物語がつまった宝箱
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  • 第三回 2016年3月1日更新
十月十二日
 本日は爽やかな秋晴れの日だった。
 1コマ目は寝過ごしてしまい、2コマ目と4コマ目のみ出席。
 授業を終えてから浄土寺のアパートへ戻ると、夕闇にぽつんと点った玄関灯の下に、後藤先輩と珠子さんが立っていた。四畳半日記の謎に迫るのが楽しくてしょうがないのか、珠子さんの顔は茹で玉子のようにピカピカしている。
 我々はアパートの裏手にある大家さんの邸宅を訪ねた。敷地を囲む生け垣をめぐっていき、立派な門扉を開いたとき、狙い澄ましたかのように玄関の明かりが点った。ドアがカチャリとわずかに開く。私はギョッとして立ち止まった。珠子さんは怪訝そうな顔をする。後藤先輩は薄ら笑いを浮かべている。門を抜けて玄関に近づいていくと、待ちかねたように大家さんが姿を見せた。
「はいはい、いらっしゃい」と老嬢は言った。「時間通りね」
 その後、我々は庭に面した洋間に通され、ご自慢の茶器にご自慢の茶葉で入れたご自慢の紅茶を御馳走された。唐突に訪ねてきた我々に対して、大家さんは用件を訊こうともしない。洋間に充ちた黴(かび)臭い匂いが私を落ち着かなくさせた。硝子窓の向こうでは夕闇に沈んだ庭木が黒々として、もののけたちの影のように見える。私は咳払いをして口を開いた。
「じつは押し入れから前の住人の日記を見つけまして」
 後藤先輩が四畳半日記を茶器の隣にソッと置いた。大家さんは古びた大学ノートに目をやると、何もかも飲みこんでいる様子で小さく頷いた。
「やっぱりあなたも見つけたのねえ」
「あなたも……?」
「いつも十月十二日なのですよ」
 大家さんの話によれば、数年に一度、必ずアパート住まいの学生が訪ねてくる。決まって、私の四畳半に住んでいる学生である。昨年の春、私が新入生としてその四畳半を借りたときから、大家さんは「いずれ訪ねてくるだろう」と分かっていたらしい。過去に訪ねてきた学生たちは、いずれも前の住人が残した「四畳半日記」と題した大学ノートを持参した。つまり私の前の住人は前の住人の日記を、その住人はさらに前の住人の日記を手にしていたという戦慄の四畳半クロニクル。目の前の「四畳半日記」が、時空を超えた不気味な存在に思えてきた。
 珠子さんは「なんですって……」と呟いている。目が爛々(らんらん)と輝いている。
 しかし大家さんは、この四畳半日記をめぐる奇怪な連鎖について、詳しいことは何も知らないという。彼女の役目は、そうして訪ねてきた学生たちにある人物を紹介することであった。
「赤坂君のところへ行きなさい。明日の午後四時」
「……それはもう決まっているということですか」
「決まっているらしいのですよ。つまり、毎回そうする約束なの」
「どこへ行けばいいんですか?」
「赤坂君は工学部の先生をしています。大学で訊いてごらんなさい」
 好奇心をおさえかねた珠子さんが前のめりになった。
「これはいつから始まったんですか?」
「……そんな大昔のことは忘れてしまったわね」
 それが大家さんから聞きだした四畳半日記の恐るべき秘密であった。
 大家さんの邸宅を辞去してから、我々は狐に化かされたような感じで町をさまよい、気がつけば昨日と同じラーメン屋に入っていた。ほかのことを考える余裕がなかったのである。後藤先輩が麦酒を頼んでグイグイ飲むと、珠子さんはその麦酒を奪ってグイグイ飲んだ。彼女は見たこともないほど興奮していて、軽羹のごとき色白の頬が赤らんでいた。
「なんなんです、これ。面白すぎるにもほどがあるでしょ」
 注目すべきことは、我々が四畳半日記を読んで行動を起こしたにもかかわらず、先日のように災難に襲われることがなかったということである。大家さんの口ぶりによれば、我々が訪ねてくることはすでに決まっていたらしい。だとすると、今日の出来事も予言されていたことになるのでは――。珠子さんがそう言うと、後藤先輩は「もちろん」と大学ノートを右手で掲げた。
「だって、ぜんぶここに書いてあるからね」
「それでも読ませてくれないんですか」と珠子さんが恨めしげに言う。
「なにしろ、あと五日分しかないから。先が知りたいなら買ってよ」
「いくらですか?」
