原田ひ香
朝、水沢恵麻(みずさわえま)はスマートフォンのアプリの地図を見ながら、その店を探した。日本橋(にほんばし)駅から歩いて数分、この手の店の中でも老舗(しにせ)の名店だ。来るのは初めてだったけど、テレビなどで何度か見たことがある。 ――あんまり混んでなければいいんだけど……。 証券会社をはじめとした大企業が多いこの街には、サラリーマンが好みそうな居酒屋やラーメン屋が並んでいる。けれど、一番有名なのは蕎麦(そば)屋だろう。ここには老舗の名店から立ち食いまで、蕎麦屋の名店がひしめき合っているのだ。 恵麻が目指しているのもそんな店の一軒だった。しかも、そこは同じくらい評判のいい立ち食い蕎麦が二軒並んでいることでも有名だった。 普段なら、そのどちらに入るのかで大きく迷うところだろう。だけど、今朝は違った。 「本格和風インドカレー」 その大きな文字に吸い込まれるように店に入った。 早朝だからか、店にはあまり人がいなかった。二人の男性が壁にしつらえてあるカウンターの前に立って蕎麦をすすっている。 心は決まっていても、一瞬、何を食べようか、飲もうか、食券売り場の前で考えた。 岩下の新生姜天そば、ニジマスの甘露煮そば、ニラ天玉そば、すんきそば、なんてめずらしいものから、鶏ささみ天そば、コロッケそば、とろろそば、わかめそば、月見そばといった定番蕎麦も皆、おいしそうで心惹かれる。 さらに、天ぷらなどのトッピングがどれも単品で頼める。メンチカツ、ほうれん草のお浸し、特大かき揚げ、コロッケ、ごぼう天、チーズ、ニラ天、ゲソ天などなど。ご飯ものも豊富で、カレーはもちろん、ねぎとろ丼、中華そぼろ丼、特大かき揚げ丼、とろろ丼などもある。 ――この店のメニュー、組み合わせは無限なのではないだろうか。宇宙のようにどこまでも広がっている。 だけど、今朝は絶対、カレーなのだ。インドカレーなのだ。 よく見ると、朝定食はとろろ定食(とろろかけご飯と半たぬきそば)、納豆定食(納豆、たまご、ご飯、半たぬきそば)、朝カレー定食(半カレー、半たぬきそば)と三種類から選べるようになっている。全部、四百三十円という値段もいい。 ――最高。 カレーと蕎麦が両方食べられる。それも、たぬきという、天ぷらそばにしたらお腹いっぱいになりすぎそうだけど、そばつゆに浸った揚げ玉も食べたい、という気持ちも満たしてくれるメニューが。さらに半分というのがとてもいい。女子にも手を出しやすい。 ――全部、食べられるかちょっと心配なんだけど。 食券販売機の一番下に、アルコールがあった。これもまた、この店に来た理由の一つなのだ。缶ビールと日本酒……なんと、日本酒は八海山(はっかいさん)である。 ――ここで、八海山を飲めるとは。 朝定食と八海山の食券を買い、店の奥の厨房(ちゅうぼう)に差し出す。 「朝定食はカレーでお願いします」 「はい」 無口なおじさんがトレーの上に、黒い小皿とガラスのコップ(グラスでなくコップと呼びたい形状)をのせた。一升瓶を出して、そこに酒をなみなみと注ぐ。縁ぎりぎりまで入れると少しこぼれた。その横にカレーとたぬき蕎麦を置いてくれた。 カレーは黄色に近い色。確かに、インドカレーっぽい見た目だ。 そのまま、カウンターで食べようとして気づく。地下にテーブル席があります、ごゆっくりお召し上がりください、という有り難い張り紙があった。ゆっくり、転ばないように、下に降りた。 地下には三つのテーブルがあり、誰もいなかった。酒を飲む立場からしたらこれほど嬉しいことはない。人目を気にせず、ゆっくり楽しめる。二人掛けの小さなテーブルの前に座った。 ああ、やっとカレー、それも、インドカレーにありつける。お酒とともに……。 その僥倖(ぎょうこう)に応えるため、恵麻は手を合わせて小声でささやいた。 「いただきまーす」 「きっかけはカレーなんです」 昨夜、見守り屋として呼ばれた、河野心春(こうのこはる)は大きくため息をつきながら言った。 「カレー……ですか?」 心春は日本橋にある証券会社に勤めている会社員で、会社の近くに住んでいる。 「こんな都心に住んでいるなんてすごいですね」 マンションの部屋に入った時、思わず、褒めていた。部屋の間取りは1Kでバストイレ別。三畳ほどのキッチンに八畳くらいの部屋が付いていて、片隅にシングルベッドが置いてあった。 