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  • 第四酒 新橋 餃子 2023年4月1日更新
 恵麻(えま)が仕事を終えて、夕方、シェアハウスに帰ってくると、共用の居間で祥子(しょうこ)と亀山(かめやま)が話していた。祥子はいつものようにエプロン姿でキッチンの前に立ち、亀山は食卓のテーブルについている。二人は恵麻の顔を見ると、ぴたりと話をやめた。
「……お帰りなさい。お疲れ様」
 祥子が無理に笑顔を作っているような顔を向けた。
「今日はどうだった?」
 亀山が尋ねる。まるでお父さんみたいだと恵麻は思った。
 その日は「お助け本舗(ほんぽ)」の仕事ではなく、学生時代の友達に紹介された単発のアルバイトに行ってきたのだった。
「別に……友達が働いているカフェで、今日はどうしても人が足りないっていうので、一日だけ入ったんです」
「そう」
 二人は表面上はにこにこしながら、恵麻の顔を見ている。
「それは大変だったわね」
「いえ、あの……そうでもないです」
「でも、初めての店で、知らない人たちと働くなんてむずかしいでしょう」
 私にはとてもできない、と祥子が感心したようにうなずく。
「あたしはただ、料理を運んだり……皿洗いしたり、誰にでもできることをしただけなので大丈夫です」
「立ちっぱなしで疲れたんじゃないか」
 亀山が言う。
 なんだか、二人がやたらと気を遣っている雰囲気……そして、お互いに目を合わせないようにしているのが妙に不自然だ。
「そう言えば、この間は悪かったな」
 亀山が急に謝った。
「どうしたの?」
 祥子が尋ねる。
「水沢(みずさわ)さんに行ってもらったパチンコ中毒の女性なんだけどね……」
 亀山は南池袋(みなみいけぶくろ)の杏奈(あんな)のところでのいきさつを祥子に説明した。
「水沢さんの対応がよくて、本当に助かった」
「いえ、ただ、家まで送ってあげただけですけど……」
「あとで彼女から申し訳なかったって連絡が来てね……旦那さんには自分からちゃんと話したって」
 その話はあれから数日後、亀山から教えてもらっていた。
「この仕事にもかなり慣れてきたんだな」
「すごいね。私だったらどうしたらいいのかわからなかったかもしれない。そっと逃げちゃったかも」
 祥子は小さく肩をすくめた。
 もしかして、あたしが他の仕事をしたから心配してるのかな? 見守り屋の仕事をやめるんじゃないかと。それとも、ここから出て行くと思ったりしているのか。
 説明した通り、カフェのバイトは今日一日だけだし、二人が気を揉(も)むようなことは何もないのだけど。とはいえ、向こうから尋ねられれば答えるが、何も聞かれないのにわざわざ申し開きをする必要もない。
「じゃあ……失礼します」
 恵麻は軽く頭を下げて、自分の部屋に行こうとした。
「あ、ちょっと待って」
 祥子が恵麻を呼び止めた。
「いや、祥子、それはまだ」
 今度は亀山がそれを止める。
 恵麻は二人の間に立って、顔を交互に見た。
「いいえ、早いうちに話しておきましょう」
 祥子がきっぱり言うと、亀山は黙った。
 いったいどういうことなのだろう……。
「ごめんね。よかったらちょっとお茶でも飲まない? 私淹れるから」
 祥子が電気ポットに手をかけた。
「何か、あったんですか」
「いや……まあ座って」
 亀山が自分の前の席を指さして、口ごもる。
 祥子が三つのカップに紅茶を淹れている間、不自然な沈黙があった。
「さあ、どうぞ」
 祥子は恵麻の隣に座った。
「ごめんね、疲れているのに」
「いいえ……」 
 恵麻はカップを引き寄せて、熱い紅茶を飲んだ。この雰囲気は不可解だが、冷たい風の中を歩いてきた身にはことのほか沁(し)み、ほのかに甘くておいしかった。
「蜂蜜紅茶。新しく買ってきたの。置いておくから自由に飲んでいいからね」
「ありがとうございます」
「……実はね」
 二人が同時に言った。
「いや」
「あの」
 彼らは目配せして、結局、亀山が口を開いた。
「……今度の金曜日、見守り屋の仕事をしてくれないかな」
「もちろん、いいですけど」
 恵麻はうなずいた。仕事はあればあるだけ嬉しい。
「ただ、その相手がな、男なんだ」
「え」
 驚いた。これまで、恵麻は女性の部屋にしか行ったことがなかった。漠然と、この仕事では同性の部屋にしか行かないものと思い込んでいた。しかし、確かに、最初からそういう契約や決まりがあったわけではない。
「でも、大丈夫」
 祥子が慌てたように口をはさむ。
