井上荒野
照子(てるこ)には、意外な特技がいくつかある。 そのひとつがパソコンでの検索スキル――瑠衣(るい)が認識しているよりもずっとずっとすごいスキルがある、と照子は思っている――で、もうひとつがトランプ占いだった。トランプ占いについては、これまで瑠衣にあかしたことはなかった。 「通信講座?」 瑠衣は目を丸くする。ふたりは町から戻ってきたところで、テーブルを挟んでコーヒーを飲んでいる。コーヒーには、ふたりの「就職」が決まったお祝いに、特別に生クリームを泡立ててのせた。夕食もちょっと豪華にしよう、と照子は考えている。 「そう。“あなたの人生を豊かにするトランプ占い講座”っていうの。一年受講したのよ。看板に偽り無しだったわね。豊かになるわね」 「いや、豊かにって……」 瑠衣は呆(あき)れたように言う。 「つまり、その通信講座で覚えたトランプ占いを、商売にするってこと? 月見町(つきみちょう)の喫茶店で?」 「そう。お店に雇われたわけじゃなくて、場所を貸していただけたの。週三回、午後一時から四時まで。コーヒーを飲みに来て、トランプ占いを試してみたくなるお客さんがいるかもしれないし、トランプ占いがしたくて、お店に入るお客さんもいるかもしれないでしょう? 双方にお得ってわけなの」 「お得、ねえ……」 瑠衣はまだ納得がいかない様子だ。 「私、優秀だったのよ。講師の先生からいつも褒められてたの。あなたには才能がありますって」 「才能、ねえ……」 「ほんとだってば」 「そんなに才能があるなら、なんであたしのこと占ってくれなかったの?」 「そうよねえ……」 言われてみればその通りなのだった。通信講座のことを黙っていたのは、奥様の手慰みねと嘲笑(あざわら)われるに決まっていたし実際最初はそんなようなものだったからだが、自信をつけ、何人かの知人を占って「当たってる!」と感心されるようになった時点で、瑠衣に手並みを披露したってよかったのだ。なぜそれをしなかったのだろう? このことは、あとで考えようと照子は思った。 「瑠衣は特別だからよ」 とりあえずそう言うと、 「あっそう」 と瑠衣は、まったく納得していない顔で言った。でも、今はこれ以上は追及しないことにしたようだ。これまで、そう頻繁に会うことはできなかったが、誰よりも深い付き合いの、こういうところがいいところだ、と照子は思う。 「何曜日に行くかはまだ決めてないの。あとで相談させてね。瑠衣の出勤と重ならない日にするわ、でないと一日に何度も車で往復しなくちゃならないから」 照子は話題を変えた。 その店の名前は「マヤ」と言う。 正式名称は「コーヒーと軽食の店 マヤ」だ。 どうやって見つけたの? あのあと、瑠衣から聞かれた。瑠衣が歌うお店を見つけたのと同じことよ。照子はそう答えた。それで瑠衣は例によって渋々納得することにしたようだが、彼女にしてみればこの件はいまだ謎のかたまりというところかもしれない。 もちろん、見つけるべくして見つけたのだ。この町にその店があることはわかっていた。というか、その店がこの町にあるから、この町のそばの別荘地を選んだ、とも言える。 「マヤ」の由来は、「山」だそうだ。これは、はじめて訪れた日に店主の源太郎(げんたろう)さんとパートナーの依子(よりこ)さんから聞いたことだ。ふたりがこの地に店を出すことを決めたのは、山を背景にした田園の美しさに魅了されたからだった。でも「山」という店名だと登山用具の店みたいだから、ひっくり返して「マヤ」。照子はこの話を大いに気に入っていた。店主カップルの人柄みたいなものがあらわれている、と思っていた。 瑠衣のステージは月二回で土曜日だというので、照子は月曜日と水曜日と金曜日に「マヤ」へ行くことにした。今日は金曜日で、「出勤」三日目だった。「マヤ」は駅前広場に沿った通りから一本入った道にある。古本屋、おにぎりカフェ、フォーの店――古家をこつこつ自分たちで改装したような小さな店が並んでいる一画だ。若い人たちのお店が都会から移ってきて、この辺はちょっと面白い通りになってるんですよ、と、若い人の中でもとりわけ若いほうであろう依子さんが教えてくれた。照子の調査によれば、依子さんは二十五歳で源太郎さんは二十七歳のはずだ。 「マヤ」の看板の下に、前回はなかった小さなプレートが吊(つ)り下げられていた。スペード型にカットしたベニヤ板を黒く塗って、銀色の縁(ふち)取りをしたピンクの文字で「音無(おとなし)照子のトランプ占い 月 水 金」と書いてある。