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  • 第四回 瑠衣(2) 2021年12月15日更新
 瑠衣(るい)は、片手にウィスキーボトル、片手に赤い口紅を持っていた。
 ウィスキーはなぜか、かきたま汁の味がした。昆布でとった上品な出汁(だし)がきいていて、たいへんにおいしかったが、かきたま汁なのでいっこうに酔わない。だが、いくら飲んでも酔えない気がする――そのせいで酒量が増えている――のは、この老人マンション、つまり「フェニックスムード第二」に来てからずっとなので、かまわないことにして、瑠衣は、そのふたつを持ったまま部屋を出た。
 マンションといってもこの建物の中はホテルに似た造りになっている。部屋の外には絨毯(じゅうたん)敷きの長い廊下があって、その両側に部屋のドアが並んでいる。
 こんなに長かったっけ。その廊下を見て、瑠衣は思う。前を見ても、後ろを見ても、果てが見えない。しかし果てのない気持ちになるのもまた、ここへ来てからめずらしくないことなので、気にせずふらふらと歩き出す(酔っていないはずなのに、なぜか足元がふわふわする)。
 大丈夫、各部屋にはちゃんと表札が出ている。ばかばかしいことに、表札ごとに梅のマークと、鳩(はと)のマークがついている。このマンション内には「梅澤(うめざわ)派」と「鳩田(はとだ)派」という二大派閥があって、それぞれの派閥に属する住人たちは、持ちものや着るものに何かとそのマークをつけている。見ただけですぐにそれとわかるように。強制なんかじゃなくて、みなさん自主的にやってくださるんですよ、と、梅澤のババアも鳩田のジジイも言っていたが、マークをつけないと嫌がらせをされるに決まっている――あたしがされたみたいに。
 瑠衣がこのマンションに足を踏み入れたのは、そもそもは住むためではなかった。月に二度、マンション内の「レクリエーションルーム」で開催される、住人のための「懇親の夕餉(ゆうげ)」での、ステージの仕事を得たためだ。ところがその打ち合わせに何度か通ううち、今思えば完全に間違ったスイッチが入って、入居を決めてしまったのだった。それまで住んでいたアパートの大家が代替わりして建物が取り壊されることになり、住むところをあらたに探さなければならなくなったこと、ほぼ同時に、週に一度歌いに行っていた新橋(しんばし)のクラブのオーナーが急死して、クラブは閉店、必然的にそこで得ていた貴重な定収入を失って、照子(てるこ)に言った通りがくんと気弱になっていたという事情もあった。さらに悪いことには、二十歳(はたち)のときから買い続けている宝くじがそのタイミングではじめて当たって、十万円という「大金」が手元にあったこと、アパートの立ち退(の)き料的なものも入る予定で、老人マンションの入居一時金を払える状況にあったのだった。それで、この先立ち退かされる危険がなくて、月二度の定収入ももれなく付いてくるという条件にクラリときて、生涯最悪の決断をしてしまったのだ。
 老人マンションって、老人しかいないんでしょう? やっちゃいけないこととかもいっぱい決められてるんじゃない? 無理よ、瑠衣には絶対無理よ。
 照子はそう言って反対した(ときすでにおそかったわけだが)。まったく彼女の言う通りだった。老人マンションには老人しかいなかったし、やっちゃいけないことが満載だったし、やらなければいけないことも満載だったし、その上派閥問題があった。
 入居当初、瑠衣はほかの住人たちから、めずらしい動物みたいに、それなりに珍重されていた。見た目で目立っていることは、「懇親の夕餉」に出演するシャンソン歌手であるということで納得されていたし、どちらの派閥も、瑠衣を自分たち側にゲットしたがっていた。だが瑠衣は、それを拒否した。派閥。グループ。それはこの世で瑠衣が忌みきらうもののひとつだ。
