寺地はるな
高見(たかみ)さんが投げたバスケットボールが、のびやかに弧を描いて飛んでいく。ボールはゴールのリング上を一周し、ネットにおさまることなくころがり落ちた。 「うん。今のはあかんと思った」 高見さんは気にするふうでもなく、またドリブルをはじめる。奏斗(かなと)の目には、まるでボールが高見さんの手に吸いついているように見えるのに、高見さんに言わせれば、「だいぶ勘が鈍ってる」という状態らしかった。 高見さんは中学と高校でバスケットボールをやっていたのだそうだ。高校三年生の時にケガをして、最後の試合に出ることができないままやめてしまって、なんとなく悔いが残っているという。そうした経緯が、奏斗の地元の友人、シモンヌこと下山田和也(しもやまだかずや)に似ていた。そのせいで、うっかり高見さんにみょうな親近感をもってしまったのがいけなかった。 「ぼくの友人もそうです」 などと、余計なことを口走ってしまった。 「その友人の実家は敷地が広くて、庭にバスケットゴールがあって、ぼくはバスケしないんですけど、よく友人がひとりで練習しているところを見ていました」 「え、まじで。おれひさしぶりにバスケやりたいわぁ」 高見さんは目を輝かせ、その場でシモンヌに連絡をとらされた。いたって気のいいシモンヌは、「ええよ、連れておいでよ」と応じてくれ、そして今日ふたりで伊丹(いたみ)の下山田宅にやってきたのだった。 自分はたしかに、高見さんと約束した。有休につきあうと言った。だがまさか地元の友人を紹介させられ、奏斗自身はひとつも興味のないバスケットボールにつきあわされるとは思ってもみなかった。 シモンヌは足首に包帯を巻いていた。前日に「ちょっと無茶した」のだという。 高見さんは奏斗に向かって「ジャワ・ノーワヤ・ローゼン」と意味不明な言葉を発し、シモンヌに「あんな、あべちん。1on1(ワン・オン・ワン)は、一対一でやるってことやで」と解説してもらうまでずっと、ロシア語かドイツ語でなにか言われたのだと思っていた。じゃ、1on1やろうぜ、と言っていたのか。 言葉の意味を理解できたことと、実際にできるということとはまったく別の話で、昔から球技全般が苦手だった奏斗には、高見さんの相手などつとまるはずもないと思った。 「できないんです」「ええから」というやりとりののちに一応トライしたが、ドリブルもままならなかった。 呆(あき)れ顔の高見さんに「え、ヘタやん」と言われ、そこで奏斗の堪忍袋の緒はぷつりと切れた。 「いや、ぼく最初に言いましたよね?」 奏斗は本気で腹を立てていたのだが、なぜか高見さんはずっと楽しそうに笑っていた。 シモンヌが事前に用意してくれていたらしいキャンプ用の大きな椅子(いす)に座り、ひとりでボールと戯(たわむ)れている高見さんを眺める。シモンヌがもう一脚椅子を持ってきて、隣に座った。 「シモンヌ、足だいじょうぶなん?」 「うん。ちょっと練習でひねっただけやから」 シモンヌが高見さんに、「趣味のバスケのサークルに入ってるんですけど、よかったらどうですか」と声をかけた。メンバーは二十代から五十代の社会人で、おもに市民体育館などで集まって練習をしているという。奏斗はふたりが連絡先を交換するのを見守った。 「いやあ、うれしいわ。ありがとう。あ、下山田くん、トイレ借りていい?」 「どうぞ。ガレージ入って、すぐ右です」 高見さんがガレージに消えるのを見届けた後で、シモンヌが「あの先輩と、ふだん仲良くしてんの?」と訊ねてきた。 「いや、そんなに」 シモンヌは「そやろな」と頷(うなず)く。 「ええ人そうやけど、あべちんとはちょっとタイプが違うもんな」 まあ、社会に出たら気の合わない相手ともなんとかやっていくしかないからな、とシモンヌが笑うので、意外な感じがした。誰とでも自然と仲良くなれる友だちの多いやつ、という印象があった。 「シモンヌでも、人にたいしてイヤとか無理とか思うことあんの」 「あたりまえやん。しょっちゅう思うよ」 なに言うてんの、とシモンヌはおかしそうに笑った。ふつうに人を嫌いになることはある、というシモンヌの言葉は、奏斗の心をいくぶん軽くした。そうだ、どうがんばっても好きになれない人はいるし、その逆だってある。 