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  • エピソード3 クロダさん(4) 2014年10月15日更新
          ◇

 十年前の住人から受け継いだ、三千枚以上ある画用紙。
「星回り」が整い、二年振りに戻って来た絵筆。
 そして、人々の想いから集められたという、青い絵の具。
 クロダさんの前に、絵を描くための準備がすべて整っていた。
 名前のない女性の指は、しばらく彷徨(さまよ)うように動き、弦に触れようとしない。何かを躊躇するように、クロダさんを見つめた。
「この唄はきっと、あなたをここではないどこかへ連れて行きます。その行き先は、私にもわかりません。それでもいいんですか?」
 ダンナさんの瞳を思い出す。「もう絵は描かない」と言った時に見せるだろう、寂しそうな瞳を。
「ダンナさんは、あたしに言ったんだ。やるべきことをやるのさって」
 クロダさんの「旅」の足かせになることを、ダンナさんは喜ばない。
 彼女はようやく、唄を歌う決心がついたようだ。
「それじゃあ、唄を作ります」
 彼女は踏ん切りをつけるように言って、楽器を構えた。迷うように、弦の上で、指が彷徨う。
 迷いがそのまま、音となって生み出された。
 音の羽根をまとって、彼女の唄は、そっと旅立った。
 耳を塞ぐこともできない。いや、耳を塞げばそれだけ、心の中に直接に入り込んでくる。
 その唄は、クロダさんの、長い旅そのものだった。
 決してまっすぐな旅ではなかった。さまざまな人を傷つけ、裏切った。それでもクロダさんは、旅を続けたのだ。
 はっきりとわかった。それはクロダさんを、新たな旅へと導く唄だと。
 クロダさんは、唄の風に乗って飛ぶ、青い蝶だ。海を渡って旅をする蝶のように、はかない羽根をはためかせて、飛び続ける。彼女の唄に導かれるように、クロダさんの筆は進んだ。
 蝶は季節を越え、海を越え、風に遮られず、時の制約から解き放たれ、どこまでも舞い上がる。いつか途切れるその夢をせいいっぱい羽根に託して、画用紙の上で飛び続けていた。

 ――ダンナさん、あたし、描くよ……

 時の流れからはみ出した場所で、クロダさんは青い蝶を描き続けた。
 彼女は、眼をつぶって、ささやくように歌い続ける。人の想いを封じ込めているようでもあった。彼女が音を爪弾き出すのではない。音を導き出すために、彼女は存在する。彼女は、自らの運命を、今、引き寄せている。
 音の波の静まりと共に、画用紙の上に、青い蝶が舞い降りていた。
 もう、後戻りは利かなかった。

          ◇

 二年間、ダンナさんと過ごしてきたアパートの玄関に立ち、クロダさんは部屋を見渡した。
 廃屋で青い蝶を描き続けて、画用紙は一千枚を超えた。どれだけ書いても、名前のない女性が持ち帰る「青い絵の具」が途切れることはなかった。絵の具がなくなった時。それは、クロダさんが絵を描き終える時だ。その時には……。
 そこまで考えた時、背後で扉が開く。ダンナさんのご帰宅だった。
「ダンナさん。お帰りなさい」
 ダンナさんは、カラになったスナックの空き袋を振った。どうやら、それが今夜の夕食代わりだったようだ。
「最後の一袋になっちまった」
「じゃあ、また買っておくね」
「いや……」
 ダンナさんは、何かを躊躇するように、言葉を濁した。
「店を、教えておいてくれないか?」
「え?」
「いや、俺も店の場所を知っておいた方がいいと思ってな」
「どうして……」
 そう言いかけて口をつぐむ。青く汚れた指先だけは、隠しようがない。ダンナさんは、もうすぐクロダさんとの生活が終わることを、わかっているのだろう。
「クロダ、風呂に入るぞ」
 そう言ってダンナさんは作業着を脱いでパンツ一丁になると、お風呂にお湯を入れ出した。
 いつも通り、お風呂のきっちり半分までお湯で満たして、二人で沈み込む。そうするとちょうど、お風呂の縁ギリギリまでお湯がくる。
「クロダ、旅の話をしてくれ」
 お風呂の縁に頭を載せて、ひっくり返ったカバのように身体を浮かせたダンナさんは、クロダさんに旅の話をせがむ。
「それじゃあ今日は、青い蝶を追いかけて、旅に出た話でいい?」
 それは今までとは違う、未来の旅の話だった。
「冬なのに、その青い蝶は、私を誘うように、ふわふわと飛び続けるの。あたしはその青い蝶を追って、どこまでも歩き続けるの。どこに連れて行かれるかも、わからないまま……」
 ダンナさんの浮かんだお腹の上に乗って、クロダさんは話し続ける。優しい眼差し。その奥に潜んだ悲しみから目を逸らさない。裏切って来た人々の分も、クロダさんが受け止めるべき瞳だった。
「遠い旅だったのか?」
「うん、遠い遠い、旅……」
 ――そうきっと……
 その言葉は、続かない。続ければ、「さよなら」を言わないといけない。
「さあ、大波が来るぞ!」
 二人でお風呂に入った時のお楽しみ、ダンナさんがお風呂の中で大きく身体を揺らす。クロダさんは、その波に乗って、お風呂の中に沈み込む。
 クロダさんの涙は、大波が隠してくれた。

          ◇

 二月二十五日。
 廃屋の窓から、朝日が差し込む。朝から晴れていた。
 目覚めると、名前のない彼女はいなかった。
 クロダさんが描いた三千枚を超える青い蝶の絵は、青いトランクと共に姿を消してしまっていた。彼女が運び出したのだろうか。残されていたのは、たった一枚の画用紙と絵筆、そして瓶の中に残り少ない、青い絵の具。

 ――最後の蝶は、どこで描こう?

