寺地はるな
見上(みかみ)さんから「安部川(あべかわ)くん、計画書見ました。ありがとう」という電話がかかってきたのは、妹の襲来から約一時間後のことだった。いったんベランダに出たが、アパート裏の公園で学生のような子どものようなチンピラのような集団が騒いでおり、すごすごと部屋に戻る。 「すごく真剣に考えてくれたんだね」 「ちょっとかたくるしいかなと思ったんですが」 「そんなことないよ」 見上さんが「ムク子さんのルーツを探るっていうのは思いもよらない提案だったけど、いいと思う」と話す声を聞きながら、奏斗(かなと)は膝の上に載せたノートの端に、無意味な波線を描く。聞き流しているわけではない。手を動かしているほうが、かえって人の話が頭に入ってきやすいのだ。電話となると、なおさら。 「アニー、アイス食べていい?」 冷凍庫をのぞきこみながら、妹は電話中の人間に話しかけているとは思えないようなでかい声で訊ねてきた。OKのジェスチャーで応じようとしたが、妹はこちらを見ていない。しかたなくスマートフォンを押さえて「ええよ」と短く答える。 「バニラちゃうで。こっちの期間限定の、ほうじ茶きなこのほうやで」 「ええって、どれでも食べて」 「期間限定のやつって高いのに。こんなん気軽に買えるとか、アニーってけっこう稼いでんねんな!」 「なんでもええから! 静かにして!」 苛々と叫んでから、電話の向こうの見上さんに「すみません」と謝る。 「いや私はいいけど、このまま電話続けててだいじょうぶなの?」 ひとり暮らしをしているはずの後輩に電話をかけたら、女性の声が聞こえてきた。そんな状況でも、見上さんは「恋人?」というようなことを訊ねない。優しさなのか。あるいは無関心なのか。 「だいじょうぶです、さっき妹が突然家に来ただけなんで」 「妹」のところで過剰に声が大きくなった。発音も「ゥイモォオトガッ」というような激しいものになってしまったが、見上さんは「そうなんだ。家族団らんの時間だったんだね」と淡々と言っただけで、奏斗は、見上さんが自分の恋愛事情にまったく興味を持っていないということを悟った。 「でも、とりあえずお礼を伝えたかっただけだし、もう切るね」 通話を終えてうなだれる奏斗に、妹が「ほんまに食べるで」と念を押してくる。 「ええんやな?」 「好きにせえ」 「大事な妹に向かって、その突き放すような言いかたはよくないな」 約一時間前、モニターいっぱいに妹の顔が映し出されているのを見た瞬間に、奏斗は「またか」とため息をつきたくなった。 妹の萌南(もなみ)のことは、好きでも嫌いでもない。同じ親から生まれてきたのにあまりに性格が違いすぎて、好き嫌い以前にまず理解できない存在だった。 いちばん近い他人。その表現がしっくりくる。だが向こうはどうもそう思っていないらしく、「なあアニー」「アニー、ちょっと」と、そして時には「アニータ」などと変則パターンを繰り出し、こちらが遠ざけようとしてもぐいぐい近づいてくる。 なつかれている、というのも違う気がする。Tシャツを買うので二千円くれとか、旅行に行くからスーツケースを貸してくれとか、しょっちゅう他愛ない頼みごとをしてくる。今日のように、夫婦ゲンカをして飛び出してきたので数時間ここでヒマつぶしさせてくれ、と予告もなしに訪ねてくるのだってそうだ。要するに、うまく利用されているだけなのだ。 奏斗は妹を「萌南」と、対外的には「妹」と至極シンプルに呼んでいるが、妹のほうは違う。 奏斗が小学四年生、妹が二年生の時に「夏休み子ども能・狂言教室」に参加したことがある。妹はそこで「兄者人(あにじゃひと)」という単語に触れて以来、数年にわたって奏斗のことを兄者人と呼び続けた。奏斗は六年生の時に書いた読書感想文が全国青少年読書感想文コンクールで佳作をとり、全校生徒の前で表彰されたことがあるのだが、その際にも四年生の列から「いよっ! 兄者人!」という妹の声が聞こえてきて、非常に恥ずかしい思いをした。 しかし「さすがに呼び名としては長い」とでも思ったのか、徐々に「兄者」に省略されるようになり、その後「兄」に省略され、それぐらいならまあまあと受け入れていたのだが、最終的に語尾がのびて「アニー」となってしまい、呼ばれるたびにミュージカル『アニー』を連想し、トゥモロートゥモローと歌う赤いワンピースの女の子の幻想に苦しめられたが、さすがにもう慣れた。 