物語がつまった宝箱
祥伝社ウェブマガジン

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  • 2025年10月15日更新
 奏斗(かなと)が住んでいるアパートは、不動産屋の物件情報には最寄駅から徒歩八分と記載されている。奏斗が歩くと、いつも十二分以上かかる。自分は歩くのが遅いのだな、と思っていたのだが、最近違うとわかった。自分は立ち止まる回数が多すぎるのだ。
 目を惹(ひ)くものが多すぎるから、しかたがない。路地裏を闊歩(かっぽ)する猫とか、それを追いかける猫とか。駐輪場のフェンスにはよくちいさなぬいぐるみだとか、タオルハンカチだとか、アクリルキーホルダーだとか、そんなものがよくぶらさがっている。誰かが落としたものをべつの誰かが拾って、見つけやすそうな場所に移動させているのだと思う。奏斗はなぜだか見つけるたびにスマートフォンで撮影してしまう。この誰かの、とても小さな優しさのようなものを残しておきたいと思ってしまう。おかげでカメラロールは誰かの落としものの画像でいっぱいだ。
 この先、万が一警官に職務質問をされた時に、「画像フォルダを見せてください」と言われたらどうしよう、というのが目下(もっか)の奏斗の懸念事項だった。なんでこんなもん撮ってるんだあやしいやつだ、と思われやしないだろうか。いやさすがに職務質問で画像フォルダまでチェックするのはやりすぎだし、それは断ってもいいんじゃないだろうか。
 会社までは電車を使えば十分の距離だ。最初は自転車で通勤しようと思っていたのだが、雨の日や夏の暑い時期に自転車を漕(こ)ぐ気にはなれず、あっさりあきらめた。今は休日にのみ、使っている。
 ひさしぶりに乗ろうと思ったら、パンクしていた。前輪のタイヤがぺしゃんこだ。三週間ほどアパートの駐輪場に停めっぱなしにして乗っていなかったので、いつからこの状態だったのかはわからない。
 困ったな、と奏斗は呟(つぶや)く。すこし遠いホームセンターに洗剤を買いに行こうと思っていたのに。スマートフォンを取り出し、自転車店をさがす。さいわい、アパートからほど近い場所に「トキワサイクル」という店があった。
 自転車を押して、その店を目指す。ガラス戸のむこうに首にタオルを巻いた中年の男性が見えた。中肉中背の、どうという特徴のない外見をしている。
 かなり強めに冷房を効かせてあるようで、ガラス戸を開けるなり冷気が流れ出してくる。まだ六月とはいえ、すでに連日三十度超えの暑さだ、無理もない。
「パンクしたみたいで」と告げると、男性はふんふんと頷(うなず)いて奏斗の自転車を店内に押し入れた。前輪の前にかがみこみ、タイヤからチューブを引っぱり出す。
「あー、これ、裂けてもうてるな」
「裂けてる? チューブがですか?」
「うん。段差あるところに乗り上げたり、高いところから飛び下りたりした?」
 覚えがない。が、見せてもらったところ、たしかに裂けている。
「チューブ代二千五百円やけど、だいじょうぶ?」
 申し訳なさそうに訊ねられて、「あ、はい。もちろん」と頷く。交換自体は、ものの十分で終わった。
 チューブ代+交換に要する工賃でいくらぐらいかなあと思っていたら、二千五百円ちょうどしか請求されなかった。
「いいんですか?」
「なにが?」
 男性はきょとんとしている。もしかしたらチューブ代にあらかじめ工賃が含まれているのかもしれないが、それにしたって安すぎやしないか。ともあれ、自転車は復活した。ありがたい。
 いつか自転車を新調することになったら、かならずここで買いますから。心の内でそう誓いながら、奏斗は自転車にまたがる。ひと漕ぎしただけで、すうっと前進する。新品のような乗り心地だ。チューブを変えただけなのに。
 こわれたものを修理するという仕事はいいな。自転車を走らせながら、さきほどの男性がチューブを交換していたあざやかな手つきを思い出す。仕事の成果がはっきりとわかるって、いい。すごく達成感が得られそう。
 ホームセンターで洗剤を買い求めたのち、ふと思い立ってアパートとは反対方向に自転車を走らせる。暑いが、空は見事に晴れ渡り、自転車は軽く、どこまでも行けそうに思われる。
 走りながら、見上(みかみ)さんのことを考えた。彼女は昨日から千葉の実家に行っている。四年ぶりとのことだった。睦子(むつこ)さんについてのお父さんとのやりとりを、すべてお母さんに見られてしまったという。お母さんが「今更あの女の話を蒸し返してなにがしたいの」と怒っているので、ひとまず会いにいくと言っていた。
 奏斗は「気をつけて行ってきてくださいね」としか言えなかった。他になにが言える?
