物語がつまった宝箱
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  • last marriage(2) 2018年6月15日更新
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 こよりと幸雄(ゆきお)の結婚式は人前式だ。基本的な流れはキリスト教式とほとんど同じだ。
 人前式に決まりはない、と結婚情報誌やウェブには書かれているが、決まりはなくても常識やマナーはある。
 ざっくりした言い方をすれば、キリスト教式から宗教の要素を引いたものが人前式ということになるだろう。チャペルで執(と)り行われることが多いのは、親和性が高いためだった。
 九時、と太田原(おおたわら)が言った瞬間から、こよりの中で時間の感覚がおかしくなっていた。式は一時間後の十時から始まる。
 わかっていたが、凄(すさ)まじい勢いで時間が進んでいくような気がして、何に対してかわからないが焦(あせ)りに似た感情が胸の中で蠢(うごめ)き始めている。
 もっとも、百戦錬磨の太田原は、花嫁の心の揺れをわかっているのだろう。段取りは決まってる、とこよりの肩に手を置いた。
「花嫁は神輿(みこし)に乗っていればいい。今日の仕事は笑っていること、それだけだから。心配することは何もない」
 課長は男前ですねえ、と感心したように久美が言った。それで場の空気がほぐれ、こよりも少しだけ落ち着くことができた。
 九時半、控室に戻ってきた和歌(わか)が、スタンバイ完了ですと太田原に報告した。
 予定通り、式に出席する両家の両親、親族、友人や会社の同僚たちが集まり、チャペル内の席に着き始めたという。十分以内に、全員が着席するだろう。
 それを待って幸雄もチャペルに入り、祭壇でこよりを迎えることになる。太田原の立てたスケジュールを変えることができる者はいない。たとえ総理大臣が中止命令を出したとしても、太田原は一喝(いっかつ)して撥(は)ねのけるだろう。
 五分後、ウェディングドレスの裾を抱えた志保(しほ)と共に、和歌に先導されてチャペルの隣にある小部屋に向かった。太田原と久美、そして植草(うえくさ)は式場で待機することになっている。
「いかがですか、今の心境は」チャペル内の通路を進みながら、志保がジョークを口にした。「緊張されてますか」
 もちろん、とだけ答えた。口が渇(かわ)いて、うまく話すことができない。
 こんなに緊張するとは思っていなかった。しっかりしなさい、と志保が背中を叩いて笑った。
「大丈夫、こよりは幸せになれる。あたしが保証する。幸雄さんは優しいし、男らしい人だもん。頼りになるって」
 もちろん、と同じ答えを繰り返した。本当にそうだ。幸雄と一緒にいると、それだけで楽しくなる。
 会話をしていても、黙っていても、二人が別のことをしていても。それを幸せというのだろう。
 こより、と遠くから志保の声が聞こえた。
「大丈夫?」
 振り向くと、志保の顔が目の前にあった。立ち止まっている自分がいた。
 志保の目の奥に、かすかな不安の色が揺らいでいる。誰よりも親しい友達だから、こよりの中にある何かを感じ取ったのだろう。
「もしかして……幸雄さんと何かあった?」
 何も、と首を振った。本当に何もない。あたしは幸雄と結婚する。問題はひとつもない。
 それならいいけど、志保が口を閉じた。前にいた和歌が小部屋のドアをノックすると、中からこよりの父親、草野源三郎(くさのげんざぶろう)が顔を覗(のぞ)かせた。
 こちらでお待ちください、と和歌が耳元で囁(ささや)いた。
「最終確認が済み次第、赤星(あかぼし)さんが迎えにきます。志保さんはわたしと式場に。急いでください」
 こよりは小部屋に入った。狭い個室で、スペースは三畳ほどしかない。椅子が二脚あるだけだ。
 座ったらどうだ、と源三郎が言った。
「この何カ月か、母さんは毎日大騒ぎだった。今日で終わるかと思うと、ちょっとほっとしているが、寂しくもあるな」
 横浜(よこはま)の小学校で教師をしている父の話し方には、どこかとぼけた味わいがあり、こよりはそれが好きだった。
 わざと態度を改めて、長い間お世話になりましたと頭を下げると、似合わないなと源三郎が言った。思わず、笑ってしまった。
「そうだよね。これからもお世話になるつもりなので、よろしくお願いします」
