物語がつまった宝箱
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  • 8th marriage(2) 2018年5月15日更新
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 仕事が終わったのは夜八時だった。明日の土曜、こよりが担当する結婚式はない。いつも通り出社して、相談のために社を訪れる客の応対をするだけだ。
 日曜は倉沢潤一郎(くらさわじゅんいちろう)と緑川美樹(みどりかわみき)の結婚式がある。ただし、こちらも立場は久美(くみ)のフォローで、メインのプランナーではない。
 今頃、久美は走り回っているはずだ、と社のエントランスを出たところで笑みが浮かんだ。
 自分も久美の年齢の頃はそうだった。あらゆるトラブルが自分を目がけて飛びかかってくるような気がして、無我夢中で走り続けた。
 経験を積んだ今、その必要はなくなっている。ほとんどのことが想定の範囲内で、何をどうすればいいのか、見当もつく。
 その分、汗をかくことはなくなっていた。久美が羨(うらや)ましい、とこよりはつぶやいた。
 努力して摑(つか)んだ達成感は、今となっては得られないものだ。どんなに苦しい思いをしても、いずれそれが笑い話になる日が来る。
 竹芝(たけしば)の駅で降り、マンションに入ると外廊下の照明がついていた。ドアを開けると、エプロン姿の幸雄(ゆきお)がフライパンを持ったまま顔を覗(のぞ)かせた。
「仕事が早く終わってさ」そう言いながら、こまめにフライパンを揺らしている。「どうせなら飯でも作ろうかなって。食べてないだろ?」
 何を作っているのか、聞かなくてもわかった。漂ってくる香りは、豚肉の生姜(しょうが)焼きだ。幸雄のレパートリーのひとつで、こよりも好きなメニューだった。
「似合ってるよ、それ」照れ隠しに、エプロンを指さした。「何でしたら、プレゼントしましょうか?」
 遠慮すると言った幸雄の肩を軽く叩いて、手を洗うため洗面台へ向かった。もうすぐできるぞ、という幸雄の声がした。
 部屋着に着替え、リビングスペースのテーブルに座ると、幸雄がサラダとみそ汁、そして豚肉の生姜焼きの皿を並べ始めた。
「ご飯は?」
 しまった、と幸雄が顔をしかめた。
「炊くのを忘れてた。そうだよな、これで米がないとしまらないよな」
 こよりは冷凍庫を開けて、ラップにくるんで保存していたおにぎり大のご飯を、二つレンジに入れた。
「備えあれば憂(うれ)いなし。ていうか、やっぱり一人暮らしだとご飯って余っちゃうんだよね」
 結婚したらその心配はない、と幸雄が解凍して温めたご飯を茶碗に移し替えた。
「残すのは嫌いだから、全部食べるよ。太るとまずいけどね」
 いただきますと手を合わせて、こよりはみそ汁をひと口飲んだ。幸雄にはまめなところがあり、出汁(だし)から作るので、懐(なつ)かしい味がする。
「ヤバいね、もう十日を切った」正確には後八日だ、と幸雄が指を折って数えた。「それなりに順調だと思ってるけど、問題ない?」
 特にない、とこよりは答えた。先日、社で最終確認の会議があったことは幸雄にも伝えている。
 本番で何らかのアクシデントが起きる可能性はあるが、それはどんな結婚式でも同じだし、二人の結婚式はベストウェディング社全体がサポートしていると言っても過言ではない。大きな問題が発生することは考えられなかった。
「あたしも千組以上の結婚式をプロデュースしてるし、立ち会ってるけど、その中でもトップクラスでうまくいってると思う」
 新居が決まっていないことを除けばだけど、とこよりは志保(しほ)との電話のことを話した。言いたいことはわかってるつもりだ、と幸雄がうなずいた。
「ぼくたちは二人とも働いている。自分の仕事が好きだし、結婚しても辞める気はない。そうだろ?」
「うん」
「大袈裟(おおげさ)な言い方になるけど、ぼくは君の立場を尊重している」真剣に言ってる、と幸雄が箸(はし)を置いた。「君がウェディングプランナーという仕事をずっと続けたいと思ってるのはわかってる。いやいや働いているならともかく、それだけ愛着のある仕事を辞めろなんて言えないし、思ってもいない」
「うん」
