物語がつまった宝箱
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  • 第三回 2014年10月1日更新
 二回目に訪ねるときには、途中の花屋できれいに咲いていたので、お土産に紫陽花を数本買っていった。
「気を使ってくれるのは嬉しいけど、あんたこれ、彼女とかに渡しちゃだめな花だからね」
 駅前で落ち合った美波は顔をしかめて花束を振った。一緒にカレーのチェーン店で夕飯を取ってからマンションへ向かう。
 部屋は、初めに訪ねた時よりもいくらか散らかっていた。山のような衣類が乱雑にベッドへ積まれ、半開きになったメイクボックスの周囲に化粧品が散らばっている。出るときに忙しかったの、と言いながらスーツ姿の美波は転がった口紅をひろいあげる。
「仕事、大変?」
「あのねー、仕事はどんな仕事だって大変なの。まあ普通よ、普通」
 弟の心配を鼻で笑い、脱衣所で部屋着に着替えた美波は涼しい顔でビールのプルタブを起こした。企業説明会で見ておくべきことや、ブラック企業の見分け方、トラブルに遭った際に連絡すべき役所の相談窓口について、まるで教師のように和馬へ語る。いつもの美波だ。
「これ、切ろうよ」
 会話が途切れるのを待ってテーブルに乗せた紫陽花を指さすと、美波は物言いたげに口をとがらせた。
「もう切っちゃうの、もったいなくない?」
「でもそのために買ったんだし」
「そうなの?」
「うん」
「なにか大学の課題とか?」
「いや別に。俺が遊びたいだけ」
 ボウルに水を張って、紫陽花の花をテーブルへ乗せる。美波は糸切りばさみ、和馬は台所ばさみを手に持った。
「古い花ばかり切ってたから、買ってすぐに切るの、変な感じ」
「でも姉ちゃんち、花瓶ないじゃん」
 ぱちん、と小さな花を切り落とす。水面に、美しい藍色が漂った。
「それに、古い花だけでもなかったよ。俺らが切ってたの」
「ええ?」
 唇を結び、美波はぱちんと赤みの強い花を落とした。落ちた花が作る細かな波を、和馬は静かに眺める。

 花を生首にするのに慣れると、和馬はだんだん母が買ってくる花をきれいだなあと眺めるのではなく、早く切りたいなと願うようになった。自分たちに与えられる花は、たいてい花びらの端が茶色く変色していたり、茎がしおれて曲がっていたりするけれど、母が自慢げに花屋の包みから取り出す花はどれもみずみずしく張りつめて、うっすらと光を放っている。
 ある日、母の花瓶に、真っ赤な宝石みたいな実がたくさん生っている植物がさし込まれた。アニメに出てくる魔法の植物みたいで、初めて見たときからどうしても欲しくなった。早く手に入れて感触を確かめ、一粒一粒ちぎってみたい。
 他の家族がリビングから離れるのを待ち、和馬は花ばさみを持ち出してそうっと実の一房へ繋がる細い枝を切った。枝は、少し硬かった。ぱた、と軽い音を立てて赤い宝石がテーブルに落ちる。
「あ」
 小さな声が、背後から聞こえた。振り返ると、お菓子の袋を持った美波が目を見開いていた。きゅっと眉を寄せ、怒り顔で近づいてくる。
「カーくん、これはまだ切っちゃだめなんだよ」
「ちがうもん」
「カーくんが悪いことしたら、お父さんがお仕事クビになっちゃうんだよ!」
 美波は、小さな母親のように言った。これは母親が子どもたちを叱るときの決まり文句だ。お父さんは学校の先生で、たくさんの子どもを教えるお仕事なんだから、あんたたちが悪い子になったら信用されなくてクビになっちゃうんだよ。クラスではみんなのお手本になるんだよ。優秀な美波はその期待に応え続け、他の家のお母さんから「しっかりしたおじょうさんね」といつも褒められている。
 でも、自分はだめなのだ。幼稚園の誰とも仲良くなれず、誰かがわっと大きな声を上げるたびに耳を塞いで逃げたくなる。お遊戯も踊りもザリガニ釣りもうまくできないし、たっくんに積み木でごつんとされるなんてしょっちゅうだし、安心するのは教室のすみで一人で絵を描いているときだけだ。みんなのお手本になんて絶対になれない。
 一番いやな叱られ方だったからこそ、意地になって言い返した。
「もう傷がついてたんだもん。きたないから先にとったの! いいこと!」
 ここ、と適当に指さす。生きた、柔らかい植物だ。目を凝らせばこまかな傷なんてたくさんついている。美波はいっそう眉間のしわを深くした。なにかを考えるような間を空けて、少しうわずった声で言う。
「そ、それでも、勝手に切っちゃだめ。カーくん一人じゃ、はさみ重たくてあぶないでしょ」
「あぶなくないもん」
「あぶないよ」
 いつの間にか、汚れた花を切ること自体はいいことになっていた。このままじゃしぼんじゃうからねと言い、美波は台所から大きめの器を一つとってきて水を張った。二階の子ども部屋へ向かい、赤い実をちぎってぽたぽたと落としていく。水に浮かべた実は、いっそう宝石めいてきれいだった。
「お花や実が汚くなってたって知ったら悲しむから、お母さんにはないしょ。いいね?」
「うん」
 水を張った器は、美波の考案で二段ベッドの下の奥まった位置に隠された。眠る前に和馬は何度も器をとりだし、宝物を確かめてうっとりした。
 翌日、和馬が入れた覚えのない小さな花が、赤い実に混ざって浮かんでいた。

