物語がつまった宝箱
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  • 1st marriage(1) 2017年10月1日更新
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 お台場にあるブライダルプロデュース会社、ベストウェディング社二階の"お客様相談室"は静寂に包まれていた。
 一般的な企業で言えば、小会議室程度の広さしかない部屋は、白と淡いピンクが基調となっている。壁は全面コルクが貼られていて、そこに創立以来二十年にわたる結婚式の写真がピンで留められていた。
 部屋の角には観葉植物と鉢植えの蘭が飾られているが、他には顧客用のソファセットだけしかない。午後一時、予約していた宮内未架(みやうちみか)が顔面を蒼白にしたままソファに座り、向かいに座った担当者のウェディングプランナー、赤星久美(あかぼしくみ)がこんにちはと声をかけたが、それから三十分、未架は口を開かなかった。
 草野(くさの)こよりは久美の隣りに座ったまま、大きく切り取られた窓から外を眺めていた。三月半ば、春というほど暖かくはないが、よく晴れた気持ちのいい金曜日だ。パレットタウンには大勢の人が歩いていた。
 もうお台場は完全な人気観光スポットになった、とこよりは小さくつぶやいた。会社が創立された当時を知る先輩社員に言わせれば、何もない地の果てだったというから、変われば変わるものだ。
 ただ、今は感傷にふけっている場合ではない。笑みを浮かべながら、久美と未架を交互に見つめた。
 久美が口を開きかけたが、目で制した。入社一年目の久美の胸の内は手に取るようにわかっていた。
 だが、ウェディングプランナーの側から話しかけるのは絶対のタブーだ。黙っていれば、必ず客の方から口を開く。沈黙こそウェディングプランナーに必須の能力だった。
 十、と口の中でカウントした。相談室に未架が入って、三十分が経つ。過去の経験から、間もなく話し出すとわかっていた。
 予想通り、カウントダウンが二まで進んだところで、涙を浮かべた未架が少しだけルージュがはみ出ている唇を動かした。
「……本当に、彼と結婚していいのかなって……幸せになれるのかなって……」
 宮内様、と声をかけた久美の制服の袖を強く引いた。未架の顔を見た瞬間から、何の相談かはわかっていた。顧客がすべてを吐き出すまで待つのも、良きウェディングプランナーの心得だ。
 それから三十分以上、未架は愚痴をこぼし続けた。半年前、プロポーズされた。嬉しくて幸せで、毎日がバラ色だった。
 その後、この会社に結婚式と披露宴の相談をして、赤星さんも親身になってアドバイスしてくれた。本当に幸せで、楽しくて仕方なかった。
 でも、年明けから急に不安になった。本当に彼でいいのか。彼と結婚して幸せになれるのか。
 理由はわからないが、彼の愛情が醒(さ)めている気がする。彼と二人で毎日の生活を楽しく続けられるのか。彼の家族とうまくやっていけるのか。今の仕事はどうなるのか。どうすればいいのか。
 堰(せき)を切ったように、というのはこういう状態のことを言うのだろう。多少支離滅裂なところも含め、未架の愚痴は留まるところを知らなかった。
 涙でマスカラが剥(は)げ、目の下が真っ黒になっていた。未架にボックスティッシュを渡し、コーヒーを勧めると、ようやく口を閉じた。肩が大きく上下しているのは、ほとんど無呼吸で話し続けていたからだろう。
 どうしたらいいですか、と久美が目で訴えた。去年の四月に新卒で入社してきた久美がウェディングプランナー課に配属されたのは六月のはじめで、それからはこよりのアシスタントとして働いている。宮内未架は久美がプランナーとして一人で担当する初めての顧客だ。
 こよりは久美のサポートをする立場だが、本人のためにもなるべく自分の力で対処するようにさせていた。とはいえ、さすがに経験不足は否めない。今は前に出るべきだろう、と判断していた。
