物語がつまった宝箱
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  • 7th marriage(2) 2018年4月15日更新
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 翌日、夜七時、一日の仕事を終えて、こよりは会社を出た。新橋(しんばし)で銀座(ぎんざ)線に乗り換え、外苑前(がいえんまえ)駅で降りる。ピーコックで買い物をしてから向かったのは、幸雄(ゆきお)のマンションだった。
 合鍵で部屋に入り、買ってきた野菜でサラダを作っていると、スマホが鳴った。今、店を出たと幸雄からLINEが入っていた。
 大鍋で湯を沸かし、パスタを茹(ゆ)でていると、ドアが開いて幸雄が入ってきた。お帰り、とこよりは菜箸を振った。
「あと三分でできるから、手を洗ってきて」
 その前に、と幸雄が後ろから肩を抱いて、すぐに離れた。早いよ、とこよりは向き直った。
「もうちょっと、長くてもいいんじゃない?」 
 手を洗ってくる、と照れたように幸雄が浴室の手前にある洗面所に向かった。そういうとこ結構好きかも、とこよりはだらしなく落ちてきた頬(ほお)を両手で挟(はさ)んだ。
 明日、水曜日はこよりと幸雄の定休日だ。お互い、週に一、二度はそれぞれのマンションを行き来しているが、半年ほど前から月曜の夜は幸雄のマンションで過ごすようになっている。
 こよりが夕食を作り、幸雄と一緒に食べる。特別に何かをするわけではなく、テレビを見たり、仕事や友人の話をしているだけだが、結婚生活の予行演習という一面があった。
 もっとも、三カ月ほど前から、世間話より相談事の方が多くなっている。仕方のないところで、結婚式へのカウントダウンが始まっている以上、現実と向き合わなければならない。
 毎日連絡は取っているし、外で食事をすることもあったが、リアルな相談をするには、やはりどちらかの部屋の方がいい。
 タラモサラダとツナと大葉のパスタを食べた幸雄が、美味(おい)しかったとウーロン茶に口をつけた。
「もう六月か。ひと月切ったよ。どう、実感ある?」
 さすがにある、とこよりはうなずいた。半年前は遠い未来の話だと思っていたが、今や結婚式は目の前だ。ひと月を切ると、こういう心理状態になるのかと改めて思った。
 何となく地に足がついてない感じがする。何かに焦っている。どういうことなのか。
 自分でもうまく説明できないが、花嫁は誰でもそうなのだろう。似たような話を聞いたことが、何度もあった。
 立ち上がった幸雄が二人分の皿を重ね、シンクに置いた。皿洗いは幸雄の担当だ。
「明日、ちょっと午前中出掛けなきゃならなくなった」皿を洗いながら幸雄が言った。「安西(あんざい)社長と高円寺(こうえんじ)へ行く。新店舗の場所が決まったんだ」
「そうなの?」
 店長の内示が出た、と幸雄が皿を持ったまま振り向いた。
「九月にオープンする予定だ。本当は結婚する前の方がよかったんだけど……」
 おめでとう、とこよりは笑顔で手を叩いた。高円寺に新店舗ができること、その店長候補に幸雄の名前が上がっていることは聞いていたから、それほど驚きはなかったが、幸雄にとって店長になるのはひとつの夢だった。こよりも嬉しかった。
 四十歳までに独立して、自分の店を持ちたいと前から幸雄は言っている。それはこよりも賛成だ。“エア/ホワイト”高円寺店の店長になるのは、夢へ向かって一歩踏み出したことになる。
 それ自体は喜ばしいことだが、二人の間で保留していた最大の問題について話し合わなければならない、ということでもあった。結婚後、どこへ住むかをまだ決めていなかった。
 本来なら、結婚をするにあたって、真っ先に手をつけなければならないことだが、先延ばしにしていたのには理由がある。幸雄が異動する可能性が高かったためだ。
