物語がつまった宝箱
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  • 第一回 2014年8月1日更新
 授賞式の二次会が終わったのは夜の十一時過ぎだった。和馬は賞を主催している企業の関係者に頭を下げ、クロークに預けていたボストンバッグを引き取ってホテルを出た。それじゃあ賞状は後日郵送するから、三ヵ月後には展示されるからね等々、背後からかけられる声にハイ、ハイ、とかしこまって頷き、居ならぶ大人たちへありがとうございました、と挨拶する。
 駅へと続く曲がり角を折れ、見送る人々の視界から消えた瞬間、肩や膝の関節がばらばらになるんじゃないかと思うほど強烈な脱力感が全身を走り抜けた。けれど、ここでへたり込むわけにはいかない。片手に提げた大きな花束を持ち直し、かかとに力を込めて歩き続ける。
 今夜は千葉の実家へ帰るのではなく、都内に住む姉の部屋に泊めてもらうことになっている。慣れない革靴や息苦しいスーツに辟易しながら、和馬は帰宅途中のサラリーマンで混み合う電車に乗り込んだ。就職活動で多少は慣れたものの、いまだにネクタイを一日つけたままでいると肩がこる。来年の三月には大学を卒業し、就職先によっては毎日こんな服装をする生活がやってくるのだと思うと気が重くなる。神田で下車し、スマートホンの地図アプリを頼りに駅前から徒歩十五分ほどのこぢんまりとしたマンションへ向かった。
 篠、という手書きの紙が表札入れに差し込まれた部屋の前で足を止め、インターホンを押した。
「はーい」
「和馬です」
「はいはい」
 玄関の扉を開けた美波はすっぴんで、湯上がりらしく肌がつやつやと輝いていた。弟のスーツ姿を珍しそうに上から下まで眺め、七五三っぽい、と失礼なことを言う。
「眉毛が半分しかない人に言われたくない」
「お疲れ。授賞式どうだった? ちやほやされた?」
「ちょーちやほや。でも疲れちった」
「そう。あんたちょっと痩せたね。ほら、入りな」
 フローリングに毛足の長いラグが敷かれたワンルームは、まるでモデルルームみたいに整頓されていた。思えば、実家の美波の部屋もそうだった。いつだってきちんとしていて、床にものが転がっている所などほとんど見た覚えがない。
 シャワーを借り、持参したTシャツと短パンに着替えると和馬は大きく息を吐いた。目まぐるしく色とりどりで、一瞬たりとも気を抜けない長い一日が終わった。しわのついたスーツをカバーと持ち手が付いたハンガーにかけ、洗濯機が置かれた脱衣所を出る。
 美波はローテーブルの上でパソコンを開いていた。いくつかのサイトを表示させ、なにやら険しい表情でキーボードを叩いている。カーテンレールへスーツを吊し、勝手にコップを借りて冷蔵庫の麦茶をもらった。
「この部屋テレビないの?」
「ないよ。いらないもん」
 ふうん、と相づちをうって作業をしている姉の横顔を眺めるうちに、だんだん座っているのが面倒くさくなった。腰の力を抜き、ポリエステル製の乾いたラグにだらりと寝転がる。頭上から雨粒のように降ってくるキータッチの音が気持ちいい。
 目の前に、自分が持参したボストンバッグと、その上にのせた花束が見えた。今日の授賞式の壇上で渡されたものだ。
 中堅の不動産会社が数年前から開催している、マンションの共有部分に設置するアート作品の学生向けコンペティションで、和馬が出品した四季の山をテーマにした四枚セットの染め物はその絵柄の美しさと精密さが評価されて佳作に選ばれた。副賞として五万円が支払われるらしい。
 パーティは華やかだったし、様々な大人たちに作品を褒められるのは気分がよかった。けれど和馬は、彼らが別に心から自分の作品を好きでいてくれているわけではない、とすぐに分かった。名刺はたくさんもらったものの、あれはあくまで和馬が業界で金を稼げる存在になったらまた声をかける、という儀式的な挨拶だった。そして、まったく感情の揺れていない関係者の静かな目が、現段階でお前はまだ投資に値しない、と明確に告げていた。
 対照的に、最優秀賞を獲得した学生への熱狂はすごかった。彼が作り出したのは、こちらの網膜が染まるかと思うほど鮮やかな藍色の尾羽を接着した、品のある金属製の孔雀像だった。柔らかで艶めかしい尾羽と、冷たく光る金属の体の対比がたとえようもなくエロチックで、初めて見た瞬間から、同年代にこんなに奇妙で美しい物体を作り出す人間がいるのか、もうそんな領域に達しているのかと、ろっ骨の内側を大きなシャベルでえぐりとられたような痛みが走った。
 地方の美大に通っているという彼は、自宅のガレージを改造した工房に様々な動物の彫刻を保有しているらしい。たまたま会話を漏れ聞いただけでも、さっそく他の作品を見せてくれ、取材をさせてくれ等々の依頼が殺到していた。もちろん和馬に仕事を持ちかけた者など一人もいない。ホテルを出るときには得たものよりも失ったものの方が多いような、辛い気分になっていた。
 寝そべったまま腕を浮かせ、花束をつかんだ。ラッピングのふちからクリーム色の薔薇やオレンジのガーベラといった明るい色調の花があふれている。傾けると、光が流れ出しそうだ。
「生首にしよう」
 作業している美波の膝へ、花束を差し出す。姉は手を止め、まじまじと弟を見下ろした。
「お祝いの花なのに持って帰らないの?」
「別にいいし、運ぶのめんどくさい」
「ふうん」
 受け取った花束をなんどか膝で弾ませ、なにも言わずに美波は立ち上がった。水を張った中くらいのボウルと、糸切りばさみを持ってくる。花束の包装を剥き、可憐にふくらんだ小振りの薔薇の、花と茎の境目に刃を当てた。
 見ているだけでも、切れ味の悪い刃がみじみじと太い茎を断ち切る感触が伝わってくる気がした。ぱちん、と音を立てて銀色の刃が重なる。薔薇が重たげな音を立てて水面へ落ちる。つづいて、ガーベラ。ぱちん。白とピンクのブーゲンビリア。ぱちんぱちん。
「あんたもやりな」
「ん」
 はさみを受け取り、和馬はうつぶせの姿勢で折った足をゆらゆらと揺らしながら花を切った。雪片のようなかすみ草をぱちん。名前の分からない紫色の花をぱちん。
 なつかしいね、と美波が言い、和馬はまた、ん、と小さく顎を引いた。
 数分もしないうちに花束はラッピングのリボンが痛ましく感じるほど無残な、ただの茎と枝の束になった。昔話ならこのまま冬場の燃料として薪にされそうだ。代わりにボウルの丸い水面は甘い色彩でみっしりと埋めつくされている。
 フローティングフラワーなんてしゃれた名前を知ったのは大人になってからだ。子どもの頃、美しい花を刈り取って水盤に閉じ込めるこの遊びは、姉弟の間でただ「生首」と呼ばれた。美波は茎の束をラッピングごとぽいっとゴミ箱へ放り、安らかな顔で水面を見下ろす。
「母さんに、様子見てこいって言われたんでしょう」
 和馬は答えずにボウルの側面をつついた。花の絨毯がたぷたぷと揺れる。
 美波のベッドの下には来客用のコンパクトな布団が収納されていた。ボウルをのせたテーブルを部屋の隅へ押しやり、ベッドと並べるかたちで布団をラグの上に広げる。
 照明を落とすと、生々しい花の匂いが際立った。
「たまにこっちに泊まりに来ていい?」
「えーなんでよ」
「俺も就職したら一人暮らしするから、こういうもんかって見ておきたい」
「なにそれ」
 青い闇の向こうで、呆れたような声が上がる。あんたみたいにふわふわしたのが一人暮らしとか、ないわ。えー、だいじょぶだって。勧誘にほいほいひっかかったり、変な契約書にサインしたりしそう。そうならないように鍛えてくれっての。じゃれつくような会話を重ねる。美波は小さなあくびをした。少し間を置いて、たまにならね、と眠たげな声が返る。うん、と一つ頷いて、和馬もゆっくりと目を閉じた。