 自分の思いつきのせいで見上さんがたいへんなことになっているのに、なにもできない。それがもどかしい。自転車を漕いで、漕いで、奏斗はいつのまにか市境を越えてしまったことに気づいた。
 時刻を確認すると、午前十一時を過ぎたところだった。「焼きたてパン」ののぼりを見つけた瞬間にお腹が鳴る。赤いひさしにレンガの外壁の、かわいらしい店だった。
 中に入ってみると、小さいように思えた店は意外にも奥行きがあり、イートインスペースもある。
 白いユニフォームを身につけた男性が、レジの奥から「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。棚に並んだカレーパンやデニッシュを眺めていると、男性は厨房の中に姿を消した。
 レジの前に「ひとりでやっている店です お待たせしてしまうことがありますが 気長にお待ちいただけたらうれしいです」というはり紙がしてあった。お待たせしてすみません、ではなく、お待ちいただけたらうれしいです、とはなんともかわいらしい。同じことを伝えるのでも、どんな言葉をチョイスするかで印象がまったく違ってくるんだな。感心しながらトングを手に取り、さきほどからひときわ良い香りを放っているカレーパンをトレイに載せた。
「今ちょうどクロワッサンダマンドが焼き上がりました」
 甘い香りとともに、店主が現れた。手にしているトレイに、見たことのないパンが並んでいる。
「クロワッサン……なんですか?」
 店主は一瞬きょとんとした顔をしたのちに、小さく笑った。
「笑い」にはいろいろある。敵意がないことを示すための笑い。集団が特定の個人を排斥する時、一斉に浮かべる笑い。冷ややかな侮蔑をまとった笑い。悲しみを覆い隠すための笑い。店主の笑顔はそのどれでもなく、けれども確実に見覚えのある笑顔だった。
「クロワッサンダマンドです。クロワッサンにクレームダマンドを挟んで、表面にもたっぷり塗って焼いたものです」
 クレームダマンドってなんだろうと思いながら、とりあえず漂ってくる香りから甘いパンなのだろうということだけはかろうじて理解し、ひとつトレイにもらった。店主の笑みが深くなる。
 あ、わかった。この人の笑顔、会社の商品企画室の松尾(まつお)さんにそっくりなんだ、とすこし遅れて気がつく。
 松尾さんは四十代の男性だ。丸い目と体つきが「ゆかいなおじさんず」のジャン・ポムを連想させる。自社の製品が大好きで、机の上はおろか両サイドの棚がグッズであふれかえっている。
 松尾さんはよく提出書類を出し忘れる。このあいだもそうだった。催促に行ったら、「ええとこに来た! なあ安部川(あべかわ)くん、このプンダパンダのふせん、AとBのどっちがええと思う?」と、奏斗の目から見れば、どこが違うのか見わけのつかないようなサンプルを手ににじりよってきた。
 プンダパンダはプンとむくれた顔をしたパンダのキャラクターで、「わたしのこばこ」の人気シリーズのひとつだ。
「ぼくにはわかりません」
「わからんことないやろ。色味がぜんぜん違うねんから」
 そして、こんどは色味の違いそっちのけでプンダパンダの魅力について滔々(とうとう)と喋(しゃべ)りだす。悪い人ではないが、忙しい時には会いたくない相手だった。
 このベーカリーの店主も同じだ。まだクロワッサンダマンドについて喋っている。姿かたちはまったく似ていないのに、同じ笑顔。好きなものについて語る時、人は似た表情を浮かべるらしい。
「ここで食べます」
 アイスコーヒーを注文し、代金を支払った。パンは、カレーパンを軽く温め直してからテーブルに運んでくれるのだそうで、アイスコーヒーだけが載ったトレイを受け取り、イートインスペースに移動する。他の客の姿はなかった。奏斗は壁際のふたりがけのテーブルを選んで腰をおろした。
