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  • 第七回 瑠衣(1) 2022年2月1日更新
 ジョージが軽トラックでやってきた。
 不言実行。頼もしい男(やつ)。ただちょっと朝が早すぎるけど、と瑠衣(るい)は思う。七時から八時の間に行くよと言っていたが、今はまだ午前七時少し前だ。瑠衣は照子(てるこ)を呼びに二階に上がった。今朝は瑠衣のほうが早起きしている――何しろはりきっているのだ。
 照子は寝巻き――明るいグレイの、Tシャツを長くしたようなワンピース型の洒落(しゃれ)たもの。ちなみに瑠衣は、寝るとき専用の衣類など持ったことがなく、今は長袖Tシャツとショーツという姿で寝ている――を脱いで、服に着替えているところだった。照子が身につけるものを、瑠衣はじっと観察した。
「なあに?」
 とうとう照子が声を上げた。
「スカートがいいんじゃない? こないだ着てた、細かいチェックのワンピースとか、いいんじゃない?」
 瑠衣は言った。ワイドデニムに照子のものとしては古ぼけたTシャツを着て、パーカを羽織ろうとしていた照子は眉をひそめる。
「だってこれから、薪(まき)を運んだりしなきゃならないでしょう?」
「そんなの全部ジョージに任せとけばいいのよ。あんたはコーヒーでも淹(い)れて、ニコニコしててくれればいいから」
「何それ」
 しまった。照子をムッとさせてしまった。瑠衣は瞬時に反省した。ムッとするのは当然だ。「コーヒーでも淹れて、ニコニコしててくれれば」が妻の存在意義だと思っている男を捨てて、照子はここにいるのだから。
 それで、瑠衣は照子の服装のことはあきらめて――瑠衣自身は、ジャージー素材のパンツに照子のよりずっと古ぼけたTシャツ、古ぼけたカーディガンという気が抜けた格好をしている――、ジョージを出迎えるべく階下へ戻った。照子もすぐについてくる。ジョージがもう到着していることに慌てたらしく、顔も洗わないまま、瑠衣と一緒に外へ出た。
「ヤッホー!」
 と瑠衣が手を振ると、
「ヤッホホー!」
 とジョージは飛び上がって手を振り返した。ノリがいい男だ。
「おはようございます。朝早くからありがとうございます」
 照子の挨拶はノリがいいとは言えないが、挨拶として悪くはない。この前、照子がステージを観(み)にきたとき、ジョージは瑠衣に「照子さんって上品な人だねえ」とうっとりしたように囁(ささや)いていたからだ。「上品な人だねえ」と言われても照子はあまり嬉(うれ)しくないかもしれないが、肝心なのは「うっとりしたように」というところだ。実際のところ、あの瞬間に、今、瑠衣の胸にある「計画」は発生したのだった。
 軽トラックの荷台には薪がどっさり積まれ、助手席からは脚立のほか、煙突掃除の道具が取り出された。ジョージは「カリーと酒の店」を経営する傍(かたわ)ら、バイト的に近隣の別荘地で薪ストーブの煙突掃除を請け負っているらしい。まず家の中から煙突の形を確認したいと言われ、瑠衣は照子を窺(うかが)った。照子が頷(うなず)く。中に入れても大丈夫――ふたりがこの家に不法侵入していることはバレない――という意味だろう。瑠衣、ジョージ、照子という順番で家に入った。
「寒っ」
 というのがジョージの第一声だった。
「外より寒くない? この家」
 はっはっはと笑ったが、あながち冗談でもないのだろう。薪ストーブが使えないならふつうは電気ストーブなり灯油ストーブなりを稼働させているはずだが、そのどちらも使っていないのだから。
「以前は夏しか使ってなかったから、うっかりしてて」
 すかさず照子がそう言った。なるほどー。ジョージはあっさり納得した。辺りを見渡す。
「けっこう長い間、来てなかったの?」
「ええ、そうなんですの。長く生きてると、いろんなことがありますものね」
 再び照子が、もっともらしく答えた。ですよねー。ジョージはしみじみと頷いた。
 これなら屋根に上らなくても下から掃除できるというので、あとはジョージに任せて、瑠衣は照子とともに家を出た。煙突掃除の間に、軽トラックの荷台の薪を軒下に運んでおくつもりだ。ふたりが薪に手をかけるのと同時に、「あーっ、待って待って」とジョージが出てきた。
「これ使って。素手で持つとトゲが刺さったりするから」