「はー、うまー」 見せびらかすかのように奏斗の正面にすわってアイスを味わっている妹は、二十二歳の時に結婚した。相手は中学生の頃からつきあっていた同級生の、ヨシキという男だった。 彼らが結婚すると宣言した時、周囲の人は「まだはやい」とか「子どもができたわけでもないのに」「きっと苦労する」とかなんとか言って止めようとしたが、ふたりとも「生きてたらどうせ苦労すんねんから、どうせならふたりでいっしょに苦労したいねん」などと言って、てんで聞く耳を持たなかった。 あれから三年、おおむね仲良くやっているようだが、ケンカも多い。口論が行き詰まるとどちらかが家を出て頭を冷やし、数時間後ないし翌日に家に残った側が迎えに行って仲直りをする、というのが定番のパターンで、それはもう勝手にしろという話なのだが、妹が家を飛び出した側だった場合は毎度こうして奏斗のアパートが一時避難所として選ばれてしまうため、否応なく巻きこまれる羽目になる。 ほうじ茶きなこフレーバーのアイスを見つけた時、高いな、でもほうじ茶もきなこも好きだしな、と迷い、最終的に「期間限定」の四文字には逆らえぬとレジに持って行ったことを思い出しながら、「抹茶とかほうじ茶のアイスって、なんでこんなにおいしいんやろ」とアイスを堪能している妹を見ている。 「アニー、さっき電話してた相手って誰? つきあってる人?」 さすが萌南だ。たいして興味もないくせに、ずかずか他人の領域に踏みこんでくる。 「会社の人や」 「そうなん? でも好きなんやろ?」 なんか喋(しゃべ)ってる時の声とか表情に好きさがにじみ出てたで、と妹は言う。それはでも、妹が想像しているような「好き」とは違う。恋愛リアリティーショーが大好きな妹は、男性から女性に向けられる好意のパターンを「性的な欲望を含む恋愛感情」と信じて疑わないはずで、だから「気のせいやろ」としか答えられなかった。 妹は一瞬、なにか気の毒そうな、気遣わしげな眼差しを奏斗に向け、「ふーん。わかった」と頷(うなず)く。たぶんなにひとつわかっていないと思うが、とりあえず黙ってくれたので助かった。 「会社ってややこしい? やっぱ」 そうかと思えば、また変なことを訊ねてくる。 「なんか、人間関係とか。仕事の内容とか」 「べつに、ややこしいことないけど」 「未知の世界やからさ、想像がつかへんの」 妹は、高校を卒業してからずっと両親の店を手伝っている。結婚してからも、それは変わらない。 奏斗が物心つく前からずっと、両親は回転焼きの店をやっていた。あんことクリーム以外にも、ハムと卵、キャベツとちくわ、カレーとチーズ、などといった食事系の回転焼きもある。単価は安いが近くにいくつか学校があるおかげか、それなりに繁盛している。 妹は就職というものを、一度もしたことがない。よそでアルバイトをしたことはあるがいずれも小規模な飲食店で、「会社」というものがうまくイメージできないらしい。「総務部」に至っては、何度説明されても一向にピンとこないようだった。 原価率が、とか、設備投資が、とか、細かいことを言い出せばもちろんいろいろあるのだが、実家の商売はじつにシンプルだ。材料を仕入れ、つくって、売る。たくさん売れたら儲(もう)かる。「おいしい」と言われたら嬉(うれ)しい。 シンプルで、それゆえに崇高である。労働そのものによって得られる喜びを、充足感を、両親は知っている。店を閉めたあとに「今日もよう働いたなあ」といたわりあいながらビールを飲む彼らの姿を見ていると、そのことを痛いほど感じる。そして、距離を感じる。 両親にまっすぐに憧れ、自身も同じ喜びを感じたいと願った妹もまた、遠い。 一家の中で、奏斗ひとりだけが、シンプルな労働の喜びを享受できていない。生まれ育った家なのに、いつもなんとなくどことなく居心地が悪い。 アイスを食べ終えた妹は、こんどは自分のバッグからポテトチップスを出して食べはじめた。奏斗の視線に気づいて、「あ、食べる?」と袋を差し出してくる。 「いらんわ」 「あ、そう?」 「いつもポテトチップス持ち歩いてんのか?」と問うと、妹は「そうや」と頷く。