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  • 第十一酒 初台 オムライス 2023年11月1日更新
 ――お笑い芸人の竹下(たけした)たけしといえば、最近、テレビで見ない日がない人気芸人だ。以前、深夜放送で、レギュラー番組十三本と豪語して、共演者を驚かせたこともある。しかし、彼は後輩芸人たちには人気がないようだ。
「テレビの中では愛想のいい振る舞いを見せますが、裏の顔は違う、ともっぱらの噂のようです。特に酒が入り、女性がいる席ではかなり傲慢な態度を取るとか」(情報通)
 そのせいだろうか。彼については、数年前、ネットのラジオの中で、後輩芸人「コダイコ」のヤスから次のような暴露をされたことがある。それは彼の同期主催の合コンの後のこと、お持ち帰りできる女子がいなかった竹下はヤスのファンだという女性を呼び出し……。

 恵麻(えま)がまとめ上げた記事はすぐに編集部からOKが出て、手直しを受けた後、数時間後にアップされた。直されたのは恵麻が書いた文章のところどころに、(情報通)ということわり書きを入れて、まるで、誰か芸能界のことをよく知っている人間に取材したかのような印象を与えた部分だった。
「こうすると文章にリズムができて、読みやすいっていう効果もあるんだよ」
「はあ」
「署名記事にする? それとも匿名?」と電話口で聞かれて、とっさに「じゃあ、ちゃんえま……いや、それじゃそのままなんで、ちゃんえむにしてください」と答えた。それで、記事のラストには(記事 ちゃんえむ)という署名も付いた。
 あまりにも簡単に進んだことに、恵麻は逆に肩すかしを食らったようで、気が抜けてしまった。そして、それから一週間は特に大きな問題もなく過ぎた。記事のPV数は千くらいでそれほどでもなく、正直、まだ「稼げる」というようなレベルではなかった。
「いや、最初の記事でこれならまだいい方だよ。私なんて最初、まったく見てもらえなかったから」
 仕事を紹介してくれた、さよはそう言って褒めてくれた。
「そうですかねえ……これでよかったのか」
「別に嘘はついてないし、ちゃんとネタ元もある記事なんだから、いいと思うよ。しかも、昔の配信からこれを掘り起こしてきたなんてすごいじゃん。次を書きなよ」
 恵麻に入るお金はたぶん、よくて数十円というところで、なんの旨みも感じることはできなかった。記事を書くのに三時間はかかり、何度も何度も書き直して、少し睡眠不足になるほど頑張ったのに、とがっかりしてしまった。

「だからあの後、あんなことになるとはまったく思わなかったんだよ」
 恵麻がそう言うと、元恋人のタケルは「だよなあ」とあいづちを打ってくれた。
 その場所は前に二人で住んでいたマンションの近くにある洋風居酒屋だった。同棲していた時はほとんど外食はしなかったけれど、この店だけは別で、マスターが自己流で焼くピザが安いのにおいしく、仕事に疲れた金曜日や良いことがあった週の週末などに通った、思い出の場所だった。
「だって、最初は千ビュー行くか行かないかというところで、それでも千人も自分の記事を見てくれてるんだって思ったらちょっと嬉しかったけど、たいしたお金にもならなくて」
「ビューっていうのは見てくれた人の数だよな?」
 タケルは首を傾げる。
「いや、正確にはクリックしてくれた人の数」
「なるほど。で、一ビューいくらくらい稼げるの? 一回一円くらい?」
「まさか。細かい計算はわからないけど、〇・一円くらいのものだと思う」
「そんなもんかあ」
「実際、最初は百円以上にならないと、振り込み手数料の方がかかるから、ある程度まとまらないと振り込みませんって言われてたくらい。それも翌月以降の振り込みだから、まだ一円ももらってない」
 そんな状況が一つの投稿でがらりと変わったのだった。