「マヤ」の看板と同じく、源太郎さんの手作りだろう。 照子は思わず微笑んで、そのプレートをしげしげと見た。音無照子。それは照子の結婚前の姓名だ。そう名乗ったからそう書いてくれたに過ぎないのに、猛烈に幸せな気持ちになった――まるで、何十年も生き別れになっていた子供に再会したかのように。照子は子供を持ったことがないから、その感慨はイメージであるわけだが、素敵なイメージだった。そう、本当に素敵なイメージだ。 「ごきげんよう。看板、ありがとう! すっごく素敵!」 照子の声に、カウンターの中にいた依子さんが振り返る。お客はいなかった。そんなに繁盛しているわけではない――というより、繁盛するほどの人出がこの町にはない――ということが、前回の出勤日のときにはすでにわかっていたが、気にしないことに決めていた。依子さんにしても源太郎さんにしてもそれほど気にしているふうはないし、瑠衣には申し訳ないけれど、私が「マヤ」に通うのは実際のところお金のためではないのだし――と照子は思う。 「源ちゃん、照子さんが、あの看板、すっごく素敵だって」 依子さんが勝手口を開けて呼びかけ、すると家の裏で何かしていたらしい源太郎さんが中に入ってきて、 「聞こえてたよーん」 とおどけた。ひとしきり、看板作りの話になる。スペード型に切り取るのに苦労したとか、じつはスペードの茎(?)の部分が割れてしまって、接着剤でくっつけてあるとか。源太郎さんが何か言うたびに依子さんがケラケラ笑い、依子さんが何か言うたびに源太郎さんは目をグルグルさせたりうんうんうんと大きな身振りで頷(うなず)いたりする。可愛(かわい)らしくて、微笑ましいふたりだ。ここへ来ると照子の頬は緩みっぱなしになる。 店は狭くて、カウンターが五席、テーブル席がふた組しかない。照子はカウンターの端に掛けた。依子さんがコーヒーを淹(い)れて出してくれる。お金を受け取ろうとしないので困っているのだが、辞退するのはもうあきらめた。それに、おいしいコーヒーであることは間違いないし(照子はコーヒーについては一過言ある)。コーヒー代の代わりに接客とか家事とか、ふたりの役に立つことをしようと思っているが、今のところその機会も与えられていない。機会はそのうちできるだろう――「目的」が達せられるまで、ここにはいるつもりなのだから。 依子さんはコーヒーを自分たちのぶんも淹れたので、彼女はこちら側に出てきてカウンターの椅子に座り、源太郎さんはカウンター内の椅子に座って、飲みはじめた。呑気(のんき)な人たちではある。 「そういえば照子さんのお友だちが“ジョージ”で歌うのって、明日からじゃないですか」 源太郎さんが言い、そうなのよ! と照子は勢い込んだ。 「すっごく楽しみ。毎回っていうわけにはいかないけど、明日は私、見に行こうと思ってるの」 「東京でもよく見に行ってたんですか?」 依子さんが聞いた。照子と瑠衣は親友で、ともに東京で暮らしていたが、「夫亡き後」こちらにある照子の別荘に移住してきた、というのが照子がふたりに話した自分たちのプロフィールだった。気が咎(とが)めるほどの嘘(うそ)というわけでもない。 「ええ」 照子は頷いたが、これも嘘だったし、実のところかなり気が咎める嘘だった。気が咎めるのは、ふたりにではなく瑠衣に対してだったが。瑠衣のステージは都心の盛り場にあるクラブやバーで、瑠衣が歌いはじめるのは夜の遅い時間だった。寿朗(としろう)の妻だったときの照子にはそういう外出がむずかしかったのだ。照子にとって瑠衣とのひとときは何よりも大切なものだったから、夫を怒らせてまで夜の盛り場へ出かけて、昼間や夜の早い時間に瑠衣と会うことまで難じられたくなかった。 ――というわけで、照子にとっては、瑠衣がこの町で歌の仕事を見つけてくれたのは僥倖(ぎょうこう)のひとつなのだった。今はもう誰はばかることなくステージを見に行ける。楽しみで仕方がなかった。 「そりゃあもう、素敵なのよ」 とまた嘘を吐(つ)いたが、今度は気が咎めなかった。そりゃあもう素敵に決まっているからだ。 「僕たちも行こうか?」 「うん。照子さんの親友、見てみたい」 「行きましょうよ、行きましょうよ、みんなで!」 照子は有頂天になって、そう言った。 その日はまったく有頂天な日になった。 というのは照子が「マヤ」に来て三十分あまり経(た)った頃、カランとドアベルが鳴り青年がひとり入ってきて、カウンターの中の依子さんをちらりと見、それから照子をちらりと見て、「トランプ占い、やってもらえますか」と言ったからだ。 