 美波が泣くところなんて初めて見たのだ。
 その日のことを、和馬はよく覚えている。高倍率の就職試験を突破して、都市銀行の本店に配属された七つ年上の優秀な姉。忙しいらしく、六年前に就職と同時に一人暮らしを始めてからはほとんど実家に顔を見せていない。
 ひと月前、ゼミの新入生歓迎会から気持ちよく帰宅したら、家のリビングが異様に重い空気で満たされていた。こちらに気づいた母親が、慌てた様子で犬でも追い払うように「二階へ行け」と手を振る。
 ソファでは、スーツを着て色の濃いメイクをした美波がうつむいてぽろぽろと涙をこぼしていた。毅然とした姉には珍しい、誰かに許してもらうのを待っている子どものような、情けなく歪んだ顔だった。奇妙で、気になって、ずっと見ていたくなった。その向かいでは顔をしかめた父親が腕を組んでいる。
 見せ物じゃない、とばかりに母親に睨まれ、和馬は渋々と二階の自室へ上がった。部屋の扉を一度閉じ、それから音を立てないように細く開ける。階下の物音に耳を澄ます。
 間を置いて、父親が苦み走った声で言った。
「だからな、何度も言うけど、辞めるなんていつでもできるんだから。逃げ癖が付くのはよくない。それじゃあどこに行ったって受け入れてもらえないぞ」
 漏れ聞いた声に、驚いた。どうやら美波は仕事を辞めたがっているらしい。そして、それを親に相談して、反対されて泣いている。
 まず浮かんだのは、姉ちゃんでもそんなことがあるのか、ということだ。頭も良かったし運動もできたし、学級委員とか何回もやってたし。ゴミ出しにうるさい近所のオバサンにまで好かれていた姉が、うまくいかないことなんてあるのか。知らなかった。続いて、なんか変だなと思う。でもなにが変なのか、違和感の対象が美波なのか父親なのか、よくわからない。
 美波は聞き取れないほど細い声でなにかを言い、父親と母親が言葉を濁しながらもそれを否定する。じくじくと水っぽい悲哀が階段を這い上がり、こちらのシャツまで湿りそうな頃、美波はなにか前向きなことを言ったらしい。機嫌を直した両親に激励され、見送られるかたちで帰っていった。
 それからまもなく和馬のメールボックスに、アートコンペでの入選と、都内のホテルで授賞式が催される旨を告げるメールが入った。
 美波は母親を疑っていたけれど、バスがなくなりそうだから姉ちゃんちに泊めてもらう、と言い出したのは、和馬の方だった。

(つづく) 次回は2014年9月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 彩瀬まる

    2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。著書に『骨を彩る』『神様のケーキを頬ばるまで』など。