岩井圭也
ベッドの上に幽霊がうずくまっている。上手(かみて)から今日子(きょうこ)が現れると、幽霊はおもむろに顔を上げて微笑する。幽霊 終わった?今日子 うん。幽霊 時間、かかったね。今日子 いろいろ話し合ったから。離婚することには、向こうも割と早めに同意してくれたけど。時間がかかったのはローンのこととかあったから。今日子はカバンを置き、床に腰を下ろしてため息を吐(つ)く。幽霊 疲れてるね。今日子 身体(からだ)は疲れたよ。でも、心は疲れてない。幽霊 それはよかった。よかったんだよね?今日子 うん。あれ以上擬態していたら、本当の自分を忘れてたと思う。素の自分を出せるようになったのは、あなたのおかげだよ。幽霊の顔から微笑が消える。今日子はそれに気づいていない。幽霊 今、私のおかげだって言ったよね。今日子 そう。あなたのおかげ。幽霊 本当にそう思ってる? もしかして、また「いい人」に擬態していない?今日子 ……えっ?幽霊 私によく思われたいとか、そう口にできる自分が素敵だからとか、そういうこと考えて発言していない? 私のおかげだって言った、その発言は本当にあなたの本心なの? 演技じゃない?今日子 ちょっと待って。今日子は困惑しつつ、立ち上がる。今日子 なんでそんなこと言うの。本心に決まってる。あなたには感謝してる。幽霊 だったら証明して。それが嘘(うそ)じゃないって。今日子 無茶苦茶なこと言わないで。幽霊 私はあなたと友達になりたいだけ。私の前では、何も装う必要はない。自分のことだけを考えて、思うように行動して。そうすれば私もあなたを信じられる。余計なことを考える必要はない。ただ、素直に動けばいいの。「いい加減にしてよ」 貸しスタジオに、蒲池(かまち)の悪態が響いた。 通し稽古の最中だった。すでに本番は来週に迫っている。前売りの売れ行きも好調だと聞いていた。バンケットの公演というだけでなく、私が出演することもプラスの材料になっているらしい。 蒲池の視線の先には、城(じょう)がいた。 「……すみません」 城にしては珍しく、素直に謝っている。怒られた理由が明白だからだろう。 彼女はこの期(ご)に及んで、台詞(せりふ)を飛ばしていた。しかも今日だけで三度目だ。今回の台本にはそこまで複雑なやり取りも、長台詞もない。城と同じ舞台に立つのは初めてだけど、それなりに場数は踏んでいる。今さら、そんな初歩的なミスをする役者とは思えなかった。 城が飛ばしたのは、母との会話の場面だった。相手役の蒲池が頭を振る。 「実質、あなたが主役なんだから。しっかりして」 城は「すみません」と繰り返す。見かねた名倉(なぐら)が間に入り、城をスタジオの隅に連れていった。蒲池は肩をすくめ、私のほうに近づいてくる。 「遠野(とおの)さんも他人事(ひとごと)じゃないよ」 横に立った蒲池が耳元でささやいた。 「私?」 「自分でもわかってるでしょう? あなた、まだ芝居にブレがある」 無言で息を呑(の)んだ。誰にも見抜かれていないと思っていたが、この人の目はごまかせていなかった。 実際、私はまだ演技プランを固められていなかった。こんなことは初めてだ。 名倉の言う通りになったのは癪(しゃく)だけど、幽霊という特殊な役柄が枷(かせ)となっているのは事実だった。死者でも何でも、私なら演じられる自信があった。けれど演じれば演じるほど、リアリティから離れていく。幽霊を演じること、それ自体が矛盾をはらんでいる。演じるも何も、端(はな)からそんなものは実在しないのだから。 「できないなら役者辞めな。下手(へた)な芝居見せるくらいなら、公演中止にしたほうがましだね。それが誠実ってものだよ」 腹の底が冷たくなるような声音だった。 なぜ蒲池が辛(つら)く当たってくるのか、真意はわかっている。彼女は私が舞台に立つほど、死に近づくと思っている。だからこそ私を芝居から遠ざける。しかしそれは無駄な試みだった。芝居を辞めるのは死ぬ時だけだ。 名倉との会話を終えた城は、青い顔で壁にもたれかかっていた。無視できず、正面から歩み寄る。 「大丈夫?」 「まずいかもしれません」 城は笑っているが、それがなかば冗談ではないことくらいわかる。 「体調悪い?」 「そういうわけじゃないんですけど。演じているうちに酔ってくるんです」 城は私の顔を見ず、宙を見つめていた。 「日常のなかで演技することは当然だと思ってました。でも『幽人(ゆうじん)』を読んでると、そうじゃない生き方もあるんだって思い知らされるみたいで……なんか、自分の人生って何なんだろうって考えちゃって」 改めて、この作品の恐ろしさが身に染(し)みた。