 すぐ照れてしまうのは、父親譲りの性格だ。来年で定年なんだよ、と源三郎が肩をすくめた。
「そろそろこっちの世話をしてもらいたいぐらいだが、それはいいだろう。退職したら、母さんと毎日一緒に過ごせる。昔から思っていたが、あれは面白い人だな。今回もそうだ。毎日朝から晩まで、どうしようああしようこうしよう、その繰り返しだ。よく疲れないものだと感心する。たぶん、明日になったら寝込むことになるんだろう」
「お父さん、娘の結婚式なのよ。もうすぐ式が始まる。そんな時に話すこと?」
 父さんはお前を信頼している、と源三郎がうなずいた。
「何も心配していない。幸雄くんはいい男だ。幸せにしてくれるだろう……お前次第だがね」
「どういう意味?」
 父さんは生まれた時からお前のことを見てきた、と源三郎が低い天井に目を向けた。
「お前も親になればわかるが、意外と細かいところまで見ているものだ。表情や目の色だけで、気づくこともある。小学校四年生の時、学校の池の水を抜いたことがあっただろ? 友達の百合(ゆり)ちゃんが財布を落とした時だ」
 財布じゃなくて指輪、とこよりは首を振った。
「おばあちゃんの形見で、あたしたちに見せるために学校に持ってきていたの。何かの拍子で、池に落としちゃって……仕方ないじゃない、捜すためには池の水を全部抜くしかなかったんだから」
 あの時は驚いた、と源三郎が言った。
「時々、とんでもないことをする癖がお前にはある」勘違いであってほしいが、とつぶやきがこぼれた。「どうも、お前はあの時と同じような目をしている気がしてならん」
 勘違いですと笑った時、ノックの音がして、お待たせしましたと久美が小部屋のドアを大きく開いた。
「すべての準備が整いました。新郎も入場しています。お父様、お嬢様と一緒にチャペルへどうぞ。新郎のところまでお嬢様をお連れしてください。その後はわたしが席にご案内します」
 先に小部屋を出た源三郎が、左腕をくの字に曲げた。ベールダウンを、と笑顔で久美がこよりの顔にベールを降ろす。そのまま、源三郎と腕を組んで歩きだした。
「お父さん」こよりは耳元で囁いた。「手と足が逆」
 そうか、とうなずいた源三郎が歩みを変えた。目の前で、久美がチャペルのドアを押し開いていた。

6
 ベストウェディング社のチャペルに、三十人ほどの男女が座っていた。パッヘルベルのカノンが流れている。母の姿と、嬉しそうに微笑んでいる幸雄の両親の姿もあった。
 全員が振り向いて、こよりと源三郎を見つめていた。スマホで写真や動画を撮影している者もいる。母の姿と、嬉しそうに微笑んでいる幸雄の両親の姿もあった。
 人前式では、キリスト教式でいう神父や牧師がいない。代わりに、司会を担当する者がいる。今回、その大役を務めているのは幸雄の高校時代の親友、花咲(はなさき)だった。
 祭壇の横に、幸雄が立っている。バージンロードの前で父娘揃(そろ)って頭を下げると、出席していた者たちの間から拍手が起きた。
 新婦とお父様の入場です、と花咲がぼそぼそした声で言った。一年ほど前、幸雄に紹介されて会っていたが、あまり滑舌(かつぜつ)が良くなかったのを思い出した。慣れていないせいもあるのだろう。
 だが、誠意のこもった声だった。盛り上げるために声を張るより、場の雰囲気に合っていた。
 入口から祭壇までの通路には、白い布が敷かれている。演出は何もない。
 フラワーガールが花びらを撒(ま)いたりすることもないし、花嫁のベールを持つベールガールもいない。シンプルでいいとこよりは思っていたし、幸雄も賛成していた。
 父と腕を組んだまま、ゆっくりと歩を進めた。十年で約千組の結婚式に立ち会ってきたが、不思議なことに、ひと足ごとにそれぞれのカップルの顔が脳裏に浮かんだ。
 アシスタントとして走り回っていた最初の一年。何もわからなかった。初めてプロデュースを任せられたのは入社二年目の五月だ。
 すべてが順調に進んだことは一度もない。結婚式はある意味で生き物だから、予想ができない動きをすることがある。それに対応するのもウェディングプランナーの重要な役目だった。
 ひと月考え抜いた企画を、あっさり蹴られたこともある。結婚する二人のためを思って提案しても、簡単に受け入れられることはめったにない。それがウェディングプランナーという仕事だ。
 自分のプロデュースに納得がいった結婚式は十年で三回。大きなトラブルが起きたことも、同じく三回。