 今日のジョージはフード付きパーカに大きなポケットがたくさんついた作業用ズボンという格好だったが、そのポケットをあちこち探って、彼は軍手をふた組取り出した。
 わざわざ用意してくれていたのか、この辺りの人はみんなポケットに複数の軍手を常備しているのかはわからない。でもジョージが最初に軍手を手渡したのは瑠衣ではなくて照子だった。いいぞ、いいぞと瑠衣は内心ウキウキした。
「あんまり一生懸命やんなくていいからね。こっちが終わったら、俺がやるから」
 ジョージはふたりに声をかけると、家の中に戻っていった。いい男じゃん。いい男だよね。うん、いい男だ。瑠衣は今一度自分自身に確認する。
「いいやつだよね、ジョージって」
 もちろん照子にも確認――というか強調――した。
「何かお礼をしなくちゃね」
 というのが照子の答えだった。もう少し違った反応がほしいところだけど、とりあえずはよしとしよう、と瑠衣は思った。

 瑠衣と照子はがんばったので、ジョージが煙突掃除を終えたときには軽トラックの荷台の薪はすべて軒下に積み上がっていた。ふたりが家の中に入ると、ジョージは「試運転」だと言ってストーブに火を入れてくれた。これはふたりにはありがたかった――薪の焚(た)きつけかたを実地で学ぶことができたから(もちろん、そんなことはあたしたちだってできるわ、という顔で眺めていたが)。
 瑠衣にとって残念だったことは、炎が太い薪に燃え移ったところで、ジョージが帰ってしまったことだった。午前中にあと一件、煙突掃除の予約が入っているらしい。三人でコーヒーを飲み(照子が淹れるコーヒーのおいしさにジョージを感動させ)、パンケーキを食べる(照子が焼くパンケーキでとどめを刺す)、という予定だったのに。まあ、仕方がない。焦りは禁物だ。ジョージはともかく、照子という女はこう見えてなかなか一筋縄ではいかなそうだから。結局、ふたりで向かい合ってコーヒー(おいしい)と、チーズトースト(パンケーキではなかったが、これはこれでとてもおいしい)の朝食をとりながら、瑠衣は考えを巡らせた。
 薪ストーブの中では薪がゆらゆらと燃え、九月の終わりの寒冷地の家の中は、十分に暖まってきた。瑠衣があくびをすると、照子も続いた。ふたりはどちらからともなく二階へ上がっていって、どちらからともなく服のままベッドに横たわり、五分十分のつもりが、いつの間にか眠り込んでいた。じつのところ――ふたりとも口には出さなかったが――薪運びでなかなか疲れてしまったのだった。起き出したのは今度は照子のほうが先だった。瑠衣が下に降りていくと、昼食をこしらえるいい匂いがもう漂っていた。
「寝ちゃったね」
「寝ちゃったわねえ」
 と言い交わす。照子が湯気を立てる鍋を運んできた。豚汁のようだ。ごはんは炊きたて。おかずは甘い卵焼きと納豆、というのが今日の昼食メニューだった。
「ちょっとがっかりしちゃった」
 卵焼きに添えた大根おろしに醤油(しょうゆ)をたらしながら、憂鬱そうに照子がそう言ったので、瑠衣はぎょっとして「え? なにが?」と聞いた。ジョージのことだと思ったのだ。
「あれっぽっちの薪を運んだだけで、こんなに疲れちゃうなんて。自信なくしちゃった」
 ああそのことか。瑠衣はほっとし、しかし同時に、自分もやはり今少々がっかりしていることに気付きながら、「いや疲れたっていうか、朝早く起きたせいでしょ」と言った。
「それに、あれっぽっちの薪ってことないでしょ。結構な量あったじゃない。ジョージが自家用に貯蔵してるのを分けてくれたんだよ」
「そうよね、ジョージさんに申し訳ないわよね。撤回するわ。私が言いたかったのは、薪の量じゃなくて、自分の体力の量。残量って言ったほうがいいかしら」
「残量とか言うのやめてよ」
 瑠衣は豚汁を啜(すす)り、勢いよく啜りすぎたせいでむせた。
「都会暮らしでなまってるのよ、あたしたち。ここにいる間にあらたに体力がつくわよ。まだまだこれから、なんだってできるわよ」
「そう……そうよね」
 照子はニッコリ笑った。少し気をとりなおしたようだ。よかった。そうこなくっちゃ。
「薪運びだって今にトラック何台ぶんも運べるようになるし、煙突掃除だってできるようになるかもしれないし、男だって」
「うん、やっぱりさつま芋が合うわよねえ」
 瑠衣の最後のひと言に、照子の豚汁についての意見が被(かぶ)ってしまった。