「絶対に、危ない人じゃないから。安全というか、そういう心配はない人だから」
「どうしてですか。どうして、そんなふうに言えるんですか」
「相手は俺たちの……祥子の知り合いだから」
「じゃあ、祥子さんが行けばいいじゃないですか」
 二人は顔を見合わせた。先に口を開いたのは祥子だった。
「それは……知り合いが行ったら、ただの訪問になっちゃうでしょ。見守りにならないから」
「なるほど」
 その言葉にある程度納得はしたものの、亀山の表情がどこか解せなかった。彼はなんとも言えない目つきで祥子を見ていた。
「相手はどんな人なんですか? お年寄りですか」
「ううん、恵麻さんに比べたらずっと年上だけど、四十代前半かな。名前は角谷(かどや)って言うんだけど……」
「あたしが行って大丈夫なんですか」
「うん。彼の依頼はお助け本舗の女性に見守り屋に来てもらいたい、っていうことだから」
 亀山は、恵麻の顔を見ないようにしてうなずいた。その目は祥子の方を見ていた。祥子はぼんやり、窓の外を見ていた。

 角谷一希(いっき)という依頼人の家は、新橋(しんばし)からも虎ノ門(とらのもん)からも同じくらいの距離だった。
 とりたてて大きな特徴のない、十四階建てのオートロックのマンションだった。エントランスのところで、教えられた部屋の番号と呼び出しボタンを押すと「はい」と確かに男性の声がした。
「お助け本舗から来ました」
「え。あ、はい」
 その声にどこか、驚きというか、戸惑いが交じっているような気がした。しかし、続いて発せられた声はもう落ち着いていた。
「六階まで上がってきてください」
 部屋の前でもう一度チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい」
 角谷という男は柔らかい笑顔で迎えてくれた。
「ええと、あなたは……」
「水沢恵麻と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
 彼は足下にスリッパを置いてくれた。
 部屋はそう広くはなく、玄関を入ってすぐ、ダイニングキッチンがあり、右手にトイレとバスルームがあった。奥が寝室になっているようだ。
 ダイニングスペースにソファセットとテレビがあり、恵麻はそこに通された。
「……部屋が狭くてすみません」
 彼は恵麻と距離をとるようにキッチンの方にあるしごく小さなテーブルの前の椅子に腰掛けて言った。たぶん、普段はそこで食事を摂るのだろう。椅子の背はキッチンにぴったりくっついていた。
 できるだけ、恵麻とは離れていよう、離れなくては、というような彼の気遣いを感じた。と同時に、ならどうして自分をここに呼んだのだろう、という疑問も抱いた。
「ここは仮住まいのような部屋なので、あまりたいしたものは置いてませんが、何か飲まれますか。お茶と水くらいならあります」
 彼は冷蔵庫からペットボトルの飲み物を出し、恵麻の前に置いた。そして、すぐにまた、椅子に戻った。
 恵麻がお礼を言って、ペットボトルのウーロン茶を手にすると、沈黙が訪れた。
「ええと……どうしたらいいかな」
 彼が再び戸惑ったように言った。
 そんなに困るようなら、どうして呼んだのだ、とまた疑問がわいた。
 彼は白いワイシャツに濃い色のズボンをはいていた。スーツの上着を脱いで、ネクタイを外したのだろう。彼が言うように、実際にここは仮住まいで、仕事に必要なもの以外は置いてないのかもしれない。
「皆さん、何か、してもらいたいことがあるんですが……普通は。話を聞いて欲しいとか、寝ているところを見ていて欲しいとか」
「なるほど」
 彼は生真面目にうなずいた。
「では、そこのドアを開けると、寝室があります」
 指さした先は、恵麻がさっき寝室かなと思った場所だった。
「中にベッドがあって、一応、ちゃんとシーツなどは替えてあるので不潔ではありません。普段僕が使っているので、多少臭いなどあったらすみません。そこを使って休んでください。あ、ドアには内側から鍵がかけられるので、それを忘れずにかけてください」
「で?」
 恵麻は思わず尋ねた。
「で?」
 角谷は首を傾げた。
「で、あたしは何をすればいいんですか」
「だから、休んでください。ゆっくりと」
「そんな……」
「朝になったら、僕はたぶんいません。鍵はこのテーブルに置いておきますから、エントランスのところの郵便受けの中に入れておいてください」
「どうしてですか?」
「鍵は二つあるから大丈夫です。僕は自分の鍵を使いますから」
