物語がつまった宝箱
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  • ガゼボの晩(1) 2019年10月15日更新
 歯の矯正をするために、デンタルローンを組んだ。リスのように二本だけ飛び出た上の前歯が、子どものころからわりと気になっていたのだ。下の歯もきれいとは言い難(がた)い並びだったので、この際、全部きれいにすることにして、そしたら思いの外(ほか)お金がかかって、だからローン。五年間支払いを頑張ればうつくしい歯並びが手に入るなら、まあいいか。月々の支払額や、これから始まる治療のことを考えながらサインをして、そして審査は無事に通った。
『カレーとか、しばらく食べづらくなるわよー。リテーナーの手入れがね、ほんとに面倒なの』
 わたしにそう教えてくれたのは総務の三木原(みきはら)さんだった。社内で一番の美人で、真珠みたいな歯をしている。本人曰(いわ)く、数年前は口元をいつも隠しているくらいに酷(ひど)い乱杭歯(らんぐいば)だったらしい。人前に出るのが嫌でマスクが欠かせなかったんだ、と笑う顔から、そんな過去は全然想像できない。わたしの歯並びが良くなっても三木原さんみたいな美人にはなれないけど、それでもやることにした。
「では来週水曜日の夕方六時にご予約をお取りいたします。頑張っていきましょうね」
 受付の女性がやわらかく笑う。きれいな口元をしていて、彼女の場合は社割とかあるのかなと思う。だったらちょっとうらやましい。わたしの職場、米村(よねむら)建設にはそんなメリットはない。部長の出張土産(みやげ)の銘菓がたまに貰(もら)える程度だ。
 歯科医院を出ると、肌を切るような冷たい風が足元を勢いよく通り過ぎた。思わず身を竦(すく)ませ、空を仰(あお)ぐ。どんよりとした分厚い雲がかかっている。夕方から雪が降るかもしれないと天気予報で言っていたけれど、いまこの瞬間にも空から雪片が舞い降りて来そうな気がする。早く帰ろうと、足を速める。
 今日は、カレーを作ろう。スパイスをこれでもかとぶち込んだ、たったひとりにしか褒(ほ)められたことはないけれど、でもわたしの得意料理。どのスパイスの効能かは分からないけれど、食べ終わると絶対汗だくになる。この際だから寸胴鍋(ずんどうなべ)一杯に作って、飽きるまで食べよう。調味料の棚に残っているスパイスを思い返しながら歩いていると、バッグの底に沈めていた携帯電話が震えた。立て続けに何度も震えるので、足を止めてバッグを探る。見れば、何年も放置されていて存在すら忘れていたかつてのバイト仲間のグループチャットが盛り上がっているようだった。誰かが結婚でもしたか、もしかしたら出産報告なんてこともありえるか、と思いながらタップした指が止まる。
『鳴宮元生(なるみやもとお)が昨晩亡くなったと、ご家族から連絡を受けました』
 思わず息を呑(の)む。鳴、宮、元、生。一文字ずつゆっくりと目で辿(たど)るが、やはり見間違いじゃない。鳴宮元生。それは、ほんの数ヶ月一緒に暮らした男だった。わたしが、彼がひとり暮らしをしているアパートの部屋に転がり込んだ形だった。
 指が勝手にチャットの履歴を遡(さかのぼ)っていく。一年ほどの闘病の果てに亡くなったこと。それを知らせたのは彼の奥さんで、明るくて人気者だった彼を賑(にぎ)やかしく送り出したいと片っ端から連絡を取っていること。友人たちがせっかくだから集まろうと言っていること。それらがなんとなく、頭の中に積み重なっていく。だけどそれはどこか、遠い世界の話のような気がする。面白くない小説を読んでいるときみたいに設定だけ追っている、そんな感じ。
『育(いく)は? 行ける?』
 ふいにわたしの名前が出て我に返る。会話はずいぶんと進んでいたらしい。慌てて返事を打とうとすると、その前に『山崎(やまざき)は来ないんじゃないか』と誰かが言う。
『ていうか来れないよ。鳴宮の奥さんに酷いこと言ったって話、聞いたことある』