 壁に、一枚の小さな絵が掛かっている。風景画だ。山を背にして立つ小さな小屋、左端には小川が流れている。空は陰鬱なグレーだ。
 じっと見ていると、「絵、お好きなんですか」と話しかけられた。店主がふたつのパンが載った皿をテーブルに置く。
「いえ、そういうわけではないんですけど」
「これね、退職祝いにもらったものなんです」
 以前は自動車部品のメーカーに勤めていたのだという。総務部で、と言うので、思わず「あ、ぼくもです」と口をはさんでしまった。
「そうでしたか」
 店主の瞳が、一瞬かなしげに翳(かげ)った。
「じゃあ、会社の中での地位が低いでしょう」
「え、そんなことはないです」
 私はそうだったんですよ、と店主は言う。「事務仕事は楽だろう」とか「要するに雑用係だろう」とか、そんなふうに決めつけられていたと。
 奏斗も似たようなことを言われたことはあるが、だからといって「地位が低い」などと思ったことはなかったし、冗談だか嫌みだか知らないが、言ってはならないことだ。
「この絵、その総務部のフロアに飾ってあったんです。描いたのは当時の社長です。絵が趣味だったみたいで」
「なるほど」
「退職する時、なにか記念の品を贈ると言われたので、この絵が欲しいと言いました」
「気に入ってたんですね、この絵が」
 奏斗の言葉に、店主はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ、大嫌いでした」
 どういうこと? 混乱しつつ、奏斗はアイスコーヒーにガムシロップを注ぐ。
「いや、絵が嫌いなわけじゃなかった。会社ですね。会社が嫌いだった。仕事内容も、同僚も上司も、すべて」
 理不尽な電話の応対をしながら、上司の説教を聞きながら、いつもこの絵を見ていたと店主は言う。
「この絵の中に逃げこみたい、といつも思ってました。この絵の中の小屋でゆっくり過ごしたいなあ、とか、そんなことばっかり考えて」
 小屋の中で、店主は本を読む。パンを焼き、スープをつくる。音楽を聴く機材がないから、小さな声で歌う。誰にも会わずに、そんなふうに静かに暮らせたらいいのに、と思っていたそうだ。
 退職後に、調理の専門学校の製パンコースに通ったという。その後開業した、と言葉にしてしまえばシンプルだが、簡単なことではなかっただろう。その苦労して持った大切な自分の店に、大嫌いだった職場で逃避のために眺めていた絵を飾る、その行動が謎すぎる。謎すぎるうえに、悲しすぎる。
「思い出してしまうんじゃないですか、この絵があると、いつまでも」
「まあ、そうですね」
「それは、辛いことではないんですか」
 店主はトレイを抱き直して、うーん、と低く唸(うな)った。
「でもね。この小屋の中に、まだいるような気がするんですよ、あの頃の自分が」
「ずっと飾っておくんですか、ここに」
「小屋から出たと思える日まではね」
 店主は続け、「長々と喋ってしまって、すみません。ごゆっくり」と離れていった。
 奏斗は絵を見上げながら、カレーパンをかじり、アイスコーヒーを飲んだ。さっきは「悲しすぎる」と思ったけれども、あの人もいろいろ考えた結果、そうやって乗り越えることに決めたんだろう。外野が、しかも今日はじめて来た客がとやかく言うことではない。
 クロワッサンダマンドを食べようとして、はじめて食べるものだから記念に、とスマートフォンを取り出す。すこし迷ってから、ポケットからチョムスキーを出した。チョムスキーは自立することができない。壁にもたれかかるようにして立たせ、クロワッサンダマンドと同じ画角におさまるように撮影した。どうせならカレーパンを食べる前に撮ればよかったなと思い、まあ誰に見せるわけでもないしいいか、と思い直す。