 記事を上げた翌週、見守り屋の仕事が終わって家で寝ていると、編集部からメールが来た。「ちゃんえむさんの記事が急激に伸びてる」という内容だった。
 寝ぼけながらネットを開くと、確かに、自分の書いた記事のPV数が十万以上になっていた。一瞬で目が覚めてベッドから起き上がった。普通、PV数は外からは見られないが、所属しているライターだけはパスワードを教えてもらっていて、会社のホームページから確認できるようになっているのだ。
「……え。じゃあ、一万円くらいはもらえるのかな? やった」
 のんきなことを考えていたのはそのあたりまでだった。
「……確か、あれだろ? タコルのSNSで取り上げられたんだろ……」
 タケルが尋ねた。
「そう」
 突然のPV数上昇の理由はすぐにわかった。SNSで検索したら、馬鹿田(ばかだ)タコルという、ネット上のスキャンダル専門の有名インフルエンサーが、恵麻の記事におもしろおかしいコメントを付け加えて再投稿していたのだった。
 それからはあっという間だった。恵麻の記事はタコルだけでなく、さまざまな人に再投稿され、さらに週刊誌やスポーツ紙にまで取り上げられた。ただの噂ではなく、コダイコのネットラジオという、確たる「ネタ元」があるところが、人々に取り上げられやすいポイントのようだった。翌週には彼らのラジオの内容だけでなく独自の取材を加え、いかに竹下が女好きの嫌な人間か、いかに金に汚いか、いかに後輩に高圧的かなど、詳しく書いた週刊誌の記事まで現れた。
 それだけでも恵麻には大きなショックだったのに、さらに追い打ちをかける出来事が起きた。
 竹下の被害に遭ったと名乗る女性が現れ、週刊誌に彼とのLINEのやりとりを暴露したのだ。彼女も一度は彼の毒牙から逃げたものの、その後も品がなくなんのひねりもない「やろうよ」「1回、やらせてくれや」というようなメールに悩まされた、という内容だった。
 それだけなら、もしかしたら、竹下の謝罪会見くらいで済んだかもしれない。だが、怒った竹下がコダイコのヤスを劇場の楽屋に呼び出し、彼を問い詰めたばかりか、殴ったというニュースが流れると、雲行きは怪しくなった。周りにいた別の芸人たちが止めに入ったらしいが、ヤスはメガネが割れて頬に小さな傷を負ったらしい。
 さらに、その場にいた別の後輩がスマホで動画を撮っていて、カメラに気づいた竹下が「お前、ふざけんな!」とその後輩に殴りかかった映像が流れ始めると、彼を庇(かば)うものは誰もいなくなった。
 数日後、事務所は彼との契約解除を発表、竹下は謝罪会見を開いたが、記者から責められてもまともな返答はできず、無期限活動停止を発表した後も彼への非難は収まらなかった。
 ここまで恵麻の記事が出てから一ヶ月もかからなかった。ある意味、当事者の一人でありながら、恵麻がただ唖然(あぜん)としているうちに物事は進んだ。
「……あんなおおごとになるとは思わなかった……」
 恵麻は、このことが起きて初めて、他人の前で涙があふれた。
「人の一生を変えてしまったのかもしれない」
「あんなことになるとは誰だって思わないよ。それに、恵麻が書いた記事だけなら、竹下にはまだ再起の可能性があったじゃん。それをぶち壊したのはあいつ自身なんだから」
 連絡をくれたのはタケルの方からだった。
 話題の記事を読んで、最後の署名が(ちゃんえむ)となっているのを見て、「もしかして、あの記事、恵麻が書いたの?」とLINEを送って来たのだった。
「どうしてわかったの!」
 驚きのあまり、恵麻はなんの躊躇(ちゅうちょ)もなく、彼に電話してしまった。
「前にLINEで、ちょっとだけ言ってたじゃん。見守り屋だけじゃなくて、ネット記事を書く仕事もするかもしれないって」
「そうだっけ?」
 もしかしたら、見守り屋だけでは生活がおぼつかないと彼に思われないように、つい、口を滑らせたのかもしれなかった。