「宮内様、女性にとって結婚が人生で最大の決断になることは、同じ女性として、そしてウェディングプランナーという仕事に就く者として、よくわかっているつもりです」
 そうです、と未架がハンカチで目元を拭った。最新の統計では、日本における離婚率は二・八組に一組、つまり約三分の一が離婚しているというデータがあります、とこよりは取り出したタブレットを開いて、次々に画面をスワイプしていった。
「弊社では十年前からお客様のさまざまなデータ、数値から、離婚の確率計算用ソフトを開発しています。結婚とは、人生そのものです。弊社はブライダルプロデュース会社ですが、お客様の幸せを何より優先することを社是にしております。離婚の確率が高いと判断されれば、ご依頼をお断りすることもあります。ですが宮内様、そして新郎の門倉様、お二人のパーソナルデータを計算したところ、九八・七パーセントという高い相性度だとわかりました。弊社のAIは約九九パーセントの確率で、お二人が幸福な人生を送られるだろうという回答を弾き出しております」
 タブレットの画面をそのまま見せた。そこに浮かんでいたのは、98・7という大きな数字だった。
 過去の経験ですが、とこよりは声を潜めた。
「九五パーセントを越えたご夫婦が離婚したケースは一件もありません。そして、九八・七パーセントというのは、この十年で第二位という高い数値です。個人としても、会社としても保証できます。お二人の結婚について、わたしどもは一度たりとも不安を感じたことがありません。待っているのは幸せな暮らしで、それ以外は考えられません」
 力強く断言した。自信を持って言い切る姿勢が、何よりも重要だ。
 九八・七パーセント、とつぶやいた未架の頬に、ゆっくりと笑みが広がっていった。

2
 そんなソフトがあるなら教えておいてくださいよ、と久美が頬を膨らませた。
あれからケーキとカフェオレを社内のカフェテリアから取り寄せ、三人で結婚式について話し合った。いくつかの追加プランを申し込んだ未架が上機嫌で相談室を出て行ったのは、三十分後のことだった。
「そんなソフト、あったらあたしが使いたい」コーヒーカップと皿を片付けておいてと久美に言って、こよりは立ち上がった。「どんな高水準のコンピューターでもAIでも、パーソナルな未来予測なんてできない。ましてや幸せな人生を送れるかどうか、計算なんてできっこないって久美ちゃんだってわかってるでしょ」
 それじゃ、あの数字はどこから出てきたんですかと久美が尋ねた。あれは画像データ、とこよりはタブレットをスワイプした。
「どこをどう触っても、画面に浮かぶのはあの数字」
 どういうことなんですかと首を傾げた久美に、彼女は典型的なマリッジブルー、とこよりは言った。
「研修中に教えたでしょ? 結婚前三カ月の時点で、七五パーセントの新婦がマリッジブルーに陥る。一種の麻疹(はしか)みたいなもので、理由もなく突然かかる。強いて言えば、漠然とした不安、環境が変わることへの恐怖心、自分の選択、判断に対する不信。そんなことが原因で、特効薬はない。あのカップルがうまくいくか、離婚するかは誰にもわからない。神様にだって無理なの。こういう具体的な数字を見せて説明すれば、しばらくは納得して病状が治まる。大きなトラブルに発展させないためには、小さな嘘が必要なこともある」
 なるほどなるほど、と久美がメモを取り始めた。明るい茶髪で、まだ女子大生の雰囲気が抜け切ってはいないけれど、ファイロファックスを使うなど、妙に古風なところがある子だった。
 見た目より遥かに真面目で、ウェディングプランナーという仕事に前向きに取り組む、この後輩を、こよりは気に入っていた。
「さすがっす。勉強になりまっす」
 ただ、言葉遣いだけはもう少し何とかしなければならないだろう。大学で体育会バスケ部だったためか、社内での会話は常に巻き舌だった。さすがに顧客の前では気をつけているようだが、癖というのは抜けないものだ。
「やっぱり経験があると違うっすね。そりゃまあ、プランナー歴十年ですから、何でもわかるんでしょうけど」