 記憶の奥底に小さくして沈めていた思い出が、急に質量を増す。わたしは、鳴宮の奥さんに何かしたっけ? 指が再び履歴をスクロールする。彼の奥さんの名前は椿(つばき)とある。わたしが死ね、殺すぞと女と同じ名前だ。ということは、鳴宮はあの女と結婚したのか。あの女になら確かに酷いことを言った。確か、涼しげでしゅっとした綺麗なひとだった。鳴宮は、名前そのまんまの夏椿のような子だと言っていたっけ。椿は真っ白で凛(りん)とした夏椿なんだよね、ってやさしい声音で言っていた。ねえねえ、わたしはー? そう訊くと、育はエラチオールベゴニアだって言った。特に、ヴァレンティーノピンクっていうめちゃくちゃど派手なやつな。その声は椿の名を口にしたのと同じくらいやさしくて、じゃあどうしてわたしじゃダメなんだろうと哀しくなった。わたしといる方が、きっと楽しいのに。
 ひとことも発言しないまま、グループチャットを退会した。携帯電話の電源を落として、バッグの奥底に戻す。頬(ほお)に冷たいものが当たって空を仰ぐと、灰色の紙切れみたいな雪が降り出していた。

*

 ワカサギ釣りに、ふたりで行った。美味(おい)しい物を思いきり食べたいと言ったら、鳴宮がワカサギなんてどうだと言い出したのだ。押入れの奥に知り合いから譲ってもらったというワカサギ釣りセットがあって、それならと出かけることにした。防寒具なんてないから、持っている服をとりあえず何枚も重ね着して、鳴宮の軽自動車に乗っていくつも県境を越えて榛名湖(はるなこ)まで行った。材料費タダでラッキーじゃんって話したのに、ガソリン代とか入漁料とかで結局めちゃくちゃ高くついてしまった。アパートの近くの焼肉屋で、よくばり肉セットと上タン塩、ビールが思う存分注文できてしまうくらいの額。お金と時間をかけてわざわざ群馬にまで来る意味ってあったのだろうかと、わたしはちょっとだけ冷めてしまう。でも鳴宮は、「釣りたてのワカサギを腹いっぱい食えるほうが贅沢(ぜいたく)に決まってんだろ」てドヤ顔で言うから、まあいいかと思った。
しかしそんなことを言っていた鳴宮は、ワカサギ釣りは未経験だった。わたしももちろん初めてで、だからセットの中に入っていた分かりやすい釣り方みたいなことが書いてあるパンフレットだけが頼りだった。雪がちらつく湖畔(こはん)はとにかく寒い。足元は氷だから、下から寒さがつきあげてくる。靴下を三枚重ね履きした足の先っちょが、すぐに感覚を失くした。ふたりでがちがち歯を鳴らしながらパンフレットと睨(にら)めっこをするも、全然うまくいかない。親切なおじいちゃんが手伝ってくれてようやく釣り糸を垂らすことができたけど、ワカサギは一匹も釣れなかった。おじいちゃんから貰ったホットコーヒーの缶で暖を取りながら、わたしは鼻水と釣り糸を垂らす鳴宮の背中に凭(もた)れかかる。顔を上げると、冬の空が広がっている。思い出したように、雪がちらりちらりと落ちてくる。
「向こう、釣れてるな」
 鼻を啜(すす)りながら鳴宮が言う。だねえ、とわたしが返す。数メートル先にいる家族連れは、しょっちゅう歓声をあげていた。ブルーのスキーウェアを着込んだ小学生くらいの男の子が、お父さんかっこいい! と叫んでいる。あっちはお洒落(しゃれ)なオレンジ色のテントまで張っていてやけに暖かそうだ。子どものほっぺが真っ赤に上気しているのが羨(うらや)ましい。こちとらユニクロのセールでイチキュッパでゲットしたダウンジャケットが命綱なんだぞ。
「見てろよ、俺だって」
 独りごちるように鳴宮が言う。それからぶるっと大きく震えたので、温(ぬる)くなりかけの缶のプルタブを引いて鳴宮に渡した。
「寒い。早く釣ってみせてよ」
「いまやってんだろ。ていうか、育もやれよ」
「釣竿いっこしかないじゃん」
「それな。でも、レンタル全部出払ってたし」
 ずず、と音を立ててコーヒーを啜った鳴宮が、あったけぇ、としみじみ呟いた。
 家族連れは、釣りをやめて食事をするようだ。かっこいいと称賛されていた父親がくるくると動き、あっという間にコンロや鍋を用意する。どうやら天ぷらを作るつもりらしい。あれだけ釣れれば食べ放題だろうな、と思うと同時にわたしのお腹がぐるぐると鳴った。
「飢えてるな、育」
「最近よく主張するんだよね、このお腹」