「それに、恵麻、前から別名みたいなのを使う時、ちゃんえむって書いてたから」
「え? そんなことあった?」
「あった、あった。ファミレスとかの順番待ちの時に名前書くところに」
「あ……そうだったかも」
「だから、ピンときたんだよ」
 きっと、タケルにばれなければ、さよ以外の誰にも言わずにいただろう。
 だけど、彼に気づかれて、つい本音を漏らしてしまった。
「あんな記事、書かなければよかった……」
「え? そう? すごいじゃん、スクープ出したんだから」
 思いがけず慰められ、少しだけ気が楽になった。だから、彼に「ご飯でも食べに行こうよ」と、昔よく行っていた店に誘われて、承諾してしまったのだった。

「ああなったのは、竹下の人間性だよ。もともとああいうやつだったんだ。だから、恵麻が書かなくても、いつかは同じような事件、起こしてたよ」
「そうかなあ……」
「絶対、そうだよ」
 タケルはカウンターに座っていた恵麻の手を軽く握った。
「大丈夫。それに、黙っていたら誰にもわからないし」
 彼は優しかった。こういう温かみに触れるのは、本当に久しぶりだと思った。
 人は時々、わけもなく人が恋しくなることがある。そして、そういう時はやはり、人でなければ慰められないのだ――。
 気がつくと、心の中で、そう言い訳していた。

「バカみたいですよね、あたし」
「それはどっちのこと?」
「え?」
「記事を書いたことか、昔の男と寝たことか……」
「あー」
 本当は、バカはもちろん、タケルとのことだったが、依頼人の幸江(さちえ)からそう尋ねられると、どちらかわからなくなってしまった。
「両方ですね、やっぱり」
 ふふふと幸江は笑った。
 彼女が、社長の亀山(かめやま)と祥子(しょうこ)の中学の同級生だということは前日に聞いていた。
「どうしてあたしが?」
 初台(はつだい)にある、彼女のマンションに行ってくれ、と言われてすぐに尋ねた。
「どうして、って呼ばれてるからだよ」
 亀山は驚いたように答えた。
「当然だろ? それが仕事だから」
「でも、社長たちの友達なんですよね? 祥子さんが行った方が」
 亀山は笑った。
「祥子が行ったら、それはただの友達の家のお泊まり会だろ?」
「確かに。でも、なんで」
「それは向こうに行って聞いてください」
 なんだかいつもと違って、少しそっけなく亀山は電話を切った。

 幸江のマンションは駅から数分のところにあり、ゆったりと広く、彼女の豊かな暮らしを想像させた。
 彼女はダイニングルームのテーブルの上に、軽いつまみと酒まで用意してくれていて、自然と食事をしながら話をすることになった。
「あなたも北海道の子なんでしょ? どう? 東京には馴染めた?」
 まるで、会社の面接みたいだなあ、と思いながら、恵麻は幸江の数々の問いに答えた。どういう目的で自分を呼んだのだろう、と訝(いぶか)しく思っていたのは最初だけで、話し上手、聞き上手な幸江に導かれ、恵麻は最近起きたことを包み隠さず話してしまっていた。竹下の記事のことも、元彼と勢いで関係を持ってしまったことも。
「でも、やっぱり、バカだったのは、記事の方かもしれません」
「どうして?」
「人の人生を変えてしまったから。故意ではなかったとはいえ、いや、やっぱり、故意ですよね。記事が出たらここまででなくても、多少の影響があることはわかっていたんですから」
「そうね。でもまあ、しかたない。ここから先は彼の人生」
「そうでしょうか」
 恵麻はため息をついた。
「……なるほど」
 幸江は恵麻の顔を見てうなずいた。
「何がですか?」
「祥子たちがあなたを選んだ理由」
「選んだ?」
「祥子が今、大阪に行こうと思っているの、聞いてる?」
「あ、前に聞きました」
「で、彼女はあなたに、シェアハウスの管理を任せたいと思ってる」
「それもちょっと聞きました」
「どうしたい? あなたは?」