ありきたりな言葉しか思いつかないけれど、それでも励ましを口にする。 「間違ってない。演技することは当たり前だから」 「そうなんですかね。本当は私たち、役者になるべきじゃなかったのかもしれない」 城の悩みは深刻だった。このままでは彼女のほうが舞台を降りてしまいそうだ。 「名倉さんは、なんて?」 「難しい役なのはわかってる。でもこの山を越えれば、絶対にものにできる。だからあと少し踏ん張れ、って」 何の効力もない言葉だけど、名倉もそうとしか言えないのだろう。 演出家としての名倉の弱みは、役者の力に頼りすぎている点だ。当て書きは上手(うま)いし、役者の適性を見抜く眼力も優れている。その代わり、役者が壁にぶち当たった時に手を差し伸べることができない。私も人のことは言えない。他人の気持ちがわからないから、型通りのことしか口にできない。 公演まで日数はない。城の戸惑いも、私の自問も置き去りにして、稽古は進んでいく。 私は自分の出番を終え、片隅で芝居を観(み)ている。城の、神山(かみやま)の、蒲池の、本番さながらの熱演を観察している。 ふと、視線を感じた。 向かい側の壁沿いに、女が立っていた。半袖のトレーナーに半ズボン。中年の女が、私にまっすぐな視線を向けていた。母だった。 ――見ないで。 反射的に、私は顔をそむけた。自宅以外で母を見るのは初めてだった。そういえば、母が亡くなったのも夏の盛りだった。 ――私を見ないで。 その場にしゃがみこんで、顔を伏せた。瞼(まぶた)を閉じても母の視線を感じた。他人からの視線には慣れているはずだった。見られることが仕事なのだから。それなのに、不快感を振り切れない。肌を這(は)う虫のようだ。寒気がする。あんなの、幻(まぼろし)だ。実在してはいないんだ。そう言い聞かせても身体の反応は収まらない。 「遠野さん?」 近くにいたスタッフに声をかけられ、顔を上げた。 「どうかしました?」 「平気です。ありがとう」 私は逃げるように、スタジオのドアを開けて廊下に出た。そのつもりだった。 ドアを開けた先は、私の自宅だった。汚れたキッチンの手前に母が立っていた。 「バカだねえ」 もはや聞き飽きた言葉だった。 「私はね、ずうっとあんたを見てた。芝居をしている時も、部屋にいる時も、眠っている時も、ずっと。逃れられないんだよ」 私は、言葉にならない悲鳴を上げていた。 何を言えば消えてくれるのか、見当がつかない。私は喚(わめ)き散らし、頭を掻(か)きむしるしかなかった。無理やり感情を爆発させて、目の前のものから意識を逸(そ)らす他に、楽になる術(すべ)がなかった。 我に返ると、そこはスタジオだった。 名倉が、城が、神山が、蒲池が、その場にいた役者やスタッフが、誰もが私を見ていた。耐えがたいほどの視線が注がれていた。私は見られている。私は、遠野茉莉子(まりこ)を演じなければならない。 「見るなっ!」 そう叫んで、今度こそ、私はその場を飛び出した。廊下に出ても、エレベーターのなかでも、タクシーに乗っても、視線は追いかけてくる。誰かが私を見ている。私は演じ続けなければいけない。 蒲池の言葉が蘇(よみがえ)る。 ――役者を辞めたほうがいい。 役者を辞めるか、死ぬか。生きている限りは演技から逃れられない。誰かが私を見ているから。でもそう思っている、この思考は本音なのだろうか。これもやっぱり、「遠野茉莉子が考えそうなこと」を考えているだけではないのか。だとしたら、本当の、本当のところでは何を考えているのだろう。 タクシーを降りて自室に逃げ込んだ私は、懸命に心の内側を覗(のぞ)きこんだ。すべてを脱ぎ去って、仮面を外して、それでも残るものがあるのなら――。 けれど、どれだけ考えても本心は見つからなかった。 私の人格は、とっくに遠野茉莉子と境目がなくなっている。 それでも、私はまだ正常だ。私はまだ演じられる。上手から現れた今日子は、すぐに自室の異変に気がつく。今日子 どこ? いないの?今日子は血相を変えて、無人の室内を探し回る。しかしどれだけ探しても、幽霊はいない。徐々に今日子の顔色が変わっていく。今日子 ねえ。どうして。嫌だよ。消えないでよ。何が気に入らなかったの。何が悪かったの。教えてよ。一人にしないで。私、また人間に擬態しないといけなくなっちゃう。このままじゃ人前になんて出られない。幽霊はどこにも見当たらない。その事実に絶望した今日子は、泣き叫ぶ。公演初日の午前、ゲネプロがはじまった。 本番は同日十八時から開演する。数時間後には本物の観客を入れて、この舞台に立つことになる。 