寺地はるな
一週間のうち、金曜日は奏斗(かなと)にとって、もっとも喜ばしい日だ。今日をのりきれば明日は休み。明後日も休み。月曜日から木曜日までのあいだに蓄積された疲労感もなんのその、金曜日は背中に翼とまではいかないが、蝶(ちょう)の翅(はね)ぐらいは生えていそうに足取りが軽い。 だが、楽しいばかりではない。やっかいな問題というものは、なぜか金曜日に発生しがちだ。もれなく全員気がゆるんでいるからなのか。もしくは月曜日から木曜日までのあいだに処理すべきだった事柄をなんとなく先延ばしにしてしまった結果なのか。 そんなことを考えながら、奏斗は無人の椅子を見つめる。いつまでたっても待ち人現れず。気配すらなく。いとわろし。すでに約束の時間を十六分も過ぎている。 会議室のドアが二度、性急にノックされた。期待をこめて「はい」と答えると、係長が顔をのぞかせた。あんたかい。 「もしかして、面談すっぽかされた?」 「そのようです」 「前回もじゃなかった?」 「前回も、ですね」 係長は「むん」と唇を結んで、顔をひっこめた。どすどすと会議室から遠ざかっていく足音が聞こえる。今日、総務部は三人欠勤しており、人手が足りない。 三人のうちのひとりは見上(みかみ)さんだ。「体調不良」と聞いているが、もう三日目だ。千葉から戻った後、あきらかに元気がなさそうに見えたのでひそかに心配していたのだが、見上さんは「だいじょうぶだから」と繰り返すばかりだった。最近は、あきらかに奏斗を避けていた。今はそっとしておいたほうがいいのかな、と思い、こちらからも連絡したり、話しかけたりすることを控えている。 奏斗は名簿に視線を落とし、ため息をつく。欠勤者が多いせいで、今回の「有給休暇に関する意見聴取」は奏斗ひとりで担当することになってしまった。 有給休暇は、法律で定められている労働者の権利だ。しかしこの権利を行使できていない労働者は多い。そのため、二〇一九年に有給休暇の年五日取得が義務化された。企業は従業員にたいし、かならず年五日以上は有給休暇を取得させなければならず、違反した場合は企業に罰金が科せられる。 会社側が繁忙期を避けて計画的に有休を消化させることもできる。就業規則で規定していることに加え、労使協定の締結も必要だ。ただ日本人の多くは「自分だけ休むのは他の社員に悪い」という遠慮がちなソウル、略して慮ウルを持ち合わせているため、「みんなで一緒に『せーの』で休む」ほうが抵抗が少ないのだと聞いたことがある。 「株式会社わたしのこばこ」でも、当初は計画有休を導入しようかという話が出た。しかし「有休ぐらい好きな時に取らせろ」という反対意見が多数挙がったため、あくまで自主的に日程を決めて取得するということになった。 「わたしのこばこ」の有給休暇取得状況は、全体的にはかなり良好と言える。しかし中には、なぜかかたくなに有給休暇を取らない人もいる。総務部としては有給休暇の取得が年五日未満の社員と面談をおこない、取得をうながさなければならない。 営業部の高見(たかみ)さんは、有給休暇を取らない社員の筆頭だ。なんと今年は取得日数が驚異のゼロ日で、まったくおそれいる。先日なんとか面談の約束をとりつけたのだが、高見さんは約束の時間になっても会議室に現れなかった。内線で営業部に問い合わせてみると、「外出した」とのことだった。内線に出たのは奏斗の同期の男で、「ええやん、本人が有休いらん言うてんねんから、好きにさせたらええやん」と無責任に言い放ち、内線をガチャ切りした。自分の血管がぷちぷちと音を立てて切れるのが聞こえたような気がした。勝手なことを言うな。従業員側が拒んだ場合でも、罰則を適用されるのは会社やぞ。 有給休暇は、賞与と社会保険、そして退職金につぐ、奏斗がなんとしてでも会社員になりたい理由のひとつだった。 だってお金がもらえる休みなんて、そんなすばらしい権利を行使しない意味がわからない。自営業にはそんなものはない。休んだら、収入はゼロだ。 奏斗は入社する前、世のすべての「有給休暇が取得されないケース」は、ほとんどが会社側のせいなのだろうと想像していた。労働者側が休みたいと訴えても、「人手が足らない」とかなんとか言われて休みを取らせてもらえない。そうに違いない。まさか、有給休暇を取りたくない人が実際にいるなんて、思いもしなかった。そんなに仕事が好きなのか? 奏斗とて、仕事は好きだ。他人からは「え、そうなんだ」と驚かれるが、奏斗なりに熱意をもってやっているつもりだ。 