 どうしてそんなことを幸江に聞かれるのだろう。恵麻は軽く首を傾げた。
「ああ、ごめん。急に私がそんなことを聞いたら驚くよね。あのシェアハウスには私も出資してるの。だから、管理人が代わるなら、どんな人なのか確かめたくて」
「そういうことだったんですか」
「もちろん、祥子とあなたの選択次第だけど……私はそろそろもう、祥子に幸せになってもらいたい。大阪に行ってもいいと思ってるんだ」
「はあ」
「あなたなら、シェアハウスを任せられる」
「そうでしょうか?」
「悪くない仕事だと思うよ。共用部分の掃除や庭の手入れなんかを数軒分やるだけで、普通に暮らせるくらいのお金は入ってくるし、住み込みだから家賃はタダだしね」
「そうですね」
「もちろん、手が空いた時に見守り屋もできるし」
「でも、バカですよ、あたし」
 恵麻は思わず、言った。ちょうど、自分が一番ダメな話をしたばかりだ。
「後悔しているんでしょ。それならいい。後悔もなく、これからもそういう記事を書き続けたいならちょっと、と思っていたけど」
「書きません。もうこりごり」
「だったら、考えてみて」
 翌朝、部屋を出る時、これからご飯を食べて、お酒を飲んで帰ると話すと、幸江は「少し不思議な店があるから行ってみたら」とその店を教えてくれた。

 スマホの地図アプリで、聞いた店名を検索し、だいたいこのあたりだろうと見当をつけてその方向に進んでいった。
 なんだか、急に涼しくなった、と恵麻は気づいた。
 昨夜、家を出てきた時、長袖のブラウスに薄手のストールを念のため巻いてきた。今はそのストールを身体に巻き付けるようにしないと、全身が冷えてきて震えそうだ。
 地図の通りに歩いてきたのに、風景は商店街から住宅街に変わっていき、さらにマンションが立ち並ぶ、無機質なものに変わっていった。
 ――こんなところに、居酒屋があるのかしら? それとも普通の家屋のような店なのかな……?
 だんだん不安になってきた。
 そこからまた数分歩いて、やっと地図に丸い印が付いている場所に来たけれど、店らしきものがまったく見当たらない。シャッターを閉じたクリーニング店とマンションが並んでいるばかりだ。ぐるりとあたりを回って、やっとそれらしい店を見つけた。
 しかし、朝日に照らされた店内は暗く、第一印象は「今日はお休みか……?」というものだった。店のガラス戸は固く閉じられ、中が見えないように一面に紙が貼ってあるのも気楽に入れない雰囲気を醸し出している。
 外壁に手書きのメニューが貼ってあった。店主の几帳面な文字――たぶん、女性が書いたものと思われる字で、
<朝4時半より飲めます。>
 と書いてあり、「朝」の文字に赤丸、それ以外に波線が引いてあった。
 お飲み物、ビール大、中、小、日本酒、焼酎……と最初の列がアルコール類、次の列が、おつまみ単品、玉子焼、ハムエッグ、オムレツ、納豆オムレツ、枝豆、冷奴、ニラの卵とじ、野菜炒め、など。一番下に、その他として、焼きそば、焼きうどん、目玉やき丼、カレーライス、オムライス……などが並んでおり、店の間口の狭さに比して、メニューの数がすごかった。
 恵麻がメニューを一つずつ見ていると、中から男性の太い笑い声が聞こえてきた。やっていないように見えるけど、営業しているのかも、と貼ってある紙のすきまからそっとのぞいて驚いた。
 中は細長い造りで、カウンターと四人掛けのテーブル席が三つある。そのテーブル席が全部、中年……いや、もう老年と言っていいような男たちでぎっしり埋まっているのだった。皆、ジャンパーのようなものを羽織ったラフな格好で、酒を飲んで赤い顔をしている。そして、一様に腹が出ていた。
 開いているのは嬉しいが、これはこれで……。
 ――入るのは、なかなかハードルが高い……。
 恵麻は考えた。このまま、駅に戻ってどこかカフェでも探し、モーニングでも食べて帰るか、はたまた、コンビニにでも寄って適当に弁当でも買うか……。