「でも、家賃は九万くらいですよ」 心春は笑った。亀山社長によれば、年齢を聞いたら、アラサーだと言っていたそうだ。二十代なのか、三十代なのかわかりにくいが、声質がしっかりした感じで三十は過ぎているような気がした。 「このあたりの相場からしたら安いと思う」 「それでもすごいと思います」 「築四十年以上の物件なんです」 「へえ」 「仕事が忙しいし、会社に近い部屋を探したんです。私、何よりそれを重視していて。私のただ一つの贅沢(ぜいたく)というか」 「そうなんですか」 「服もほとんど買わないし、外食もしない。ふるさと納税でもらった食材をフル活用して自炊してます。家電や家具は学生時代から使っているものか、友達からもらったものばっかり」 「偉いですねえ」 「会社に歩いて行ける、っていうのがただ一つの贅沢で……私には必要な条件でした」 ただ一つの贅沢、という言葉をもう一度くり返した。もしかしたら、心春の好きな言葉なのかもしれない。 「ご実家はどちらなんですか」 「横浜(よこはま)です」 なら、実家からも通えるのに……と内心思ったが、歩いて通えるのが心春の一番重視していることなのだったら関係がないのかもしれない。 「実家が近くてうらやましいです。あたしは北海道だから」 思わずそう言うと、心春は小さく眉をひそめた。もしかしたら、あまり家族仲がよくないのか……そこには触れずに話し始めた。 「今夜はお呼びいただいて、ありがとうございます」 「いえいえ」 心春の部屋にはベッドの他に、折りたたみの机と椅子(いす)が二脚あった。そこに向かい合って座った。 「何か、ご要望はありますか」 本当は「どうして、見守り屋を呼んでくれたんですか」と聞きたかったが、それはなんとなく控えた。とはいえ、家賃以外は慎ましく暮らしている彼女が、どうしてお金を払って自分を呼んだのかは謎だった。 「私、友達がいなくて」 心春はさばさばした口調で言ったが、恵麻は返事をし損ねた。恵麻だったらそんなことは初めて会った人には言えなかった。自分ではそんなふうに説明できないだろうと思った。 「大学は関西だったし、でも、就職は関東でして欲しいって親に言われてこっちに戻って来たものの……あー、親とは仲は悪くはないけど、そうよくもないんです……関東で就職するのって、自分でもいいかなと思ってたんだけど、実際戻って来てみると、やっぱりちょっと孤独。学生時代に付き合っていた彼氏とは遠距離恋愛を五年して疲れて別れちゃったし、今の会社は同期がほとんどいないの。元々あんまり新卒は採ってない会社だし、同期はやめちゃって。気を許して話せる人がいないのね。今回、ちょっと人に聞いてみたいことができたんだけど、でも、そのためにそう親しくもない友達を呼びだしたり、もしくは、新しい知り合いを作ったり、ましてや会社の人に個人的なことを聞くのも面倒になって」 「はあ」 「それなら、お金で解決した方がいいのかしらって思って」 友達の代行として見守り屋を呼んでくれたらしい。 「悩み事ですか」 「ううん、そこまでではない。私も考えたの。NPOとかがやっている、心理相談? みたいなことができる電話番号にかけてみようかな、とか……でも、そこまで深刻なことじゃないのよ。そう考えたら私、どうでもよいことを気楽に話せる相手がいないなあってなって」 「わかるような気がします」 「で、そちらの事務所に電話したら、あなたのような人がいるって聞いて」 「はい」 「ちょうどいいと思ったんです。言ったら……こんなこと言ったら悪いですけど、後腐れなく話を聞いてもらえると思って」 思わず、ちょっと笑ってしまった。 「で、カレーなんです」 心春はこのところ、いわゆる出会い系アプリを使って、男性と会っていた。アラサーになって人並みに結婚を意識してきたのと、ふと気がついたら、会社と自宅を徒歩で往復するばかりの生活に少し飽きてきている、と思うようになったからだった。 「正直、そこまで真剣に相手を探そうとは思ってないんだけど、親に『そろそろいい人はいないの?』なんて聞かれることもあるから、そんな時、自分もちゃんと努力してるっていうことは言えると思って」 親とは仲がよくないと言いつつ、そんなことを言うのが、心春の本心なのか、照れ隠しやごまかしなのかは最後までよくわからなかった。 ほとんどの男とは一度会ったきりで終わった。