商品企画室が植えた種が芽を出し、枝葉を伸ばし、花を咲かせる。営業部や宣伝部が、その花の香りや蜜を遠くに運ぶ風や蝶や蜂になる。総務部の仕事は、土を耕し、均(なら)すことだと思っている。花が存分に咲けるように、整え続ける。花も風も虫たちも、土の苦労を知らない。 だがそれでいい。他部署の人びとは、社内でなんらかのトラブルが起こった時だけ、総務部の存在を思い出す。彼らに存在を認識されていない時、それが奏斗たちの仕事がもっともうまくまわっている状態なのであって、そのひかえめなありようが、自分には合っていると感じるのだった。 しかし、仕事が好きであることと休みがほしいということは、奏斗の中では矛盾しない。休みがあるから仕事ができるし、仕事があるから休みがうれしいのだ。 奏斗は机に広げていた書類をクリアファイルに戻し、営業部に向かう。 しかし、高見さんはいなかった。今日はとりわけ忙しい日のようで、営業部長以外は全員出払っている。 壁際のボードの、高見さんの名前の横に百貨店の名が書いてあった。 営業部長に訊いてみると、新規の営業先らしい。三日ほど前に「ようやくアポがとれました」と喜んでいたという。 奏斗が二度目の面談の約束をとりつけたのはそれよりも前の話だ。約束を忘れていたのだろうか。それとも、故意にすっぽかしたのだろうか。 用件を伝えると、営業部長はコロナウイルスみたいな形状のツボ押しグッズをにぎにぎしながら、「あー」と嫌そうな声を上げた。 「あんたら総務はな、気軽に休め休めって言うけど、営業っていうのは契約のチャンスがいつめぐってくるかわからへん仕事なんよ」 「べつに、気軽には言ってませんよ」 「うんうんわかる。言いたいことはわかるで?」 人の話をちゃんと聞かない人にかぎって「わかる」と言いがちなのは、いったいなぜなのだろう。「法律で決まってるって言うんやろ。あんたらはそればっかりや。たしかにそうやな。うん、これはお上(かみ)のせいやな」 「お上」 奏斗の冷めた視線に気づかず、営業部長はにぎにぎをやめない。 「企業の実態も知らんと勝手にあれこれ決める政治家が悪いんや。いっぺんここ来て、実際働いてみたらええねん。な、安部川(あべかわ)くん」 日本はもうあかんな、と投げやりかつ大味な愚痴をこぼしながら、営業部長は奏斗から離れていった。奏斗は高見さんの机にメモを残そうと思っていたのだが、考えが変わった。高見さんは非常識な人だ。だからこっちも、普通のやりかたではだめなのだ。 「わたしのこばこ」は雑居ビルの三階にあり、一階はカフェになっている。ガラス張りになっていて、外の様子がよく見える。奏斗はコーヒーを注文して、ビルの玄関近くの席に陣取った。ここで高見さんを待ち伏せ、「有休を取ってくれ」と直談判するしかない。 ポケットに手を入れ、チョムスキーに触れた。 「責めてはいけませんよ」 チョムスキーがおだやかに言う。いや実際は言っていないが、言っているということにする。 「高見さんのようなかたは、責められると逆ギレなさいますからね」 わかってるよチョムやん、と心の中で答える。チョムスキーと戯(たわむ)れるぐらいしか、この憤懣(ふんまん)をやり過ごす方法が思いつかない。金曜の夕方に、なんでこんな。 一時間ほどねばったところで、ようやく高見さんが姿を現した。大急ぎでマグカップを返却口に置き、後を追う。 「高見さん!」 「お、安部川くんやんか。げんきぃー?」 邪気のない笑顔に、めまいすら覚える。あんたねえ。 「げんきぃーじゃないですよ。面談。今日、十六時の約束だったはずです」 「面談?」 「有給休暇取得に関するヒヤリング。忘れてたんですか」 「あー」 ごめんごめん、と両手を合わせ、エレベーターのボタンを押す。どうやら意図的にすっぽかしたわけではなく、忘れていたようだ。 「今からやりましょう、面談」 「え、でもおれ、このあと予定あんねんけど」 ある店に「飲みに行かなければならない」と言う。 「約束があるということですか」 「ないけど、とにかく行かなあかん」 「どういうことですか」 エレベーターの前で「五分だけでも」と食い下がったが、高見さんは聞く耳を持たない。 「わかりました。じゃあぼくもそのお店に連れて行ってください」 高見さんはすこし驚いたようだった。せかせかと営業部に向かう足を止め、「安部川くんを?」と振り返る。 「はい。そこで話しましょう。待ってますから」 奏斗は繰り返す。とにかく面談をして高見さんに有休を取らせなければ、奏斗の手落ちになってしまうのだ。