 鳴宮と生活を共にする前まで、空腹感を覚えた記憶がない。あったのかもしれないけれど、胃がぎゅうぎゅう絞られているような痛みにならないと気付かなかった。そしてわたしはその痛みがわりと好きだった。燃料切れの物体が警告音を出しているような、そんな気がしたから。でもどういうわけだかいまは、それよりももっと手前の状態で気付くようになった。
「ごはんも美味しいし、だからちょっと太ったんだよね」
「いいじゃん。それなら頑張って早く釣らないとな」
 鼻を啜って、鳴宮が笑う。重ねた背中が少しだけ温かい。半分ほど減った缶が戻ってきて、わたしはその残りを飲む。温くて甘い。

 同棲していた彼氏がわたしのバイト先の後輩ちゃんとセックスしているところに出会(でくわ)したのが二ヶ月まえのこと。わたしとは一ヶ月もレスだったくせに、必死に腰を振っててひいた。後輩ちゃんも、男性苦手なんですとか言ってたはずなのに、めっちゃ股(また)開いてウェルカムしてた。ふたりの横にはわたしが三歳のころから大事にしている実物大のスヌーピーのぬいぐるみがいて、彼はずっとそれを眺めさせられていたらしい。わたしはセックスのときにはスヌーピーをいつも別の部屋に置いて見せないようにしていたのに、なんて酷いことをするんだろう。ずかずかとふたりの傍(そば)まで行き、後輩ちゃんがぎゃ、先輩、と叫ぶのを聞きながらふたりの頭を踏んでスヌーピーを救出した。つぶらな黒目が、濡れているような気がする。ごめんねスヌーピー。抱きしめて、それから部屋を出た。慌ててパンツに足を突っ込んでいる彼氏が何か叫んでいたけれど、もうどうでもよかった。
 部屋を出てずんずん歩いて、疲れたころにちょうどあったカフェに入った。わたしが抱えている年季の入ったスヌーピーを見て店員さんは少し驚いたようだったけれど、黙って席に案内してくれた。ビールを頼んでから、スマホを開く。バイト仲間で構成されたグループチャットを開いて、後輩が彼氏と正常位でやっていたことを報告し、次に、裏切られたからもう死ぬねーとメッセージを流した。
 自分が打った死ぬねー、という文字列を見て、ふむ、と首を傾(かし)げる。本当に、そろそろ死にどきなのかもなあと思う。そもそも、わたしという人間はわりと行き詰ってる感がある。徳島に住んでいる両親とは不仲で高校を卒業して以来一度も連絡を取ってないし、今更帰っても迷惑がられるだけだ。バカで酒乱で、化粧で誤魔化してるけどブスで貧乳のわたしにはいい仕事なんてないし、いまだって居酒屋のアルバイトだ。そのバイトもこうなってしまえば行きたくないので、結果無職。あ、そうだ、あの部屋には帰れないし、もう住むところだってないんだ。となれば、死ぬということを前向きに検討すべきなのかもしれない。死を前向きに。なんだか愉快になってくすくす笑っていると、お洒落なサイズのグラスに入ったビールが届いた。ジョッキの気分なのになあと思いながら口をつける。まあまあ旨(うま)い。ビールを舐(な)めながら、スマホで自殺志願者サイトを検索してみる。さあ集え同志たち。サイトはいくつかあって、適当にタップして見るとたくさんの書き込みがあった。自分の境遇であったり、死に方の相談であったり、わりと盛り上がっている。わたしの状況もなかなかだけどね、と思いながら読んでいると、『死ぬな』なんて書き込みがちょこちょこあって、それはちょっと萎(な)える。顔も知らない相手にそんなありきたりな言葉を投げかけられたって、ちっとも響かねえよ。むしろ意地でも死んでやんよ、って気になって、そしたら雑に死んじゃうかもしれないだろ。こんなわたしだけど、さすがに死にざまくらいは選びたいんだぞ。
 定期的に差し込まれる無粋(ぶすい)な言葉に嫌気がさしてスマホを放り出そうとしたら、また『死ぬな』という文字が目に飛び込んできた。しつけえな、と舌打ちして見ればそれはメッセージで、同じバイトの鳴宮からだった。ほう、と声が出る。わたしは鳴宮と同じシフトで働いているけれど仕事以外で話したことがなかったのだ。
