物語がつまった宝箱
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  • エピソード3 クロダさん(1) 2014年8月1日更新
「クロダ。そろそろなくなりそうだ、また買っといてくれ」
 アパートに帰るなり、ダンナさんはくしゃくしゃの作業着と共に、そんな言葉を放って来た。
 ダンナさんは、いつもぶっきらぼうなんだ。だけどクロダさんにとってそれは、洗いざらしのシャツの着心地と同じで、心地良く肌に馴染む。
「わかったよ。今度、買っておくね」
 ダンナさんの匂いがしみついた「供給公社」の作業着を洗濯機に放り込む。クロダさんが生まれ育った村には、そんな便利な道具はなかった。
「たくさん買っておこうか。外国のお菓子だから、いつか突然、なくなっちゃうかもしれないし」
「ああ……そうだな」
 言葉の続きをさがすように、ダンナさんはクロダさんを見つめる。
「どうしたの、ダンナさん?」
「いや……。クロダも、いつか突然いなくなっちまう気がしてな」
 クロダさんの頭に手を置く。ダンナさんの大きな手は、ヘルメットのようにすっぽりと、頭を覆ってしまう。
「あたしは、どこにも行かないよ」
 そう言うと決まって、ダンナさんは悲しそうな顔になる。叱られた犬のようだ。クロダさんの方が悲しくなって来るのも、いつものことだ。
 ダンナさんが供給公社って所で何の仕事をしているのか、クロダさんは知らない。知っているのは、仕事から帰るなりパンツ一丁になってくつろぐダンナさんの姿だけだ。
 壁に飾られた、一枚の絵。クロダさんが三年前に描いた、ダンナさんの絵だった。

 ――あたしはもう、どこにも行かないよ……

 絵の中の「ダンナさん」に、クロダさんは心の中で呟いた。
「どうしたんだ、クロダ?」
 パンツ一丁のダンナさんは畳の上に寝転がり、クロダさんの顔を下から覗き込む。
「ううん、なんでもないよ。ごはんの用意するね」

          ◇

 結婚生活って、もっとちゃんとしたものだと思っていた。もちろん国籍も違うし、生活習慣が違うだろうことは百も承知だ。それにしても、二人の生活は気ままで、自由すぎた。
もともとダンナさんは一人暮らしで、夜勤や緊急呼び出しも頻繁にある不規則な仕事をしている。だけど、そんな「不規則」とがっぷり四つに組んでうっちゃりを決めるように、ダンナさんは自由気ままに暮らしていた。その「自由気まま」の広々とした野原は、クロダさんが隣に寝そべってもまだ、充分な広さがある。
 ダンナさんの休みの日には、二人で散歩をする。ダンナさんの大きな影に寄り添うクロダさんは、ふわふわと漂う蝶のようだ。
 道の途中で、突然ダンナさんが立ち止まった。目の前には、雑多な野菜が栽培されている畑が広がっていた。
「どうしたの、ダンナさん」
「いや……ちょっと、今日はこっちに行ってみるか」
 ダンナさんは道を離れ、畑の畦道をずかずかと歩きだす。クロダさんは靴を脱いで、土の感触を楽しみながら、後を追いかける。二人の散歩は、いつもそんな風だった。
 畑の中に忽然と、一軒の家が現れた。家に通じる道はなく、誰かが住んでいる様子もない。二人はしばらく黙って、家を見上げ続けた。身体を斜めに傾かせて。
屋根瓦から雑草が伸びるその家は、自分が斜めに立たないとまっすぐに見えないくらい、傾いて建っていた。
「この看板って、何て書いてあるの?」
 この国の言葉にもすっかり慣れたけれど、文字はまだ、うまく読めない。
「入居者募集中だとさ」
「住む人を探してますってこと?」
「まあ、こんなオンボロの家じゃ、借り手なんかいないだろうが」
「オンボロで悪かったねえ」
 いつのまにか背後に立っていたのは、気立ての良さそうなお婆さんだ。
「あんたたち、よく、ここまで辿り着いたねえ」
 それは、長い旅を終えた旅人を迎える言葉にも聞こえた。
「ばあさん、古い家だな。あんたが大家か?」
 ダンナさんは初対面とは思えない無遠慮さだが、お婆さんは気にする様子もない。
「ここは、将来、道ができる予定なんだよ。新しい家を建てるわけにもいかないし、どうせ立ち退きの時には崩されちまうからね。そのまま放っておいてるんだよ」
「そんなトコを人に貸そうってのか」
「いいから、ちょっとおいで」
 お婆さんは有無を言わさず二人の背中を押して、玄関に立たせた。外見はオンボロだけど、中はきちんと掃除が行き届き、床にはチリ一つ落ちていない。
「どうせいつか崩しちまう家なんだ。どんな使い方をしたって、構いやしないよ」
「ここには、昔は誰が住んでいたんですか?」
 クロダさんが尋ねると、お婆さんは曖昧な表情になる。
「どうだったかねえ。十年前に最後に住んでたのは、若い女の子じゃなかったかな。あんたみたいなね」
 その人は、道も通じていないこの家でいったい、何をしていたんだろう?
「何に使ってもいい、か……」
 ダンナさんは、無精ひげをぞりぞりとなぞりながら、呟いていた。
「婆さん、この家、借りられるのか?」
 思いがけないことを、ダンナさんは言いだした。
「あんたなら、月三千円でいいよ」
「そうか。じゃあ、借りるぞ」
 即決だった。そんなところも、ダンナさんらしい。