高見さんは奏斗をいぶかしげにじっと見つめ、「わかった」と頷いた。 「ちょっとあの、あれしてくるから、ここにおってな」 「はい」 あれ、というのは報告書を書くとか営業部長と話すとか、そういうことなのだろう。三十分ぐらいかかるのかなあ、と思っていたが、すぐ高見さんは戻ってきた。 「安部川くんほんまに来るん? 後悔せえへん?」 高見さんがあまりにしつこく確認するので、だんだん不安になってきた。「行かなければならない店」というのは、いったいどんな場所なのか。もしかしてキャバクラ? いやキャバクラなどはまだよいほうで、あやしげな秘密クラブのような場所だったら、自分はいったいどうすればいいのだろうか。歩きながらおそるおそる確認すると、高見さんはプッと噴き出す。 「ふつう。ふつうの店やって。誰でも入れる」 ほらここ、とスマートフォンでレビューサイトを開いて見せてくれる。スペインバル、と書いてあった。 「ここな、イロンデールの社長がよう来てんねん」 イロンデールは関西を中心に、駅ビルやショッピングモールなどを中心に、十以上の店舗を展開している雑貨店だ。文具もとりあつかっており、高見さんはその社長とお近づきになりたがっているようだ。 「なるほど。仕事のためなんですね」 「そ」 高見さんは奏斗にとって、苦手な先輩のひとりだ。声が大きいし、わりと無神経なところもあるしで、気の合うポイントが一切ない。でも仕事熱心なところは尊敬している。ただ、今はその熱心さが奏斗の仕事を邪魔しているのだが。 そのスペインバルは地下にあった。入ってすぐのところに設置されたガラスケースに生ハムの原木がどどんと鎮座しており、その迫力にうおっという声が出た。コの字型のカウンターの端に座ると、高見さんが「ソフトドリンクもあるからな」とメニューを差し出してくれる。奏斗があまり酒を好まないことを覚えていてくれたらしい。 高見さんはお酒が好きだが、他人には強制しない。ほかの人が奏斗にやや強引に飲ませようとした時にも、さりげなく制止してくれた。「嫌いな先輩」ではなく「苦手な先輩」どまりの理由は、そこにある。 奏斗はオレンジジュースを飲みながら、ワインを水みたいに飲んでいる高見さんの横顔をうかがった。そんなに飲んでだいじょうぶか。イロンデールの社長が来たとして、どうやって近づくのか。ただの酔っ払いと思われて終わりではないのか? 「高見さん」 「なに」 「有休を取ってください」 「おれな、忙しいねん。休んでる暇なんかない」 もうワインのグラスが空になっている。どう説得すればいいのだろう、と思いながら、奏斗はオレンジジュースを飲み続けた。 「書類上は休み取ってるってことにして、ふつうに出勤するのは有り?」 「なんでそこまでして働きたいんですか」 「いや、だって、おれがおらんと困るし。とくに今は」 営業部は半年前から、立て続けに三人の退職者を出している。きついノルマがあるわけではないが、やはり楽な仕事ではないからと高見さんは言う。しきりに「おれがいないと困る」「仕事がまわらなくなる」と繰り返す高見さんのろれつがだんだん怪しくなっていき、最終的にはなにを言っているのかほとんどわからなくなった。 「飲みすぎですって」 身体(からだ)壊しますよ、と言いながら、店員さんを呼び止める。 「すみません、お水もらえますか」 その後一時間ねばったが、イロンデールの社長は結局、現れなかった。 タクシーを呼ぶ、と奏斗は言ったのだが、高見さんはでろでろの口調ながらも、それを断固として拒否した。 「無理。吐いちゃう」 吐いちゃうやないねんと呆(あき)れながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと歩く高見さんの腕を強く摑んだ。ほうっておいたら車道に飛び出しそうだ。 「ごめんなー、安部川くん」 「なんでこんなになるまで飲むんですか」 奏斗の両親も、ほぼ毎晩ビールを飲む。でも三百五十ミリの缶をふたりで一本と決めている。それ以上飲むと翌日に響くからだと言っていた。高見さんは響かないのか。大好きな仕事に、影響が出ているんじゃないのか。 「仕事とお酒、どっちが大事なんですか」 「えーなに、彼女みたいなことを訊くやん」 「ぼくはまじめに訊いてるんですよ。どっちなんですか」 高見さんがふいに黙りこむ。なにか、突いてはいけない部分を刺激したのかもしれなかった。 奏斗は高見さんの腕を摑んだまま、歩き続けた。