「また来ます」
 帰り際に店主に声をかけ、店を出たところでスマートフォンが鳴り出した。見上さんからの電話だったので、あわてて出る。
「どうでした?」
 ああうん、だいじょうぶ、と答えた見上さんの声はすこし疲れているようにも聞こえた。お母さんとのやりとりで相当消耗している様子だった。
「安部川くん、ピーナッツバターは好き? おみやげに買おうと思ったんだけど、苦手だといけないから、いちおう確認しとこうかなと思って」
「好きですけど、そんなことより」
「そうだよね。気になるよね」
 ちょっと待ってね、という言葉のあとに、呼吸を整えているような間があった。見上さんはお母さんに、自分は睦子さんとお父さんの関係を知らなかったこと、そのうえで今になって睦子さんの名を出し、お母さんを不安にさせたことを謝ったという。
「なぜ今更あの女と連絡をとりたがっているの、目的はなんなの」とつめよられて、イマジナリーフレンドのムク子さんのことを話したらしい。
「そんな説明で納得するわけないよね。わかってたの、でも母はずっと泣いてるし、私もちょっとパニックみたいになっちゃって、なんか気づいたら、ありのまま喋っちゃってて。母はますます泣いて。じゃああなたは、ずっと心の中であの女を慕ってたってわけ? って訊かれて、なにも言えなかった」
 あなたは私が嫌いなんでしょう、とも言われて見上さんは驚いたという。
「私のほうこそ、ずっと、母に嫌われてるんだと思ってた。私を見る目や、言葉のはしばしから、いつもそんなふうに感じてた。どうしてなんだろうと思ってたけど、原因は私の中にあった」
 そんなわけないですよ、と奏斗はあわてて否定したが、説得力のなさは否めない。
「睦子さんはいつも私に優しかった。でもそれはほんとうの優しさではなかったのかもしれない。私は本質を見抜くことができずに、何年ものあいだ、ずっと母を傷つけてきたんだと思う」
 見上さんの悲痛な声を聞きながら、奏斗はあることに気がついた。諸悪の根源、見上さんのお父さんじゃない? 愛人とかつくって、そのうえ妻子も住む自宅の一部であるアトリエに出入りさせてた、そのおっさんの責任じゃない? 画家かなんか知らんけど、あまりにも、あんまりにもクズじゃない? 見上さんのお母さんが見上さんを責めるのもへんだし、見上さんが自分を責めるのも、違うんじゃない?
「見上さんのせいじゃないですよ。悪いのは……見上さんのお父さんだとぼくは思います」
 返事はない。そもそも聞いているのかすらあやしい。
「ピーナツバター、会社で渡すね」
 線を引かれた。「これ以上は話したくない」と、くっきり太い線が引かれたのがはっきりわかった。
「はい」
 すこし悩んでから「待ってます」とつけたした。電話を切って、自転車にまたがる。
 大きく息を吐いてから、猛然とペダルを漕ぎはじめた。急ぐ必要などすこしもなかったのに、どうにもじっとしていられなかった。

(つづく) 次回は2025年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 寺地はるな

    1977年佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年『ビオレタ』でポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。20年『夜が暗いとはかぎらない』で山本周五郎賞候補、20年『水を縫う』で吉川英治文学新人賞候補、同年同作で河合隼雄物語賞受賞。『川のほとりに立つ者は』で2023年本屋大賞9位入賞。『わたしたちに翼はいらない』『こまどりたちが歌うなら』『そう言えば最近』『リボンちゃん』など、著作多数。