     ◇

「ダンナさん、あの家、どうするつもりなの?」
 月三千円で借りたものの、ダンナさんはそれをどうしようともせず、自ら足を運ぶこともなかった。
「クロダ、お前が愛人でも囲うといいさ」
 ダンナさんは、いつもそんな風だ。もちろん冗談だけど、実際にそうなっても、ダンナさんはきっと何も言わない。愛人と意気投合して一杯やり出すのがオチだ。
「クロダ、旅の話をしてくれ」
「うん、いいよ」
 さすがにパンツ一丁では寒くなったのか、ダンナさんはスウェットの上下を着込んで畳の上に寝転ぶ。頭はクロダさんの膝の上だ。
「今夜は、寒い国の話がいいな」
「そうだね。それじゃあ……」
 クロダさんは、目の前のダンナさんの髪の毛に指を絡ませながら、少し考える。
「凍った森の、木の幹まで凍る音の話はどう?」
「ああ、それでいい」
「森の中を旅していて、突然落雷のような音がしたの。雲一つない、厳寒の青空だったわ。その雷は、寒さが呼んだ、氷の雷。木の幹にしみ込んだ水分が凍って、樹木を内部から裂いてしまうの。それは、木々が上げる断末魔の声。とっても、とっても悲しい声……」
クロダさんの、長い長い、十年近くに及ぶ、旅の話だ。ダンナさんは、その話を寝物語にして、眠りにつく。クロダさんが子どもの頃、母親にそうされたように……。
 