 今日は水曜日で、照子の「出勤」の日だった。瑠衣は一緒に行くことにした。ジョージについて照子にもうひと押ししたいところだったし、ジョージ側のリサーチもしたかったし、照子のトランプ占いも見てみたかったから。もっとも占いについては、まったく客が来ない日のほうが多いらしく、ほとんど期待していなかったが。
「はじめてお許しが出たね。どういう心境?」
 これまで数回、「マヤ」に同行したいと瑠衣は照子に申し出ていたのだが、いずれも「もうちょっと私が慣れてからにしてくれる?」と照子から断られていたのだった。
「瑠衣がしつこいからよ。あなたがそんなにあのお店に行きたいのなら、しょうがないかなって。それに、もう慣れてきたし」
 山道を、それこそもうすっかり慣れた調子で運転しながら、照子は答えた。なんだか妙に嬉しそうだ。これはひょっとして「ジョージ効果」だろうか。
「わあ、瑠衣さん」
「瑠衣さんだあ」
 照子と一緒に「マヤ」に入っていくと、若いふたりが無邪気な歓声を上げて迎えてくれた。源(げん)ちゃんとヨリちゃんといったっけ。会うのは先週、照子と一緒にステージを観に来てくれて以来だ。
「ヤッホー」
 と瑠衣は満面の笑みで応えた。
 客はひと組もいなかった。照子が定位置らしい椅子(いす)に座り、瑠衣は少し離れたテーブルを選んだ。もしも占いを所望する人が入ってきたら、照子とは無関係な客のふりをするつもりだ。
「何、頼もうかな」
 瑠衣が呟(つぶや)くと、
「依子(よりこ)さんが淹れるコーヒーは、すっごくおいしいわよ。絶品よ」
 と照子が言った。いやに強調するわねと思いながら、瑠衣はコーヒーを頼んだ。ほどなくして、瑠衣と照子、それに源ちゃんとヨリちゃん、それぞれの前にコーヒーが運ばれた。なるほど、呑気(のんき)な店だわと瑠衣は思う。先行きが少々不安になるにしても、とにかく照子にはぴったりだ。
 コーヒーはたしかに、照子が淹れるコーヒーに匹敵するおいしさだった。白いシンプルなカップ&ソーサーも趣味がいい、と照子は思っていることだろう(瑠衣自身は、器というものに関してとくにこだわるところはない)。照子に娘がいたらこんなふうになるのかもしれない。瑠衣はそう考えながら、あらためてヨリちゃんを眺めた。娘と言うには若すぎるか。孫でもありえる年頃だ。瑠衣の視線に気づいたヨリちゃんが笑いながら首を傾(かし)げた。
「ヨリちゃんと源ちゃんはこっちの人?」
 瑠衣が聞くと、ヨリちゃんから東京ですという答えが返ってくる。
「東京生まれの東京育ちです。源ちゃんは九州出身。私もルーツを辿(たど)れば九州みたいなんですけど」
「九州のどこ?」
「源ちゃんは佐世保(させぼ)。私は唐津(からつ)のほうらしいです」
「……あらー」
 瑠衣が上げた声は不安定に揺れた。佐世保という地名を聞いて動揺したせいだ。かつて暮らしていたことがあると、打ち明けるべきか否か。瑠衣は言わないことにした。照子のほうをちらりと窺う。照子は瑠衣の過去についてあらかた知っているのだが、知らん顔を決め込んでいた――自分の爪が気になっているそぶりが、かなりわざとらしくはあったけれど。
「ふたりとも、じゃあ、ご両親とかは九州なんだ?」
 話の接(つ)ぎ穂に瑠衣はそう聞いた。源ちゃんの両親は佐世保在住で、ヨリちゃんのほうは「中学生のときに両親が離婚して、母親と一緒に暮らしていたけど、彼女は今、男を追いかけてたぶんイタリアにいる」とのことだった。瑠衣は再びチラリと照子を見た。「どこかで聞いたことがあるような話だわ」と、きっと照子も思っていることだろう(あいかわらず爪をいじっているが)。
「瑠衣さんのご家族は?」
 源ちゃんが返礼のつもりのようにそう聞いた。聞いて悪いことだとは露(つゆ)ほども思っていないのだろう。もちろん、聞かれても大丈夫だ。この種の質問をされることはこれまでどこでも、何度でもあって、答えをちゃんと用意してあるから。
「んー、どこかにいると思うんだけどね」
「えっ」
 源ちゃんとヨリちゃんは顔を見合わせ、
「あたしの未来のハズバンド」
 と瑠衣は続けた。
「絶対どこかにいるはずなんだけど、まだ見つからないのよね」
 ほほほほ。照子が高らかに笑った。あははは。それで若いふたりも、ここは笑うところだとわかってくれたようだった。

(つづく) 次回は2022年2月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。