なぜそんなくだらないことを訊くのか、と言いたげな顔をしていた。 まだ帰らないのだろうか。というか、夫に連絡はしたのだろうか。奏斗は妹の夫の連絡先を知らない。向こうは「おにいさん」と親しげに呼んでくれているので、こちらも「ヨシキくん」と名前で呼ぶべきなのだと思うし、実際会って話す時はそう呼ぶのだが、頭の中で考えている時はどうしてもヨシキくんでも義弟でもなく、妹の夫呼びになる。 「甘いの食べたらしょっぱいもんが欲しくなるし、しょっぱいもん食べたら甘いの欲しくなるし、人間の欲望ってキリがないな、アニー」 「知らんがな」 こんな時間にどんだけ食うねん、と言いながら台所に立ち、緑茶のティーバッグを開封した。 「飲むか? お茶」 「いらん。カフェイン入ってるやん」 「そんなん気にするほうやったっけ」 「うん。わたし妊娠してんねん、今」 妹があまりにもさらりと言ったので、反応するのが遅れた。 「え、あ、おめでとう」 十二週にはいったとこ、と言われたが、よくわからない。赤ちゃんは今パッションフルーツぐらいの大きさ、と言われたがパッションフルーツの大きさもまたわからない。ただ、まだかなり小さいのだ、ということだけはわかる。妹の腹が平たいから。 妹の夫と妹は、父親教室に行くの行かないのでケンカになったのだそうだ。ぜったい行くべきやんな、と言われ、そうやな、と答える。そうやな以外の回答はおそらく求められていないからだ。 腹にべつの生命体を宿していると思うだけで、妹をさらに遠く感じる。及び腰で買い置きのミネラルウォーターをペットボトルごと渡したら、妹は「ありがとー」と、さっそくごくごくと飲みはじめた。ポテトチップスのせいで喉が渇いていたらしい。 それにしても妹がやってきて、そろそろ二時間が経過しようとしている。泊まっていくと言われたらさすがに困る。妹ひとりでも扱いかねるのに、べつの生命体までいるなんてますますどう接していいかわからない。父親教室ならぬ伯父教室はないのだろうか。もしもあるのなら、申し込めるものなら、ぜひ参加したいと思った。妊婦に対する適切なふるまい、タブー、心構えなどを、あますところなく教えてほしい。 ふいに「ねえ、アニー」と声をかけられた。 「なに」 「わたし、ちゃんと『お母さん』やれるかな」 テーブルに放置されたアイスの空容器を見つめながら、奏斗は、萌南も不安になることがあるのか、としみじみと驚いていた。奏斗の知る妹は、いつだって堂々としていた。なんとかなるって、が口癖だった。 祖父母に遊園地に連れていってもらった時、ふたりして迷子になったことがある。しくしくと泣くことしかできない奏斗の手を引いて、妹はずんずんとインフォメーションセンターに向かった。 あの頼もしく小さな背中を思い出す。時どき振り返って、奏斗に「兄ちゃん、泣きすぎ」と笑った妹は、まだたったの五歳だった。 そんな妹が、かすかに震えたような声で「ちゃんと『お母さん』やれるかな」と言い出すほどのプレッシャーを感じている。 「うん。萌南なら、だいじょうぶや」 ひさしぶりに名前を呼んだ気がした。兄として、こんなことしか言えない自分がもどかしかった。あんのじょう、妹はその一言で勇気を得たりはしない。あいかわらず不安そうな表情のまま、 「あかん、また甘いの食べたくなってきたわ」と呟(つぶや)いている。 二十三時近くになって、やっと妹の夫が車で迎えに来た。おにいさん迷惑かけてすんません、と頭を搔く妹の夫に、奏斗はなにか義兄っぽい、年長者っぽいことを言わねばならないのだろうかと悩んだ。俗に言う兄貴風を、びゅうびゅう吹かすべきタイミングなのだろうかと。しかし結局、 「いやぼくはべつにかまへんけどな」ともそもそした口調で言うことしかできなかった。 外に見送りに出たついでに、コンビニに向かった。妹に食べられたほうじ茶きなこフレーバーのアイスを補充しようと思ったのに、もう売っていなかった。 嗚呼(ああ)、期間限定! 歯を食いしばりながら自動ドアへと踵(きびす)を返そうとした瞬間、ひときわ色彩のにぎやかな一角を発見する。 どういったニーズに応えるためなのか、このコンビニは花火セットや砂場セットのような、子ども向けの商品がやたらと充実している。こんなもの、会社付近のコンビニには置いていない。 