 わかってるわけじゃない、とこよりは首を振った。
「ただ、知っているだけ。新婦の七五パーセント、四人に三人はマリッジブルーになる。こじらせるととんでもないトラブルになるし、結婚式を中止したカップルだっている。早めに対処しないと、会社のビジネスが成立しなくなる。そして、結婚式が始まってしまえば、マリッジブルーは嘘のように治る」
 未架さんみたいな場合はどうすればいいんですかと質問した久美に、誰に対しても同じ、とこよりは答えた。
「とにかく話を聞く。そして全部肯定する。プランナーはあなたの味方だと強調すれば、安心できる。それだけで症状は軽減する。必要なのは信頼感」
 リスペクトしちゃうなあ、と久美が歌うように言った。そうでもない、とこよりは目を逸らした。
 実は、自分自身、今マリッジブルーの真っ只中にいる。結婚式は六月最後の日曜日、あと三カ月後に迫っていた。
 マリッジブルーについて、その精神的なメカニズムはわかっていた。おそらく、心理学者より詳しいだろう。何百人もの新婦と話し、その実態を見てきた。どう対処するべきか、知識は誰よりも豊富だ。
 にもかかわらず、マリッジブルーにかかり、そして、どうすることもできずにいる。彼を愛しているし、一緒にいたいと心から願っている。それなのに、胸に吹き荒れるこの不安は何なのか。自分のことながら、さっぱりわからなかった。

3
 ウェディングプランナーのジレンマ、という言い伝えがブライダル業界にはある。
 単純な問い合わせや相談は年間数百件、直接担当する結婚式は少なくとも年間百件。それだけのカップルの結婚式を手がけている。結婚と最も近い職場にいるにもかかわらず、プランナーの結婚率は低い。それがウェディングプランナーのジレンマだった。
 理由のひとつは、出会いがないことだ。ウェディングプランナーはブライダルプロデュース会社に勤務している。
 例えばベストウェディング社は業界でも中程度の規模の会社だが、ウェディングプランナー課にいるのは課長の太田原英子(おおたわらひでこ)以下、十人中八人が女性だ。
 結婚式は新婦のためにある、という常識が根付いたのは、八〇年代の中頃、バブル期以降だろう。もちろん、その前から実質的にはそうだったはずだが、明確になったのはその頃だ。
 必然的にウェディングプランナーは女性の仕事になった。新婦、つまり女性の気持ちがわかるのは女性だからだ。
 ウェディングプランナーの仕事は多岐に渡るが、ざっくり言ってしまえば、結婚するカップル、主に新婦のリクエストを聞き、それに従って結婚式や披露宴のプランを立て、それに基づいて関係する各部署の調整を担当するのがメインの役割だ。
 ベストウェディング社の場合、自前のチャペル以外に、結婚式場、レストランなど、取引先は契約で決まっているし、そのスタッフも変わらない。そこで出会える可能性は非常に低かった。
 ウェディングドレスのレンタル会社もそうだし、あるいはヘアメイク、カメラマンなどの個人スタッフも長期契約者が主だ。経験と慣れが必要な業種だから、どうしてもそうなってしまう。そこに新しい出会いはない。
 こよりは年間約二百組のカップルと顔を合わせる。カップルである以上、二百人の男性と会うことになるが、彼らは全員売約済みだ。商品に手をつけることは、ブライダル業界で最大のタブーだった。
 とはいえ、出会いがないというのは、今や日本全国あらゆる女性にとって共通の悩みで、誰もが悲鳴を上げている。こよりだけの問題ではない。
 もうひとつ、もっと物理的な理由があった。普通の社会人と休みが合わない、ということだ。
 結婚式は多くの場合、土日祝日に挙げられる。従って、ウェディングプランナーは世間の休日に出勤する。これはかなり致命的な問題だった。
 友人の紹介、合コン、その他出会いの機会がまったくない、というわけではない。運命や幸運によって、素敵な男性と出会うチャンスもあった。そこから実際に交際に発展することも、珍しくはない。