一度会って、軽くお茶を飲んで、一緒にいるのがそこまで苦痛でないような相手なら、食事もして、別れる。 あちらから「また会いましょう」と言われることが多かったが、残念ながら心春はもう一度会って時間を共にしたところでこれ以上の関係になれるとはほとんど思えなかった。そして、心春の方から「また会いたい」と思った人には、なかなか色よい返事はもらえなかった。 一度だけ、ものすごく顔が好みで、話も合った相手と一夜きりの関係を持ってしまったことばある。だけど、彼は次の日、心春をブロックしてきた。これには少し傷ついた。 「そういうの、使ったことありますか」 そこまで一人で話していた心春は急に顔を上げて、尋ねた。 「いいえ」 恵麻は首を横に振ったが、それだけでは彼女を傷つけてしまうかもと思って、慌てて付け加えた。 「だけど、興味はあります」 心春はうなずいて、話を続けた。 そのうち、そこまで好みではないが、話が合い職場が近くて同業者でもある男性と知り合ったという。しかも、彼は神奈川県出身だった。 そこまで経歴が似かよった人はいない。嫌いではなかった。だけど、心春は前の経験から、すぐに関係を持つことには慎重になっていた。 何度か食事をし、映画も観に行った。セックスなしで……彼の方も、食事の後などに「このあと、どうする? 僕はもう少し話したいけど」と誘いとも社交辞令ともつかないことを言ってきたりしたが、心春が「明日早いから帰るわ」と言うと、それ以上、強引に誘っては来なかった。それでも数日後にはまた、「会いませんか」と連絡をくれた。 少しずつ心を開いていった。何より、人生やお金に対することへの考え方が同じような気がした。つまり、お金をかけることはおしまないが、無駄な出費はせず、見栄を張らない……そんな姿勢が嫌いではないと思ったのだ。 彼も会社からほど近い場所に住んでいた。心春のように歩いて十分というほどではないが、同じ地下鉄の路線で会社の最寄駅から数駅の場所で、やはり同じように古い物件だった。ただ、彼は猫が好きで、ペット可能なところを選んでいた。彼の暮らしの優先順位は「猫」だった。 心春も猫は嫌いではなかった。彼はLINEの返事に数日に一回くらい、猫の動画や写真を送ってくれるようになった。スコティッシュ・フォールドのグレイの子猫でとんでもなくかわいらしかった。 猫への賛辞は惜しみなくできた。まぎれもなく美しい猫だったからだ。数ヶ月後、食事をしている時、自然に「よかったら、家に見に来る?」と訊かれた。 正直、彼の部屋に行くというのは少しおっくうだった。でも、もう数ヶ月も食事をする関係を続けていたし、何より、猫が見てみたかった。 それでも一瞬、言葉を失った心春を見て、彼は笑った。 「嫌ならいいけど」 その時、初めて心春は素直になった。こんなふうにアプリで男性と知り会うようになって初めて、本音の言葉がもれた。 猫にはすごく会いたいんだけど、出会い系で会った人とここまで親しくなったことがないし、これからどうしたらいいのかわからない、自分でも自分の気持ちがわからない……というような内容のことを言った。 「いいんじゃない?」 彼はうなずいた。 「正直、そんなふうに言われると、俺もわからないや」 彼はその時、初めて「俺」と言った。それまで「僕」だったのに。 「君のこと、もちろん、嫌いじゃないんだけど……」 「あたしも、あたしも」 くい気味に同意すると、彼は笑った。心春も自分が「私」から「あたし」になっているのを感じた。 「話は合うと思うし、一緒にいて楽しい」 「ありがとう」 「真剣に付き合おうと今の時点で確実に言えるというわけではないけど」 彼の最後の言葉に少しがっかりしている自分に、心春は気づいた。それは彼のことが好きだ、ということだろうか。しかし、次の言葉には驚いた。 「だけど、君の顔はかなり好き」 「え」 思わず顔を上げた。彼は真面目な表情でうなずいた。悪い気はしなかった。 食事はいつも彼の方が多めに払ってくれていた。それもあって、次の日のお昼ご飯はあたしが作るよ、と言うと、彼は「あ、お願い」と自然にうなずいた。 「いい話じゃないですか。ちょっとうらやましいような恋の始まりに聞こえますけど……」 気がつくと、夜も更けていた。夜中の二時を過ぎている。心春は話がうまく、適切な説明を加えてくれつつ、のろけ話を入れたり、逆に謙遜しすぎたりということがないので聞きやすい。 