「もちろん」 と照子と依子さんの声が揃(そろ)った。同時に、勝手口のドアが開き、源太郎さんが顔を出して頷いた。まだ店内にほかの客はいなかったので、照子はテーブル席に移動し、青年はその向かいに座った。 「コーヒー。あとチーズケーキも。ふたりぶんお願いします」 青年は依子さんに言い、「あっ、コーヒーとチーズケーキでいいですか」と慌てた様子で照子に聞いた。 「お気遣いなく。私は結構です。トランプ占いのお代だけで十分」 照子も慌ててそう言った。その「お代」というのは一回千円である。 「でもここのチーズケーキ、旨(うま)いですよ」 「存じ上げております。バスクふうなんですよね。最初に来た日にいただいて、作りかたも教わりました。今の家にはオーブンがないから、いつどこで作れるかわからないんだけど……」 そこで照子は自分が喋(しゃべ)りすぎていることに気がついて、あらためて慌てて、「さ、何を占いましょうか」と居住まいを正した。青年は再び、依子と照子とをチラチラと見た。 「仕事のことなんですけど」 「お仕事、何なさっているの?」 「“かぴぱら”です、二軒隣の、フォーを出す店です。あ、今日はちょっと休んでるんですけど」 「ああ! あのお店の方なのね。どうぞよろしくお願いしますね。そのうちうかがおうと思ってたんですよ」 現在の経済からすると、気軽に外食できる身分ではないのだが、照子は儀礼的にそう言った。そして言ってしまったからには、経済が逼迫(ひっぱく)しないうちに瑠衣と一緒に一度は食べに行かなくちゃ、と考えたが、そういえば「マヤ」に来るようになってから、「かぴぱら」の前はいつも通っているのに、なんとなく見過ごしていたというか、食べてみたい、と思ったことが一度もなかったと気がついた。それはつまり、何の匂いも漂ってこなかったせいだ。 「じゃあ、これ、カットしてくださいな」 照子はトランプの束を青年に差し出した。同時に、彼を観察する。三十代の半ばくらい。天然パーマで小柄(髪が多いから頭が重そう)。やさしげ。気が弱そう。礼儀正しい。ちょっと頑固そうなところもある。ツイードのジャケットは質が良さそうだけれどずいぶん古びている。古着か――もしかしてお父さんのお下がりとか? フォーを作るときもこういう格好なのかしら、それともトランプ占いのために、ちょっと改まった格好をしてきたというわけかしら。左手の薬指には指輪。既婚ね。奥さんは今、おうちでお留守番なのかしら。トランプ占いのことは、奥さんも知ってるのかしら、それとも奥さんには内緒でこの人はここに来たのかしら。 照子はトランプを並べていった。このトランプは通信講座を修了した記念に、青山のアンティーク・ショップで、けっこうなお金を払って手に入れたものだった。裏面には青地に黒と金で繊細なアラベスク模様が描かれ、キングやクイーンやジャック、ジョーカーの佇(たたず)まいもそれぞれの衣装の柄や表情まで独特で味があった。 「カードにいちばん聞きたいことは何?」 「転職するべきかどうかです」 「あら。お店をやめようと思ってるんですか?」 「はい。全然客が入らないので……」 「えーっ、そんなことないじゃん、うちより入ってるくらいじゃない」 依子さんが口を挟んだ。店が狭いから仕方がないとはいえ、相談の内容が聞こえているのを隠そうとしないのはまずいわね、あとでお願いしておかなくちゃ、と照子は思う。 青年は力なく笑う。照子はカードをめくった。ハートの10。それぞれのカードには何通りかの読みかたがあるのだが、この場合は……。 「こっちでお店をはじめたのはいつから?」 「二年と少し前です。その前は、高円寺(こうえんじ)にいて……」 照子が繰り出す質問に答えて、青年は来(こ)し方を話しはじめた。結婚を機にこの地に来て、自分たちの商売をはじめたということがわかった。東京時代の話には頻繁に出てくる彼の妻のことが、こちらへ来てからはまったく語られないことが照子は気になった。カードをめくる。スペードの2。 「本当に知りたいことは、ほかにあるんじゃないかしら?」 照子は言った。青年はせわしなく瞬(まばた)きしてから、あらためて照子を見た。(つづく) 次回は2022年1月15日更新予定です。
東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。