 だが、そこで現実という壁が二人を分かつ。相手が普通のサラリーマンであれば、休みは土日で、ウェディングプランナーは出勤日だ。こよりの場合、火、水が休みだが、その日彼は会社に出ている。
 通常の意味でのデートが難しくなるのは当然で、関係を続けるためにはお互いの真剣な努力が必要だった。結果として、すれ違いが起き、どんなにお互いが好意を持っていても、うまくいかなくなる。まさにジレンマだった。
 結婚に一番近い場所にいながら、結婚に最も遠い職業、それがウェディングプランナーの実態だ。人生が皮肉なものだと証明するために一番ふさわしい仕事、と課長の太田原は常に言うが、けだし名言というべきだろう。
 高校、大学時代を通じ、高三の一年間を除いて、こよりはボーイフレンドがいなかったことがない。肌の白さと物静かに見えるルックスに反して、よく笑いよく食べ、アクションが大きいことがよいギャップになったのか、それに萌えてくれる男子が多かったのは事実だ。
 だが、就職してから交際した男性は三人だけ、しかも一人目は大学四年の時に付き合い始めた村西順一(むらにしじゅんいち)で、会うたびに入った会社の愚痴ばかり並べ立てる性格が嫌になって、その年の秋には別れていた。
 二人目は入社二年目に知り合った徳井孝司(とくいたかし)というコックだった。孝司はベストウェディング社が契約しているフレンチの名店"シェ・イザワ"の新人で、二十五歳までならそういう出会いもあるとわかったのは、こよりが二十六歳になった頃だった。
 二年半付き合い、お互いに結婚を意識するようになっていたが、タイミングの悪いことに、孝司がパリの名門レストラン"ル・サンク"での修業が決まり、自然消滅的に別れた。
 それが二十六歳の誕生日の直前のことで、それからこよりの受難の日々が始まった。とにかくチャンスがないし、入社四年目で仕事が面白くなっていた時期だったから、それなりに毎日が充実していて、恋愛どころではなかった。
 真剣にまずいと思ったのは二十八歳の誕生日で、二十九歳になった時は本格的にヤバいと感じたが、転がる石に苔(こけ)はつかないというたとえ通り、何事もないまま一年間が矢のように過ぎ去っていった。
 もう駄目だ人生終わった、と思っていた時に出会ったのが、美容院に勤めていた遠藤幸雄(えんどうゆきお)だ。三十歳まであと二週間、という夏も終わりに近づいた一昨年九月のことだった。
 
4
 チャンスは意外と身近なところに転がっているものだ。
 横浜生まれで、地元の大学に通っていたこよりは、就職が決まってから初めて一人暮らしをすることになった。会社があるのがお台場だから、通勤は臨海線ゆりかもめということになる。会社と近すぎるのは嫌だったから、竹芝のワンルームマンションに住むことにした。
 住んでみてわかったのは、竹芝という場所がウォーターフロントという謳(うた)い文句にもかかわらず、新橋と浜松町の中間にあり、単純に言えばオヤジの町だったことだ。女性が一人で暮らすには、最も不向きなエリアと言っていい。
 一番困ったのは美容院で、どこを探してもまともな店は一軒もなかった。仕事柄ヘアスタイルはきちんとしていなければならなかったから、月に一度友人に紹介された外苑前のヘアサロン"エア/ホワイト"へ通うようになった。
 カリスマ美容師として有名な安西(あんざい)ノブが始めた"エア/ホワイト"は、その後都内に三〇店舗を構える一大チェーン美容院となったが、この頃はまだ外苑前と代々木上原の二つしか店がなく、最初の数年は安西本人がこよりのカットを担当していたが、引き継いだのが幸雄だった。
 縁というのは不思議なもので、最初は安西の方が良かったのにと思っていたが、どういうわけか幸雄とは最初から話が合った。"エア/ホワイト"の美容師は全員社長の安西と同じ、ロングのツーブロックが定番だったが、幸雄だけはスパイキーショートだったことも、好印象だった。
 こよりはミディアムボブだから、一時間半ほどでシャンプーからカットまでが終わっていたが、その間ずっとお喋りが途切れることなく続いていた。そんなつもりはなかったが、二週間後の誕生日は一人で過ごすことになっている、ということまで話していた。