「ただ、ぼくにも立場がある」新店の店長は責任が重い、と幸雄が言った。「既存店の店長になるのと違って、一から作っていかなきゃならないし、新しく雇う美容師もいる。新人はもちろん、経験者だとしても、“エア/ホワイト”の流儀を教える必要がある。周りにあるいろんな店とも、それなりに付き合わなきゃならないし、役所や保健所との折衝(せっしょう)なんかもぼくの仕事だ。もちろん、集客の努力も不可欠になる。正直なところ、新店の店長は荷が重いと思ってる。だけど任された以上、全力でやるつもりだ」
 わかってる、とこよりはうなずいた。幸雄は責任感が強い。それを見込んで、安西(あんざい)社長も新店の店長に抜擢(ばってき)したのだろう。
「志保さんの言う通り、ぼくたち二人にとって、どちらも便利な場所に新居を構えるべきだと思ってる。だけど、今までとは状況が違っているのも本当だ。そこは理解してほしい。結婚って、理屈だけで割り切れるものじゃないだろ? 現実を考えると、やっぱりぼくとしてはなるべく店に近いところに住みたいんだ」
 結婚って難しいね、とこよりはサラダをひと口食べた。
「あたしもいろんな夫婦を見てきたつもり。恋愛にもそういう面があるのかもしれないけど、結婚して二人で暮らすようになれば、妥協したり譲歩したり、そんなことが増えていく。生活ってそういうものでしょ? どっちが正しいとか間違ってるとか、割り切れないことがたくさんあるのは仕方がないって思ってる。ただ、話し合って解決できることもあるんじゃないかな」
 新居をどうするか、無理に決めなくてもいいんじゃないか、と幸雄が冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「ぼくたちの結婚式は、もう八日後だ。ここで焦っても意味ないだろ? 九月の高円寺(こうえんじ)店のオープンまで、ぼくは表参道(おもてさんどう)のマンションから動けない。だから、こよりもあそこで一緒に暮らすのが一番いいと思ってる。ひと月、ふた月考えて、それで決めればいい。結婚はいろんな形があっていいと思う。すぐ新居に引っ越さなくたっていいはずだ」
 了解しました、とこよりは敬礼するように額に揃えた指を当てた。常識に囚(とら)われる必要はない。急(せ)いては事を仕損じるともいう。ゆっくり、一歩ずつ進んでいくのも、二人に合っているような気がした。
「明日は式が入ってるの?」
 食事を終えた幸雄がビールをグラスに注いだ。明日は何もない、とこよりは皿をシンクへ運んだ。
「日曜は一件入ってるけど、それは久美のフォローだから、あたしとしてもそんなに忙しいわけじゃない。ブライダル会社に勤めていて助かるのは、全社員が結婚式の大変さを理解してるところ。だから、みんなが気を遣ってくれて、少しでも負担が軽くなるようにしてくれてる。普通はそこまでしないでしょ?」
 美容師はましな方かもしれない、と幸雄がビールを半分ほど飲んだ。
「直接結婚式と関係することもあるし、他の業界よりは理解があるんじゃないかな。もっとも、そうは言っても前日の金曜まで仕事はさせられるんだけどね」
 美容院に客が集中するのは、どうしても休日の土日、そしてその前日の金曜になる。幸雄を指名する客も少なくない。
「適当に切り上げて、とは言わないけど」こよりは皿を洗いながら言った。「なるべく早く終わらせてね。翌朝は早いし、当日はとにかく長いから。新郎が居眠りなんかしたら、何かあるたびに笑われるかも」
 そんな度胸はないよ、と幸雄がビールを注ぎ足した。
「手が震えてるのがわかるだろ? もうプレッシャーが来てるんだ。居眠りなんかできるはずがない。むしろ緊張で倒れる方が心配だよ」
 その時はあたしが支えますとおどけてみせると、マジで頼むよと真面目な顔で幸雄が頭を下げた。

6
 ウェディングプランナーの土日は忙しい。結婚式が入っていれば準備に追われ、すべての確認、立ち会いまでしなければならないから、一日中動き回ることになる。
 担当の結婚式がなくても、相談に訪れる客が最も多いのは、やはり土日だ。指名で来る客でもフリーの客でも、その時の対応ひとつで、あっさり他のブライダル会社へ行ってしまうだろう。
 結婚式は人生最大のイベントだから、客も真剣だ。接客態度が悪いプランナーに式をプロデュースしてほしいとは誰も思わない。
ほんの少し認識がずれているだけで、相性が合わないと思う客も多い。緊張感を常に保っていなければならない仕事だった。
 太田原(おおたわら)の配慮もあり、他のプランナーがカバーしてくれているので、いつもよりは楽だったが、夕方になって緑川静子(しずこ)と会っていた久美が報告を始めると、のんびり構えている状況ではないとわかった。
