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  • 第八回 瑠衣(2) 2022年2月15日更新
 ハズバンド問題。
 未来のそれがどこかにいるのかどうかは実際のところ覚束(おぼつか)ないが、過去にそれはふたり存在したのだった。
 ふたりとも、もう死んでしまった。最初のハズバンドだった男は三年前に、ふたり目のハズバンド――籍を入れていなかったから、正確にはハズバンドではなかったけれど――は、四十年前に。ふたり目が死んだのは事故によってで、彼はそのときまだ三十五歳だった。でも、ひとり目の死因は、新聞の訃報欄の記事によれば肺癌(はいがん)で、彼は八十二までは生きたのだから、あたしが災いの女ってことはないよね、と瑠衣(るい)は考えることにしている。
 ひとり目と結婚したのは二十二歳のときだった。彼は十五歳年上だった。いい人だった――瑠衣を「産まなきゃよかった」と言い放つ母親やそれに同調する父親や、瑠衣に向かって放つ言葉の最多なものが「バカ」であるような兄と姉よりも、ずっと。当時の瑠衣にとっては、はじめて褒めてくれたのも、はじめて守ってくれたのも、はじめて味方になってくれたのも彼だった。
 彼は実業家の二代目のボンボンで、東京にいるといつまでたってもボンボンだから、地方に行って一旗あげようと考えたのだった。それで、瑠衣との結婚を機に向かった先が、佐世保だった。港町で彼はジャズバーを経営した。そのバーで、瑠衣はふたり目の男に出会ってしまった。ふたり目はジャズベーシストで、五歳年上で、ひとり目ほどにはいい人ではなかったが魅力的だった。瑠衣は彼に恋をした。というか、恋というのはこういうものだとそのとき思った。今まで、ひとり目に抱いていた気持ちは、恋ではなかったのだと。瑠衣は恋に身を投じた。それからたった四年で、彼が車に轢(ひ)かれて死んでしまうなんて夢にも思いもせずに。そしてすべてを捨ててしまった。すべてを。

 瑠衣はコーヒーを飲み終わると、次第に落ち着かなくなってきた。
 ひとつには客が来ない、ということがある。照子(てるこ)の占いを見ることもできないし、暇そうなヨリちゃんと源(げん)ちゃんは瑠衣に気を遣って、もっとなにか会話したほうがいいのだろうかとそわそわしている様子だし。
「あたし、ちょっとジョージと打ち合わせしてくるわ」
 そう言って立ち上がった。
「また戻ってくる?」
 照子が聞く。占いのお客も来ないのに、すごく戻ってきてほしそうなのはどうしてかしら、と思いながら、「なりゆき。電話する」と瑠衣は答えて、自分と照子のぶんのコーヒー代を払って店を出た。ありがとうございましたー、またどうぞー、という源ちゃんヨリちゃんのあかるい声が背中にかかって、なんとなく「うわあっ」という気持ちになる。そうだ、「マヤ」にいると落ち着かないのは、この「うわあっ」のせいもある。悪い気持ちなどではないし、何が「うわあっ」なのか謎なのだが――。とにかく、ジョージのところには二時間もいないから、「マヤ」には戻らずにひとりで帰ろう、と決めた。月見町(つきみちょう)から別荘地までのバス便があることがわかったので、運転免許を持っていない瑠衣も外出が以前よりしやすくなった。
「カリーと酒の店 ジョージ」はもちろんまだ開店前だったが、店のドアは例によってすっと開いて、ジョージは例によってカウンターの中の椅子(いす)に座って、めずらしく文庫本を読んでいた。
「ヤッホー」
「あれ。なんかまずいことあった?」
 煙突掃除のことを言っているのだろう。ううん、全然問題ない。ありがとうね。瑠衣はニッコリ笑って感謝の意を示し、カウンターの椅子に座った。それからしばらく、ストーブが使えるようになって自分も“照子”も、心からありがたく思っていることをかなり大げさに伝えた。
「今ね、照子が“マヤ”に来てるのよ」
「あ、占いの日か」
 よしよし。この前話したことをちゃんと覚えているようだ。
「なんか飲む? ビール?」
「水でいい」