「一日が一万円。残り少なくなるほど値上がりするよ」
 私も珠子さんも呆れて溜息をついた。
 明日の午後三時半に時計台前で会うことにして、今日のところは解散した。
 下宿に戻ってから、ひとりであれこれ考えていたら頭がこんがらがってきた。四畳半日記を読んで大家さんを訪ねることは四畳半日記に予言されていた。四畳半日記の書き手も、四畳半日記を読んでいた。予言する日記もまた予言されていたということになる。これまでどれほど多くの学生たちが、まったく同じ日々を繰り返してきたのであろうか。失われた四畳半日記たち。
 気が遠くなりそうだ。今日はもう寝よう。

十月十三日
 今朝はタイマーセットで炊きあげたメシと味噌汁で朝食。
 午前中の数学をなんとか乗り切って、具が行方知れずになった生協のカレーを食べる。3コマ目の物理化学は壮絶な眠気におそわれたが、目から血が出るほど頑張って耐え抜く。しばし今出川通の古書店をうろちょろし、午後三時半に時計台前へ出向く。
 珠子さんはすでに赤坂教授の研究室を見つけだしていた。やる気満々である。
 我々が研究室を訪ねていくと、昨日の大家さんの場合と同じように、赤坂教授はすでに我々を待っていた。五十代後半ぐらいの男性で、紳士的な物腰だけれどロシアの殺し屋のような冷たい目をしている。研究室の生徒に対しては秦の始皇帝風に絶対的権力をふるっているにちがいない。
 教授室に招き入れられると、我々は口頭試問を受けにきた学生みたいに硬くなった。
「日記の持ち主は君だな」教授は私をジロリと見た。
「いや、今の持ち主は僕です」と後藤先輩が言った。「譲渡されまして」
「そんなことはどうでもいい。あの四畳半に住んでいる人間が持ち主だ」
「先生も四畳半日記を読んだ学生だったんですね?」と珠子さんが訊ねる。
「その通りだ。四畳半日記あればこそ今の私がある」
 その威厳と自信に充ち満ちた姿からは、赤坂教授があの四畳半で学生時代を過ごしたとは想像しにくい。しかし教授もまた、あのろくでもない日記に書かれている、ろくでもない学生であったにちがいないのだ。後藤先輩が四畳半日記を見せると、教授は一瞥(いちべつ)して「ふん」と鼻を鳴らし、早くしまえというように手を振った。後藤先輩は首をすくめてノートを引っこめた。
 そして教授は黙りこみ、我々の間には気まずい沈黙がおりた。爽やかな午後の陽射しが窓を明るくしていた。吉田山へ行きたくなった。やがて教授が口を開いた。
「諸君に『四畳半日記』の秘密を教えるつもりはない」
 まるでロボットが法律の条文を棒読みするような口調である。
「いずれにせよ、それは十七日に明らかにされる。これまでいつもそうだった。私が大家さんに頼んで日記を読んだ学生をここへまわしてもらっているのは、秘密を教えるためではない。こうして会うことがすでに予言されているから会うだけだ。もし予言にしたがわなければ、諸君にも私にもひどい災厄が降りかかる。それは諸君も実験済みなのではないかな? 私がこうして喋ることは予言されているのだし、これまでに私は何回も同じ忠告を繰り返している。もう飽き飽きしていると言っていい」
 教授は立ち上がって、「以上だ」と言った。
 我々があっけにとられていると、赤坂教授はドアを開け、「行きなさい」と言った。有無を言わせぬ感じだった。仕方なく出ていこうとしたとき、珠子さんが「一つだけよろしいですか!」と手を挙げた。教授は顎を小さく動かして発言を許した。
「……この予言はいったい何なんでしょうか?」
 赤坂教授の頬に冷ややかな笑みが浮かんだ。「この場合、『何なのか』というのは愚問だ。それはただそこにあるだけだ。我々が焦点を合わせるべきは、『いかにして』生きるかということだ」
 そう言って、赤坂教授は我々を研究室から追いだしてしまった。
 四畳半日記の謎が明かされるかと思いきや、灰色の巨大な壁が目の前に立ちはだかったようだった。我々は工学部の校舎を出て、爽やかな秋空の下へ出ていった。たそがれが工学部校舎の谷間にしのびこんできて、大学構内には忘れられた古い町のような淋しさが漂っていた。
「やっぱり十七日が問題なんだよ」と後藤先輩が大学ノートをめくりながら言う。
「凄いことが起こるって言ったろ? そろそろ諦めて買ったほうがいいってば」