城はどうにか不調を立て直したらしい。つまらないミスを犯すこともなく、今日子という難役を着実に演じていた。他の役者たちの芝居も出来上がっていた。私だけが、当日になってもまだ迷っていた。 たぶん、私はこの役を演じるべきじゃなかったのだと思う。『幽人』を選んだ私の目に、狂いがあったということだ。あるいは、『幽人』という作品そのものが人を狂わせるのかもしれない。 それでも周囲の目をごまかす程度の演技はできた。今日に至るまで、蒲池以外の人間から演技の穴を指摘されたことはない。それどころか、口々に賞賛してくれた。皆、立ち稽古で私が絶叫したことなんか忘れたみたいに。 今回も、宮下(みやした)劇場の特徴である移動舞台を活用することになっている。一面は今日子の自室に固定し、もう一面はダイニングや職場として使う。今日子の自室のほうには、せり上がりの仕掛けも用意してあった。奈落と呼ばれる舞台装置で、幽霊の登場や退場に使用する。つまり、この舞台では私専用の装置ということになる。 ゲネプロ前に奈落の下見もした。高さは三メートルほどある。渡部(わたべ)からは「落ちたらただごとじゃ済まないから」と何度も注意されていた。『火焔(かえん)』の千秋楽で足首を折ったことが念頭にあったのだろう。しかし今回の舞台では飛び降りたりはしない。意図的に足を踏み外しでもしない限り、落ちる心配はなさそうだった。 最初の出番が近づいてきた。早速、舞台下の奈落にスタンバイする。白いワンピースに裸足(はだし)という出(い)で立ちだった。下ろした長い黒髪は地毛だ。 「くれぐれも、気をつけて」 傍に控えている渡部がしつこく念を押した。私は「もちろん」と応じる。 やがて、スタッフの合図とともに奈落がせり上がっていく。約二メートル四方の正方形の板が、するすると上昇していく。たん、という小さい音とともに停止した。客席には、名倉をはじめとした関係者が数名いるだけだ。 上手から城が現れた。足を止め、目を見開いてこちらを見ている。私はゆっくりと、足音を殺して接近する。 「友達になりましょう」 城が後ずさる。 「誰?」 「誰だっていいじゃない」 「何のつもり?」 「私はただ、あなたの友達になりたいだけ。わかってるんでしょう? あなた以外の誰にも、私の姿は見えない。声も聞こえない。ここで話すことは二人だけの秘密」 何かが違う。 これでは、用意された文章を読んでいるだけだ。役柄の声になっていない。どこかしっくりこない。それらしい、「いわゆる幽霊」のイメージをなぞっているだけだ。私がやりたいのは物真似(ものまね)じゃない。演技だ。その人物として生き、その人物として語ること。そうでなければ芝居とは呼べない。 場面が終わると、舞台が暗転し、私は下手(しもて)へと去る。舞台袖で出番を待っている蒲池とすれ違った。 「やめるなら、今だよ」 彼女がささやいた。その顔は真剣だった。 いっそ、蒲池の言う通りにしたほうがいいように思えた。こんな芝居は見せられない。損害はすべて弁償する。だからやめてほしい。そう叫んで土下座するのだ。これまで積み上げてきた信頼は全部失うけど、公演は中止できる。 ショウ・マスト・ゴー・オン。 幕が開けば、何があろうとも最後までやり遂げなければならない。あまりにも有名な演劇界の格言だ。しかしこの格言には、もう一つの意味がある。幕が開く前なら、まだ取り返しがつく。やめるなら開演前だ。 ひっそりとした舞台の真下で、膝を抱えて考える。 私はなぜ、幽霊を演じたいと思ったのだったか。演じがいがあるから? 私に似ていると思ったから? 違う。山本(やまもと)と話した時のことを思い出す。彼女が私なら、やはり同じく幽霊を希望するだろうと言っていた。 なぜか。 <幽霊は誰にも見られないからだ。> 『幽人』では終盤、幽霊が今日子の前から姿を消す。そして二度と現れない。幽霊は今日子の視線を遮断することを選んだ。 そして、私がこの世で最も恐れているもの。それこそが、視線だ。 すれ違う男の視線。カフェで話している女の視線。共演する役者たちの視線。無数の観客たちの視線。そして、母の視線。視線がある限り、私は演じ続ける。与えられた役柄を、遠野茉莉子を、名もなき娘を。 だからこそ幽霊に憧れる。もしもあらゆる視線から解放され、誰にも見られないという特権を得たら。想像するだけで、胸の奥がふわりと軽くなった。顔の皮膚が緩み、血が温(ぬる)むような感じがした。 天国、という言葉が浮かんだ。 生きながらにして天国へ行けるなら、こんな風にゆったりとした気持ちになれるのかもしれない。天国に行けば、この世の苦痛から解放される。