“エア/ホワイト”の安西社長に、新店の店長を幸雄に任せたいという意向があるのは、こよりも直接聞いていた。今、幸雄は外苑前店の副店長で、三十二歳とまだ若いが、安西の信頼は篤い。新店の店長という重要なポストに就くだけの実績も技術もある。
 だが、破竹の勢いでチェーンを展開している“エア/ホワイト”の新店舗の候補地は、一年前の段階で三つあった。横浜(よこはま)、高円寺、立川(たちかわ)だ。外苑前店の店長に昇格するという話もあったし、代々木上原(よよぎうえはら)の本店へ戻る可能性もあった。
 いずれにせよ、店舗が決まるまで、どこに住むか決めることはできなかった。今年に入り、八割方高円寺になるだろうと幸雄は言っていたが、八割ではやはり不安だった。
 今日までどこの店になるかわからなかったから、具体的な話し合いはできなかったが、高円寺で確定したことになる。新婚夫婦にとって、新居は何よりも重要だ。
 相談するなら早い方がいい、とこよりは皿洗いを済ませた幸雄を座らせた。
「店長昇進、おめでとうございます……って喜んでだけいたいんだけど、どうする? どこに住むか考えてる?」
 正直、今日の今日だからさ、と幸雄が足を組んだ。
「そこまで気を回す余裕はないよ。どっちにしたって、新店オープンは九月だ。それまではここで暮らせばいいじゃないか。どこに住むかは焦って決めることじゃないと思うんだ」
 それは以前から幸雄が言っていたことだった。こよりとしては納得できないところもあったが、なし崩し的にその方向へ進んでいる。この際だから言うけど、とこよりは自分のタブレットを取り出して、東京のマップを開いた。
「幸雄はそれでいいかもしれないけど、あたしはちょっと困るわけ。通勤時間が倍になるし、乗り換えもしなきゃならなくなる。だから、あたしに合わせてほしいっていう意味じゃないよ。でも、このままだとあなたは高円寺に住むって言い出すでしょ?」
 別に決めてない、とリモコンでテレビをつけようとした幸雄をこよりは止めた。
「ちゃんと話そうよ。あたしたち、結婚したら家賃とか生活費も折半にするって決めたじゃない。そうするべきだとあたしは思ってる。だから、どこへ住むか真剣に考えた。二人とも、お互い負担にならない場所にしようって言ったよね?」
 高円寺と台場(だいば)じゃな、と幸雄がタブレットを指さした。
「中間っていったって、無理があるよ。例えば……神田(かんだ)とか? それとも赤坂見附(あかさかみつけ)? 今までみたいに、1Kってわけにはいかないだろ。探せば物件はあると思うけど、高いんじゃないか?」
 だから二人で家賃を払うんでしょと言ったが、幸雄の反応は鈍かった。意識してはいないのだろうが、そこはこっちに合わせてくれよという本心が透(す)けて見えるようだった。
 先日の桑原(くわはら)のような男は論外だが、幸雄は常にこよりの立場を尊重している。結婚しても仕事をする方がいいと言っているし、勧めてさえいるほどだ。
 家事についても、自分が率先して動く。付き合ってから今日まで、洗濯や掃除を押し付けられたことはない。性格の良さは、こよりが知っている男性の中でトップと断言できる。
 そんな幸雄でも、無意識のうちに、結婚したら妻は夫の通勤の便がいいところに住むべきだ、と考えているようだ。幸雄の責任というより、DNAの問題かもしれない。夫唱婦随(ふしょうふずい)はもはや死語だし、口にする者もいないが、それでも概念はまだ生きているのだ。
 ただ、今はそれを言っても始まらないだろう。無意識で思っていることだから、こよりの不満の意味さえわからないかもしれない。
 確かに、うなずけるところもある。どんな夫婦だって、普通そうだろうと言われればその通りだ。
 いずれにしても、結婚までひと月を切った今、揉(も)めたくなかった。まず、店長に昇進した幸雄を祝福するべきだろう。新居について、今日話さなければならない理由はない。
 新しい店舗はどこになるのと聞くと、待ってましたと言わんばかりに幸雄がマップを拡大した。無邪気に喜んでいる顔を見ていると、それはそれでいいかと思えてきた。結婚とは、そういうものなのかもしれない。