「だよね」 途中から、心春は恵麻の分も缶酎ハイを出してきてくれた。それをグラスに注いで、飲みながら聞いた。 「あたしなんて、彼と別れてから、まったくないですもん、そんなこと」 つい、自分も本音が出てしまった。 「恵麻さんもアプリ使ったらいいのに」 「思い切ってやってみようかな……」 心春はうなずくと、「で、カレーですよ」とまた言った。 その日、彼の家の最寄り駅で降りると、心春は「何を作ろうかな」と考えながら歩いていた。 駅と彼の家の間くらいに、小さいスーパーがあることは彼から事前に聞いていた。言われた通りの場所にそれはあり、彼女は中に入って、食材を物色した。 「え、何を作るか考えてなかったんですか?」 恵麻は驚いた。自分が元彼に食事を作る時はいつも大変だった。付き合い始めの頃は彼が食べたいものを聞いたり、彼の部屋でまごまごしないように、前日に練習したりした。同棲(どうせい)し始めても、ネットでレシピを探したりして結構、努力していた。 心春は首を振った。 「考えてみると、そのくらい、気に留めてなかったのね……初めて意中の彼に手料理を食べてもらう、なんて気負いは皆無で、いつものお礼、くらいの気持ち。それに自宅でも普段、自炊が多いから同じようなものを作ればいいと思っていた」 心春は最初、簡単なパスタとサラダでも作ろうと思ってトマトを手に取った。そして、ふっと思い出したのだ。 カレーが食べたい、と。 少し前に簡単に本格的にできるインドカレーのレシピ本を買っていて、何度か試していた。数種類のスパイスさえあればたいした手間ではない。材料も多くない。トマト、鶏肉、玉ねぎだけで十分だ。 彼に連絡して、炊いたご飯やバターがあるか尋ねた。すると、自炊はほとんどしないけど炊飯器やフライパンや鍋は一通りありバターもある。でも、今、ご飯はない、と言われたので、チンすれば食べられるご飯を買って行った。 「すごいですね、本格的なインドカレーを作るなんて」 「本当にたいしたことないの。スパイスさえあれば、味噌汁を作るのとそう変わらない手間でできるのよ」 「でも、スパイスもよくありましたね。小さいスーパーに」 「そこには結構、スパイスがそろってるのよ。一つ百円前後で買えるし」 彼の部屋に着くと今までずっと動画で見ていた猫に会え、そのかわいらしさに自然に声を上げた。一通り猫と戯れたあと、ご飯を作り始めた。 何度も作っていたカレーはやはりむずかしいことはなく、数十分でできあがった。味も悪くなかった。 「いい匂い。カレー?」 「うん。なんか急にインドカレーが食べたくなっちゃって」 「すごいね」 彼はその黄色いチキンカレーを頬張って目を見張った。 「おいしい!」 「あー、よかった」 「本当に、本格的でびっくりだよ」 カレーを食べながら、心春はこのカレーがスパイスさえあれば簡単にできることなんかを話した。 その時はあまり気づかなかったのだが、後から思い出すと、食事の最中、彼は少しずつ無口になっていった。 食べ終わったあと、彼は「今日は本当にありがとう。このカレーの材料代、払わなくちゃね」と言った。 「え、いいのに。ご飯を食べに行くときいつも多めに払ってくれてるし、たいした金額じゃないから」 断っても、彼は自分が払うと言って聞かなかった。 「じゃあ、千円」 実際、スパイス五本と、鶏もも肉半分、トマトと玉ねぎ一つずつの値段は千円ちょっとだった。 彼は財布からぺらりと千円札を出して渡してくれ、心春は「ありがとう」と言いながら受け取った……。 「……それで?」 心春が黙ってしまったので、恵麻は先をうながした。 「それだけ。じゃあ、僕、駅まで送っていくよ、って言われて、送ってもらって、じゃーねーって改札のところで手を振って……それから連絡が止まった」 「え」 「そのあと、私から『昨日はありがとう。楽しかったです』って連絡したら、『こちらこそ、ありがとう』って返事は来たけど、それ以上はなかったの」 「どうして? いい雰囲気だったんですよね?」 「私が聞きたいよ」 連絡がなくなって初めて、心春は彼の存在についてよく考えるようになったという。 彼のことをめちゃくちゃ愛しているとか、恋しているとかいうわけではなかった。だけど、決して嫌いではなかったし……最近では好きだという感情も少しわいてきていた。 