 もう一度、すきまから中をのぞく。
 おじさんたちはかなり酔っているが、楽しそうだ。決して、嫌な酔い方ではないことはなんとなくわかる。そして、その時、カウンターの奥から女主人らしき、高齢の女性が出てきた。頭に三角巾を巻いてメガネをかけ、どことなく優しそうで上品な人だった。
 あの人なら大丈夫。不思議とそんな確信がわいてきて、恵麻は一度大きく息を吸ったあと、引き戸を開けた。
 店の中のすべての人が一瞬、こちらを見たような気がした。
「いらっしゃいませ」
 恵麻に気づいた女店主がすぐに声をかけてくれてほっとした。
「いいですか?」
 恵麻は手前のカウンター席を指さしながら尋ねた。
「どうぞ。お食事ですか? お酒ですか?」
「あ、どちらも……」
「今、焼きそばは切れちゃってるんだけど」
「あ、大丈夫です」
 恵麻が椅子に座ると、彼女は「お疲れ様」と言って、にこりと笑った。
 お疲れ様、それはここの店の決まりの挨拶なのだろうか、それとも……。
 ふと、目頭が熱くなって、自分の方が驚いた。それがこぼれないよう、恵麻は上を向いて、壁に貼ってあるメニューを見た。
 一番大きな壁にメニューの札が何十も下がっている他、二十センチ×十センチほどの紙に手書きで料理名を書いたものが店のいたるところに貼ってあった。
 恵麻の目の前にも「コロッケ二つ」「メンチカツ二つ」「お餅一つ」「鯵(あじ)の開き」「冷奴」「アジフライ」「うるめ丸干し」など単品料理のメニューが並んでいる。
 ――圧倒されそう。何がおいしいのかな。
 おじさんたちのテーブルを盗み見ると、玉子と何かを炒めたようなものや焼きそばなどがあった。だけど、それより酒が多いようだ。食べるより、飲む、という店なのかもしれない。
 ふっと、地図を見ながら歩いている時、近くに大きなタクシー会社があったことを思い出した。もしかしたら、そこの人が勤務明けに来ているのかもしれない。
「何にしますか?」
 また、女店主に尋ねられる。親戚のおばあちゃん、いや、伯母さんのような温かさと親しみがある人だった。
「とりあえず、ビールと」
「ビールは大でいいですか? 中?」
「中にしてください」
「はい」
「それから、オムライスを」
「はい」
 ビールとグラスを持ってきてくれたあと、彼女はカウンターの奥の、カーテンの中に消えた。
 ビールはキンキンに冷えていて、グラスはこういう場所でよく見る、少し小さめのものだ。
 ――でも、これがいいんだよなあ。手にしっくり馴染む。
 女店主はしばらく戻ってこなかった。オムライスを一から作ってくれているのかもしれない。
 カウンターの上に、今届いたばかり、という感じのスポーツ新聞が置いてあった。不祥事を起こした野球選手の顔写真が大きく載っている。恵麻は手に取って、なんとなく記事を読んだ。スポーツ新聞を読むのは……ネットでなくてこういう紙のを読むのは十年ぶり以上かもしれない。
 何より、家族に許してもらわないといけない……そんな言葉が並んでいた。写真の中の、泣き出しそうな大の大人の顔を見ていたら、急に、あのこと――自分が書いた記事から始まった一連の出来事を思い出してはっとした。
 ――あ。逆に言うと、あたし、忘れていたわ。この店に来てから、一瞬、あのことを忘れていた。ここ一ヶ月、一度も忘れられなかったのに。
 恵麻は大きく息を吸って、吐いた。
「お待たせしました」
 その時、ことん、と目の前にオムライスが置かれた。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
 やっぱり、親戚の家か友達の家で食べてるみたいだ、と思いながらスプーンを取った。