誰が買うんだ、と思いながら、奏斗はなぜかシャボン玉液の容器を手に取った。誰が買うんだ、とくりかえし思いながら、レジに向かった。頭の片隅に、涙ぐむ見上さんの横顔があった。 コンビニを出たところで、千鳥足のお手本のような足取りでこちらに向かってくる男に気がついた。うわあ酔っ払いや、と目をそらそうとして、直前でその男が営業部の高見(たかみ)さんであることに気づいた。知らん顔をしようと思ったが、あきらかに泥酔しているくせに高見さんのほうも奏斗に気がついた。 「あれえ、安部川くんやん。なにしてんのぉ」 へらりと笑って、肩を抱いてくる。うそだろ、と思うほど酒臭かった。「くっさ」の「く」まで言いかけて、ぎりぎりのところでこらえる。どんな酒をどれほど飲んだらこんな呼気になるのか。 「高見さんこそ、なにしてるんですか」 「なんか、気ぃついたらすぐそこの公園におってな」 会社の近くで飲んでいたはずなのに、気づいたらすぐ近くの公園にいたという。途中の記憶がない、とおそろしいことを言って笑った。高見さんの家は会社を挟んで奏斗のアパートとは逆方向にある。 「帰れますか」 顔をのぞきこんでも、焦点の合わない目が奏斗に向くことはない。だいじょーびだいじょーび、というその口調が、まったく大丈夫ではないことを教えてくれた。 うちに来ますか、とか言わなくてはならないのだろうか。嫌だ。泊めたくない。奏斗はスマートフォンを出して、アプリでタクシーを呼んだ。 「失礼します」 ことわりを入れてから高見さんのズボンのポケットに手をつっこみ、財布をひっぱりだした。いつもそこに財布を入れていることも、財布に免許証が入っていることも、新人研修の時に見て知っていた。 「キャー、安部川くんにおしり触られたぁ」 えへらえへら笑いながら騒ぐ高見さんを、「大きな声を出さないでください」とたしなめる。 十分ほど待ったところで到着したタクシーに高見さんを押しこみ、免許証で確認した住所を告げ、奏斗は自分のアパートに早足で戻った。 翌朝出勤すると、見上さんは先に来ていた。部長が自分の席でスマートフォンをいじっている。聞こえてきた「ぽぴん」という、あの緊張感のない音にはたしかに聞き覚えがある。奏斗が使っているのと同じ語学学習アプリをやっているのだ。 見上さんがすっと近づいてきて、今日も例の公園に行っていいかと小声で問われる。もちろんです、と同じ音量で答えた。総務部の他の社員たちもぞろぞろと出勤してきたので、それ以上は会話せずに、自分の席に着く。 「ウェアイズマイスーツケース」 部長がスマートフォンのマイクに向かってカタカナじみた発音で言っているのが聞こえた。 昼休みになると、奏斗はまっすぐに借犬場(しゃっけんじょう)に向かう。今日はおにぎりを持参したので、コンビニに寄る必要はない。具がないのが残念だが、と思いながら足をはやめる。借犬場の入り口にキタロウを連れたたなかさんがいて、こんにちは、暑くなってきましたね、とあいさつを交わした。毎日来ている場所なのに、キタロウは興味深げに入り口の柵の匂いを嗅いでおり、なかなか入ろうとしない。そこに見上さんが現れた。 「昨夜はごめんね。家族団らんの時間に電話なんかかけちゃって」 「団らんというわけでは……妹が来ただけなので」 見上さんは、自分にはきょうだいがいないのでうらやましい、というようなことを言う。 「べつに、そんなにいいもんではないですよ」 奏斗はおにぎりをつつんだアルミホイルをむしった。 「ところで、どうやってムク子さんの人物像ができていったのか、ということをね、自分なりに考えてみたんだけど」 お弁当を食べながら、見上さんが言った。 「はい」 「父の友人に、睦子(むつこ)さんって人がいたのを思い出したんだよね。その人、私が小さい頃、うちによく来てて」 父親の友人で、女性なのか。家によく来ていた。そういうのって、よくあることなんだろうか。自分の両親に異性の友人がいたのかどうか、そういえば知らない。同性の友人がいるかどうかすら不明だ。 ムク子さんは睦子さんによく似ているという。カラッと明るいところや、いつも機嫌が良さそうなところなどが。 「ムク子さんの原型ですかね。