 ウェディングプランナーは結婚するカップルに寄り添い、二人の幸せを祈り、願うところから仕事が始まる。感情移入してしまうのは誰でもそうだが、それが空回りすることもあった。
 どれだけ時間をかけ、努力しても、うまくいかない時がある。逆に、奇跡のようにすべてのピースが一瞬ではまることもあった。
 千組の結婚式に立ち会ったが、ひとつとして同じ式はなかった。結婚とはそういうものなのだろう。
 こよりが担当した千組の夫婦が、今どうしているのか、わかっているのは百組ほどだろうか。他の九百組が幸せな結婚生活を送っているかどうか、それはわからない。統計的な数字だけで言えば、その三分の一は別れているのかもしれない。
 バージンロードを歩いている花嫁が考えることではないが、離婚していたとしても、それはそれで正しいのだろう。結婚に正解はない。
 結婚式を挙げ、披露宴をしたからといって、それですべてが終わるわけでもない。幸せとは、その後の二人の努力によって得られるものなのだ。
 この数カ月のことを思い出すだけで、それがわかった。新郎のために熊本に住む祖母を、ネットを通じて結婚式に招待した上原京子(うえはらきょうこ)。披露宴の直前に、すべてを捨てて高校生の時の担任だった女性教師と去っていった小坂信秀(こさかのぶひで)。
 夫の妹の結婚式に際して、祖父母の結婚記念写真を撮るために奔走(ほんそう)していた金沢(かなざわ)エリカ。それに快く協力した長谷部英春(はせべひではる)と金沢美由希(みゆき)。
 挙式ひと月前に父親を亡くした新婦、恒松奈美江(つねまつなみえ)もいた。普通ならキャンセルしてもおかしくないが、こよりの勧めで式を挙げることになった。幸せそうな笑顔は今もはっきりと覚えている。
 横暴な婚約者に対し、抗議の意味を込めて結婚式場に現れなかった羽村春代(はむらはるよ)。口にすることはできなかったが、心の中ではサムズアップして、いいね! ボタンを連打していた。
 そして、離婚した後、一人で育てた娘を嫁に出す母親が、慣例にない“新婦の母からのメッセージ”を送ったあの結婚式。
 すべて状況は違ったが、新郎新婦、その両親、親族、あるいは友人たち、関係者全員が結婚する二人の幸せを願っていた。
 結婚する二人の幸せが、誰かを傷つけたこともあった。会場が鳥肌の立つような感動に包まれた式もあった。
 ウェディングプランナーとしての十年を振り返ると、笑いも涙もあったし、成功も失敗もあった。それが結婚だ、と今になって初めてわかった気がしていた。
「こより」
 源三郎が体を離し、こよりの手を幸雄に託した。こよりは幸雄と腕を組み、そのまま祭壇に立つ花咲の正面に向いた。
 ただ今より、遠藤(えんどう)幸雄様、草野こより様の挙式を始めます、と花咲がぎこちない笑みを浮かべながら宣言した。
 人前式の流れにはさまざまな形があるが、まず新郎新婦がそれぞれ誓いの言葉を読み上げるのが一般的だ。キリスト教式と人前式の違いは、その場にいる全員が結婚の証人となることで、そのためにはお互いが結婚の誓いをしなければならない。
 長々と述べる必要はなく、簡単でいい。そのためのマニュアルもある。幸雄はそれに則(のっと)って誓いの言葉を口にするだろう。
 並んでいる幸雄の横顔を見つめながら、こよりは思った。結婚式の打ち合わせの時、マニュアルだけではなく、自分の正直な気持ちを言ってほしいと話していた。幸雄の本心を聞きたかった。
 花咲に促(うなが)されて一歩前に出た幸雄が、大きく息を吸い込んでから口を開いた。
「私、遠藤幸雄は草野こよりさんを生涯の妻とし、一生愛し続けることを誓います。今日はそのスタートの一日ですが、今まで以上にこよりさんを愛し、幸せにすることを誓います。困難があっても二人で乗り越え、喜びは二人で分かち合い、明るい家庭を築いていくことを、皆様の前で誓います」
 拍手が起きた。十秒ほどの短い誓いの言葉だったが、その間にこよりは心を決めていた。
「私、草野こよりは、今日お集まりいただいた皆様方の前で結婚式を挙げます」
 そのまま、辺りを見回した。泣いている母、続けなさい、と手で指示している太田原。見守っている友人たち。
 その中で、源三郎だけが額に手を押し当て、ため息をついていた。
「ですが、結婚はしません」
 一瞬の沈黙。驚きの表情を浮かべている幸雄の視線。
 母が悲鳴を上げたが、聞いてくださいとこよりは言葉を継いだ。
