瑠衣は知っているから、ビールのせいではないだろう。
「瑠衣の食べっぷり、大好き。おいしそうに食べてもらえるだけで、こんなに幸せになるものなのね。これ何の葉っぱ? って、あなた聞いたでしょう? あのときからもう幸せだったわ」
「ばか照子ちゃん」
 と瑠衣は言ったが、それは照子のことがあまりにもいじらしくなったからだった。照子が結婚した相手は、妻をセックス付きの家政婦みたいに思っている男だった。照子の、ごく上品な、控えめな言いかたを通して瑠衣はそのような印象を持っているので、実際のところは、もっともっと酷(ひど)い男なのだろうと思っている。そんな男と四十五年も一緒にいたから、「これ何の葉っぱ?」と聞かれただけで幸せになってしまうのだ、このばか照子ちゃんは。
 それで、瑠衣はパクパク食べ、「うんうん」「ツルナっておいしいもんだね」「椎茸サイコー!」「切り干しみたいなおかずってちょっとあると嬉しいんだよね」「羊、合うわー、ツルナに合うわー」と意識的に通常の二割り増しで感想を述べ――実際、空腹だったし、料理はどれもすばらしかったわけだが――、それから、
「つまりさ」
 と、これまでに知り得たことや、自分の感情などを整理しつつ、言った。
「あの男は、このことを知らないわけ? 今夜か明日の朝か知らないけど、あんたがいっこうに家に帰ってこないことに気がついて、びっくりするわけ?」
「そういうことね。びっくりする前に腹をたてるかもしれないけど」
 うんうんと頷きながら照子は答えた。
「つまり、あんたは家出してきたわけね」
 照子はちょっと考えるふうを見せた――あるいは、椎茸を咀嚼(そしゃく)していただけだったのかもしれない。
「家出じゃないわね。別離よ」
 そう言って、ビールを飲んだ。別離。瑠衣はその言葉を繰り返してみる。
「もう帰らない気?」
「ええ、そうよ」
「それって、あたしのせい?」
「瑠衣のせいじゃないわ。瑠衣のおかげよ」
 照子はニッコリ笑った。ばか照子ちゃん。それで瑠衣は再び小さく呟(つぶや)くしかなかった。ばか瑠衣ちゃん。照子が真似(まね)た。ふたりでビールでもう一度乾杯し、それで中身がなくなってしまったので、照子が日本酒の瓶を持ってきた。まったく感心し、呆(あき)れることには、この女は自分と瑠衣それぞれのお猪口(ちょこ)――どちらも骨董(こっとう)らしく、照子用には可愛らしい色絵が入ったもの、瑠衣用にはもとはオランダのミルク入れだったというとろんとした白磁の厚手のもの――までスーツケースに入れてきていた。

(つづく) 次回は2021年12月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。