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  • 第六回 照子(2) 2022年1月15日更新
 占いとは、想像である。
 照子(てるこ)が受講したトランプ占いの通信講座の、テキストの一ページ目にそう書いてあった。講師の名前はバルベルデ未知男(みちお)といい、テキストも彼が書いたものだった。
 最初にテキストを開いたときには、照子はその言葉をさして気に留めなかった。けれども講座が進み面白くなってきて、毎月の課題――提示されたカードの配列を読んで占い者としての回答を考える――を提出しその講評を受けるうちに、「占いとは、想像である」とはまさに至言であると思うようになった。
 講師からいつも褒められていたというのは本当だ。そして講師に言われるより先に、自分にトランプ占いの才能があることに照子は気がついていた。占いは、想像だから。照子には想像力があった。それは結婚生活の中で獲得したものだった。
 想像することは照子の趣味みたいなものだった。スーパーマーケットのレジで前に並んでいる誰か。電車や車の車窓からふと目にした誰か。もしも私が彼女だったら、彼だったら、どんな人生を味わえただろう? 照子はいつでも想像していた――現実の人生が、あまりにも不本意だったから。
 そして照子がその不本意をあかす相手は、瑠衣(るい)だけだった。ほかの人たちには、とくに不満はないようにふるまった。ほかの人に話したところで、どうにもならないことはわかっていたし、あかした不満が噂(うわさ)になって寿朗(としろう)の耳に入ったら、さらに不本意なことになりそうだったから。自分を見栄っ張りだとは思っていないが、幸福そうにふるまっていると、そのときだけは不幸ではない気分になれる、ということはあったかもしれない――そのあとの揺り戻しが最悪だったが。というわけで照子は、他人の「ふるまい」――「嘘(うそ)」とは言いたくない――にも敏感になった。自分自身のふるまいと照らし合わせて、ああこの人も、絶対にあかさないことを持っている、だけどそんなものはないようにふるまっている、と感知できるようになったのだ。
 講座修了後、照子は何人かの知り合いにトランプ占いを行(おこな)って、「すごく当たる」という評判を得たが、照子にとって実際のところトランプの数字やマークはひとつの標識みたいなものにすぎなかった。照子が読んでいたのはカードではなくて自ら想像した物語だったし、カードのお告げは、その人のふるまいの裏側に向けた照子からのささやかなアドバイスだった。
「照子さん、すごい」
「かぴぱら」店主の青年――朝倉(あさくら)くん――が占いを終えて立ち去ると、依子(よりこ)さんが感嘆の声を上げた。途中から店内に入ってきていた源太郎(げんたろう)さん――たぶん外で聞き耳を立てていて、がまんできなかったのだろう――も、うんうんうんと頷(うなず)いた。
「マミちゃんが全然帰ってこないから、心配だったの。やっぱり揉(も)めてたのね。照子さんは何にも知らないのに、それを当てちゃうんだもんねー」
 マミちゃんというのは朝倉くんの奥さんの名前だ。用があって東京の実家に帰っているという話を依子さんたちが朝倉くんから聞いたのはひと月以上前のことだという。結局、マミちゃんはまだまだ実家にいるらしい。所用があったわけではなく怒ってこちらの家を出て行った。そしてまだ怒っている。朝倉くんに怒っているというよりも、この土地の因習みたいなものにうんざりしている。――カードをめくりながら、そうした事情を照子は聞き出していた。
「うまくいくといいんだけど」
 店をやめるのではなく、ふたりで力を合わせて因習と戦う方向で努力すべしと、カードは――というのはつまり、照子は――朝倉くんに告げていた。
「うまくいくように、僕たちも協力します」
「うん、そうだよね、そうしよう」
 依子さんと源太郎さんはひとしきり、因習については自分たちも大変に苦労しているのだという話をし、それからあらためて源太郎さんが、
「僕らにも言わなかったことを言わせるんだからなあ、照子さんは本当にすごい」
 と言い、「いえいえいえ」と照子は照れながら、さっき朝倉くんがくれた占いの報酬千円がまだテーブルの上にあって、思わずそれをブンブン振ってしまった。
「瑠衣もすごいのよ。もっとすごいの」
 そう言ってから、あまり謙遜になっていないことに気がついた。

 スタートは順風満帆だ。
 でも、もちろん、完璧に順風満帆というわけではなくて、問題もある。