家庭からも仕事からも逃れられる。それは、あらゆる視線を遮断できるということだ。誰にも見られないからこそ、天国は安息の地なのだ。 幽霊になるということは、なんという快楽だろう。 脳裏にある妙案が浮かんだ。案、と呼べるほど立派なものではない。だがそれは、私を虜(とりこ)にするには十分なほど魅力的な考えだった。 スタッフたちが動き出した。再度、奈落を動かすためだ。 私は舞台下まで下ろされた板の上に立つ。頭上を見ると、四角い穴の開いた天井が見えた。それは、下から見た舞台の床面だった。 するすると上昇する板の上で、私は微笑している。舞台床面から奈落の底までは、深さおよそ三メートル。飛び降りても確実に死ねるような高さではない。しかし打ちどころが悪ければ、あるいは――まったく可能性がないわけではない。 たん、という音とともに装置が停止する。舞台上には私一人。そこに城が現れる。二人きりの芝居を淡々とこなす。もはや私は、芝居どころではなかった。思いついたアイディアをどう実現するかで頭が一杯だった。 下手から退出した私は、また舞台下で待った。次の出番がやってくる。奈落の板の上に立ってから、傍(かたわ)らの渡部に声をかける。 「そういえば、この奈落ちょっと調子悪いかもしれません」 「そうなの?」 「なんか、傾いてる気がして」 「いったん止めてもらう?」 「みんな集中してるんで、途中で止めるのは……私が舞台に上がったら、いったん下げて確認してもらってもいいですか?」 渡部は深く考えず「わかった」と応じた。その返事に呼応するように、私の身体は上昇していく。三メートル上で板は静止した。城は私に背を向けて、うずくまっている。 「今日子」 はっとした顔で、城が――今日子が振り返った。 「いたの?」 「もちろん。私はずっとここにいる。あなたを見守っている」 数歩踏み出して今日子に近づく。背後から奈落の駆動音がした。私が頼んだ通り、板を下げてくれたらしい。これで舞台には深さ三メートルの穴ができた。 「放っといてよ」 今日子が拗(す)ねたように顔を伏せる。 「どうして放っておけるの。私たち、友達なのに」 私の身体には視線が浴びせられている。名倉や関係者たちの視線。袖から見ている役者やスタッフたちの視線。舞台上にいる城の視線。そして――これまでに浴びてきた無数の視線。射るような、舐(な)めまわすような、胡散臭(うさんくさ)そうな、刺すような、焼き付けるような、数々の視線。 「あんたなんか、友達じゃない。そんなの認めてない」 「そうかな。私がいなくなったら、あなた悲しいんじゃない?」 「悲しくない」 「本当?」 私は踊るように、不規則なステップを踏む。白いワンピースの裾が揺れる。風に吹かれたカーテンみたいに。 「今日子は幽霊なの。私たちどちらも幽霊なら、仲良くなれるはずでしょう?」 奈落との距離を計算しながら、徐々に後ずさる。残り一メートル。自然と芝居の熱量も増していく。 「誰にも見てもらえないというのは、決して悲しいことじゃない。そこには豊かで、綺麗(きれい)で、かけがえのない生活が待っている」 「そんなはずない」 「どうしてわかるの。確かめてみればいいじゃない」 「確かめる?」 城が吐き捨てるように言った。いい芝居だ。彼女は今日子をつかんだのだろう。残り三十センチ。視界の端で、客席の誰かが立ち上がるのが見えた。名倉だ。私の意図に気付いたのだろうか。だがもう遅い。 「あなたも一度、幽霊になってみればいい」 私は最後のステップを踏んだ。 勢いよく右足を踏み、胸を反(そ)らせ、背中から奈落へと落ちていく。ふわっ、と身体が浮き上がって、頭が下になった。舞台下の雑然とした風景がさかさまに映り、上へ上へと流れていく。身体は落下しているのに。 落ちていた時間は、正味一秒くらいしかなかったと思う。けれど床に叩きつけられる直前、確かに見た。悲しげな顔をした母を。呆然(ぼうぜん)と立ち尽くし、落ちていく私を見ている母を。私は心からの笑顔で、母に告げた。 「さようなら」(つづく) 次回は2024年3月1日更新です。
1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第九回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。他の作品に『夏の陰』『プリズン・ドクター』『水よ踊れ』『この夜が明ければ』『竜血の山』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』『完全なる白銀』がある。