5
 翌朝、目が覚めたのは九時前だった。眠い目をこすりながら顔を上げると、幸雄がスーツに着替えていた。
「寝てていいから。ぼくは社長と十時に高円寺で待ち合わせてる。不動産屋と家主に挨拶して、内装のチェックをするぐらいだから、そんなに時間はかからない。一時までには戻れると思うから、一緒にランチしよう。最近、ちゃんとデートしてなかっただろ? 今日は二人だけで過ごそう」
 賛成、とこよりは起き上がって両手の親指を立てた。不器用な手つきでネクタイを締めた幸雄が、では後ほどと言って部屋を出て行った。
 いってらっしゃいと手を振って、そのままベッドに倒れ込んだ。いつもより二時間以上多く眠っていたが、まだ寝足りない気分だ。休日って一番好きな言葉だと思いながら、二度寝を楽しんだ。
 十一時になって、ようやくベッドから降りた。パジャマを着替え、ついでに洗濯を始めた。スマホが鳴ったのは、脱水が始まった時だった。
「ゴメン、ちょっと長引きそうだ」幸雄の焦った声が聞こえた。「シャワー台の位置が違ってる。“エア/ホワイト”の接客の流れだと、動線が悪い。一時に戻ると言ったけど、無理っぽい。夕方になるかもしれない」
 マジですか、とこよりはため息をついた。メイクも始めていたし、久しぶりのデートだと思って、気合を入れていた。とはいえ、自分が店長を務める店なのだから、細かいところまで気になるのは当然だろう。
「悪い、とにかく夜までには体が空くから、夕飯でも食おう。今日も泊まっていけばいいさ。別にいいだろ?」
 構わないけどと答えた時、キャッチが入った。また連絡すると幸雄が通話を切ると、自動的に二本目の電話に繋(つな)がった。
「悪い、ちょっといいかな」
 孝司(たかし)の声が聞こえた。最初に“悪い”と言えば、男たちは何でも話が通ると思っているようだ。どうしたの、とこよりは漏れそうになった欠伸(あくび)を堪(こら)えた。
 例の桑原氏の件なんだけど、と孝司が憂鬱そうな声で言った。
「オヤジさんと相談した。そんな客、断われって怒ってたけど、結婚式だから事を荒立てたくないっていうのも本音で、おめでたい席だから、やっぱりオヤジさんもお客さんには喜んでほしいんだよ」
 グランパならそう言うと思ってた、とこよりはうなずいた。
「でも、料金を下げるわけにはいかないでしょ?」
 それは無理だ、と孝司があっさり答えた。
「君と相談しろって言われた。オヤジさんは夕方までに東京へ戻る予定だけど、できればその前にどうするか決めておきたい。今日、休みなのは知ってるけど、店まで来てくれないか?」
 断わってもよかったが、幸雄がランチの約束をキャンセルしたため、時間は空いている。デートのつもりだったから、着ていく服まで決めていた。
 少しなら大丈夫と言うと、助かるよと孝司がため息をついた。
「君には迷惑だろうけど、ぼくにとってはこれも勉強だからね。とにかく待ってる。何ができるか、考えておくよ」
 了解、とスマホをスワイプした時、脱水完了のブザーが鳴った。とりあえずこっちが先だ、とこよりは洗濯機の蓋(ふた)を開いた。

6
“シェ・イザワ”に着いたのは午後一時過ぎだった。店内にはランチの客が数組残っている。
 こよりは店員に挨拶して、厨房に入った。手持ち無沙汰(ぶさた)そうにしていた孝司が、奥で話そうと腰を上げた。
「もうデザートタイムなんで、ぼくの仕事は終わってるんだ」
 狭(せま)いスペースに置かれている椅子を勧められて、こよりは腰を下ろした。
「コーヒーでも飲むかい?」
 いただきますとうなずくと、孝司がコーヒーメーカーをセットした。
「考えたんだけど、コースの料金を下げることはできない。それじゃゴネ得だし、他の客が知ったらクレームが来る」
 当然ね、とこよりは差し出されたコーヒーカップを受け取った。小さなテーブルを挟(はさ)んで座った孝司が、それでどうするかなんだけど、と自分のカップにコーヒーを注いだ。
「店からワインを贈ったらどうかな。それなら角も立たない」