 悪いことはいいことの何倍も楽しかった。姉弟で手をつないで近所をうろつくようになったのは、その年の夏休みだ。
 大きな声で吠える犬や、トラックや、いじわるな友だちに会うのがいやで、外があまり好きではなかった和馬も、美波と一緒なら安心して出歩くことができた。美波はごぼうのように黒く焼けて、つば広の麦わら帽をかぶっていた。つないだ手はしっとりとして、冷たかった。人の体温よりも外の気温の方が高かったのだ。家々の軒から、濡れたように鮮やかな夏の花がぼろりぼろりとあふれていた。
 おててつないで、なかよしね、と声をかけてくる近所の人に元気よく挨拶をしてすれ違う。そして大人の目がなくなるのを待って、塀からこぼれた花を糸切りばさみでぱちんと切りとり、ワンピースのポケットや帽子の中にすべり込ませた。切るのはなくなっても持ち主に気づかれないような地味な花にすると決めていた。
 たくさん咲いている群生からぱちん。小さな花のかたまりをぱちん。集めた花はベッドの下の、水を張った器に浮かべる。アサガオ、ツユクサ、タチアオイ、トケイソウにフヨウ。すぐに器の水面はみずみずしい花で埋めつくされた。
 泥棒の目をもつと、途端に世の中はきらきらと輝きを増した。いいもの、きれいなものがばれない範囲なら、いくらでも自分のものになる。潮干狩りであさりをとったり、公園できれいなドングリを集めたりするのとよく似た、純粋で無色の喜び。
 たぶん近所の大人の何人かは自分たちの行為に気づいていただろう。けれど、子どもが小さな花をくすねる程度のいたずらだからと、見逃されていたのだ。
「きれい」
「へへ」
「ないしょだよ」
 ひたいを近づけて笑い合う。あの時ほど自分と美波が近づいた瞬間は、その前もその後もなかった。その夢のような夏が過ぎたあと、中学生になった美波は、すっかり大人びて化粧品の匂いをまとい、もう悪いことには付き合ってくれなくなった。

 ぱちん、とまた一つ和馬は丸い花弁の集まった小さな花を切り落とす。
「母さんが買ったばかりの新しい花や、近所の花も時々切ってた」
「へんなこと覚えてるなあ。そうだっけ」
「そりゃね、姉ちゃんが悪事に付き合ってくれたのちょっと嬉しかったもん、俺」
「ふーん」
 美波は鈍い反応で唇をとがらせる。
 小さな花をすべて切り終えると、ボウルの水面に紫陽花の絨毯ができた。細かな花模様に惹かれ、和馬は鞄から取りだしたクロッキー帳にそれをスケッチした。精密なものを描いていると心が和む。花びらの、少し指に吸いつくような手触りを写し取ろうと苦心する。
「なんだ、結局描いてるじゃない」
「うん」
「お風呂入ってくる」
「姉ちゃんさあ、転職するの?」
 一瞬足を止めた美波は、あんたに関係ないでしょう、と素っ気なく言って脱衣所へ続くアコーディオンカーテンを閉めた。

 次の訪問時には、目を引いた白いカーネーションを持参した。母の日か、と美波はまた馬鹿にした。相変わらず賑やかな声で笑いながら、和紙で作ったような柔らかい花を生首にして水へ浮かべた。その次はトルコキキョウ、さらにその次はナデシコ。
 週に二度ほど花を土産に訪れる弟へ、姉は掃除や洗濯のやり方をこまごまと教えた。一人暮らしがしたい、という初めの願いをちゃんと覚えていたのだろう。それどころか、気が向いたときにはエントリーシートのチェックや面接対策にまで付き合ってくれるようになった。
「でもあんた、芸術家になるんじゃなかったの」
 一般企業向けのエントリーシートを書き続ける和馬に、美波が聞いた。和馬はむっと唇を結ぶ。確か小学校高学年のときの、国語の作文だ。将来の夢という課題で花丸をもらって帰ったら、母親と美波はうちの子がゴッホになっちゃう、とげらげら笑った。
「いやなこと覚えてるなあ」
「ふふ。ちょっと前にもなんだっけ、なにかの賞を取ったばかりでしょう」
「賞じゃなくて、佳作」
「すごいじゃん」
「そんなすごくないよ」
 本当にすごいのは、あの孔雀だ。眩い銀色の輝きがまぶたの裏へよみがえる。すると、美波はじわりと口元に笑いを上らせた。
「せっかく美大に行ったんだから、なんか変わった職に就けばいいのに。どうせお父さんとお母さんの面倒は私が見るんだしさ」
 姉らしい、うっすらと誇らしげで恩着せがましい、いやな声だった。和馬は昔から、美波のそういうところが大嫌いだった。振り払うように、さも面倒くさそうな声を出す。
「いろいろあるんだって」
「いろいろね。―はいここ、日本語がおかしい」
 ベージュのネイルが塗られた爪が、コン、とエントリーシートの一角をつつく。

(つづく) 次回は2014年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 彩瀬まる

    2010年「花に眩む」で第9回「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。著書に『骨を彩る』『神様のケーキを頬ばるまで』など。