彼は真面目だし、猫に使う以外には無駄遣いせず、貯金もそこそこあるらしく、仕事もちゃんとしていた。当然、暴力をふるったりするような素振りはみじんも見せず、おまけに、心春の顔を好きだと言ってくれた人でもあった。 三十近くになってから、自分の容姿を褒めてくれる人はあまりいなくなった。その言葉は思っていた以上に、心春の気持ちをつかんでいた。 そして、とにかく、彼の心変わりが謎だったのだ。 猫と遊んで、おいしくご飯を食べて……何度考えても、自分が彼の家で粗相をしたとは思えなかった。 彼から連絡が来なくなって一ヶ月、心春は思い切って、長いメールを書いた。 決して、あなたを責めるわけではないし、これだけの時間が経ったら、もう、あなたが自分に対して気持ちを向けているとは思えない。だけど後学のために、自分のどこが悪かったのか、教えていただけないだろうか。本当に申し訳ないのだけど、何が起こったのかわからなくて、少し悲しいのだ、と。不快だったら、このメールは消していただいてもかまわない、と最後に付け加えた。 そのメールを書いたのには、ほんの少し……ごくごく小さな期待もあった。もしかしたら彼から連絡が来て関係が復活するのではないだろうか、と。連絡がないのはたまたま忙しかったとか、実家の両親が倒れたとか、何か別の理由があったのではないか……。 返事は一週間ほどしてやっと返ってきた。 急に連絡を絶った非礼をわび、これまでの付き合いに簡単な感謝を述べたあと、理由が書いてあった。 「え、いったい、どういうことだったんですか」 心春と同様、意味がわからなかった恵麻は尋ねた。 「……だから、カレーなのよね」 「インドカレー? だって、おいしかったんですよね? 彼もよく食べて……あ、実は彼はそういうカレーは嫌いだったとか? 日本風のカレーじゃないと受け付けない体質とか」 「ううん。それはない。だって、何回かインド料理も食べに行ったもの。だから私もインドカレーを作ったんだし……彼ね、引いたんだって。彼の部屋に来て、手の込んだインドカレーを作って家事力を見せつけるような女に」 「でも、簡単だったんでしょ?」 「そう、それは何度も言ったの。メールでも。簡単だったんですよって……でも、彼には簡単そうには思えなかったって……それにね、それ以上に、スパイスを何種類も用意して彼の家に乗り込む……そういう女は怖いって言われた」 心春は笑った。 「彼、食材のお金を払ってくれたでしょ? だから、私、買ったスパイスをそのまま台所に置いて帰ったのよね。だって、彼がお金を出してくれたものだから当然かと思って。だけど、彼からしたら、そういう料理の材料を家に置いてくる、イコール、なんだか押しつけがましい女だと思ったみたい。その台所は自分のテリトリーよって主張しているみたいで、ちょっと恐怖だったんだって」 「うわー」 「ほとんど料理しない人からしたら、簡単にできるとはどうしても思えなかったみたい」 その後、一応、彼のメールに対する反論を書いて送ったけど、返事はなかったそうだ。 「まあ、しかたないんじゃないですか。そういう男は……」 すべてを話し終わって、黙って缶酎ハイを飲むだけになってしまった心春に恵麻は言った。そのくらいしか、かける言葉が見つからなかった。 一言で言うと、悲しい誤解なのだと思った。心春が料理がうまかったせい、手際がよく、インドカレーくらいならなんの苦もなく作れてしまうほどに……。 「もう、私、一生、結婚はできないんじゃないかと思って……」 最後にやっと心春はつぶやいた。 「そんなことないって!」 恵麻はすぐに言った。つい、友達のような口調になってしまった。 「心春さんみたいに料理ができて、仕事ができて、ちゃんとした人なら絶対大丈夫」 「ありがとう。でも、そういうことではないんだ」 彼女は首を振った。 「この程度のことでも理解してもらえないし、言い訳も聞いてもらえない。これまで数ヶ月、何度か会って話したりご飯食べたりした時間ってなんだったんだろう? って落ち込んだ。彼に限らず、人間と……男性と理解し合ったり、結婚するところまでわかり合ったりすることって、なんて大変なんだろう」 「そうじゃない人もいますよ」 「そうじゃない人はきっともう結婚してるんだよ。