「いえ、そういうことじゃなくて、どうして、何もせずに寝ているだけでいいんですか」
 角谷はふっと微笑んだ。その笑みを見て「お、なかなかいい男じゃん」と恵麻は思った。地味な顔だけど、整っている。
「あなたは毎日、見守りの仕事で疲れているでしょうから、ゆっくり休んでください。お金も鍵と一緒に置いておきますから」
 いや、と彼は言って立ち上がった。
「あなたも気詰まりでしょう。このまま僕は外に出ます。他の場所で寝ますから、一人で休んでください」
 彼は傍(かたわ)らにあったスーツの上着を手に取った。本当にそのまま出て行ってしまいそうだった。
「いえ、そんなに気を遣わないでください。というか、意味がわかりません。あたしは見守るためにここに来たのに、依頼人の方が外に出て行くなんて」
 その時には、恵麻はすっかり……この妙に親切な客に気を許していた。祥子たちが言うように、危険なことはまるでなさそうだった。
「ここにいてください。本当に大丈夫ですから。でなければ、あたしの方が出て行きます」
 角谷は恵麻の顔をじっと見て、まいったな、とつぶやいた。
「何もせずにここで寝て、それでお金をもらえるとか、ちょっと意味がわかりません」
 それに、この仕事を頼んだ時の祥子と亀山の様子も少しひっかかる。
「そうですね、ごめんなさい」
 彼はまた椅子に座り、「じゃあ、少し話でもしましょうか。僕の話に付き合ってくれますか」と言った。
 恵麻が何か言う前に、「失礼ですが、おいくつですか」と質問された。
「二十六です」
「お若い」
「そうでもありません」
「水沢さんは、亀山さんのところに前はいらっしゃいませんでしたよね。いつ頃から……?」
「そろそろ三ヶ月になります」
「どういういきさつであそこで働くことになったんですか。差し支えなければ、ですが」
 恵麻は婚約破棄のあと、コロナにかかった自分を亀山たちが助けに来てくれたことを話した。
「それで、お二人に仕事を紹介されて。今はそこでお世話になってるんです。仕事も住むところも」
 まるで、面接試験のようだと思った。
「なるほど。じゃあ、今はあの……祥子さんの目黒(めぐろ)の」
「はい。シェアハウスに住んでいます」
「シェアハウス、うまくいってますか」
「うまくかわかりませんけど、満室です」
「それはよかった……祥子さんはお元気ですか」
「はい」
 彼は、それはよかった、とは言わなかった。ただ、一瞬、視線を泳がせた。
 角谷は聞き上手な人で、気がつくと恵麻は自分のこと……北海道での学生時代のことや、元婚約者の悪口を話してしまっていた。彼は適切なところで笑い、適切なところでうなずいた。
 しばらく話しているうちに夜が更け、恵麻が少し眠くなってくると、彼は言った。
「そろそろお休みになってください」
「……いいんですか?」
 恵麻は尋ねた。
「はい」
「本当に?」
 角谷はゆったりと微笑んだ。
「本当に」
「あたしは何もしていませんが」
「あなたが来たことで、答えは出ました」

 目が覚めると、やはり彼は消えていた。
 テーブルに鍵とお金が入った封筒が置いてあった。通常の料金より少し多めの金額だった。封筒の裏には、ありがとうございました、角谷、ときれいな字で書いてあった。 
 なんだか、よくわからない晩だったな、と恵麻はそれをバッグに入れながら思った。 
 マンションを出て、新橋の方に歩いて行く。このあたりに来ることが決まった時、前から目をつけていた店を思い出したのだ。
 ニュー新橋ビルの地下に下りた。
 時間は九時を回っていたが、ほとんどの店が閉まっていた。自分の目当ての店もまだやってないのでは?と不安になる。
 地下街の細い道をぐるぐると歩き回るが、いつまで経っても店が見つからない。もう、これはダメだな、と諦めかけたところで、やっと一軒だけ明かりがついている店が目に飛び込んできた。
 店の外に餃子(ぎょうざ)を中心としたメニューが大きく貼り出してあり、目当ての店だとわかる。間口は三メートルに満たない、小さな店だった。
 店内に入ると、カウンターの中で準備している女性と、テーブルを拭いている女性が同時に振り返った。
「……やってますか?」
「はい。カウンターにどうぞ」
 少し高いカウンターの席に座った。テーブルの上に置いてあるメニューをじっくりと見た。
 早朝から本格餃子が食べられることで有名な店だった。しかもアルコールとともに。焼餃子だけで五目、しそ、チーズ牛肉、しそチーズ、にら、高菜……など八種類。水餃子もほぼ同じだが、こちらにはチーズ入りのメニューがない。茹でると湯に流れ出てしまうからかもしれない。それとも味の相性が悪いのか……その代わりに、豚肉白菜やピーマン豚肉といった餃子があった。
