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  • エピソード3 クロダさん(3) 2014年9月15日更新
          ◇

 楼門は、一目でこの国のものではないとわかる極彩色のちりばめられた、異国の風合いだったが、青空には良く映えた。クロダさんは、スキップをするように足取りを弾ませ、楼門をくぐる。
 異邦郭は、海を隔てた居留地や、その西方の大陸、西域から渡来した人々が住む、一種のコロニーだ。戦後混乱期の渡来人同士の物々交換的な市だったものが発展し、今ではこの街随一の観光地となって、街の内外からの観光客が引きも切らない。縁もゆかりもないこの国に住むことになったが、ここに来れば、束の間、異国の風を感じられる。
 表通りは、いつも通り、観光客でごった返していた。クロダさんは、露店や土産物屋を一通り眺めてから、裏通りへ向かった。入ってすぐは、キワモノを喜ぶ冷やかしが入り込むこともあったが、更に奥に進むと、すぐに観光客の人通りは途絶える。
 狭い間口の店が両側に建て込み、伸ばされた庇がアーケードのように空を隠す。カーバイド光の揺らぎが、行き交う人々の影を、ここにはいない人の姿のように、怪しく見せる。
 そのあたりまで入ると、周りから聞こえてくるのも、異国の言葉ばかりだ。放浪の旅をして来たクロダさんにとって、居心地の良いものだった。
 最も奥まった一軒の店の前で、クロダさんは足をとめた。
 屈強な体つきの男が、店の前に立っている。厳めしい顔つきで周囲を睨み据え、不動明王のように仁王立ちする姿は、人を寄せ付けないものがある。
 だが、クロダさんの姿を見かけると、彼はいかつい顔の口元に笑みを浮かべた。
「ひさしぶりだな、クロダ」
 クロダさんは、居留地の言葉が少し話せる。
 双龍とあだ名されるその男は、異邦郭の「裏」を守る番人だという。彼が果たして何を守っているのかは、クロダさんにはわからない。
 お店には、居留地の雑貨や日用品が、お菓子や食料品と混在していた。何かを積極的に売ろうという商売っ気は感じない。「門番」の双龍の存在もあり、この店が、単なる店舗としてだけ機能しているわけではないことは明らかだった。
 クロダさんは、ダンナさんが偏執的に愛好するスナック菓子の袋を抱え込んで、レジに向かった。店の奥にはいつも、お婆さんが座っている。まるで置物のように、彼女はいつも身じろぎすらせず鎮座したままだ。
「お前、相変わらず、そのお菓子が好きなんだな」
 双龍は、「物好きだな」と言わんばかりに、鼻息をもらす。
「うちのダンナさんは、これしか食べないんだ」
 クロダさんが偶然この店で買って以来、ダンナさんの方がすっかりはまってしまったのだ。
 突然、お婆さんが皺の浮いた手を伸ばす。クロダさんの手が包み込まれた。
「……いいんだよ」
「え? なんですか?」
「描いていいんだよ。あんたは、そのために生まれて来たんだ」
 今まで何度訪れても無反応だったお婆さんの突然の言葉に、クロダさんは答えることもできず絶句してしまった。深く刻まれた皺の奥の瞳は、クロダさんをしっかりと見つめていた。
 それきりお婆さんは再び、動きを失った。やり取りに気付かなかったらしい双龍が話しかけてくる。
「ああ、クロダ、そう言えば、お前の荷物、やっと星回りが良くなったぞ」
「え、荷物って……?」
「小さかったからな。俺が受け取っておいたぞ。ほら」
 双龍が居留地の新聞紙に包まれた荷物を手渡してくる。
 居留地の民は「星回り」という考え方に大きく影響される。それは居留地に立ち寄る旅人も同様だ。クロダさん自身も、居留地からこの国に渡る船に乗るために、「星回り」が良くなるまで半年も待たされた。
「星回り」の縛りは、荷物にも及ぶ。船には乗れたものの、一つの荷物だけが「星回り」に影響されて、この国への入国の際に戻ってこなかったのだ。この街には、「星回り」が良くなって持ち主に渡すまでの間、保管するための倉庫まである。その荷物は二年間ずっと、倉庫に保管されていたのだ。
 お菓子の袋を抱えて、クロダさんは異邦郭を後にした。楼門の下で、双龍から受け取った荷物の包みを開ける。中から出てきたのは、一本の絵筆。旅に出た時からずっと使い続けていたものだ。