 そう言ったのに、ジョージは冷蔵庫から缶ビールをふたつ取り出してきた。彼がプルトップを開けたので、瑠衣も開けた。「乾杯」と差し出された缶に、自分の缶を合わせる。
「試してみたくない?」
 突然それを思いついて、瑠衣は言った。そうだ、それがいい。ジョージに(どうせ暇そうだし)照子のトランプ占いを受けさせればいいのだ。そうすれば彼のことがもっといろいろわかるし。
「試すって何を」
「だーかーら。トランプ占い。照子の。すっごく当たるのよ」
 見たことはないし確信もなかったが、瑠衣はそう言った。
「俺、占いって信じないんだよ」
 ジョージはビールを呷(あお)ると、生意気な小学生みたいな口調で言った。
「占いっていうか、照子のは人生相談みたいなものよ」
「悩み、ないもん」
「へー、ないの?」
「ないよ。瑠衣はあるのかよ」
「あるわよ」
「言ってみろよ」
「言わない」
 小学生の口げんかみたいになってしまった。しまった、どこかで道筋を間違えた。照子のことをアピールしていたはずだったのに。
「占いはともかく、照子さんって、いい女だよな」
 突然、ジョージがそう言ったので、瑠衣は歓喜の叫びを上げそうになった。
「そうよ。そうなのよ。そう思うでしょ?」
 ジョージは頷(うなず)き、小学生がはにかんでいるような表情で、さっきまで読んでいたらしい文庫本をカウンターの上に置いた。
「ああいう人と会うと、いろいろ考えるよな。とりあえず、本というものを読んでみることにしたんだ。何から読んでいいかわからないから、有名なこれにした」
 その文庫本を、瑠衣は見た。太宰治(だざいおさむ)『人間失格』(にんげんしっかく)。瑠衣は文庫本からジョージへと視線を移した。
「……本当は悩みがあるんじゃないの?」
「いや。ない。ないない。悩みとか、そういうんじゃない」
 ジョージはそそくさと文庫本を隠した。いかにも悩みがある様子だったが、それが「計画」にとって吉なのか凶なのか、瑠衣にはまだ予想がつかなかった。

 ジョージ。
 本名、梓川譲二(あずさがわじょうじ)。五十九歳。バツ二。子供はいない。長野県の南のほうの出身らしい。すべて自己申告だから、本当かどうかはわからないけれど、嘘(うそ)を吐(つ)く理由もないだろう、と瑠衣は思っている。年齢に関しては、もう少し若くも見えるけれど、なんとなくこの男は、中学生の頃から五十男の風貌(ふうぼう)だったのではないか、という感じもする。
 月見町に「カリーと酒の店 ジョージ」を開いて十年以上になると言っていた。それ以前に何をしていたのかは、まだ聞いていないし匂わせる言動も今のところない。「本というもの」は読まない人生だったらしいことは、さっきわかった。
 ジョージのプロフィールを頭の中で組み立てながら、瑠衣は「マヤ」のドアを開けた。結局、缶ビールをふた缶、そのあとワインを一本ジョージとふたりで空(あ)けてしまい、それなりに酔っているしもう午後三時を過ぎているし、バスで帰るのは億劫(おっくう)になったしで、戻ってきてしまった。
「瑠衣!」
 照子が嬉(うれ)しげに声を上げた。照子だけではなく、源ちゃんもヨリちゃんも興奮の面持(おもも)ちで瑠衣を見ている。二時間足らずいなかっただけなのに、すごい歓迎ムードで、瑠衣はたじろぐ。
「瑠衣、聞いて。あれから占いのお客さんがふたりも来たの!」
「フォーの店の朝倉(あさくら)くんが宣伝してくれたんです!」
「すっごい当たって、ふたりともびっくりして、友だちにも教えるって!」
「瑠衣にも見てほしかったわ! よっぽど電話で呼び戻そうかと思ったんだけど!」
 そういうことか。めでたいことには違いない。照子の「仕事」っぷりを見られなかったのは残念だ。瑠衣はコーヒーを所望して、さっきと同じ椅子に掛けた。
「ジョージを連れてこようと思ったんだけど、お客がふたりもいたんだったら、どっちみち彼まで回ってこなかったね」
 つい、そう呟(つぶや)くと、
「ジョージさんも興味示してるんですか?」
 と源ちゃんがすかさず身を乗り出した。
「今からでも来ればいいのに」
 とヨリちゃんも言う。
「今日は無理。もう酔っ払ってるから」
 瑠衣は慌ててそう言った。