名前も似てるし」 「そうなんだと思う」 見上さんはブロッコリーの和(あ)え物らしきものを口に入れ、よく嚙(か)んで飲みこんでから「会いにいってみようかなあ」と呟いた。 「いいかもしれませんね」 「今どこに住んでるんだろう。父に訊かなきゃ。そこがネックだな」 父親に連絡をとることに抵抗を感じているのか、見上さんの口もとがわずかに歪む。そのあとは無言で食事を続けた。 「あの、見上さん。突然ですが、シャボン玉をしませんか」 弁当箱を小さなトートバッグにしまっている見上さんに、そう声をかけた。すこしでも気が紛れたらいい。こんな提案しかできなくて申し訳ないけれども。 「ほんとうに突然だね」 驚いているようだったが、嫌だとは言われなかったことに安堵して、奏斗はポケットからシャボン玉液の容器を取り出した。 容器はアヒルのかたちをしており、蓋の裏側に細長い棒がくっついていた。棒の先が輪っかになっていて、なるほどここに息を吹き込んでシャボン玉をつくるわけだな、と納得する。吹いてみたが、なかなか難しい。 「もうすこし、静かに吹いたほうがいいかも。貸して」 見上さんはシャボン玉液に浸した棒を、そうっと静かに吹いた。小さな透明の玉がいくつも生まれ、風に乗ってとんでいった。虹色をまとい、あるものは舞い上がり、あるものは土の上で割れる。見上さんはしばらくのあいだ、なにかにとりつかれたようにシャボン玉を生み出し続けた。奏斗はそれを、黙って見ていた。 シャボン玉液が容器の半分ほどに減ったところで、見上さんは蓋を閉めた。 「ありがとう。堪能しました」 「それはよかったです」 私の気晴らしのために持ってきてくれたんだよね、と言われて、小さく頷く。よかった、ちゃんと伝わっていた。ただのシャボン玉液常備マンだと思われたら悲しすぎる。 「安部川くん。私はムク子さんを取り戻したい」 「はい」 「でも、いつまでもひとりでメソメソしているわけにはいかない」 すこし考えて、まあそうですね、と頷く。 「そこでひとつ、習いごとでもしてみようかと」 見上さんが手帳を広げて、見せてくれる。いいなと思った習いごとを集めてみた、というそのリストには「泥だんごづくり教室、牧場バターづくり体験、キックボクシング、縄文土器づくり、機(はた)織り」と書かれていた。 「キックボクシングだけ方向性が違いますね」 「あ、それはね。山口(やまぐち)さんのおすすめで」 「山口さん? 秘書課の?」 習いごとの話をするほど仲が良いとは知らなかった。さっぱりしてていい人だよ、と見上さんは言うが、ほんとうだろうか? 「安部川くんもよかったら、一緒にどう?」 「ぼく、キックボクシングはちょっと」 かっこいいなとは思うが、自分がやるとなるとちょっと臆してしまう。 「他のでもいいから」 奏斗はふたたび手帳をのぞきこむ。 「この中から選ぶんだったら、縄文土器ですかね」 「やっぱり。安部川くんはそうなんじゃないかって気がしたんだよね! 予想が当たった」 当たった、当たった、アタッタッタッタ当たったと、おそらく見上さんのオリジナルソングらしき歌を歌いながら、見上さんは自分の膝を打楽器のように音高く打ち鳴らしはじめた。痛いでしょ、と言ったが、てんで聞いちゃいない。 「いや、この中から選ぶんならって話であって、行くとは言ってないですよ」 奏斗はあわてて言ったが、もう遅かった。 「いやあ、楽しみだなあ」 見上さんがあまりにも嬉しそうに笑うので、それ以上なにも言えなかった。見上さんの笑顔を見たのは、ずいぶんひさしぶりのことのような気がして、だから「行きたくないです」などとは、ぜったいに言えなかった。(つづく) 次回は2025年10月1日更新予定です。
1977年佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年『ビオレタ』でポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。20年『夜が暗いとはかぎらない』で山本周五郎賞候補、20年『水を縫う』で吉川英治文学新人賞候補、同年同作で河合隼雄物語賞受賞。『川のほとりに立つ者は』で2023年本屋大賞9位入賞。『わたしたちに翼はいらない』『こまどりたちが歌うなら』『そう言えば最近』『リボンちゃん』など、著作多数。