 ――描いていいんだよ……

 お婆さんの言葉が、クロダさんの心の中でこだまし続ける。
 だけど、いったい何を描けっていうんだろう? 描くべきものがわからず、クロダさんは立ち尽くすしかなかった。ダンナさんの前では、こんな姿は決して見せられない。あんな見かけで、あの人は結構、人の心の動きに敏感なんだ。
 ふと、目の前を何かが通り過ぎた。
 それは、青い蝶だった。
 季節は冬へと向かう頃だ。今ごろ、蝶が飛んでいるはずもない。
 すれ違った女子高生のカバンに下げられたキーホルダーには、木彫りの青い蝶が揺れていた。
 クロダさんは、その姿をいつまでも見送り続けた。
 
          ◇

 あぐらをかいたダンナさんの膝の上に、クロダさんは座る。身長差が三十センチもあるので、すっぽりと覆われた気分だ。大きなリクライニングチェアに座ったように、それは心地良く、「居場所」を感じる。
「ねえ、ダンナさん。あたし、約束通り、愛人を囲ったよ」
「なにっ! 俺の冗談を真に受けて、傍若無人な振る舞いを! もう許さん。離婚だ! 離婚!」
 お腹を盛大に揺らして怒るものだから、膝に座るクロダさんは弾むゴムボールでも背中にしているようだ。後ろからしっかりと抱き締めたまま、「離婚だ!」なんて息巻いても、説得力はない。
 クロダさんは、廃屋での暮らしぶりをダンナさんに話した。弦楽器だけを担いだ旅の女性を住まわせていること。時々遊びに来るようになった小学生の女の子のこと。
「そうか……」
 いつもより言葉少ななダンナさんには、前の住人から送られた青いトランクのことや、手元に戻った絵筆のことは話せなかった。
 ダンナさんは畳の上で大の字になった。クロダさんも、ダンナさんのお腹の上に倒れ込む。耳をあてると、お腹の中から、ダンナさんの声が聞こえる。
「クロダ。俺はしばらく、夜は遅くなるかもしれん。あんまりクロダの相手をしてあげられないぞ」
 どこか、決して届かない遠くから、ダンナさんの声が聞こえるようだった。
「仕事が忙しいの?」
「まあ、そんなとこだ」
 ダンナさんは言葉を濁す。相変わらず、クロダさんはダンナさんのことを、何も知らないのかもしれない。
「だから、あの家で、クロダは好きなことをやればいいさ」
 ダンナさんは、クロダさんに何を望んでいるのだろう。
「まあ、せっかく借りた家なんだ、せいぜい楽しむんだな」
「うん、わかった。楽しむよ」

          ◇

 クロダさんは、膝を抱えて丸まったまま、起き上がりこぼしのように、畳の上をゴロゴロと転がった。
「困ったなあ……」
回り続ける視界の隅に、青いトランクと絵筆が、嫌でも入って来る。
 ――だけど、まだ、絵の具がない……
 転がったままの逆さまの世界で、逆さまの女性の顔が覗き込み、困惑したように笑いかける。
「ただいま……帰りました」
「お帰りなさい」
彼女は夜な夜な、弦楽器を携えて、どこかへ出かけるようになっていた。帰って来るたび、彼女は、眼に見えて消耗していた。
「なんだか疲れてるみたいだよ。大丈夫?」
体力的な疲れとも、精神的な疲れとも違う。彼女は、自らの一部をもぎ取られてしまったように影が薄くなり、今にも消えてしまいそうにも思える。
「毎晩、街に出て、あなたは何をしてるの?」
「唄を作らなきゃならないんです。それが、私のこの街での役目」
 彼女は寂しげに微笑んで、弦楽器を手にする。壁にもたれて、弦に指を添える。音を愛おしむような、小さな爪弾き。一音一音が、街に生きる人のようだ。爪弾く彼女が、音の運命を変え、人の人生の行き先を指し示す。そうせざるを得ない彼女の苦しみ、悲しみが、そのままに伝わってくる。音は重なり合い、そして、空へと駆けのぼっていった。
 旅の中で出会った、さまざまな人がよみがえる。
 絵を描くたびに、信頼した人々を裏切って来た。二度と逢うことはない人々。だからこそ、クロダさんが姿を消した後に彼らが見せただろう悲しい顔は、想像の中から消えることはなかった。
「私はこの楽器を弾くたびに、出会った人たちの運命を捻じ曲げてきました。自分ではどうしようもないんですけれどもね」
 彼女もまた、魂の衝動に突き動かされるようにして、旅を続けてきたのだろう。
「毎晩、私はこの街の人の想いを受け止めているんです」
「受け止めて、それをどうするの?」
「想いの涙を集めなきゃいけないんです」
「想いの涙?」
 彼女が差し出したのは、ガラス瓶の容器。そこには、冬の空を思わせる青い液体が入っていた。
「揃っちゃったよ……」
 クロダさんは呟いて、再び膝を抱え、畳の上でぐるんと転がった。
「困ったなあ……」