嫌いであることを理由に排斥したり、攻撃したりすることはないけど、と言うシモンヌの家を出た後、高見さんが「おれ、『あべかわ』に行きたい」と言い出した。実家の回転焼き屋の店名まで、すでに知られてしまっているらしい。 「どうってことない、ふつうの回転焼きですよ」 「どうってことない、ふつうの回転焼きが食べたいんや」 実家に寄るつもりはなかった。だからとくに連絡もいれていない。店に行ってみると、父は頭にタオルを巻いたいつものスタイルで、焼き型に生地を流しこんでいた。奏斗に気づいて、「おお」と驚いた顔をする。 「帰ってきたんか」 「いや、ちょっと用事で下山田くんの家に」 萌南(もなみ)は、と問うと、今日は休んでいるとのことだった。妊娠してからは店に出る日を減らしているらしい。 「あ、こちら会社の先輩の高見さん。高見さん、父です」 「こんにちは。安部川(あべかわ)くんにはいつもお世話になっております」 父も、奥から「あらあらあらあら」とやかましく出てきた母も、いっぺんで高見さんを好きになったようだった。大きな声とはきはきした口調。屈託のない笑顔。好かれる要素がそろっている。 両親は「元気のいい子」が大好きで、運動部の学生には端数をまけてやったり、おまけをつけてやったりする。 「さ、さ、食べていってください」 母は奥の飲食スペースに高見さんを通し、いそいそと回転焼きの皿を運んでいる。そんな母のテンションは、高見さんが営業職であると知った時に最高潮に達した。 「あら! それはたいへんな仕事ですねえ」 「いえいえ、好きでやってますから」 なんやねん、と奏斗はひそかに鼻を鳴らした。母も父も、自分にたいしてはもっと手厳しい。「あんたは夏は冷房、冬は暖房のきいた部屋でじっと座って仕事してるんやろ」なんて言って、気楽でええな的ニュアンスをふんだんに含んだ言葉しかかけられたことがない。 おもんな。奏斗はそっとその場を離れ、店の裏手にまわる。両親にほめてもらえなくて拗(す)ねているわけではないと言いたいが、ほんとうは手がつけられないほどに拗ねている。 自分だってほめられたい。認めてもらいたい。子どもっぽい感情だとはわかっている。でも感情を押し殺すと人間はいつか怪物になる、というのが奏斗の持論なので、しばらく子どもっぽい感情が自分の中で暴れまわるにまかせる。そうすれば、じきに疲れて、おとなしくなる。 店の裏手に位置する祖母の家のチャイムを鳴らした。奏斗の実家はさらにその奥にある。子どもの頃は、学校が終わるといつも誰もいない自分の家ではなく、祖母の家に直行していた。 以前会った時よりさらに小さくなったように見える祖母は、奏斗の訪問を喜んだ。 「来るてわかってたら、ごはん用意したのに」 「いや、会社の先輩と一緒やから、すぐ帰るねん。ちょっと、ばあちゃんとつぶあんの顔だけ見にきた」 「ま、せわしないこと」 祖母に続いて、家の中に入る。祖母の家の匂い、としか表現しようのない匂いがする。龍角散(りゅうかくさん)とお線香と古びた紙みたいなものの匂いがまじりあって、混沌(こんとん)としている。 近頃はめっきり年をとって散歩の頻度が一日二回から一回になったつぶあんは、居間の隅に身体(からだ)を横たえていた。傍らには祖母の座椅子がある。 「つぶちゃん。ひさしぶりやな」 つぶあんはきわめて緩慢な動きではあるが、立ち上がってその場でくるりと一周した。そのやわらかな白い腹をなでながら、「避難してきてん」と奏斗は呟(つぶや)いた。 「お父さんとお母さんが、先輩のことばっかりもてはやすから」 もちろん、つぶあんは答えない。濡(ぬ)れた鼻をフスフス鳴らすばかりだ。 台所にいるとばかり思っていた祖母が、奏斗の背後から「そら、あんたの会社の人やからや。サービスや」と答える。八十代になってもなお、聴力は衰えていないらしい。 「サービス?」 「あんたが会社でかわいがってもらえるように、必死で気ぃつこうてんねや」 「そうかな」 「そうや。アホやなあ、奏斗は。な、つぶちゃん」 最後のほうはつぶあんに向けて言い、祖母は台所に入っていった。奏斗はつぶあんに覆いかぶさり、あたたかな後頭部に鼻先をうずめて、しばらくそのままじっとしていた。 「安部川くんってまだあれ持ってんの」 帰りの電車の中で、高見さんが言った。ドア近くの四人掛けの席が首尾よく空いており、ちょうどそこに腰を下ろしてひと息ついた、そのタイミングでの質問だった。 