 それならぼくと食事でもどうですと言われて、普通なら軽いと判断して断るところだったが、どういうわけかいいですよと、食い気味に答えていた。よほど相性が良かったのだろう。
 もうひとつ運命的だったのは、こよりの誕生日が水曜日で、その日が"エア/ホワイト"の定休日だったことだ。信じられないほどスムーズに事が運び、独りぼっちで始まるはずだった三十路の初日を幸雄と過ごすことになった。
 お互いのパーソナルな話をしたのは、その時が初めてだった。二人とも三十歳で同学年、そして交際相手はいなかった。
 美容師が最も忙しいのは一般人の休日で、幸雄も土日は出だ。休みは水、木で、水曜日なら会えますねと幸雄が言ったのが、振り返ってみれば交際のスタートだった。
 安西もそうだったが、美容師という職業に就いている男はチャラい、というイメージがこよりにはあった。美容師には接客業の一面もあるから、客との会話も重要で、チャラいというのはこよりの偏見だったが、幸雄には一切そういうところがなかった。
 専門学校を出て十年、お客さんとお茶を飲んだことさえなかったという。もちろん、誘ったこともない。
どうしてこよりを誘ったのか、自分でもわからないと食事しながら何度も首を捻っていた幸雄に、何となく好意を感じた。誠実な男だというのは、最初からわかっていた。
 別れ際にLINEのIDを交換し、どちらからともなく連絡を取り合うようになり、翌週、その次の週の水曜日も会った。
三度目に会った時、スーツ姿で現れた幸雄が、付き合ってくれませんかと照れながらもはっきりした声で言った。あたしも今日言うつもりだったとこよりが答えて、そこからバカップルへの道を驀進(ばくしん)することになった。
 お互いに過去の恋愛について、包み隠さず話し、現在は一切連絡を取っていないと誓った。数カ月後にはお互いの友人への紹介も済ませていた。
 次に付き合う女性とは、結婚を前提にしたいと幸雄が考えていたため、数年間誰とも交際していなかったと、友人の一人が教えてくれたのはその頃だ。こよりも同じだったから、気持ちはよくわかった。
 プロポーズは交際一年後のこよりの誕生日だった。結婚してくれないかと緊張した声で言った幸雄に、オッケーとわざとこよりは軽く答えた。人生で一番軽く、そして重いオッケーだった。
 二人とも三十一歳になっていたから、話が決まればその後の展開は早かった。すでに、こよりは横浜の実家に幸雄を連れていき、両親に紹介していたが、幸雄の実家は富山県で、まだ正式に挨拶していなかった。
 その日のうちに横浜の実家に幸雄と帰り、結婚するつもりだと両親に話した。翌日には北陸新幹線で富山に向かい、幸雄の両親に挨拶し、結婚したいと幸雄が言った。両家とも、全面的に賛成してくれた。
 二人の動きが早かったのは、それだけお互いが結婚したいと強く願っていたからだったし、もうひとつはこよりの職業柄だった。この時点で入社九年目を迎えていたから、何をどうすればいいか同世代の誰より詳しかったし、結婚を三回した経験のある人間より、事情には通じていた。
 結婚式と披露宴、そして二次会に必要なもの。それは段取りだ。過去、千組近いカップルの結婚式に立ち会っていたウェディングプランナーとして、こよりはあらゆる段取りを熟知していた。
 実際、社内でもこよりのその能力は高く評価されていた。部下にあだ名をつけることを生きがいにしている、ブライダルコーディネート部部長の植草(うえくさ)は、こよりのことを"ダンドリ十段"と呼んでいたが、十年近くウェディングプランナーをしていれば、何をどうすればスムーズに進行するか、完璧に把握できるのは当たり前だ。
 仮に二十九歳の誕生日にプロポーズされたとしたら、何としても二十代のうちに結婚したいと考えたはずだし、焦りもしただろうが、三十一になっていたから、急ぐ必要はなかった。幸雄と話し合って、予算や結婚式の規模などを決め、課長の太田原に条件を伝えた。