「幸雄さんを愛しています。世界中の誰よりも。交際を始めてから、彼と結婚することを望み、願っていました。その夢がかなおうとしています。あたしは彼を愛し、信じています。彼と人生を共に歩んでいくことが、あたしの幸せです」
 それならどうして結婚しないのと叫んで前に出ようとする母を父が止めている。こよりさんの話を聞きましょう、という幸雄の両親の声が聞こえた。二人に深く頭を下げてから、こよりは言葉を継いだ。
「お母さん、お願いだから騒がないで。幸雄さんと結婚するって決めてる。ただ、今じゃないってこと」
「今じゃない?」
 彼は誓いの言葉でこう言いました、と笑みを浮かべながらこよりは周囲を見た。
「今まで以上にこよりさんを愛し、幸せにすることを誓いますと。それは結婚式の誓いの言葉のひとつのパターンで、彼はそのまま言っただけのことです。感動的なアレンジができるほど器用な人じゃないのは、誰よりもあたしが知っています」
 それの何が悪いの、と父の手を振り払った母が前に飛び出した。何も悪くない、とこよりは笑みを濃くした。
「でも、幸せにしますと言われて、あたしは思った。幸せって、しますとか、してくださいとか、そういうことじゃないよねって。“あなたを幸せにします”“わたしを幸せにしてください”そんな夫婦にあたしはなりたくない。結婚はひとつの形式に過ぎないって、わかってるつもり。だって、ウェディングプランナーだから」 
 幸雄、そしてその両親がうなずいた。千組の夫婦をこの目で見てきた、とこよりは言った。
「式は挙げるけど、結婚はしない。形なんかどうでもいい。彼とあたしの心が自然な流れの中でひとつになった時、正式に結婚する。幸雄さん、それまで待っててくれますか?」
 向き直ったこよりに、幸せにしますというのは君がくれたマニュアルにあったんだ、と幸雄が苦笑した。
「言い訳する気はないけど、ぼくは不器用な男で、ひと月前からずっと緊張していた。とにかく無事に終わらせることで頭がいっぱいで、自分の言葉に置き換えることなんてできなかった」
「わかってる」
 だけど、と幸雄がこよりの手を取った。
「君の言う通りかもしれない。幸せにしますなんて、考えてみたら押し付けがましい傲慢(ごうまん)な言葉だ。君を幸せにしたいと本気で思っているけど、ぼくも幸せになりたい。結婚という形式に囚(とら)われなくてもいい。だって、ぼくは君を世界で一番愛しているし、その思いが一生変わらないとわかっているからね」
 この人を選んで良かった、とこよりはうなずいた。結婚したい、結婚しなければならないと、ずっと思い込んでいた。
 周囲からプレッシャーがあったのは本当だ。口にする者こそいなかったけれど、未婚女性を世間が憐(あわ)れむように見ていることは確かだった。
 早くしないと行き遅れるよ、三十歳を過ぎたら、ますます難しくなるよ、子供も産めなくなるよ、一人で老後を過ごす寂しさを考えたことはないの?
 結婚できなかった、と思われるよ。それは女性として負けたことになるんじゃない? だから、結婚した方がいいよ。
 大きなお世話だ、とこよりはつぶやいた。誰もがそうであるように、あたしも幸せになりたい。
 でも、結婚が幸せを保証してくれるわけではない。離婚はもちろん、形だけの夫婦だって少なくない。それはあたしが思う幸せとは違う。
 もちろん、形は重要だ。世の中には慣習やしきたりがある。その方があらゆる意味で便利だ。
 でも、一番大事なのは幸せになることだ。形を整えることではない。
 今、あたしと幸雄は九九パーセント愛し合い、わかり合い、信じ合っている。残り一パーセントを埋めるために、それほど時間は必要ない。
 少しだけ、今日という日を迎えるのが早かった。心のコップに愛情という水が満ち、溢(あふ)れるまで待つだけのことだ。
 皆さんには申し訳ありませんが、式はここで中断しますとこよりは大声で言った。
「でも、中止ではありません。キャンセルでもありません。延期するだけです。お忙しいところお集まりいただいたのに、お詫(わ)びの言葉もありませんが、許していただければと思っています」
 深く頭を下げたこよりの隣で、幸雄も同じ姿勢を取っていた。肩が震えているのは、笑いを堪(こら)えているからかもしれなかった。
 チャペルの中がざわついている。わかってもらえないのは当然だと思っていたこよりの頭上に、許せないという志保の声が降ってきた。
「愛し合ってるんでしょ? 誰よりもお互いを愛している。それは本当なんだよね?」
 こよりは顔を上げて、幸雄と共にうなずいた。それなら今日は予行演習ってことね、と志保が笑った。