がんばって二駅ほど歩けば、高見さんの家の近くまで送り届けることができる。 あとちょっとです、がんばって、と励ましながら歩くうちに、高見さんの酔いはさめてきたようだった。ああ、と苦しげな息を吐く。 「ここからがいちばんしんどいねん。ちょっとずつ冷静になってくる、この感じ。なあ、安部川くん。安部川くんはすごいな。酒で紛らわせずに、生きていけんねんな。それって、めっちゃ強くない? おれには無理や」 高見さんは立ち止まって水を飲み、へらりと笑う。悲しい笑いかただと思った。いったい、なにを紛らわすために、こんなにお酒を飲むのだろう。この人は、ほんとうに仕事が好きなんだろうか。 「安部川くんって、昔からずーっと安部川くんやったん?」 どういう意味だろう、と考えていると、高見さんは「学生の頃とか、どうしてたん?」と質問を重ねてきた。飲み会とかあったやろ、と。 「わかりません。飲み会とか出なかったんで」 「強いなあ」 高見さんは、もともとそんなにお酒が好きではなかったのだという。でもそれを友人や先輩にバカにされて、だから飲めるようになろうとがんばったという。 「ただでさえ男の世界ではなめられるタイプやから、おれ」 「そうですか?」 意外な発言に、奏斗は思わず高見さんの横顔を見た。 「だってほら、顔がいいから」 顔がいい? この人はなにを言っているのだ? でも高見さんは真剣そのものだ。つっこむべき局面ではないらしい。顔の良い男は男の世界ではなめられる、と高見さんは繰り返す。奏斗には理解できないが、本気でそう思っているらしい。 「ぼくは高見さんをなめてません」 「知ってる。だから、すごいなあと思う」 おれだってほんまはなあ、と高見さんがとつぜん大声を出した。 「安部川くんみたいになりたいわ。周囲から浮いてても平気な顔して、『自分は自分なんで』みたいな、そんな感じで、堂々としてたいわ」 「え、ぼく浮いてるんですか?」 返事の代わりだろうか、肩にパンチを当ててきた。痛くはなかったが、たとえ軽く、冗談っぽくとはいえ、気軽に人を殴れる高見さんがうっすらとおそろしかった。 「休むんが怖い」 「は?」 怖いのはあんたのほうですけどと呆れながら、どういう意味ですか、と問う。 「ほんまはおれがおらんでも問題ないんやって、会社にばれてしまうのが怖い」 「なんですかそれ」 めんどくささが極限に達し、今すぐ路上に打ち捨てて帰りたくなる。 「ひとり休んだぐらいでだめになる会社なんか、破綻してますよ。くだらないことを言ってないで、さっさと有休を取ってください」 「うわ、ひど」 おれやっぱ安部川くんにはなりたないわ、人に好かれなさそうやし、という無礼極まる発言とともにふたたび繰り出された高見さんのパンチを身をよじってかわすことができたので、奏斗は満足だった。 週明け、高見さんの有給休暇の申請書を手に、奏斗は総務部長の机に向かう。部長はそれを一瞥(いちべつ)するなり、「どうやって書かせたんや」と目を丸くした。 「我が身を犠牲にしました」 奏斗は自分の申請書をその上に重ねる。金曜の夜、送り届けたマンションの前で、高見さんは「安部川くんがつきあってくれるなら、有給休暇取ってもええで」と言ったのだった。無趣味な自分は、ひとりで休みをもらっても酒を飲んで終わりだと。笑顔で「頼むわ」と両手を合わせる高見さんの瞳に、おそらく本人も無自覚な切実さがにじんでいた。 「つきあってって、これ交際を申し込んでんのとちゃうで」 「わかってますよ」 そんなやりとりを、忌々(いまいま)しく思い出す。なぜぼくの貴重な有給休暇を高見さんのために、という思いがないわけではないが、今はこの方法しかない。 「受理しときます」 部長は笑いながら二枚の申請書を、書類ケースに置いた。見上さんは今日も欠勤している。奏斗はため息をつきながら、仕事に戻った。(つづく) 次回は2025年11月15日更新予定です。
1977年佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年『ビオレタ』でポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。20年『夜が暗いとはかぎらない』で山本周五郎賞候補、20年『水を縫う』で吉川英治文学新人賞候補、同年同作で河合隼雄物語賞受賞。『川のほとりに立つ者は』で2023年本屋大賞9位入賞。『わたしたちに翼はいらない』『こまどりたちが歌うなら』『そう言えば最近』『リボンちゃん』など、著作多数。