 その瞬間、珠子さんが後藤先輩の手から四畳半日記を奪い取った。軽羹的容姿からは想像もできない身のこなしである。そのまま逃げかかる彼女の胴体に後藤先輩がむしゃぶりつく。彼女は「痴漢! 痴漢!」と叫び、後藤先輩は「泥棒! 泥棒!」と叫ぶ。
 なんだこれはと茫然としていたら、珠子さんが「松本君!」と叫んで日記を投げてよこした。心得たりと受け取って、私は脱兎の如く駆けだした。「あ、待て!」と後藤先輩が手を放したスキをついて、珠子さんは先輩に足払いをかける。
もたもたする先輩を置き去りにして、我々は大学構内を走りぬけていった。珠子さんが追いついてきて、「やった! やった!」と叫んだ。「読もう! 読もう!」
 百万遍交差点まで逃げのびてから、我々は四畳半日記を開いた。しかし頁をいくらめくっても何も書かれていない。それは外見を似せて作った偽四畳半日記だったのである。我々が「やられた……」と呟いていると、追いついてきた後藤先輩が百万遍の空に高笑いした。その手には本物の四畳半日記がしっかりと握られていた。
「君たちの行動は予言されている」
 後藤先輩は悪の皇帝のように言った。
「さあ、この日記を買えー。買うのだー」
 私も珠子さんも先輩を無視して帰った。
 夕食は二合もメシを炊き、弁当屋で買ってきたおかずで食べる。考えてみれば今朝から米のメシばかり喰っている。胃袋が米のメシではちきれそうになり、四畳半をごろごろして苦悶する。こんなこともすべてあの四畳半日記に書かれているとしたら、本当にろくでもない日記である。偉大さのかけらもない。赤坂教授のウンザリする気持ちが少し分かる。

十月十四日
 今日は1コマ目がなかったので九時半まで眠っていた。朝食は紅茶とシナモンドーナツ。
 2コマ目は専門科目の講義に出て、昼食は学部の友人と生協へ。午後も講義に出て、たんたんと時は流れていく。今日は朝からぽつぽつと雨が降り続け、元気の出ない陰鬱な天気。
 それにしても、なんという何もない日々であろうか。もし四畳半日記と出会わなければ、この二週間はさらに何もない日々だったのである。吉田山の山麓の雨に濡れた町をとぼとぼ歩きつつ、自分がこの何もない日々をいかにして生きたいのかよく分からなくなってきた。この愛すべき何もない日々、されど偉大でない日々――。ともあれ四畳半日記を介して、珠子さんとよく喋るようになった点は評価すべきであろう。「恋している」とまでは敢えて言わないが。
 そのくせ私の足は知らぬうちに緑雨堂に向かっているのだった。
 表の百円均一台は片付けられていたけれど、白川通に明かりが洩れていて、珠子さんは古書の匂いに包まれた精算台にうずくまっていた。先ほどまで後藤先輩がいたが帰ったという。
「もう少しで先輩から日記を買うとこだった」と珠子さんは言った。「どうしても十七日に何が起こるのか気になって。でも十七日の分だけでも五万円って言うし」
「売る気があるとは思えない値段だな」
「それはもう凄いことが起こるって煽るんだから、気になる気になる」
 いずれにせよ、四畳半日記に書かれていることはすでに決まっていることだ。たとえ十七日に何が起こるとしても、私はそれを受けいれるしかない。何を迷うことがあろうか、徒手空拳で挑んでやろうではないかという、私らしくもないやる気が湧いてきた。
「どうせ十七日になれば終わるんだから」
 私が言うと、珠子さんは「それも少し淋しい気がする」と言った。「昔から不思議な世界に憧れてきたけど、自分が体験する機会はなかったでしょう。松本君や後藤さんに『四畳半日記』を教えてもらって、すごくワクワクしてる。でもそのワクワクも十七日で終わると思うと……」
「そのときは裏口を冒険すればいい」
「あはは」と彼女は笑った。「そういえば裏口もあったっけ」
 珠子さんは精算台から振り返り、古書の積み上げられた奥の暗がりに目を遣った。そこには緑雨堂主人さえ存在を忘却した裏口があるはずだった。常識的に考えれば、裏口の向こう側に不思議の世界が広がっている可能性は低い。貧相な植木鉢の行列と、忘れられた物干し台が雨に打たれているばかりかもしれない。しかし四畳半日記という奇怪な存在があらわれた今、古書店の忘れられた裏口が月の裏側へ通じていたとしても何の不思議があるものか。
「いつかね」と彼女は夢見るように呟くのだった。