 他にもおつまみとして、味付け玉子、枝豆、ザーサイ、韓国のり、冷奴、塩らっきょう……テーブル上のメニューだけでもさまざまなお惣菜が三十種類近くもあるのに、壁にもびっしりと料理名の書かれたホワイトボードがかけられている。それでもまだ足りないのか、他にも多数取り揃えてあります、とボードのはじに書いてあった。
 昼はランチ定食があり、焼餃子定食はもちろんのこと、マーボー丼、肉じゃが定食、さんま定食、コロッケ定食……などもあるようだった。この小さな店にいったい、どれだけの食材が詰め込まれているのだろう、とふと考えてしまう。
 おつまみはどれも魅力的だけど、とにかく今朝は餃子だ、と思って、じっくりと見る。焼餃子は必須だけど、水餃子も捨てがたい。
 飲み物は、ビール、サワーを中心に、ホッピーや梅酒、日本酒など、一般的な居酒屋にあるラインナップが揃っている。中国酒があるのが中華料理店らしい。
 テーブルを拭いている女性に声をかけて注文した。
「五目焼餃子と、にら入り水餃子をください……それから、ビールも」
 やっぱり、餃子にはビールだろう。
 彼女はカウンターの中の女性に、異国の言葉で声をかけた。中国語のようだった。
 それまで、冷蔵庫や冷凍庫の中を整理したり、届いた荷物をそこに詰めたりしていた女性が調理を始めた。
 その音を聞きながら、ぼんやりと昨夜の客……角谷のことを考える。
 あなたが来たことで答えが出ました。
 いったい、どういう意味なのか。
 恵麻は雑談の中で少しだけ聞いた、角谷のことを思い出そうとした。
「角谷さんはここに住んでいるんですか?」
 便利な場所だし、新しそうなマンションだけど、その部屋にはどこか、人が住んでいる住処という感じがしなかった。
「いえ、実は、大阪にも家があって、最近は東京で仕事がある時だけ、ここを使ってるんです」
「ああ、だから」
「だからなんですか?」
 彼はいたずらっぽく、ちょっと笑った。
「なんだか、生活感のない部屋だと思って」
「そうですか。まあ、ここもそろそろ畳もうかと思っているんです。東京に来ることもそうなくなってきたし、こっちに来たらホテルを取ればいいことですからね」
「確かにそうですね」
「でも、ここを借りるのをやめたら、完全に切れてしまう」
「何とですか?」
 角谷は一瞬、言葉に詰まったのち答えた。
「……東京と」
「ふーん」
「だから、今夜はそれを決めたかったんだけどね」
「決める? それ、あたしと関係してますか」
「関係しているとも言えるし、関係してないとも言えるね」

「お待たせしました」
「ありがとう」
 焼き上がってきた餃子は五個。こんがり色づいた美しい羽根つきだった。皿からはみ出るほど大きな羽根だ。しかもてらてら油で光っている。
 ――こういうタイプか……最高だな。
 丁寧に端の一つを離す。こういうやつは時々、餃子同士がぴったりくっついて、皮が破けてしまうことがあるから。
 しかし、そんなやわな餃子ではなかった。箸(はし)でつまんで裏返してわかったのだが、皮に厚みがあってもちもちしている。簡単には破れない。
 ラー油をたらした酢醤油につけて頬張ると、あつあつの餡(あん)と汁が口の中ではじけた。
「あうっ」
 わかっているのに、うめいてしまう。そのやけどしそうな舌の上にビールを慌てて流し込む。
「おいしい。最高」
 一見いい男風で優しいけど、決してこちらに気を許さない、年上の男性の部屋で何もないまま一夜を明かし、ぼんやりしながら食べて飲むものとしては最高ではないだろうか。
 あなたが来たことで答えが出ました? 知らねえよ。
 恵麻は少し悔しいのだった。さすがに自分にもわかる。祥子と亀山と角谷の間に何かあって、そこから自分は外されているのが。
 ――もう、考えるのは止めよう。
 そう思ったところで、水餃子が運ばれてきた。
 こちらは小鉢にちんまりとした、五つのつるりとした餃子が盛られている。焼餃子ほどの派手さはない。
 ――両方、焼餃子にすべきだったかなあ。
 一瞬、そんなことを考えたけど、酢醤油をつけて口に頬張るとすぐに忘れた。
 ――やっぱり、この何もかもつるつるむちむちとした食感最高。
 焼餃子と水餃子、一見羽根の部分くらいしか違わないように見えて、実は皮の部分もかなり違う。湯を通した皮は柔らかく、でも、コシは強くなっている。
