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  • エピソード4 早苗の結婚式(1) 2014年11月15日更新
「だいぶ、中も綺麗になってきたな」
 浩介は、タオルで汗を拭いながら、満足げに言った。
 早苗も、心地よい労働の疲れを全身に感じながら、礼拝所の中を見渡す。まだまだ、この場所を人が賑わう場所にするには道半ばだ。それでも今は、少しずつ山を登り、景色が開けていくような昂揚感があった。かつての荒廃ぶりが嘘のように、この場所は再び蘇ろうとしている。 
 一年前のことを、早苗は思い出す。二十年間放っておかれた礼拝所は、外壁は半ばまで蔦に覆われ、前庭には不法投棄された粗大ごみがうずたかく積み上がっていた。鍵が壊されて自由に侵入できる内部は、壁一面にスプレーで卑猥な言葉が殴り書きされ、椅子や扉はことごとく破壊されていた。窓は割られ、ホームレスがたき火をしたあとが残る。この街の悪意と失意のすべてが堆積したような場所だった。街の人々は礼拝所を忌み嫌い、避けるように遠ざかっていた。
 早苗はたった一人で、少しずつ掃除をし、ゴミを運びだし、蔦を払い、背丈以上に伸びた雑草を刈り払った。
 世間の目は冷たかった。人々はこれ見よがしに空き缶を投げ入れ、壁につばを吐きかける。子どもたちは「お化け屋敷やーい!」と囃し立て、主婦たちはあらぬ噂をささやき合い、集団で押しかけては、「ここに関わるな」と早苗に迫る。
 一日ゴミを片付けて、翌日訪れると、昨日までの倍の不法投棄のゴミが散乱し、元の木阿弥ということもたびたびだった。この場所に吹き溜まる悪意を、早苗のちっぽけな力では、押し返せそうもなかった。
 ――もう、諦めよう……
 踵を返した早苗の前に、いつの間にか数人の少年たちが立ち塞がっていた。以前から、ここをたまり場にしていた少年たちだろう。早苗は立ち竦む。襲われても、誰も助けに来てはくれない。この場所に向けられた悪意が、人の形となって出現したようだ。
 出口を塞がれ、逃げ場はなかった。下卑た笑いを浮かべて、男たちが早苗に迫る。羽交い絞めにされ、口を塞がれ、服に手をかけられた。
 その時、威嚇するような甲高いエンジン音が近づき、礼拝所の前で止まった。
「お前ら、何してるんだ?」
入って来たのは、金髪に耳にピアス。腕にはタトゥーがものものしい男だった。
「何だよ、お前」
 少年たちも、さすがに怯んだ様子だったが、まだ数を恃(たの)む余裕はあるようだ。
「お前ら、蒲田ん所の下っ端だよな。いいのか、こんなトコで油売ってて。坂田さんはいなくなったが、異邦郭の双龍は甘くはねぇぞ」
 出された名前に、少年たちが青ざめる。
「おい、あのバイク……」
 礼拝所の前に停められたバイクに、少年たちは驚愕を示した。二十年前の暴走族が使っていたような、改造バイクだ。
「まさか、坂田さんに見込まれたっていう……」
 少年たちは、男に恐れをなしたように、散り散りに逃げていった。
「おい、あんた、大丈夫か?」
 心の中にまで、ずけずけと入り込んでくるような声だ。少年たちよりも、もっとたちの悪い相手だろう。
「……勝手に入って来ないでください」
 後ずさりしながら、早苗は精一杯に気を張った声を出した。
「あんただって、勝手に入ってるんだろう?」
 男は早苗の言葉などお構いなしに、中に入って来て、胡散臭げに周囲を見渡す。
「あたしは……」
 言いかけて、口をつぐむ。母につながる場所だという確信もないままだ。自分のやっていることの無意味さを突き付けられた気がした。
「かわいそうだな、こいつも」
 男はそう言って、煉瓦の壁に手をやった。
「お前には何にも悪いことはないのに、ずっと一人ぼっちだったんだよな。ごめんな、気付いてあげられなくって」
 礼拝所が幼い子どもででもあるかのように、男はやさしく壁を撫でる。その瞬間、虐(しいた)げられてきたこの場所、そして母親への思いが、初めて報われたような気がした。
「お、おい、どうしたんだよ」
 男は慌てたように、言葉を詰まらせた。知らず知らずのうちに、早苗は涙を流していたらしい。男は、どうすればいいのかわからないように、オロオロしている。
「わ、悪かったよ、驚かせちまってよ。な、泣くなよ、なあ……。困ったなあ」
 こわもての面相からは予想もつかない困り顔で、頭を掻いている。 
 それが、浩介との出会いだった。