「あれとは?」 「あのへんな人形」 高見さんは窓の外を見ている。奏斗はすこし迷ってから、へんな人形じゃないですよ、と反論する。 「いやいや、おじいさんの人形は、どう考えてもへん!」 「おじいさんではないですね、おじさんです。チョムスキーは『ゆかいなおじさんず』のキャラクターです」 高見さんは「ゆかいなおじさんず」を知らなかった。「わたしのこばこ」の商品だったことを知ると、「ヘェ!」とカタカナ的発音の奇声を発した。すぐ近くに立っていた女性がちらりとこちらを見るのがわかった。 「おれ、それ知らん」 「ぼくが小学生の時に販売されてて、今は生産終了してますね」 高見さんは腕組みし、「つまり、あれか? 安部川くんの愛社精神アピールやったんやな?」と的外れなことを言い出した。 「違います。なんでそんな話になるんですか」 「だって、そんな古いの大事に持ってるって、ふつうに美談やんか。面接の時、その話したやろ?」 「してませんよ」 「え、もったいな。おれならぜったいする」 「ぼくはしなかったんです」 高見さんはフン、と鼻を鳴らし、ふたたび窓の外を眺めはじめたが、ややあって、口を開いた。 「松尾(まつお)さんなら知ってるんちゃう、そのおちゃめなおじさんず」 「ゆかいなおじさんず、ですね。商品企画室の松尾さんですか?」 「そうそう。おれけっこう仲いいんやで。あ、いいこと考えた!」 仲いいからなに? いいことってなに? なんか、よけいなことしようとしてない? 奏斗の心はおおいにざわついた。 翌日、昼休み五分前に、高見さんが「安部川くん、飯行こ!」と松尾さんを伴ってやってきた。 「安部川くんとごはん食べるの、はじめてやな」 にこにこしている松尾さんに、とてもじゃないが「いや、昼休みはひとりで過ごしたいので」と言える気がしない。見上(みかみ)さんは素知らぬふりで、あるいは心からこちらのやりとりに興味がないのか、キーボードを打つ手を止めない。 ずっと休んでいた見上さんは、先週、「ご迷惑をおかけしました」と出勤してきた。あきらかに顔色がさえなかったし、すこし痩せたようでもあった。 気になるが、「なにも訊かないでくれ」というオーラを発しているので話しかけづらい。総務部の他のみんなも心配そうなそぶりはするものの、話しかけはしない。今は遠巻きに見守りましょうね、というような雰囲気がある。 「お、よかったなあ安部川くん。誘ってもらえて」 きみいつもひとりでお昼食べてんねやろ、と部長が自分の席からよけいな口を挟んでくる。午前業務終業のチャイムが鳴り出した。 高見さんと松尾さんは「あそこでいいですよね」「せやな」と、奏斗に相談することなく店を決め、一階のカフェに入っていく。 サンドイッチのような軽食のほかにも、唐揚げやハンバーグのランチプレートが選べる。テーブル席はすでに埋まっており、三人並んで通りに面したガラス張りのカウンター席に座った。 「松尾さん、『すてきなおじさんず』って知ってます?」 ハンバーグを箸で割りながら高見さんが言った。奏斗はあわてて「ゆかいなおじさんずですから」と訂正した。 「懐かしいな。おれが新人の頃に発売されたシリーズやで」 そこからはもう、とまらなかった。「かわいい動物でも子どもでもなく、おじさんっていうところがええよな」「五年ぐらい展開してたはず」「リニューアルで消えたんやな、おれはけっこう好きやったんやけど」と続き、奏斗に相槌(あいづち)を打つ暇すら与えない。 「これ、ノベルティかなんかだと思うんですけど」 奏斗はポケットからチョムスキーを取り出す。松尾さんは「ほぉー」とのけぞり、ちょっと失礼、あっこれまだ使ってないからきれいやし、とハンカチを広げて、そのハンカチ越しにチョムスキーを受けとった。 「これは限定商品やな。数は少ないけど、市販されてるよ」 たしかペンケースのおまけについてきたはずだった。高見さんが「店がセット売りしてたんちゃう?」と言った。 「あんまり売れへん文房具いくつか組み合わせて、かわいらしくパッキングして売るやつ。ファンシー雑貨の店でよう見かけるで」 松尾さんは、「ゆかいなおじさんず」の生みの親はイラストレーターのポレンタ郎という男性で、かつては「わたしのこばこ」の別のシリーズも手掛けていたのだが、ここ十年はやりとりがないのだと教えてくれた。 