「昨日、あたしからの提案に、お母様は賛成してくれましたけど、細部を詰めていくと、ちょっと心配になってきて……」
 どう思いますか、と久美が正面からこよりを見つめた。
 昨日、相談のためにベストウェディング社を訪れた緑川静子に対し、久美が提案したプランそのものは正しい、とこよりは考えていた。ただ、ひとつでも判断を誤れば、取り返しがつかなくなる恐れがあった。
 それを回避するため、久美も静子と綿密な打ち合わせをしていたが、やはり不安があるようだ。
 完璧に見えるプランをプロデュースしたつもりでも、気づかないほど小さな穴があるかもしれない。蟻(あり)の一穴(いっけつ)ではないが、そこから全体が壊れてしまうこともないとは言えなかった。
 時間がありません、と久美が前のめりになった。
「式は明日で、今から何ができるのか、何をすればいいのか、わからなくなってきて……」
 とにかくプランを再検討してみよう、とこよりはうなずいた。
「もう一人、誰か手伝ってくれる人がいるといいんだけど。あたしもあなたも、明日の結婚式について最初から関わってるし、事情もわかっている。それが先入観になって、見えるはずのものが見えなくなっているかもしれない。客観的な意見が必要よ。それに、昔から言うでしょ。三人よれば文殊(もんじゅ)の知恵って」
 内線電話をかけていた久美が、西川(にしかわ)さんが空いてるそうですと顔を上げた。会議室に来てもらって、と指示を出すより先に、電話口に向かって早口で説明を始めていた。

7
 六月二十四日、日曜日、午前十時。港区にある聖フランチェスカ教会で倉沢潤一郎と緑川美樹の結婚式が始まっていた。こよりは久美と共にウェディングプランナーとして、後方の席から全体の様子を見守っていた。
 今回、結婚式そのものについて、二人はほとんどノータッチだ。倉沢家は祖父の代からキリスト教徒で、新郎の潤一郎も熱心な信者だった。カトリックの聖フランチェスカ教会の神父とも親しい。そのため、式については教会の主導で行われることになっていた。
 以前に別のカップルが同じ教会で結婚式を挙げていたこともあり、こよりは式の流れをわかっていた。簡素ではあるが、厳粛に式は執(と)り行われる。五年ほど前までは、参列者の写真撮影も禁止されていたほどだ。
 当然、演出などを入れる余地はない。すべて教会の指示に従うだけだから、感覚としてはウェディングプランナーというより、参列者の一人だった。
 結婚指輪の交換が終わり、神父が新郎新婦の結婚を宣言した。後は結婚証書に新郎新婦と神父がサインするだけだ。事前の打ち合わせ通り、こよりはひと足先に教会を出た。
 新郎新婦、そして参列者の多くがそのまま徒歩十分ほどの距離にある区民ホールへ移動し、十一時半から披露宴が始まる予定になっている。新郎新婦用のハイヤー、両家の親や高齢の親族のためにタクシーが待機しているのを確認していると、教会から参列者たちが出てきた。
 誰が言うともなく、階段で列を作っている。最後に新郎新婦が姿を現すと、静かな拍手が起きた。
「教会式は雰囲気があって素敵ですけど、制約が多いのが難点ですね」
 近づいてきた久美が囁(ささや)いた。カトリックだと特にね、とこよりはうなずいた。
 プロテスタントだと、もう少し自由度が高い。例えばキリスト教徒でなくても、教会式が挙げられるが、カトリックでは新郎新婦のどちらかが信者でなければならない。
 こより自身、教会式の厳(おごそ)かな雰囲気は好きだし、結婚する女性たちの多くが憧れる心理も理解できるが、不便なことが多いのも事実だった。
 もともと教会とは信者が集って祈りを捧げるための場であり、結婚式を挙げるための場所ではない。控室も狭いし、メイクルームなどがない場合も多い。参列者たちのためのウェイティングルームもなかった。
 そして、何より披露宴会場へのアクセスが悪いのが難点だ。ホテルのように、チャペルと披露宴会場が隣接しているわけではないし、結婚式用のホールのように、直接繋(つな)がっているということもない。
 結婚式に参列する親族の中には、祖父母など高齢者も含まれる。足が不自由な者もいるから、教会式では移動用の車が必要になる。
 現実面だけを考えると、プランナーの立場としては、教会式を強く勧めることはできないというのが本音だったが、新郎新婦が希望するのであれば、それに応えなければならない。幸い、よく晴れた日だったので、移動はスムーズだった。