 どこか、青い空の下で描きたかった。
 クロダさんは、画用紙と絵筆、そして絵の具が入った瓶だけを手にして、廃屋を出た。足の赴くままに歩きだして、廃屋を振り返った。最後の蝶を描いたなら、ここにはもう二度と、戻ることはない。
「行って来るよ」
 それだけを言って、クロダさんは振り返らずに歩き続けた。道は辿らない。ただ空の青だけを見つめて、クロダさんは前に進む。澄みきった空には、描かれた蝶たちが溶け込んでいるようだった。
 大きな河に架かった橋を渡り、しばらく足の赴くままに歩いて、クロダさんは足を止めた。周囲を見渡す。
 そこは、どこにでもある小さな公園だった。ベンチに座ると、数羽の鳩が餌をねだるでもなく近寄って来て、首を傾げるようにしてうずくまった。
 風の音だけが聞こえる。遠く海から吹き渡る風だ。
 真っ白な画用紙の上で、クロダさんは瓶を傾け、残った絵の具をすべて落とした。そのまま絵筆で、絵の具の雫を、画用紙に広げてゆく。
 青いしみから、四枚の羽根が生まれ、それはやがて一匹の蝶になった。
 クロダさんは、その絵を、青い空に掲げた。心に生じるであろう、旅立ちの衝動を、静かに受け止めようと、眼を閉じた。

 ――どうして……?

 不思議なことに、クロダさんは、次の場所に旅立とうという気にはならなかった。
「蝶のお姉さんは、行っちゃったよ」
「若菜ちゃん……」
 目の前に立っていたのは、時々、廃屋に遊びに来ていた女の子だ。
「クロダのお姉さんの代わりに、旅に出るって」
「あたしの、代わりに?」
 絵を描いたら、新しい場所へ旅立たなければならない。その宿命を肩代わりしてくれたというのだろうか?
「その代わり、クロダさんは、近いけど遠い場所から、この街を見守り続けるんだって。そんな旅もあるんだって言ってたよ」
 若菜はそれだけ言って、まだまだ身体には大きなランドセルをカタカタと鳴らして、駆け去って行った。名前のない彼女は、この街で「蝶」という名前を得たのだろう。女の子からの伝言を、ゆっくりと噛みしめる。
 青い蝶は、この街に留まり続ける。そしてそれを見守り続けるのは、クロダさんの役割だった。
 今は確信を持って言える。自分はこの街に留まるんだと。
 そう心に刻んだ矢先、携帯電話が鳴る。ダンナさんからだった。
「どうしたの? 仕事中じゃないの?」
「いや、クロダ、お前、どこにいるんだ?」
 なぜだろう。ダンナさんの声が近いのか、遠いのかわからなくなる。すぐそばなのに、決して届かない場所から電話をかけているみたいだ。
「どこだろう? 大きな空の下だよ」
 携帯電話を耳にあてたまま、周囲を見渡す。電柱に地名が書いてあるけれど、クロダさんには読めなかった。
「ねえ、ダンナさん。あたし、新しい絵を描いたよ」
「そうか……」
 ダンナさんの、遠い、遠い声。なぜだろう、澄みきった青空を見上げたみたいに、鼻の奥がツンとする。
「じゃあ、クロダも、いよいよ旅立つのか」
「ううん、あたしは、ずっとここにいるよ」
 きっと今、電話の向こうで黒田さんは、悲しそうな顔をしている。
 なんでもずけずけ言う遠慮のない人だって思われてるけど、ホントに大事な事は、何も言えない人なんだ。だけど、大丈夫だよ。ダンナさん。
「わかったの。この街にずっといても、私は旅をしてるんだって」
 旅が、人の想いから想いへとつながるものだとすれば、ずっとこの街にいても、心は遠くまで旅立つことができるはずだ。
「そうか……。よし、いいぞ。お前はずっと、この街にいるんだ」
 ダンナさんの遠い声が、優しく、そう言ってくれた。

 電話を切って、クロダさんは、蝶を描いた画用紙を胸に抱きしめた。すぐ近くで、鐘の音が聞こえる。結婚式だろうか。ささやかな幸せを祈るその響きに、クロダさんは自分の絵を託すことにした。
「自由に、飛ぶんだよ」
 クロダさんは、最後の蝶を描いた画用紙を、思い切り青空に放った。
 青い蝶は、澄み切った青空に溶け込んで行った。

(完) 次回は2014年11月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 三崎亜記

    2004年『となり町戦争』で第17回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。同作はベストセラーとなり映画化もされた。著書に『刻まれない明日』(小社刊)など多数。