 太田原は四十歳のベテランウェディングプランナーで、確実な仕事ぶりは業界でも定評があった。自分の結婚式のプランナーを、自分で務めるわけにはいかない。信頼できる人間に託すしかないが、こよりの知っている限り、同じウェディングプランナー課ですべてを任せることができるのは太田原以外いなかった。
 こよりがダンドリ十段だとしたら、太田原は名人位だ。すぐにあらゆるコネを総動員し、更には課長権限で想定していた中でベストの結婚式場のキャンセル待ちリストのトップにこよりと幸雄の名前を押し込んだ。
 もちろん、社員割引で予算も二人の想定する範囲内に収め、すべてが順調に進んでいた。それが半年前のことだ。
 その後のスケジュールも順調だった。十一月、式まで七カ月となった時にはウェディングドレスの試着に始まり、友人への報告、披露宴の招待客のリストアップまで済ませた。とにかく太田原の仕事は早かった。
 十二月からはブライダルエステに通い出し、結婚式を三カ月後に控えた現時点で、身長一六二センチに対し、体重は五二キロ、体脂肪率二〇パーセント、スリーサイズは上から八四、五九、八五とほぼ完璧な仕上がりになっていた。体重はあと一キロ、体脂肪率は一八パーセントまで落とすつもりだったが、三カ月あれば楽勝だろう。
 そして婚姻届の提出日も決め、先月からは花嫁DIY、ウェディングアイテム造りも始めていた。最終的に太田原は全体の統括担当となり、後輩の指導も兼ねて久美がウェディングプランナーを務めることになったが、それも了解していた。
 すべてが完全に順調だった。過去、千組以上の結婚式に立ち会ってきたが、こんなに何もかもがうまく進んだ例を見たことはなかった。
 だが、三月に入り、招待状の作成を始めようとしたところで、突然動きが止まった。自分でも理由はわからないが、明日にしよう、明後日でいいか、と一日伸ばしにしていた。それがマリッジブルーの兆候だと気づいたのは、先週のことだ。
 招待状を送ってしまえば、もう後戻りはできないとわかっていた。友人や親戚、会社などに結婚の報告は済ませていたが、あくまでも口頭の報告であり、正式なものではない。事情があって延期しましたということもできる。
 だが、招待状はオフィシャルなものであり、そこまでしておいて結婚式を中止しますとは言えない。外聞が悪いし、何があったんだという話にもなるだろう。
 幸雄との間には、何の問題も起きていなかった。幸雄は自分の仕事に対し真面目に取り組んでいるし、同僚の評判も良く、社長の安西も高く評価していた。そういうところを尊敬していたし、好きだった。こより自身、仕事にプライドがあったし、ウェディングプランナーという職業に愛着があった。 
 美容師と似たところがあり、どちらもクリエイティビティが要求されるところがある。どうすれば理想の結婚式をプランニングできるか、どうすれば最も美しいヘアスタイルに仕上げることができるか、そういう意味でもお互いの仕事を理解することができた。
 安西社長から、新店の店長にならないかと打診された、と幸雄が言ったのは先月のことだ。結婚してもこよりは仕事を続けるつもりだったから、経済的な不安はなかったが、店長になれば多少給料は上がるはずで、ますます問題はなくなっていた。
 幸雄は背も高く、ルックスもいい。あえて言えば専門学校卒という学歴を気にする人もいるだろうが、美容師になるのが子供の時からの夢だった幸雄としては、最短コースを選んだだけの話で、何ら恥じることはない。
 今も週に一、二度はデートしているし、休みの前日にはお互いの家に泊まることも多い。事実上の通い婚状態だ。
 一緒にいて幸雄ぐらいリラックスできる男性と交際したことはなかったし、幸雄も同じことを言っていた。平成のベストカップルではないか、と思うことさえあった。
 にもかかわらず、どうしてあたしは今マリッジブルーなのだろう。こよりにはわからなかった。

(つづく) この続きは発売中の単行本『ウェディングプランナー』でお読みになれます。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。