         ◇

 ダンナさんと二人でのアパートの夜。
 冬の訪れは、街の音を遠ざける。それは閉ざした窓とカーテンのせいだけれど、その分だけ、部屋の中の親密度はます。
「静かだな」
「静かだね」
 二人は、親密な静けさをいとおしむように、そう呟いた。
ダンナさんが一人で住んでいたアパートに転がり込むように暮らしだして、もう二年。
 ダンナさんの服と、クロダさんの服が混じり。二人の本が混じり、二人の匂いが混じり、二人の時間が混じる。生活というのは、二人が混じりあうことだ。その交わりは、いつしか心の交わりになって、二人を引き離すことはできなくなる。
「クロダ、髪を切ってくれ」
新聞紙を床の上に敷いて、黒いビニール袋を首の部分だけくりぬいてすっぽりとかぶる姿は、黒いテルテル坊主みたいだ。
 目の前のもじゃもじゃ頭に、クロダさんはハサミを入れる。
大きな綿菓子のように膨らんでいた天然パーマの髪が、少しずつ小さくなってゆく。クロダさんは、初めてもじゃもじゃの絵を描いた時のことを思い出していた。
「ダンナさんは、今は何をしているの?」
 最近、ダンナさんは、アパートに帰って来ないことが多い。
 彼が、仕事以外に、何かを抱えていることは気付いていた。そしてそれが、決して話せないものだろうことも。
「俺の仕事は、汚れ仕事だ」
 髪を切り終わったダンナさんは、テルテル坊主を脱ぎ捨てると、クロダさんの前に自分の両手を突き出した。指の背にまで毛が生えた野太い指だ。
「汚れてないよ?」
 ダンナさんの手を引き寄せる。グローブのような大きな手、それは、決してきれいではなかったが、汚れはどこにもなかった。
「汚れてるのさ。見えない絵の具みたいにね」
 ダンナさんは、そう言って寂しげに笑った。
 立てつけの悪いサッシの窓が、風でカタカタと音をたてている。それは、クロダさんの心の奥の、隠し続けたい衝動を、暴き立てようとするようでもあった。
 でも、絵を描く時が来ただなんて、言えるはずもなかった。
「ごめんなさい。あたしも、しばらくここには、帰らないかもしれない」
 だからクロダさんは、そんな言い方をするしかなかった。
「何だと! あのボロ家で囲ってる愛人が、よっぽど気に入ったらしいな。そんな奴はもう帰って来るな!」
 冗談めかして言って、クロダさんが絵を気にしていることを、彼は知っている。
 泉川さんには、「あいつは勝手に家を借りて、愛人囲って出て行きやがった」なんて言っているらしい。それは、ダンナさんなりの、ぶっきらぼうな優しさだった。
 この人は、なんて優しいんだろう。絵を描き始めることは、この人をもっと傷つけることになるんじゃないだろうか。ダンナさんは、何も尋ねない。そのことが、いっそうクロダさんの心を締め付ける。
「やるべきことを、やるのさ」
 そう言って、ダンナさんは、クロダさんの頭に手を置いた。森の熊のような優しい瞳が、クロダさんを覗き込んだ。

(つづく) 次回は2014年10月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 三崎亜記

    2004年『となり町戦争』で第17回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。同作はベストセラーとなり映画化もされた。著書に『刻まれない明日』(小社刊)など多数。