 鳴宮はうさんくさい男だ。イケメンの部類で、明るくていつもひとに囲まれている。下手な芸人よりおもしろいって言われているのを聞いたことがある。だけどわたしはどうにも違和感を覚えていて、絶対に裏があるよなと思って避けていた。やけにまぶしすぎるのだ。あと、なんかいろんな世界が知りたいとかで、いくつもバイトの掛け持ちをしているとも聞いた。賢い大学を出たって話だからおっきな会社とかに就職した方がいいんじゃないのと思うけど、事情があるんですってと言ってたのは例の後輩ちゃんだ。そういやあいつ、男が苦手とか言いながら男たちの事情にやけに精通していたな。まあ後輩ちゃんは置いておいて、とにかく鳴宮にはなにかある。
 そんなことを考えている間にまた、鳴宮からメッセージが届く。もちろんバイトグループには関係のない、わたし個人あてのやつだ。
『生きられる方法を一緒に探そう』
 なに言ってんだ、と呟く。なんでわたしがそんなこと指示されなくちゃいけないんだ。バカじゃん、と返信しかけて、手を止める。一緒に。鳴宮と、一緒にってこと? 少し考えて、『じゃああんたの部屋に住ませて』と送ってみる。住むとこないし、貯金もほとんどないくせにバイトも辞めるから生活できない。だからしばらく面倒見てと付け足す。どうだ、どう考えてもヤバめの地雷女だぞ。しかし少しして、『いいよ』と返ってきた。まじか。
『ワンルームで少し狭いかもしれないけど、客用の布団もあるし、大丈夫』
 馬鹿丁寧に住所の説明があって、それから『迎えに行くよ、いまどこ』とまできた。もしかして、ワンチャン狙われてる? しかしただセックスするだけなら部屋に住まわせることはない。一泊くらいならいいよ、って言えばいいだけの話だ。わたしだって一宿一飯(いっしゅくいっぱん)の礼におっぱいを触らせるくらいのことはしてもいい。
 ビールをぐいぐい飲んで、鳴宮の顔を思い出す。もしかして鳴宮は、わたしのことが好きだったのだろうか。でも正直、好みのタイプではない。わたしは髭(ひげ)の似合うろくでなしっぽい筋肉質な男が大好物なのだ。清潔感たっぷりの細身の正統派イケメンタイプには興味がない。それに、鳴宮がわたしのこと好きって、無い気がする。どちらかというと風俗店のバイトを紹介されるとか、山奥の宗教団体施設に連れ込まれるとかの方があり得る。
『まあどうでもいいや』
 声に出して言ってみた。死ぬのはいつでもできるしな。行きがけの駄賃がわりに面白いことでも経験させてもらおうじゃん。ビールを飲み干して、立ち上がった。
 結論から言えば、鳴宮もわたしのことが全く好みのタイプじゃなくて、そして風俗に落とす気も宗教団体施設に連れ込む気もなかった。特にわたしのことは好みというより雌(めす)として全く興味がないみたいで、布団をふたつ並べて眠っても平然と鼾(いびき)をかいている。メイクを落としても、どうでもよさげだった。高校時代から研究に研究を重ねたギャル系モデルメイクを乗せた顔の下は実はジャイ子そっくりなのだが、それを見ても無反応。なにが目的で声をかけてきたのって訊いたら、死ぬって言ってるひとはそりゃ助けるでしょってそれだけしか言わなかった。他人の好意に裏があるとは思いたくないけど、でもあるだろうな。でなきゃおひとよし馬鹿だ。しかし、本当におひとよし馬鹿なのかもしれないと思うくらい、甲斐甲斐(かいがい)しくわたしの世話を焼いてくれる。たくさんあるはずのバイトを休んで、たくさんの知り合いからのお誘いメールも放っておいて、ずっとわたしの傍にいてくれる。いろいろ大丈夫なのと訊いたら、心配しなくていいと言う。生きられる方法を一緒に探そうって言っただろ。だから、いいんだよ。
転がり込んで、二ヶ月が経とうとしているが、鳴宮の態度が変わることはない。鳴宮はどうして、わたしにここまでよくしてくれるんだろう。なにを考えているんだろう。
「本格的に降りだしたな」
 鳴宮の声に空を仰げば、雪片がほとほとと舞い降りていた。薄い灰色を水で伸ばしたような空は遠くの方から黒が濃くなり始めている。吹雪(ふぶ)きそうな気配だ。鼻の先に落ちた雪が解けて、雫になる。細く甲高(かんだか)い声がして視線を向ければ、大きな翼の鳥がどこかに羽ばたいていくところだった。天候が崩れる前にお山に帰るのだろうか。気付けば、まわりのひとたちも帰り支度を始めている。親子連れはすでにテントを畳み終えており、子どもは飽きたのか「早く帰ろ」と母親に纏(まと)わりついていた。でも鳴宮は帰るかと言わなくて、わたしも言わなかった。わたしは一匹くらい釣れたところが見たかっただけだけど、鳴宮もそうなのだろうか。分からない。ただ、くっついている背中だけが温かくて、だんだんと互いの境界線がなくなっていく。