 なるほどね、とこよりはコーヒーをひと口飲んだ。正面から見つめている孝司の視線を避けて、体の向きを少しだけ変えた。
 こより自身は、デザートを選べる形にできないかと考えていた。招待客のリストは会社にある。メールで問い合わせれば、店の側も無駄がなくて済むし、桑原、春代(はるよ)、そして招待客のために特別なサービスだと説明することができる。
 桑原があれこれ言っているのは、予算のこともあるのだろうが、自分の力を誇示したいからだと察しはついていた。言葉は悪いが、それなら持ち上げてやればいい。桑原も満足するはずだ。
 ワインのプレゼントは、他の店でもやっている。多少手間はかかるが、デザートを選べるというのはスペシャルな感じがするだろう。
 他のアイデアも含め、一時間ほど相談したが、どれもインパクトに欠けた。それじゃ、デザートの線でオヤジさんと話すよ、と孝司が時計に目をやった。
「反対しないと思うけど、そちらの手間が増えるって言うかもしれないな」
 あたしから説明してもいい、とこよりは言った
「余計な仕事だし、あんな男のために何かしてやりたいなんて、これっぽっちも思ってない。だけど、結婚式では誰もがハッピーでいてほしい。ウェディングプランナーってそういう仕事だし、グランパもそれはよくわかってる。今度客としてあたしがこの店に来た時、グラスワインをご馳走してくれるんじゃない? あたしはそれで十分」
 こよりは変わらないな、と立ち上がった孝司がコーヒーを注ぎ足した。
「あんな嫌な男でも、幸せになってほしいと願ってるわけ?」
 そんなきれいごとを言ってるんじゃない、とこよりは首を振った。
「あんな男、顔も見たくない。でも、結婚式の間ぐらい、笑顔になってほしい。それが結婚式だと思うから」
 そうか、とだけ言って孝司がスプーンでカップを掻き混ぜた。
「やっぱり、あの時君を強引にでもフランスへ引っ張っていくべきだったな」
 真剣な表情に、思わずこよりは目を伏せた。しばらく沈黙が続いた。グランパ、まだ戻らないのかな、とこよりはつぶやいた。
「あたし、そろそろ行かないと……約束があるの」
 まだいいじゃないかと孝司が肩に手をかけたが、帰ってきたら電話くださいって伝えておいて、とこよりはカップをテーブルに置き、そのまま厨房を出た。
 三時前で、まだ時間の余裕はあったが、これ以上孝司と二人で話しているのはよくないという予感があった。
 孝司とは共有する思い出がある。お互い、ウェディングプランナーとしても、料理人としても、まだ若かった頃に出会い、恋をした。二人とも仕事に不慣れで、毎日のように愚痴(ぐち)をこぼしあった。
 そういう時間を一緒に過ごしてきた孝司には、幸雄と違う感情がある。そして、誰もがそうであるように、過去の思い出は美化される。
 あのまま二人でいたら、雰囲気に流されていたかもしれない。それは一時の感情で、気の迷いに過ぎないとわかっていた。

7
 六月十日、日曜日。こよりは午前九時に“シェ・イザワ”に入った。レストランウェディングは十時半に始まる予定だ。
 既に、招待客たちがウェイティングルームで談笑している。今回、こよりは植草(うえくさ)のアシストをする立場なので、前に出る必要はない。厨房を覗くと、伊沢(いざわ)と孝司が真剣な表情で準備を始めていた。
 二人に挨拶をすると、嫌な野郎だそうだなと伊沢が袖をまくった。
「こいつから話は聞いた。とはいえ、客は客だ。心配するな、目一杯美味い料理を作ってやる」
 期待してますと言うと、任せろと胸を叩いた。やれやれ、と孝司がため息をつく。
「植草部長はどこですか?」
 その辺を走り回ってたけどな、と伊沢が言った。植草にはそういう癖がある。客が満足しているか確かめるため、現場をネズミのように動き回るのはいつものことだ。
 それからしばらく話していると、お疲れ、と肩を叩かれた。額(ひたい)に汗を滲(にじ)ませた植草が立っていた。
「悪かったね、巻き込んじゃって。問題ないと思うんだけど、念のために草野(くさの)さんにも来てもらった方がいいと思ったんだよ」