 どちらからのアプローチも受け流していたら、いやがらせがはじまった。この老人マンション内には食堂があり、三種の日替わりメニューから選んでリーズナブルに食事することができるのだが、まずはそこで、瑠衣が座っているテーブル(テーブルはすべて六人掛けだ)には誰も座らない、ということが起きた。瑠衣がそれにかまわずにいると――実際のところ、親しくもない老人たちと一緒のテーブルで食べるより、ひとりで食べたほうがずっとよかった――、次はそのテーブルの残り五席を梅澤派のメンバーたちが占めて、「懇親の夕餉で歌う素性が知れない歌手」についての悪口を聞こえよがしに喋(しゃべ)りちらした。
 ある日には、瑠衣の部屋のドアの前に、使用済みの大人用おむつが捨ててあった。瑠衣はゾッとした——いったい誰が自身のそんなものを提供したというのか? そしてとうとう、「懇親の夕餉」の会場で、瑠衣がステージに上がると観客たちの多くが背中を向ける、という事態になった。笑えるのはこのとき、日頃は反目し合っているはずの両派閥が、一致団結してその行動をとったということだ。
 瑠衣の堪忍袋の緒が切れた理由はふたつあった。ひとつは、ステージのときのこのような状態が数回続いた後、老人マンションの管理事務所に呼ばれ、所長から「早急にどちらかの派閥に所属してほしい、でないとステージを辞めてもらわなければならなくなる」と通達されたこと。もうひとつは、派閥には属していても瑠衣のステージのときに背を向けなかった人たち、というのがじつは何人かいて、瑠衣は自分のパフォーマンスへの自信を強めるとともに、ありがたくも思ったわけなのだが、後日その人たちの部屋の前にも、例のブツが置かれていたのがわかったこと。それで、瑠衣は、「フェニックスムード第二」を見限った。そう、逃げ出したのではない、見限ったのだ。
 ――今、瑠衣は、口紅を持つ手にあらたな力と意思を込めて、あるドアの前に立っている。表札には「梅澤」とある。もちろんその傍らに梅マーク。そのドアに、赤い口紅で、大きなバツ印を描く。
 廊下を歩く。次は鳩田のドアだ。バツ。まだ終わらない。両派閥の幹部連中の名前を全部控えてある。このドアにもバツ。こっちもバツ。バツ。バツ。伸び上がってドアの上から下まで斜めの線を引くのでなかなか疲れる。ウィスキーを呷(あお)る。うん、かきたま汁の味。次のドアは……と見ると、ここにも「梅澤」の表札が掛かっている。ふたりいたんだっけか。それとも分裂したのか。ババアのひとり暮らしのはずだけど。まあいいや、バツ。ふと見ると向かいのドアの表札は「鳩田」だ。鳩田もふたり? バツ。瑠衣は歩いていくが、すでにバツをつけたはずの表札が、次々にあらわれてくる。あたし、もしかして前進してるつもりで来た道を戻ってる? 振り返ってみるが、あいかわらず果てがなく、自分が今どこにいるかもわからなくなってくる。あたし酔ってるんだわね。かきたま汁で酔ってるのよ。そういうことよ。
 そのとき、前方――あるいは後方――に、女がひとり立っていることに、瑠衣は気づく。手を振っている。そして呼んでいる。顔はよく見えない。
 照子? 違う。照子じゃない。だって照子はあたしを「おかあさーん」なんて呼ばないもの。
 おかあさーん。
 おかあさーん。
 その女は呼んでいる。
 あたしを。

 瑠衣は目を覚ました。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからず、辺りを見回した。木の天井、微(かす)かなカビと埃の匂い、ひんやりした空気、ちくちくする新品の毛布。毛布の上には、照子のものであろうコートとロングカーディガンが重ねられている。そうだ、あたしたちは別荘にいるんだった――どこの誰のものかわからない別荘に。隣のベッドは空(から)だった。階下からコーヒーの匂いが漂ってくる。ナイトテーブルの上に置いた腕時計をたしかめると、午前九時を回っていた。昨日は照子とともに結構飲んだし、ドライブと掃除でさすがに疲れて、バッタリ寝てしまった。夢のことは、この種の夢を見たときはいつもそうであるように、意識的に頭の中から追い出した。瑠衣は起き出し、ベッドの下に脱ぎ捨ててあった服を身につけ、それだけでは寒かったので照子のロングカーディガンを借りることにして羽織り、階下へ下りていった。