          ◇

「じゃあ、今日は、大仕事すっからよ。気合い入れてかかれよ、みんな」
 浩介が集まったメンバーを叱咤(しった)する。今日は礼拝所の外壁の、落書きを除去する予定だ。集まった十名ほどのメンバーは陽気に声を上げて、やる気満々だ。
 浩介の言葉は、不思議に人を巻き込み、仲間が増えてゆく。礼拝所をたまり場にしていた少年たちすら、今はすっかり従順になって、手伝いに顔を出すようになっている。
 早苗が代わりに立って、作業を皆に説明する。
「今日は、塗料除去の専門家の田中さんに来てもらっています。危険な溶剤なので、田中さんの指示に従って、各自分担表に従って、持ち場についてください。除去剤は、田中さんのご厚意で提供していただきました」
 皆が拍手を送り、田中さんは晴れがましげに、頭を下げる。
「高くて届かない場所は、クライミング経験のある山中さんに担当してもらいます」
 山中さんが、すでに壁によじ登る準備を万端整え、サーカスの空中ブランコの乗り手のように優雅にお辞儀した。
 知り合いの食堂の出前配達を手伝っていた浩介はある日、痴漢被害に遭っていた女子高生を助けた。それが田中さんの娘さんだった。開かずの踏切につかまって、奥さんの出産に間に合いそうもなかったところを、バイクの後ろに乗せてギリギリで産婦人科に到着させたのが山中さんだ。そんな人物が、壁の落書きを除去する専門家だったり、クライミング技術を持っていたりして、この活動に快く参加してくれた。
 浩介はまさに、人を惹き寄せる強烈な磁石だ。集まったのは、浩介が言うならひと肌でもふた肌でも脱ごうと意気込むメンバーばかりだ。だけど浩介は、そんな自分の影響力を、何も分かっていない。
「あんた、すげえなあ」
 壁に張り付くようにして移動する山中さんの姿に、浩介は心底感心したように、感嘆の声を漏らす。そこに打算は一切ない。子どものように純粋な好奇心と、呆れるほどのポジティブシンキング。それが、浩介の持ち味だ。

          ◇

「さて、それじゃ、今日も行こうか、早苗」
 一日の作業を終え、浩介は早苗にヘルメットを放った。
「今日は、話を聞いてくれるかしら」
「あたって砕けろさ」
 気楽に言って浩介はヘルメットをかぶる。早苗はバイクの後ろにまたがって、風でまくり上がらないように、スカートを足の下に押し込んだ。
「しっかりつかまってろよ」
 早苗の腕をつかんで、自分の腰に抱きつかせる。バイクの二人乗りなんて、自分がするとは思ってもいなかった。大学を卒業して、就職活動をして、どこかの企業に勤めて……。想像していた人生の「まっとうな道」からは、今の早苗は遠かった。
 友人たちからは、人生を踏み外したと思われているだろう。早苗は就職もせず、大学を卒業しても「ふらふらしている」のだから。
 浩介は呆れるほど、世の中の事情に疎(うと)かった。この国の地図もかけないし、首相の名前すら知らない。
「早苗、就職活動って、何なんだ?」
 そんな質問をされたのは、早苗が大学四年生になって、初めてのリクルートスーツ姿を浩介に見せた時だった。
「大学を卒業してから、自分が働く場所を決めるために、いろんな会社の面接を受けるの。今は就職難だからね。何十社も面接を受けなきゃいけないの。大変だよ」
「就職難って……、え~っと、会社があんまり働く人はいらないよって言ってるってことなんだな。求められてないところに、自分を無理やり押し売りするのか?」
「押し売りって……、企業に自分らしいところを見てもらって、それを評価してもらうための活動だよ」
「早苗らしさを見てもらうのかぁ。それじゃあなんで、そんな他の人と同じようなスーツを着てるんだ?」
 浩介は、リクルートスーツなんて知らない。それが、就職活動での「制服」のようなものだということも。
「なあ、就職活動って、早苗が会社を選ぶのか? それとも会社が早苗を選ぶのか?」
 まだ何者でもない自分の長所を書き連ね、人を蹴落として内定を得ることが、ひどくあさましいことに思えてきてしまう。浩介は、就職活動を馬鹿にしているわけじゃない。単純に、まったく知らないから、その「風習」を奇妙に思ってしまうだけなんだろう。
 浩介と一緒にいると、自分が当然と思っていることが、どれだけ歪んでいて、つくられた「当然」なのかを思い知らされる。何人かの男性と付き合ってきたものの、そんな風に、会うたびに何かを発見させてくれる相手に出逢ったことはなかった。
 彼のまわりに集まる仲間たちもさまざまだ。仕事も年齢も学歴も、考え方もまったく違う。普通なら絶対に交じりあわない、素通りする間柄だろう。浩介がいるからこそ、みんなここにいる。
 髪型や服装、喋る内容に気を使って、縄張り争いをする野生動物のように、「仲間外れ」に対して敏感なセンサーを働かせてきた「友人」というバランスゲームとは、仲間たちはほど遠かった。
 浩介と共に過ごすうち、早苗は次第に、就職活動に身を入れることができなくなっていた。そしていつしか、「新卒で就職できる有利な期間」は過ぎ去った。
 大学の友人たちからは就職戦線からの「脱落」と見做(みな)され、距離を置かれた。自分の人生に対して逃げているんじゃないかと思ったこともある。でも今は、一度立ち止まって、自分の立っている場所をしっかりと見つめたかった。
 今の自分は、まだ何者でもない。それがはっきりわかってから、一歩を踏み出せばいい。浩介と共に過ごす日々は、その一歩を踏み出すための、大切な時に思えていた。