あとに残ったのは彼のような、一見、優しくていい人に見えるけど、勝手に人を判断したり、決めつけたり、人と話し合ってわかり合おうとしない人だけなんだと思う」 「そうかなあ」 「学生の頃とかさ、なんであんなに簡単に人と付き合えたんだろう? あの頃は別にむずかしくなかったよ」 返事がうまくできなかった。婚約破棄された相手とは学生の頃から付き合っていたからだ。 「ねえ。私、本当に別にえり好みとかしてないし、特別なことを望んでいるんじゃないよ。でもさ、普通に真面目な人と付き合ったら、三年とか五年とかすぐに経つじゃん」 これには大きくうなずいた。 「学生の頃から付き合ってた人と五年くらい付き合って別れて、次の人と三年くらい付き合って、でも結婚まで行かなくて……そしたら、すぐに三十になっちゃう」 心春には自分の恋愛については話していなかった。だけど、怖いくらいに、その状況と一致していた。 「真っ当に生きれば生きるほど、なんだか、幸せが遠のいていくような気がする」 「そんなことないですよ……」 たぶん、心春にも、その場しのぎの慰めに聞こえただろう。 最後に、心春は言った。 「それからカレーが食べられなくなったの」 「そうなんですか」 「あの匂いや見た目が嫌になって、つらさがこみ上げてくるの。カレーがテレビに映るだけで消してしまう。あと、結婚とか恋愛とかそういうのが映るだけで胸が痛くなる」 途中から、明日仕事がある心春をベッドに寝かせた。その横で話を聞いていたら、自然に彼女は眠ってしまった。 心春には申し訳ないが、彼女の話を聞いているうちにカレーが食べたくて食べたくてしかたなくなった。それで来たのが、立ち食い蕎麦屋でありながら、インドカレーを出し、早朝から酒も飲めるこの店だ。 そばとカレーが一緒に並んでいるのを見て、どちらから先に食べようかと悩んだ。のびてしまうことを考えたら蕎麦の方がいいのかもしれない。だけど、今朝はどうしてもカレーが食べたかった。 ――ここはわがままに生きてみよう。 黄色いインドカレーにスプーンを突っ込んで、まずは一口頬張る。 「うまー。うまーい」 思った以上にちゃんとしたインドカレーだ。トマトとバターの香りが広がる。酸味と甘味のバランスがいい。たぶん、彼女が作ったのはこんなカレーだったんじゃないだろうか。 このカレーにはそばつゆも入っている、と聞いたことがあるけど、正直それはあまり感じない。だから、「本格和風インドカレー」の「和風」は取ってしまってもいいような気がした。 いずれにしろ、おいしい。 カレーを一口いったあと、八海山を一口。 ――あ、癖がない。八海山てこんなに癖のないお酒だったっけ。これはカレーにも蕎麦にも合いそうだ。 そこでやっとたぬきそばを口にした。 これまたおいしい。甘味のあるだし、ふやけた天かす、そして、蕎麦の一体感が素晴らしい。 また八海山を一口。これはやはりすごく合う。 ――カレーにも合うけど、蕎麦には勝てないかなあ。 カレーを食べて飲んで、蕎麦を食べて飲んで。 本当に何もかもおいしくて、心から食べたいものが食べられて、幸せな朝だった。 最初に、こんなに食べられるかなあ、と心配したのが嘘のように、あっという間に平らげてしまった。 ――絶対、また来よう。次は生姜天やごぼう天、コロッケとか、気になる揚げ物を全部のせるんだ。あと、冷たい蕎麦も試してみたい。 立ち食い蕎麦屋を出ると、師走(しわす)の冷たい風が恵麻の首筋を冷やした。 おいしいカレーや温かい蕎麦、冷たい日本酒を口にしていた時には忘れていた、心春の言葉が頭に思い浮かぶ。 もう、私、一生、結婚はできないんじゃないかと思って……。 恵麻は慌てて、激しく首を振る。その考えを振り払うように。 ――別に結婚が人生の目的でもないし、終着点でもない。だけど、一人で生きていく覚悟もないし、仕事もない……。 振り払っても振り払ってもしつこくまとわりつく思いを断ち切るように、恵麻は地下鉄の階段を駆け下りた。出勤する人たちが下からまるで自分を遮るように上がってきて、朝が始まっていることに気づいた。 参考文献 『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』稲田俊輔著 柴田書店(つづく) 次回は2023年3月1日更新予定です。
1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。