 全員が車に乗ったのを確認してから、こよりと久美はベストウェディング社のワゴン車で区民ホールへと急いだ。ホールのスタッフは結婚式に慣れているので、出迎えと誘導は任せている。
 問題は何もなく、メイク直しなどの時間を挟み、十一時半、予定通り披露宴が始まった。
 新郎新婦は共に真面目な性格で、派手なことはしたくない、と初めて相談に来た時から話していた。
地味婚とわざわざレッテルを貼るまでもなく、昨今の傾向として、特別なイベントがしたいと要望するカップルの方が珍しくなっているから、プランナーとしては全体の進行に気を配り、アクシデントが起きた際に対処することだけを考えていればよかった。
 経験こそ浅いが、久美は気配りのできるプランナーだ。こよりとしても、フォローの必要性を強くは感じていなかった。
 新郎新婦の人柄もあるのか、参列者たちは心から結婚する二人を祝福していたし、会場は温かい雰囲気に包まれている。こういう結婚式って理想のひとつですよね、と久美が小声で言ったが、こよりも同感だった。
 司会を務めているのは潤一郎の高校時代の友人で、ぎこちなさはあったが、それもまた式全体を微笑ましいものにしていた。結婚式には新郎新婦の人間性が反映される。素朴で心のこもった式だった。
 つつがなく披露宴が進んでいき、お色直しの後、新郎新婦が各テーブルを回り、五十人ほどのゲストに挨拶を済ませ、余興や歓談の時間が過ぎていった。
 宴もたけなわではございますが、と司会者がマイクに向かった。
「お話は尽きないと思いますが、ただいまより新郎新婦からご両親へ花束の贈呈を行いたいと思います。お二人を今日まで立派に育ててくださったお父様、お母様への感謝の印です。皆様、どうぞ温かい拍手をお願いします」
 一歩前に出た久美が、新郎新婦を待機していた両親の前に誘導した。潤一郎の両親、そして静子が立っている。拍手が起きる中、二人がそれぞれ花束を渡した。
「さて、ここで新婦からお母様へ感謝の気持ちを込めたメッセージがございます」拍手が収まるのを待って、司会者が言った。「今日の日を迎えるにあたって、いろいろな思いを手紙に託したとのことです。それでは、お願い致します」
 久美が差し出したマイクに向かって、美樹が震える声で手紙を読み上げ始めた。これもまた性格の現れなのか、大袈裟な言葉を使わず、素直に感謝の念を述べている。それだけに母を思う気持ちが会場全体に伝わり、あちこちからすすり泣く声が漏(も)れていた。
 二分かからずに手紙を読み終えた美樹が、静かに頭を下げた。再び会場から拍手が起きた。
「続きまして、ご両家を代表致しまして、新郎のお父様、倉沢京太郎(きょうたろう)様より、お礼の挨拶がございます。それでは倉沢様、お願い致します」
 久美がマイクを差し出す前に、京太郎が話し出した。段取りは説明されていたはずだが、緊張しているのだろう。会場内から笑いが漏れたが、それも温かいものだった。
 京太郎の謝辞は短かかった。田舎育ちの木訥(ぼくとつ)な男で、人前で話すような柄ではないと本人も言っていたが、これからも二人をよろしくお願いしますと言い切った声には力強さがあった。
 インカムに手を当てた久美が囁くのと同時に、音楽が流れ出した。本来でしたら、と司会者が口を開いた。
「新郎から皆様にご挨拶申し上げるところですが、ここで新婦のお母様、緑川静子様から、新郎新婦にメッセージがございます。緑川様、よろしくお願いします」
 一瞬、会場がざわついた。通常の流れなら、新郎の挨拶で披露宴はお開きとなる。
 しかも、両家を代表して新郎の父親から謝辞があったばかりだ。常識的な進行ではない、と誰もが感じているのがこよりにもわかった。
「差し出がましいことをして、申し訳ありません」久美が渡したマイクに、静子が口を近づけた。「潤一郎さんのご両親にも、大変失礼なことをしているのはわかっております。ただ、この場をお借りして、ひと言だけよろしいでしょうか……結婚式というおめでたい席で言うことではありませんが、わたしは離婚しています」
 ゲストたちが耳を傾けている。わたし自身に後悔はありません、と静子が言葉を続けた。
「ですが、娘の美樹にとって母一人子一人というのは辛(つら)かっただろうと思っています。今日も元夫の同席はかないませんでした。それを謝りたいと……。美樹、ごめんね。嫌な思いをさせて、本当に申し訳ないと思っていますよ」
 潤一郎さん、と静子が顔を新郎に向けた。