 問題ありません、とこよりは答えた。どうせ今日は勤務の日だ。会社で相談者を待っているより、現場に出る方が好きだった。
「あの、新婦の春代さんは?」
 まだみたいだね、と植草が言った。他の場所で準備してから来ることになっているので、gリギリでも問題はない。店内を見回すと、六人掛けのテーブルが八卓セッティングされている。新郎新婦の席は店の一番奥で、そこだけはカップルシートだった。タキシード姿の桑原が何度もスマホをスワイプしているのが見えた。
「仕方ないよ、花嫁は準備に時間がかかるからね……どうするかな」十時過ぎか、と植草が腕の時計を見た。「お客さんにウエルカムドリンクを出そうか」
 そうですね、とこよりはうなずいた。ウェイティングルームには椅子が十脚ほどしかない。立ち話ではなく、席に着かせた方がいいだろう。
 植草と二人で声をかけ、ゲストたちをそれぞれのテーブルに案内した。気づくと、目の前に異様な光景が広がっていた。
 新郎のゲストは左側の席に、新婦のゲストは右側の席に着くことになっている。だが、席が埋まっているのは左側のテーブルだけだった。新郎のゲストは親族と職場関係、新婦のゲストは親族と友人だったと記憶している。
 まさか、とこよりは植草と顔を見合わせた。十年前、入社直後にまったく同じ光景を見たことがある。あの時ほど驚いたことは、後にも先にもない。
 左側のテーブルがざわめき始めていた。様子がおかしい、と感じているのだろう。
 何かが起きている。だが、何が起きているのかはわからない。その不安が、彼らの声を大きくしていた。
 カップルシートから立ち上がった桑原が、足早に駆け寄ってくる。手に握っていたスマホを植草につきつけた。
「春代と連絡が取れない。どういうことだ?」
 右頬が細かく痙攣(けいれん)している。そうおっしゃられましても、と植草が辺りを見回した。
「遅れていらっしゃる、ということでしょうか。新婦のアテンドは必要ないと桑原様がおっしゃっていましたので、わたくしどもからはお迎えを出しておりません。どうなっているのか、わかりかねますが」
 こよりは受付を確認したが、そもそも新婦側の受付を担当するはずだった友人すら来ていないようだ。
 ゲストたちの声が高くなっている。花嫁はどうした、と主賓(しゅひん)席の男が笑いながら言った。桑原の上司だ。ジョークのつもりだったのだろうが、笑い声は起きなかった。
 何が起きているか、こよりには見当がついていた。それは植草も同じだ。できることは何もない。
 店員がウエルカムドリンクを配り始めた。その間も桑原はスマホをスワイプし続けていたが、電話は繋がらないようだった。
 時間が刻々と過ぎていき、時計の針が十時半を指した時、店のドアを開けて小さな女の子が入ってきた。ドア近くに立っていたこよりに、これ、と少女が手を伸ばした。握っていたのは一通の封書で、表書きに“退職願”とあった。
 桑原係長宛てと書かれていたため、そのまま渡すと、焦った手つきで桑原が封を切った。同時に、店内にいるゲストたち、そしてこよりのスマホが一度だけ鳴った。メールの着信音だ。
 桑原様、と植草が自分のスマホを見ながら言った。
「羽村(はむら)様からメールが届いております。私や草野(くさの)、他に数十人の名前がありますが、CCのようですね。一斉送信されたのでしょう」
 こよりも自分のスマホを開いた。ゲストたちも同じように画面を目で追っている。
『本日は日曜日でお休みのところ、わざわざお出でいただき、ありがとうございました。大変申し訳ありませんが、わたし、羽村春代は桑原治郎(じろう)との結婚を取りやめます。桑原の性格をご存じの皆様にはおわかりいただけると思いますが、理由を改めて説明させていただきます』
 長文のメールが続いている。