「おはよう! よく眠れた? 寒くなかった?」
 キッチンから照子が晴れやかに言う。もう、ちゃんと薄化粧して、昨日とは違う服――すみれ色のニットのアンサンブル、下は昨日のチノパン――を身につけている。昨日は鍋で沸かしたお湯で、顔や体を拭いた。髪を洗いたいし、湯船にも浸かりたいところだ。
 そう思いながら瑠衣が顔を洗って戻ってくると、「朝ごはんを食べたら温泉に行かない?」と照子が言った。
「温泉、あるんだ?」
「もちろん。そういう場所を、ちゃんと選んだんだもの」
 そんな会話をしながら、照子はテーブルの上に朝食を並べていく。揃いの、紫陽花(あじさい)みたいな大きな花の模様がついたマグカップ(アラビアのビンテージ)に入ったコーヒー、パンケーキみたいなもの。パンケーキみたいなものは、小麦粉にドライイーストを加えて発酵させた生地を焼いた「クランペット」というものだという説明がある。
「おいしい! このトランペットみたいなやつもおいしいけど、このコーヒー、私の今までの人生最高においしい!」
 そう言いながら、瑠衣は笑い出したくなり、実際に「あはははは」と声を上げて笑った。「やーね、なあに?」と照子も少し笑いながら言う。これから、こういう毎日がはじまるのだ、と瑠衣は思う。電気がなくて夜はランタンとロウソクの明かりで過ごし、お風呂もなくてお湯が出なくて、でも近くに温泉があるから朝っぱらから入りに行って、節約しなくちゃねと言いながら、焼きたての“トランペット”と、豆から挽(ひ)いた――照子ときたら筒状のコーヒーミルまで持ってきている――最高においしいコーヒーが飲める毎日。もちろん、笑ってばかりはいられないことはわかっているけど――。
「真面目な話をしたいんだけど」
 それで瑠衣は、笑うのをやめて、そう言った。それからしばらく、真面目な話、つまりお金の話をした。照子はなかなか明かそうとしなかったが、結局、貯金が三百万円ほどあることを白状した。これは照子が暗黒の結婚生活の中でちびちび貯めた、彼女名義の財産なので、必要に応じて引き出すことができる。二ヶ月に一度、十三万百五十円の年金が、その口座に振り込まれる。
 一方、瑠衣のほうは、その方面にかんしては打ち明けることも隠すこともまるでなかった。つまり、貯金はほぼゼロに等しく、年金は未払い期間が長かったので、年間で十万程度しかもらえない。ふたりの経済を合算すると、どのような展望になるか。大丈夫よ、なんとかなるわよと照子は言ったが、料理と違って、この分野では照子の意見はまったくあてにならない。それで瑠衣は、午後から町に出ることを提案した。
 温泉は車で五分ほどの距離にあり、どちらかというと観光客ではなく地元住民が多く利用している雰囲気があった。もちろん瑠衣と照子も、地元住民の顔をして入浴した。熱いお湯が体じゅうに沁(し)み渡った。露天風呂からは山と、その上空を旋回する鳶(とんび)が見えた。
 瑠衣と照子はこれまでにも一緒に短い旅をしたことがあって、だから互いの裸体を見るのははじめてではなかったのだけれど、その最後の一回はもう何年も前のことだったから、瑠衣は照子の体を見て、自分たちの年齢のことを思わないわけにはいかなかった。七十だ。なにしろ、年金を受給される年なのだし、「老人マンション」に入居するほどの年でもあるわけだ。でも、それがどうした、とも言えるわけだ、と瑠衣は考えた。七十でも、「老人マンション」を見限れるし、四十五年間に及ぶ結婚生活だって見限れるのだ。つまりあたしたちは、生きる気満々なのだ。十代や二十代の小娘たちより、なんなら満々かもしれない。
 髪も洗ってすっきりしたところでいったん別荘――いや、これはもう「家」と呼ぶべきだろう、「あたしたちの家」と――に戻り、昼食――鶏そぼろと炒(い)り卵とツルナ炒(いた)めの三食ごはん――を食べた。それからあらためて車で出かけた。昨日行ったスーパーマーケットやホームセンターがある、別荘地からいちばん近い町の名前は「月見町(つきみちょう)」だった。月見川を渡る月見橋に差し掛かったところで「町に着いたら、別行動にしない?」と照子が言い出した。それはまさに自分が言おうとしていたことだったから、瑠衣は少しびっくりした。