「本当にありがとうございます。美樹のことをよろしくお願いします。そして、ひとつだけ約束していただけますか? 何があっても、美樹を一生愛し続けると。決して一人にはさせないと……」
 本当に失礼致しました、と顔を伏せた静子が一歩下がった。その手からマイクを受け取った潤一郎が、お母さんと呼びかけた。
「約束します。今日、ここに集まっていただいた皆さんの前で、美樹のことを一生愛し続けると改めて誓います。皆さん、証人になっていただけますか。そして、ぼくたちを温かく見守り、支えていただければ、それ以上の喜びはありません。至らないぼくたちですが、よろしくお願いします」
 二人が揃って頭を下げた。会場からこの日一番の大きな拍手が起きていた。
「力強い新郎の挨拶でした」司会者がマイクを握り直した。「お二人が末長く幸せにお暮らしになられますことを、ご列席の皆様と共に、一同心からお祈り致します。それでは、これをもちまして倉沢家、緑川家、ご両家の結婚披露宴をめでたくお開きにさせていただきます」
 うまくいきましたね、と戻ってきた久美が顔を上気させたまま言った。
「やっぱり、プランを見直して正解でした。いきなり緑川のお母さんにあんなことを言われても、新郎はとっさに言葉を返せなかったと思います」
 静子の依頼を受けて、久美が立てたプランでは、ある種のサプライズとして母親から娘へメッセージを贈ることになっていた。それでは混乱するかもしれない、と指摘したのは西川和歌(わか)だった。
 流れとして、静子に対し潤一郎が答えなければならないが、アドリブでうまく行くとは思えない、という和歌の意見にはうなずけるものがあった。
 すぐに久美が倉沢家へ向かい、静子のメッセージについて説明した。本来、女性のプランナーは新郎との接触を禁じられているが、ルールにこだわっている場合ではない、というのがこよりの判断だった。
 それは忌(い)み言葉である「離婚」を静子が使うことも含まれている。晴れの結婚式で、新婦の母親が言うべき言葉ではない。
だが、それで静子の真意が伝わるのであれば、常識や慣習に囚われず、思った通りに話すべきだろう。
 潤一郎、そして両親に静子の想いを率直に伝えると、了解が取れた。久美からの連絡を受け、こよりは司会者、そして披露宴会場のスタッフと打ち合わせを急遽(きゅうきょ)行い、一部進行を変更した。すべてが終わったのは、昨夜十一時過ぎだった。
 静子のメッセージについて、伝えなかったのは美樹だけだ。彼女にとっては突然のサプライズになったし、溢(あふ)れ出た涙は真実以外の何物でもない。二次会の前に、潤一郎と静子から説明すれば、喜んでくれるだろう。
「本来はあまりよろしくないんだけど」微笑を浮かべながら、こよりは言った。「披露宴には段取りがあって、通常とは違う流れを挟み込むと、トラブルの元になる。お母様が相談しにいらした時、断わるべきだったかもしれない」
「前日になって走り回る必要もなかったし、前日になっての変更というのは、スタッフも焦ってましたよね。プランナーが直接新郎とコンタクトを取るのも、忌み言葉を使うのも、ルール違反と言われればその通りです」でも、と久美が笑顔で言った。「新郎新婦、両親や親族、それに招待されたゲストたち全員が感動したと思います。正解だったんじゃないですか?」
 ルールは守るべきだ、と経験を通じてこよりは学んでいた。だが、結婚式、そして披露宴は生き物だ。
 形式だけにこだわっていては、無事に終わらせることだけしか考えられなくなってしまう。柔軟な対応が必要な時もあるだろう。今回がまさにそうだった。
 結婚っていろいろですね、と久美がため息をついた。
「式や披露宴もそうですし、結婚そのものにも絶対の正解なんてないんでしょうね」
 だから面白いんじゃないかな、とこよりは披露宴会場を後にするゲストたちの後ろ姿に目をやった。
「送り出しが渋滞してる。久美、早く行って。あたしも手伝う」
 お願いします、と久美が速足で退場口へ向かっていった。結婚に正解なんてない、とこよりはうなずいた。
 久美の言う通りなのだろう。常識や世間体に縛られることはない。幸せであればそれでいい。
 あの二人は幸せになる、とゲストたちに挨拶している潤一郎と美樹を見ていて、不意に直感した。二人の笑顔は、それだけ美しかった。

(つづく) 次回は6月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。