 わかってるわ、世の中はそんなに甘いものじゃないわよねと、照子は思う――たとえば土曜日の朝、毛布にくるまってコーヒーを飲みながら。向かいの椅子で、瑠衣もやっぱり毛布にくるまっている。椅子の上で膝を抱え、頭からすっぽり毛布で覆われているので、擬人化されたミノムシみたいに見える。
 寒かった。
 まだ九月に入ったばかりなのに、朝晩がなかなか寒い。寒冷前線が通過しているらしく――カーラジオで天気予報を聞いた――東京では残暑がやわらいだことが喜ばれているようだが、ふたりが暮らす山の中は、そもそも残暑など感じられなかったから、気温が下がれば当然「涼しい」のではなく「寒い」のだった。
「コーヒーがおいしいわね」
 照子は前向きな感想を述べた。実際、今いちばんありがたいのは温かい飲食物である。
「標高何メートルだっけ? ここ」
 全然前向きではない声で瑠衣が聞いた。
「千五百ちょっと」
 照子は答えた。
「それは別荘地の入口でしょ? ここはさらに上がるから千七百はあるわねって、あんた自慢そうに言ってなかった?」
「それは夏の話」
「へー? 標高って夏と冬で変わるわけ?」
「違うわよ、自慢そうに言ってたのは夏だったってこと。涼しかったでしょう? 標高が高いから」
「で、今は寒いね、標高が高いから」
 照子は渋々頷いた。標高のことはなめていた。寒いだろうとは思っていたが、九月にこうまで寒いとは思わなかった。あんなにいろいろ、周到に考えたのに。ガスや電気が使えなくても、夏は涼しいからエアコンの必要はないし、お風呂が沸かせなくても近くに温泉があるから大丈夫、というところまでは考えたのに。
 でも、もちろん対処法はある。あるはずだ。これから私が生きていくのは、対処法がある世界なんだから、と照子は思った。
「あれって、動くの?」
 照子の視線を追った瑠衣が、そう聞いた。ふたりが見ているのはリビングの中央に据えられた薪(まき)ストーブだった。
「動くっていうか、薪を燃やせばあったかくなるわ。たぶん、ものすごおく」
 照子は答えた。
「なーんだ、そうなの? じゃあ薪を拾ってくればいいって話?」
「そう簡単でもないんだけど」
 薪ストーブについては照子も知識がなくて、昨夜、スマートフォンで検索していた(ちなみにスマートフォンの充電は車中で行っている)。そしてやっぱり、自分が薪ストーブというものをなめていた、と知ったのだった。
「えんどうかさい」
「え? 誰? それ。薪ストーブを発明した人?」
「煙道火災。煙突の中が火事になることよ。薪ストーブを燃やすと煙突の中にタールが溜まるから、一年に一度は煙突掃除をしなくちゃならないんですって。そうしないとタールに火がついちゃうの。それから薪は、木を切ってから一年以上乾燥させたものじゃないと、くすぶってばかりで火がつかないんですって。すぐ使える薪はホームセンターなんかで売ってるけど、すごく高いの。それから……」
 昨夜仕入れた知識を、照子は瑠衣に披露した。それはつまり、薪ストーブを稼働させるのは金銭面と作業面でふたりだけでは現状なかなかむずかしいものがあり、だから、それなりの対処法を見つけなければならない、ということだった。

「まだー?」
 瑠衣が二階まで上がってきた。照子はワイドパンツとブラウスを脱ぎ捨てて、ワンピースを頭から被ったところだった。
「あともうちょっと。鏡がないからよくわからないのよ。このワンピース、へんじゃない?」
「へんじゃない、へんじゃない。それでオーケー。そろそろ出ないと初日から遅刻しちゃう」
 そう言う瑠衣は、黒のロングワンピースという姿だった。胸元が大胆に開いていて、ウエスト部分に銀糸で大きなバラが刺繍(ししゅう)されている。素敵ねえ。照子は早々にうっとりした。瑠衣は自分に似合う服が、ちゃんとわかっている。ひきかえ私は、瑠衣のステージをはじめて見に行くというのに、何を着ていけばいいのかもわからない。
「大丈夫だって。素敵だよ。どっから見ても幸せな奥様って感じ」
 そういうのがいやなのよ。幸せな奥様になんかもう、見られたくないのよ。照子は心の中でぶつぶつ言ったが、たしかに瑠衣を遅刻させるわけにはいかないので、しぶしぶワンピースのファスナーを上げて、ロングカーディガンを羽織った。このワンピースを着ていくならカーディガンじゃなくてトレンチコートでも羽織りたいところだった――それなら幸せな奥様ではなく、ちょっと悪そうな老女に見えるかもしれない。その思いつきを存外照子は気に入った。そうね、それを目指しましょう。ちょっと悪そうな老女。実際、ちょっと悪いことをしているわけだし。