「いいけど……あんたは町で何するの? 今日も買い物?」
「買い物はしないけど、私は私ですることがあるのよ」
 あっそう、とだけ瑠衣は言った。というのはこういう返答をするときの照子は、突っ込んで聞いてもはぐらかすに決まっているからだ。そういうことが、親友になってからの四十年の付き合いを通して、というより、この一両日で俄然(がぜん)わかってきた。それにしても、この一両日でと言うなら、照子という女の意外な、あらたな一面――たとえば、不法侵入という犯罪を、平然と犯して見せるようなところ――を瑠衣は知らされ通しでもあるのだった。あたしもうかうかしてられないわ、と瑠衣は思う。

 スーパーの駐車場に車を入れ、そこでふたりは分かれた。
 瑠衣は駅のほうへ、照子は反対のほうへ。といっても瑠衣が見たところ、照子は瑠衣が“行かない”ほうの道を選んだ、という感じがしたが。怪しいことこのうえないが、まあいい。今は自分がするべきことをしよう。
 ある種のことについての、自分の勘の良さを瑠衣は知っていた。だからその勘に従って歩いていった。「月見」という小さな駅に辿(たど)り着くと、辺りを見回し、定食屋と線路の間の道を入っていった。
 思った通りそこには夜の店が集まっていた。「バー シャム猫」「スナック プリティウーマン」「カリーと酒の店 ジョージ」の三軒だから、集まっていた、というほどのものではないが。どの店も一階が店舗で二階が住まいの似たような造りで、みっちりと寄りかかり合うようにして建っている。午後二時過ぎという時間帯だったから、バーとスナックは閉まっていて、カリーと酒の店はドアにはめ込まれたガラス窓から、中に人がいるのが見えた。そして瑠衣の勘は、この店に入るべしと告げていた。
 瑠衣はドアを開けた。店内は奥に向かって細長くて、右側にカウンター、左側にソファとテーブルの席がふたつあった。そして最奥に、半円形のステージがあった。ビンゴ!
「食事?」
 カウンターの中にいた男が言った。五十半ばくらいで、あきらかに日焼けサロンでこしらえた肌の色をした、濃い顔立ちの男だった。花柄のぴったりしたシャツを着ているせいで、細身だが腹だけ出ていることがわかる。
「お酒?」
 瑠衣はニッコリ笑って首を傾げた。温泉から戻った後、「松」レベルの化粧をしていた。「松、竹、梅」の「松」だ。デニムのエスカルゴ型のマキシスカート、黒地に大きな赤い水玉模様のブラウスを合わせている。
「お酒は、まあ、出せって言うなら出すけど」
 男は笑った。ノリがいい男だ。これもビンゴ。一方で、男がすこしアガっていることが瑠衣にはわかる。若い頃のような色香がもうあまり残っていなくても、かわりに得たべつのもので、この種の男をタラすことはまだできる。

 月に二回、開店時間の七時から閉店時間の十一時まで、客とのデュエットあり、必要に応じてホステス的サービスありで、休憩三十分、ギャラは一日五千円。
 本当は週に一回で月に四回、ギャラは最低八千円ほしいところだったけれど、強く出られる状況でもないので、その条件で合意した。ピアノはないけれどギター伴奏がつく。ギターを弾くのはマスター——「梓川(あずさがわ)ジョージ」と書かれた名刺をもらった——だから、伴奏者を雇うお金はかからない。とにかくこれで少ないけれど定期収入を得たわけで、意気揚々とスーパーへ戻りながら電話をかけると、照子はもう彼女の用事を済ませて、車の中で待っているとのことだった。
「仕事、決めてきたよ!」
 乗り込みながら高らかに宣言すると、照子はニヤッと笑った。なんだか見たことがない笑いかただと瑠衣は思った。
「私もよ」
 と照子は言った。
「え? 仕事? あんたも? なんの?」
「これ」
 照子はバッグの中から、トランプを取り出して見せた。

(つづく) 次回は2022年1月5日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。