 下宿に戻ってから、ひとりで考えた。あの四畳半日記には、私の偉大でない日々が予言されている。ならば珠子さんへの気持ちは書いてあるのだろうか。

十月十五日
 十七日には何が起こるのだろうか。
 先日、後藤先輩は珠子さんの質問に答えて、「世界の終わりだよ」と述べた。それが後藤先輩のハッタリなのか、それとも四畳半日記にそれらしい記述があるのか。ノストラダムス風に言えば、空からおっぱいの大きな恐怖の大魔王でも降ってくるというのか。望むところだ、どんとこい。
 ここ二週間ほどのモヤモヤした気持ちが晴れたように感じる朝だった。
 世界の終わりを落ち着いて待つ僧侶のような、一点の曇りもない清澄な心をもって、私はこの偉大でない一日をたんたんと受けいれていく。1コマ目の有機化学はテストがあるかもしれなかったので勉強していったのだが、どうにも空腹に耐えかねて生協で納豆ごはんをむさぼり喰っているうちに遅刻した。ところが先生も遅刻してきて、さらにいえばテストも行われなかった。しかし私は一切を受けいれるのであった。たんたんと講義を受ける。たんたんと睡魔と戦う。たんたんと睡魔に敗れる。
 夕方に下宿に戻り、ひとり静かに瞑想する。
 かくのごとく悟りの境地に入った私のもとへ、俗物根性ムキダシの後藤先輩が訪ねてきた。残り二日となった四畳半日記をなんとしても売りつけようという魂胆である。しかし私は、おろしたてのブリーフのごとき清らかな魂で、運命を受けいれようとしているのだ。先輩が手をかえ品をかえて不安を煽り、購買意欲をそそろうとしても、まったく馬耳東風の境地にある。
 気になったのは先輩の妙な様子である。右頬と顎に大きな絆創膏を貼っているし、着ている服はなぜか泥のついたジャージで、髪の毛はぐしゃぐしゃである。黒縁眼鏡のつるはセロハンテープで補強してあり、寝不足なのか目も腫れ気味である。何があったのか分からないが、一昨日に百万遍で高笑いしたときとは、打って変わって見すぼらしい。私と話している間も、アパートの廊下の気配に耳を澄まし、ほかの住民が音を立てるたびに、逃亡者のように身体を震わせる。
「なんだか様子がへんですよ、先輩」
「どこが? 俺はへいちゃらさ」
 到底そんなふうには見えないのだ。先輩は私に日記を買い取らせようと焦るあまり、ついには泣き声をだした。「頼むよ、買っておくれよ。一万円にまけてもいいから」
「どうしてそんなに慌ててるんです?」
「慌てる? 俺が? 慌ててなんかいるもんかい……ただ、昨日の夜から災難続きでね」
 聞けばたしかに災厄の連続だった。
元恋人が今頃になってなぜか復縁を迫る、現恋人がそこに来合わせて修羅場となる、風呂の湯が溢れて階下の住民が怒鳴りこんでくる、階下の住民と現恋人の関係が判明して修羅場が多角化する、学費滞納を知った両親が乗りこんでくる、そこでアパートの消火器が爆発する、自転車で逃げだしたら転倒する、マンガ喫茶に逃げこんだら元バイト先の知り合いに金をせびられる、逃げだしたら高瀬川に落ちる、腹の具合は悪化の一途を辿っていく……。
 しかし先輩を襲った災厄と私に何の関係があるものか。
 私が断固として買取りを拒否すると、先輩はウオーと雄叫びを上げて下宿を飛びだしていった。
 しばらくして珠子さんから電話があった。先ほど先輩が緑雨堂に駆けこんできて、珠子さんに日記を売りつけようとした。彼女が断固として拒否すると、先輩は「ギブアップ!」と天井を仰いで宣言し、精算台に四畳半日記を叩きつけるように置いて逃げだしたという。
「明日の夕方、緑雨堂へ来てくれる?」と珠子さんは言った。
「今から行ってもいいけど」
「今日は駄目。明日会うって日記に書いてある」
 彼女はそう言って電話を切った。

(つづく) 次回は2016年4月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 森見登美彦

    2003年『太陽の塔』で第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。07年『夜は短し歩けよ乙女』で第20回山本周五郎賞を受賞。10年『ペンギン・ハイウェイ』で第31回日本SF大賞を受賞。著書に『新釈走れメロス 他四篇』などがある。