 山の中の、切り立った崖に守られた小さな山村。それがクロダさんの生まれ故郷だ。小さな家で、クロダさんは両親と共に、ひっそりと暮らしていた。
 絵を描くのが好きな子どもだった。
 決して人から「うまい」と褒められたことはない。むしろ、稚拙と言ってもいい。技術を学んだわけではないし、クロダさん自身にも、うまくなろうという気はなかった。
 クロダさんが描く絵は、写実とも抽象とも言い難い。それでも、クロダさんが魚を描けば、それはどうしても魚にしか思えなかったし、跳ねる水音や、せせらぎの音すら聞こえてくる。
 わかってくれる人は、ほんの一握りだった。学校の先生は、彼女の絵をただの手抜きとけなし、一度も褒めてくれはしなかった。
 だけど、外で絵を描いていると必ず、立ち止まる人がいた。それは決まって旅人だった。クロダさんの絵は、一所に留まらず漂泊する心の持ち主にしか、魅力は伝わらないようだった。
 二十二歳になり、クロダさんは母親の最期を看取った。すでに父親は五年前に亡くし、クロダさんは、天涯孤独の身の上となっていた。
 それでもクロダさんは、生活に困ることはなかった。時々通りかかる旅人たちが、絵を買ってくれたから。気ままに絵を描けば、生活していくだけのお金は得ることができた。そのまま、絵で糧を得ながら、両親の思い出の詰まった家で生きていくのだろう。そう思っていた。
 そんなある日、母親の遺品を整理していたクロダさんは、引出しの奥にあるものを見つけた。緑色の絵の具だ。絵など描いたこともない母親がなぜそんなものを? 疑問に思う間もなく、クロダさんは絵筆を取っていた。緑の絵の具はカンバスの上で、一本の大きな木に変化した。小さなカンバスの上だが、その木は、人を圧倒する巨大さを持つものだということがわかった。
 ――探しに行こう!
 それからすぐに、旅立った。クロダさんにとって、初めての旅だった。どこへというあてもなくさすらい、路銀が底を突けば、絵を描いて、立ち止まってくれた旅人に買ってもらう。それを繰り返して、クロダさんは街から街へと、移動を続けた。
 旅を続けること二年、クロダさんは、ようやくその「木」に辿り着いた。クロダさんを包み込むように葉影を優しく落とす、大きな木だった。その下では、貧しい身なりの人々が列をなしている。医者にかかることができない人々を無償で診る女性医師の、青空医院だった。
 クロダさんはそこで一年半の間、彼女の手伝いをした。医師の片腕となり、人々もクロダさんを慕った。忙しいけれど充実した日々だ。そんなある日、怪我の治療に来た貧しい女の子が治療費の代わりに持って来たのは、茶色の絵の具だった。
 受け取った途端、クロダさんは再び絵を描いた。絵の具は煉瓦造りの教会の姿で画用紙に現れた。描き上げると、医師には何も告げずに旅に出た。八か月後、辿り着いた煉瓦造りの教会で、クロダさんは牧師と共に、戦災難民の炊き出しと救済に追われた。
そこでも居着いたのはほんの一年だった。救済バザーに持ち寄られ、買い手もなく手元に残った古びた画材道具が、クロダさんに新たな旅立ちを促した。
 次なる運命の絵は、船だった。失踪するように旅立ったクロダさんは、半年の放浪の末、自分の描いた通りの船が舫(もや)われているのを見つけた。豪華客船だった。偶然、港で絵を見つけたのが一人の船員で、クロダさんは洗濯要員として、船に乗った。
 数えきれないほどの、かけがえのない出逢いがあった。それと同じだけの「さよなら」すら言わない別れがあった。
 クロダさんにとって、描くことは、「旅」そのものになった。
 絵は、自分の未来へとつながっていた。クロダさんは、抗えない運命を自覚した。一旦絵を描いたら、すべての感情のしがらみもなく、新たな場所に旅立たなければならないことを。
 そして三年前、黒い絵の具を手に入れたクロダさんは、筆がどう進むかもわからないまま、すぐに絵筆を握った。
 もじゃもじゃと、ひたすらもじゃもじゃと、画用紙の上で、絵筆は絡まったように動き続けた。今回ばかりは、何を描いているのか、自分でもまったくわからなかったのだ。
「行こう」
 クロダさんは、もじゃもじゃの絵を抱えて、そう呟いた。
それが、最後の旅の始まりだった。

(つづく) 次回は2014年8月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 三崎亜記

    2004年『となり町戦争』で第17回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。同作はベストセラーとなり映画化もされた。著書に『刻まれない明日』(小社刊)など多数。