「やだ、打ち合わせとか言って、飲んでたの?」
 照子が呆(あき)れたように言う。
「あんたも呼ぼうと思ったけど、勤務中だから遠慮したのよ。来たかった?」
「どうせなら、みんなでここで飲めばよかったわね」
 照子はそう答え、一同は笑った。うんうん、照子のジョージへの感触は悪くない。瑠衣はあらためてそう考えながら、例の「うわあっ」に再び見舞われていた。うわあっ。瑠衣は照子を見、ヨリちゃんを見、源ちゃんを見た。呑気(のんき)な場所。ここがそれだから、「うわあっ」なのだろうか。呑気っていうか幸せって感じもする。幸せな場所。その幸せが「うわあっ」とあたしを攻撃してくるのだろうか。やっぱり、よくわからない。ここは謎だ。
 指先がやわらかいものに触れる感触があった。実際に触れているわけではない――ときどきよみがえる感触。それから、いつものように、キャーッという甲高(かんだか)い笑い声が頭の中に響く。瑠衣は、それを無視した。
 結局その日、瑠衣は、照子の「勤務」が終わる四時までそこにいて、そのあとは照子が買い物したいと言うのでスーパーマーケットに寄り、いつものようにカートを押し照子の後ろをついて歩いた。あら、きれいな鯵(あじ)が出てるじゃないの。一尾お刺身にして、一尾はフライにしましょうか。どう? とかなんとか照子に聞かれて、うんうんと頷いたりしている。まるで子供だと、瑠衣は自分に呆れる。
 そうなのだ、と瑠衣は思う。こちらへ来てから、あたしはまったく照子の子供状態になっている。
 もちろん、この暮らしが、ほとんど照子の計画によるものだという理由は大きいけれど。後先考えず老人マンションを飛び出して、泣きついたのはあたしだけれど。車が必須の田舎(いなか)で、車の運転ができないことも痛いけれど――。
 それにしても、東京でときどき照子と会っていた頃は、というか中学で言葉を交わすようになって以来、あたしはずっと、照子に頼られてきたのに。言うなればあたしが母親で、照子が子供、少なくともあたしが姉で照子が妹だったのに。
 もちろんそれが悪いとは思わない。照子の成長、あるいは思わぬ一面の発露を寿(ことほ)ぐべきだろう。でも、やっぱり、このままじゃちょっと気が収まらない。あたしだって役に立ちたい。瑠衣はこのところずっと、そう思っているのだった。
 それで「計画」を立てたのだった。照子に恋をさせるという計画を。相手はジョージ。生涯の伴侶にするのが適当であるかどうかはわからないけれど、生涯といったってあたしたちにはそんなにふんだんに時間が残っているわけではないのだし、べつに結婚したり一緒に暮らしたりしなくたって恋はできるのだし。服のセンスはともかくとして、ジョージがなかなかいい男であることは間違いない。長年培った自分の勘がそう言っている。すくなくとも、照子が長年暮らしてきた男よりずっといい。百倍いいだろう。あたしは照子に知らせたいのだ。男っていいものだということを。この世界にはとんでもない男がいるけれども、いい男というものも存在し、いい男はいい、ということを――。

(つづく) 次回は2022年3月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 井上荒野

    東京生まれ。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞し作家デビュー。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞を受賞。08年『切羽へ』で第139回直木賞を受賞。11年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞を受賞。 16年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞を受賞。18年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。近著に『あちらにいる鬼』『ママナラナイ』『百合中毒』など、著作多数。