 にら入り水餃子は、思ったほどにんにくや生姜(しょうが)はあまり感じられない。もしかしたら、にらを生かすために控えているのかもしれない。ニラと水餃子のもちもちした食感がとても合う。
 そこからは焼餃子と水餃子を交互に食べながら二つの違いを楽しんだ。それぞれ残り二つずつになったところでビールが尽きた。
 ――もう少し飲もう、まだいけるはず。
 メニューをじっくり見て、ウーロンハイに決める。店員さんを呼んで頼んでいると、スーツケースを持った男性が入ってきた。
 ――バスで来たのかなあ。それとも飛行機で来て電車でここまで移動したのだろうか。
 彼は、ビールと餃子、おつまみがセットになったちょい飲みセットを頼んでいた。
 ――これから仕事なのだろうか。それとも、観光? いや、お酒を飲んでいるんだから、あたしのように何かの仕事帰りなのかもしれない。
 さらに、若い女性二人と男性が入ってきた。店員さんに「あとから三人来るから」と声をかけ、奥のテーブル席に座った。常連なのかもしれない。
 この店にはちょっとした、都市伝説のような噂があった。あるテレビ局の女子アナやスタッフたちが朝のニュース番組を終えたあとにやって来て、酒や餃子を楽しむという噂だ。確かに、彼らも早朝の仕事だから、この時間が仕事終わりの食事になるので、お酒を飲んでもおかしくはない。
 そっと後ろを振り返って彼らの様子を観察した。女性たちから華やかな感じはするけれど、普通の会社員にも見える。マスクをして顔の半分が隠れていることもあり、そのニュース番組を見たこともない恵麻にはまったくわからなかった。

 新橋から山手(やまのて)線に乗って、目黒まで帰った。
 ほろ酔い気分でシェアハウスのドアを開ける。他の住人は皆、普通の会社員だからこの時間は誰もいないことが多い。だから居間に入った時、一瞬、驚いて息が止まりそうになった。
 食卓のテーブルにつっぷしている女性がいた。恵麻の気配を感じたのか、おもむろに顔を上げる。
 祥子だった。
「おかえりなさい」
「ただいま……戻りました」
 驚いたのは、彼女がそこにいたことだけではなかった。そのやつれた顔を見て、恵麻は悟った。
 その人が自分同様に、いや、たぶん、自分以上に寝ずに、昨日からそこにいたことを。
 彼女はここでずっと「見守って」いたのだ。
「お疲れ様」
 いや、本当に疲れているのは祥子さんでしょう、と思いながら、「はい」と答えた。
「お茶でも淹れましょうか」
 この間の再現のように、祥子は言った。本当はすぐにでも部屋に戻って寝たかったけど、拒めなかった。
 祥子はゆっくりと立ち上がり、キッチンに立った。
「どうだった?」
 さりげないふうを装っている、と思うのは考えすぎだろうか。
「……角谷さんですか?」
「うん」
「なんというか……まあ、普通でした。ちょっと話をして、あとは寝ていいって言われたので、あたしは寝てしまって、起きたらいなくなってました」
「そう」
 その声はため息のようにも聞こえた。
「あの人、なんか言ってた?」
 後ろ姿の彼女からは、何の感情もうかがえなかった。
 ちょっと考えた。昨日から、自分が関わらされていながら、どこか蚊帳(かや)の外に置かれていることに怒っていた。だから、今も「は? いったいなんのことですか? 何が聞きたいんですか? 角谷さんも口があるんだから、いろいろ話せますよ、そりゃ」とか言ってやりたい気持ちになった。だけど。
 祥子の細い肩を見ていたら、できなかった。
「……あなたが来たことで、答えは出ました、って」
 祥子の身体がびくん、と震えた。
「わかった、って言ってました」
「そう」
「大丈夫ですか?」
 彼女は、やっぱり後ろを向いたままうなずいた。

(つづく) 次回は2023年5月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 原田ひ香

    1970年、神奈川県生まれ。2006年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK 創作ラジオドラマ大賞受賞。07年には「はじまらないティータイム」で第31回すばる文学賞受賞。著書に『ランチ酒』『ランチ酒 おかわり日和』『ランチ酒 今日もまんぷく』(小社刊)や「三人屋」シリーズ、『三千円の使いかた』『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』『古本食堂』『財布は踊る』『老人ホテル』『一橋桐子(76)の犯罪日記』『DRY』などがある。