「奥方の病気とか、いろいろあったみたい」 「なるほど」 ポレンタ郎さん。奏斗は心の奥に、その名を記録してから、いや奥方て、と思う。大阪のおじさんは人の妻のことを「嫁」と呼びがちで、その呼称もちょっと気になってはいたのだが、「奥方」もそれはそれでどうかという気がする。 「すごいやわらかい雰囲気のおもしろい人で、おれ好きやったんやけどな」 「連絡、取れへんのですか?」 高見さんの問いに、松尾さんは「いや、引っ越してなければいけるはず。電話番号も、変わってないと思うし」と答える。奏斗は、高見さんがシモンヌの時のように「今電話してみて」と言い出したらどうしようと、ひとりで勝手にハラハラしていた。 「話題に出たから言うわけではないけど、ポレンタ郎さんとは、また仕事したいなと思ってた」 あの人の絵にはなんとも言えん味があるんよな、と松尾さんはひとりで頷いている。 「ええんちゃいますか」 高見さんがきわめて軽い調子で同意する。松尾さんは全員が食べ終えているのをたしかめてから、「行こうか」と伝票を摑(つか)んで立ち上がった。 松尾さんがまとめて会計してくれているのを待っている時、走っている女性の姿がガラス越しに見えた。Tシャツにハーフパンツというスタイルで、髪はひとつにまとめている。 「あ、山口(やまぐち)さんや」 高見さんが言った。おつりを財布にしまう松尾さんに、「あの人、ほぼ毎日昼休みに走ってるんですよ。すごくないですか?」と説明している。 「え! 昼休みやのに、休んでへんの?」 「はい。頭がすっきりするとか言うてましたけどね」 ふたりが絶え間なく話し続けるので、松尾さんに「ごちそうさまでした」と言いそびれてしまった。カフェの出入口で、雑居ビルに戻ってきた山口さんを迎える。すこし遅れて見上さんが駆けこんできたので、びっくりして叫びそうになった。 長袖のTシャツに、下は綿のパンツというかっこうで、スニーカーを履いてはいるがランニング用のものではない。顔が真っ赤で、とても苦しそうだ。 山口さんはやや呼吸が乱れてはいるものの、たいして汗もかいていない。こちらに気づいて、「あら、めずらしい組み合わせ」と笑った。 「いや、そっちこそ」 エレベーターのボタンを押しながら見上さんに視線を送ったが、目は合わなかった。 「見上さん、だいじょうぶ?」 高見さんは見上さんのことを心配そうに見ている。 「は……だいじょ……です」 どう見てもだいじょうぶそうではなかった。 「私が誘ったんよ。今日から一緒に走ろうって」 山口さんが言った時、エレベーターの扉が開いた。 「ミカミンはな、身体を動かす習慣がないやろ。だからへんなことばっかり考えてしまうんよ。走れば邪念なんかどっか飛んでいくから」 山口さんは、なぜか奏斗のほうをじろじろ見ながら、そんなことを言うのだった。 ぞろぞろとエレベーターに乗り込む。へんなこと。邪念。ムク子さんのことを言っているのだろうか。そんなことを考える暇があったら身体を動かせ、と言っているのか。 なにも知らない高見さんと松尾さんは「邪念て」「どういうこと」と笑っている。 「見上さんが考えているのは、へんなことじゃありません」 全員の顔が奏斗に向く。いくつもの目に怯(ひる)みつつ、奏斗はそれでも懸命に言葉を重ねた。 「すこしもへんじゃないですよ。そういう決めつけ、よくないと思います」 山口さんは奏斗を冷めた目で見返す。エレベーターの速度が、かつてないほどにのろく感じられた。(つづく)
次回以降の『わたしの小箱』は、「Web 小説NON」(https://web-non.jp/)にて更新される予定です(2025年12月19日~配信予定)。 「コフレ」での更新はこちらで最後となります。ご愛読くださり、ありがとうございました。
1977年佐賀県生まれ。大阪府在住。2014年『ビオレタ』でポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。20年『夜が暗いとはかぎらない』で山本周五郎賞候補、20年『水を縫う』で吉川英治文学新人賞候補、同年同作で河合隼雄物語賞受賞。『川のほとりに立つ者は』で2023年本屋大賞9位入賞。『わたしたちに翼はいらない』『こまどりたちが歌うなら』『そう言えば最近』『リボンちゃん』など、著作多数。