「雪が降って来るのをぼんやり眺めるのって、子どものとき以来だなあ」
 空を見上げてわたしは言う。雪の生まれるところを見てみたくて、口の中に溶けた雪が溜まるまで、ずっとひとりで眺めていた。昔はいまよりももっとアホだったのだ。今日はコンタクトもばっちり入っているし見えるかもしれない、なんてやっぱりアホなままのわたしは思う。
 鳴宮が頭を持ち上げる気配がした。わたしの頭に、鳴宮の頭がコツンとぶつかる。しばらくして、ぐるりと周囲を見回すように頭を動かした鳴宮は「ああ」と低く呟いた。
「きれいだね、育」
 一面の雪と、凍った湖と、立ち並ぶ冬支度の終わった木々。いろとりどりのスキーウェアはわたしたちから遠いところにいる。
「きれいっていうか、自分がどこにいるのか分かんなくなんない?」
どうしてこんなところに取り残されているのだろう。世界から切り離された、そんな気がしてくる。すると、鳴宮が笑った。そうだな、俺たちはどこにいるんだろうな。その声は少しだけうれしそうで、寂しそうだった。ああ、まただと思う。
バイト先での鳴宮はくだらないことでげらげら笑ったり、マシンガンのように喋(しゃべ)っていたりして、わたしはそういうところもあまり好きじゃなかった。でも、わたしと一緒にいるようになってからは、一度もそんな姿を見せない。無口で静かで、そしていつもどこか寂しそうだ。
死にたいのは鳴宮もじゃないだろうか。あのとき、鳴宮は『生きられる方法を一緒に探そう』とメッセージを送ってきた。あれは鳴宮も死にたかったからなんじゃないのか。訊こうかと思うけど、でもまだ訊かない。その代わりに、下らないことを言う。
「ねえ、このまま一匹も釣れなかったら、わたしたちKappaのロゴみたいな雪像になるね。ほら、アルファベットのWみたいな」
 あれか、と鳴宮が笑う。気持ちの良い振動が背中に伝わって、これでいいと思う。訊くタイミングを間違えると、鳴宮はきっとするりと躱(かわ)してしまう。
「それよりさ、育。気付いてた? 俺たちさ、釣れても調理器具がないんだよ」
「は? そんなのとっくに気付いてたし。でもいいよ別に。生で食べる」
「いいね。野生って感じでかっこいい」
 それからも、ワカサギは一向に釣れなかった。雲は厚くなり、ほとほとと雪は落ち、足元の白は濃くなっていく。人影も減って、寒さは痛さに変わってきた。歯がかちかち鳴って、鼻を触れば鼻水が形状を変えていた。少し眠くなってきた気もする。
ああ、このまま死ぬのかな。わたしたちはくっついたまま、死んじゃうのかな。でもそれって、とてもいいな。わたしの人生の終幕なんて、安いビジホのベッドでオーバードーズか、どっかの路地裏で誰かに刺されるか、そんな汚くて惨(みじ)めなものしか想像できていなかったのだ。こんなきれいな死に方、当たりじゃん。背中の鳴宮がかたかた震えているのも、なのに帰ろうって言わないのも、きっと同じことを考えているからに違いない。
「ねえ、このまま死のっか。これって、最高じゃん」
声が震えたのは、寒さのせいだ。だってわたしは、強張(こわば)った口角を思いきり持ち上げて笑っていた。いいよって鳴宮が言ってくれれば即座に目を閉じるつもりだった。いいよ、って言えよ。でも、鳴宮はあと少しで同化しそうだった背中を剥(は)ぐようにして立ちあがった。支えを失ってごろんと転がったわたしを見下ろして、帰るよと言う。
「近くに温泉があるはずだから、そこに行こう」

(つづく) 次回は2019年11月1日更新予定です。

著者プロフィール

  • 町田そのこ

    1980年生まれ。福岡県在住。2016年「カメルーンの青い魚」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。2017年同作を含む『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』を刊行。他の著書に『ぎょらん』がある。