『上司の勧めで交際することになり、数回食事をした後、プロポーズされました。同じ部署に働く係長と部下ということもあり、その場では返事ができませんでしたが、お断わりするつもりでした。ですが、桑原は上司にも報告しているし、両親にも話している、断わるならクビにしてやると怒鳴り散らしました。わたしの方もプロポーズされた時に断わらなかったという負い目もあり、止むなく従って参りました。何度も婚約破棄を申し出たのですが、そんなこと許されるわけないだろう、と言うだけでした』
 桑原が蛙(かえる)のような悲鳴を上げた。ゲストたちが見つめている。
『本日お出でいただいた皆様には、お詫びのしようもありません。これが責任を取ることになるかさえわかりませんが、本日付けでわたしは退職致します。改めてお詫びさせていただきますが、お許しいただければ幸いです。羽村春代』
 二十五年この業界にいて三度目、と植草が耳元で囁(ささや)いた。
「女性は怖いよねえ。何があったか知らないけど、よっぽど怒ってたんだろうな。これはリベンジですよ」
 十年前もそうでしたね、とこよりはうなずいた。
「あの時と同じです。婚約まではしたけれど、やっぱり無理と断わった女性に、俺の人生を破滅させるなら、お前を殺して俺も死ぬと脅されて、結婚式当日にドタキャンするしかなかったと後で聞きました。退職してでも、春代さんは桑原と結婚したくなかったんですね」
 桑原さんだよ、と植草が苦笑した。厨房のドアが開き、黒服の店員たちがワゴンを運んでいる。待ってくれ、と桑原が叫んだ。
「ちょっと、ちょっと待て。今日の結婚式は中止……違う、延期する。新婦の体調が良くない。この料理は下げてくれ」
 桑原様、と空咳(からぜき)をした植草が声をかけた。
「ご無理されない方がよろしいのでは……羽村様はメールを関係者全員に送られているようです。本日お集まりの皆様も、もう事情はおわかりかと」
 キャンセルする、と桑原が喚(わめ)いた。招待客が一人ずつテーブルから離れていく。桑原係長だったら当然よね、と何人かの若い女性が小さく笑う声がした。
「皆さん、申し訳ありません!」これは何かの間違いです、と桑原が店のエントランスへ走った。「すべての責任は春代にあります! わたしはこんなことをされる覚えはないんだ!」
 当日キャンセルは困りますよ、と厨房から出てきた伊沢が桑原の腕を取った。
「ご予約いただいた時、その説明はしています。当日キャンセルは百パーセントのお支払いとなりますが」
 どうしておれが払わなきゃならないんだ、と桑原が伊沢の胸を突いた。
「請求するなら春代だろう。あいつのせいでこうなったんだぞ? 責任を取らなきゃならないのはあいつなんだ!」
 それはお二人の間で解決していただきたいですな、と伊沢が桑原の肩を押さえて、強引に近くの椅子に座らせた。六十歳だが、腕力は二十代の男性に負けない。桑原の顔が青くなった。
「あなたの名前で予約が入ってるんです。支払いの義務が生じるのはあなた以外いません。とにかく、ゆっくり話し合おうじゃないですか」
 後は任せろ、と伊沢が凄(すご)みのある笑みを浮かべた。一度出ましょう、とこよりは植草の腕を引いた。
「いったいどうなるのかな」
 店を出たところで、植草がため息をついた。わたしにはわかりませんが、とこよりは正装姿のゲストたちの背中を見つめた。
「春代さんにとっては、こうするしかなかったんでしょうね。結婚は一生の問題ですから、仕事よりよっぽど重要ですよ」
 結婚は難しいよねえ、と植草がまたため息をついた。
「わたしは三千組以上のカップルを見てきたけど、何がどうなるか、さっぱりわからないよ。ただ、これだけは言える。うちの会社への請求書は、桑原様にお出しすることにしよう」
 賛成です、とこよりはエントランスのドアから店内を覗(のぞ)き込んだ。伊沢と桑原の話し合いはまだ終わっていないようだ。落ち着くまでしばらく待つしかないだろう。
 結婚って何なんだろう、と空を見上げてつぶやいた。抜けるような青空が広がっていた。

(つづく) 次回は2018年5月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。