「だったら、指輪の交換も、結婚宣誓書へのサインも本番まで取っておけばいい。でも、誓いのキスはしなきゃ許さない」
 マジで、と囁いたこよりに、当たり前でしょと志保が言った。
「休日の土曜、これだけの人が集まってくれたんだよ? 何のおみやげもなしに帰れって? それで収まりがつくと思ってるの?」
 だって、と言いかけたこよりの肩を抱き寄せた幸雄が、唇を重ねた。十秒、二十秒、三十秒。
 一分経っても、キスは終わらなかった。チャペルに温かい拍手と笑いが起きていた。

7
「皆様、このまま“シェ・イザワ”にご移動ください」 
 太田原と久美、そして和歌が手をメガホンにして叫んでいる。
「レストランウェディングの予定を変更して、リハーサルウェディングを行います。チャペルの前にタクシーが待機していますので、順番にお乗りください」
 トイレに行ってくると言い残し、幸雄がチャペルから出て行った。心臓に悪い、と母の手を引いた源三郎が近づいてきた。
「何かするだろうとは思っていたが、まさかこんなことだったとはな」
 だってお父さんの娘だものと言ったこよりに、あなたって子はと母が頭を押さえた。涙で言葉が出てこないのだろう。
「母さん、泣くのはやめなさい。これはこよりの選択で、大人としてその意味もわかっている。自分自身と幸雄くんのお互いを思う心に確信が持てたら、すぐにでも二人は結婚する。それだけの話なんだよ」
「でも、お父さん……招待した方たちに、何と言えばいいんですか?」
 それは二人の問題だ、と源三郎が言った。
「こよりが自分で責任を取らなければならんし、その覚悟もあるんだろう。こより、母さんのことは父さんに任せて、お前は自分の責任を果たしなさい」
 なかなか面白かった、と源三郎が笑みを浮かべた。
「六十年生きてきたが、まだまだ世の中には経験していないことがあるとわかった。勉強になったよ」
 先にレストランに行っている、と母の腕を取った源三郎がチャペルを出て行った。
「嫌な予感がしてたのよ」
 最後に残った志保が正装した二人の子供の手を握ったまま、ため息をついた。
「怪しい気配がぷんぷんしてた。あたしに感謝しなさい。あそこであたしが出ていかなかったら、どうなったと思ってるの?」
 感謝してます、とこよりはうなずいた。
「でも、志保が何とかしてくれるって信じてた。お礼も考えてある。裕一(ゆういち)さんは?」
 旦那は外で煙草を吸ってると答えた志保に、一緒に来てとこよりは言った。
「控室に戻る。ウェディングドレスに着替えて」
「ウェディングドレス?」
 志保が結婚式を挙げていないのを気にしてるのは知ってる、とこよりはうなずいた。
「挙式はともかく、記念写真の撮影はできる。志保はウェディングドレスを、裕一さんは幸雄のタキシードを着て、二人のお子ちゃまと写真を撮るの。カメラマンが待ってる。撮影する相手が違っても、ギャラは変わらない。喜んで撮ってくれるって」
 どうしようと左右を見た志保に、二人の子供が大きくうなずいた。この際だからいいか、と志保が笑った。
「でも、幸雄さんはどこに?」
 チャペルのドアが開き、幸雄が入ってきた。後ろに裕一がいる。タキシードの袖(そで)に腕を通して、大丈夫そうですと言っている声が聞こえた。こより、と幸雄が片手を上げた。
「考えてみたんだ、どうせなら、志保さんと裕一さんに――」
 あたしも同じ、と駆け寄ったこよりの肩を幸雄が抱き寄せた。
「志保、急いで着替えて。早く写真を撮らないと、“シェ・イザワ”に行くのが遅れる。伊沢シェフ以下、スタッフ全員が最高の料理を作って待ってる」
 それが楽しみで朝から何も食べてない、と志保が二人の子供の手を引いて走りだした。こよりは幸雄の手を握って、その後に続いた。

……happy end.

ご愛読ありがとうございました。この作品は2018年10月に単行本として刊行予定です。

著者プロフィール

  • 五十嵐貴久

    1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業。2002年『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、デビュー。警察小説から青春小説まで幅広くエンターテイメント小説を手掛ける。著書に『For You』『リミット』『編集ガール!』『炎の塔』(以上すべて祥伝社刊)など多数。