 車を駅前駐車場――二時間までは無料で停められる、太っ腹な町営――に停め、「カリーと酒の店 ジョージ」には、午後六時五十分に入ることができた。店は午後七時開店なのに、店内にはもう数人の客がいた。テーブル席のひとつに、夫婦らしき五十がらみの男女がふた組の四人グループ。彼らより少し年配の男性がカウンターにふたり。全員が好奇の目で照子と瑠衣を見た。
「おはようございまーす」
 瑠衣が朗らかに挨拶した。ショービジネスの世界では、夕方だろうが夜だろうが「おはようございます」と挨拶する習わしなのだということくらい照子も知っている。それでも照子はびっくりした――瑠衣のその声が、今まで聞いたことがないものだったから。たぶんこれは瑠衣の「仕事用」の声なのだろう。すごい。瞬時にあんなふうに変われるなんて。ショービジネス用の声、歌手の声、プロフェッショナルの声だ。そう、瑠衣はプロフェッショナルなんだわ、と照子はあらためて感心した。
 依子さんと源太郎さんにここで会う約束になっていたから、照子は店主の男性――「ジョージ」と瑠衣は呼んでいた。早々に呼び捨てで――にそう言って、四人がけのテーブル席に着いた。メニューを熟読した末に「バーボンソーダ」を注文し――カウンターの中に入っていた瑠衣が、ケラケラ笑いながら手を叩(たた)いた――、あまり辺りをキョロキョロしないように気をつけながら待っていると、依子さんと源太郎さんが入ってきた。こっち、こっち。照子は必要以上に大きな声を出して手を振った。早く瑠衣にふたりを会わせたかったのだ。瑠衣がバーボンソーダを持ってきてくれたから、紹介することができた。
「うちの照子がお世話になっております」
 瑠衣がそう言ったから、依子さんも源太郎さんもケラケラ笑った。カッコいいですねー。うん、カッコいい。瑠衣の第一印象として、ふたりがそれぞれそう言ったので、照子はとりあえずほっとした。その時点でかなり興奮していたのだが、ステージがはじまると、その興奮のメーターはいきなりふりきれるほどに跳ね上がることになった。
 店内の照明が落とされ、ステージの上だけがほんのりあかるくなった。
 ジョージ氏がギターを弾きはじめた。最初の曲は「枯葉」だった。フランス語で、瑠衣はそれを歌った。
 照子は心臓が動くのを感じた。
 いや、もちろん今までだって、それは動いていたのだが、今はじめて動くことに気がついたような感じだった。血が体じゅうを巡って、頬を熱くさせ頭をジンジン痺(しび)れさせ、心臓を旺盛に動かしていた。瑠衣の歌声によって、あるいは歌っている瑠衣によって、血が全部入れ替えられたようにも感じた。もしそれが、味を見ることができるような液体であったなら、入れ替えられた血は、これまでの血よりずっとおいしくなっているだろう、と照子は思った。
 これまで瑠衣と一緒にいるときにはいつも、いいものが体の中に入ってくるような気がしたものだが、今日はとりわけだった。瑠衣は自由な女だったが、歌っている瑠衣はより自由だった。瑠衣だわ、と照子は思った。瑠衣だらけだわ。瑠衣の歌は瑠衣百人ぶんだわ。一万人ぶんかもしれない。
「こんばんは。瑠衣です。今夜から月に二回、ここで歌います。どうぞご贔屓(ひいき)に」
「枯葉」が終わると瑠衣はプロフェッショナルな声で自己紹介し、「サン・トワ・マミー」を歌いはじめた。私が知ってる歌ばかり選んでくれたのね。照子はそう思った(あとから、「ジョージが弾ける曲を選んだ」という事実を知ることになるのだが)。夢みたいな夜になった。瑠衣のステージも、お客が歌ったり瑠衣とデュエットしたりするカラオケタイム――照子自身は歌うのは断固固辞したが――も、名前は知っているけれどこれまで飲んだことがなかったカクテルを次々に試してみるのも、ゆるゆる酔っ払いながら、依子さんや源太郎さんとお喋(しゃべ)りするのも、全部はじめての経験で、全部夢みたいに楽しかった。
 二回目のステージがはじまる前に、瑠衣が照子たちのテーブルに来た。瑠衣のほうに身を屈(かが)めて囁(ささや)く。
「煙突掃除、ジョージがやってくれるって。薪も手配してくれるって」
 歌ったり喋ったり笑ったり飲んだり、この店に来てから瑠衣は休みなく動き回っているのに、いったいいつの間に、そんな相談をしたのだろう。照子はびっくりし、瑠衣はすごい、とあらためて感心するしかなかった。

(つづく) 次回は2022年2月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。