 大きさは少し小さめ、だけど、これがいい。朝ご飯としてもいいし、たくさんお酒を飲んだあと〆に食べるのにもいいのだろう。チキンライスを薄い玉子焼きで包み、赤いケチャップが真ん中にのっている、定番のオムライスだ。脇にはレタスが添えてある。
「いただきます」
 ささやいてから、スプーンで一匙(ひとさじ)すくって口に入れる。
 玉子が柔らかい。外側はきれいに焼けているのに、内側はとろりとしている。それがチキンライスと混じり合っている。
「ああ、おいしい」
 思わず、声が出てしまった。ケチャップのわずかな酸味に薄焼き玉子の柔らかさが絶妙だ。チキンライスの中にはほとんど何も入っていないようだけど、時々、少し甘く感じるのでよく見ると、コーンが混ざっていた。ミックスベジタブルではなく、単体のコーン。それがこの店の個性を出していた。
 もしも、評するなら「なんということはないけどおいしい」とかいうのかもしれないけど、そうではなくて、なんということもないように見えて、その実なかなか味わえないものなのだ、という気がした。
 オムライスを味わっていると、飲んでいる十人以上のおじさんたちの話が次第に耳に入ってきた。
「毎年、俺たちの給料から天引き、天引き、天引き……」
 いったい、何を天引きされているのだろう、と耳を澄ますのだけど、結局、彼は天引きをくり返すばかりで内容まではわからなかった。
「年金の額って知ってる? あれ、給料の額で決まるの。だから、あんまり期待できない」
「あいつがさ、三万、急に全員に配ったんだよ。だけど、その金がどこから出てるのかわからねえ」
 皆、思い思いに話していて、あまり、お互いの話を聞いていないようだ。
「お母さん、ボトル入れられる? ボトル、なんだっけ?」
 女性店主はキンミヤ焼酎の瓶を渡しながら、別のテーブルをふと見て、「お茶、淹れましょうか?」と尋ねた。
 彼らの前にあるお茶のグラスが空になっていた。
「あ、そう? じゃあ、ビール、もう一本」
「あら。ごめんなさい。催促したみたいになって。お茶がないんじゃないかって。私、いつも気が利(き)かないものだから」
「いや、ビールください」
「いいの? 本当にごめんなさい。催促したみたいで」
 たくさんの人がダミ声で話しているのって、なんだか落ち着く、と恵麻は思った。 まだ少しビールが残っていたので、何か追加しようと思った。
 女店主と目が合って、軽く会釈する。
「すみません……ポテトサラダとか、できますか?」
「できますけど、これから茹(ゆ)でるから時間がかかるかも」
「あ、じゃあ、コロッケとか一つだけもらえますか? もう少しだけ何か食べたくて」
「それならすぐできますよ」
 また、奥に引っ込んで、しばらくすると、彼女はコロッケが一つのった皿を持ってきてくれた。今度はレタスにマヨネーズが添えてある。それとは別に、ウスターソースを容器ごと一瓶、持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
 かりかりに揚がったコロッケにソースをかけて食べていたら、そう言えば、揚げたてのコロッケを食べるのって久しぶりかもしれない、と思った。
 ちょっと脂っこいコロッケを口に入れてビールを飲み干した。
 お勘定を頼んで、お金を払っていると、女店主が丸く目を見張って、「どうしてここに来てくれたんですか? 旅行の帰りとかですか」と尋ねられた。
「いえ、仕事の後です」
 なんと説明したらいいのか迷いながら、「ここの店、おいしいって教えてもらって」と答えた。
「ああ、そうですか」
 彼女はにっこりと微笑んだ。
「また来てくださいね」
「はい。また来ます」
 外に出ると、ほんの少し、空気が暖かくなっていた。そして、恵麻の身の内もほんのり温かくなっているのを感じた。

(つづく) 次回は2023年12月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。