 丘の中腹の早苗の家までは、バイクで十分ほどだ。浩介のバイクは排気音が大きいので、それが父親へ訪問を知らせているだろう。
「工房の方にいるみたいね」
 ヘルメットを脱いで、早苗は一つ深呼吸をして、工房に向かった。自分の家なのに、真剣勝負に来た気分だ。
「こんにちは!」
 早苗の気後れを吹き飛ばすように、浩介が勢い込んで挨拶する。
「早苗さんとの交際を認めてもらえるように、ご挨拶にまいりました!」
 近所にも聞こえるような大声なので、赤面してしまう。でも浩介は、恥ずかしさとは無縁で、真っ直ぐだ。浩介の日参には、打算も何もない。目の前に超えるべき壁があるから、毎日挑んでいる。それだけのことだ。
 父は振り向こうともしない。ただ、浩介を、娘の相手としては認めないという頑固な意思だけは伝わる。
 鋳物工芸家である父親は、作品を前にして、磨きの工程に没頭しだす。作品の中に自らの心を研ぎ出そうとするかのような父の姿は孤高で、早苗ですら近寄りがたい。
 浩介は直立したまま、父親の働く姿を十分近く見つめていた。
「それじゃあ、また来ます」
 浩介は気を悪くした風もなく、父親の背中に向けて、深くお辞儀をした。
「じゃあな、早苗。また明日だ」
「うん、今日はごめんね」
 浩介は手を振って去り、バイクの爆音が遠ざかってゆく。

「お父さん。どうして、浩介の話を聞こうともしないの」
 夕食も取らずにいた父親が磨きの手を止めたのは、夜もふけた頃だ。
「お前に人生を踏み外させようとしている男に、どうして私が心を開かなければならない?」
「自分の育てた娘が、そんなに信じられないの?」
「彼のあのバイク、腕の入れ墨……いまはタトゥーとでも言うのかな。それに鼻のピアス。娘があんな男と付き合うと言い出して、素直に賛成する親がいると思うかい?」
 早苗は言葉に詰まる。浩介は、その風貌や態度から、不良少年を脱し切れていない中途半端な若者と見られがちだ。
 彼の乗る時代遅れの改造バイクは、かつてこの街を守るために陰で大きな働きをしていたという、坂田という人物の遺品で、形見として譲り受けたものだ。金髪やピアスやタトゥーも、美容師や彫り師見習いの練習台になってやったからで、「これをやったらどうなるんだ?」という純粋すぎる好奇心でしかなかった。彼は、前進しかギアがない大出力エンジンを備えた車のようなものだ。なにがあろうと進み続けるが、その分、傷も多い。
 反論の言葉はある。だが、何を言っても、たかだか二十数年を生きただけの小娘のたわごとでしかない。
「今、私と浩介は、礼拝所を、昔みたいに人が集まる場所に戻そうとしているの」
「そんなことをしても、何の意味もない」
 二人のやろうとしていることに、何の価値も見出せないというように、一言の下に否定される。
「それは、お母さんが関係した場所だからなの?」
 父親が早苗を見つめる。その瞳は、失った妻の面影を捜しているのだろうか。
「あの場所は、もう、そっとしておいた方がいいんだ」
「それは、お母さんがいなくなった過去に、あの場所が関わっていたからなの?」
 答えないことが、答えにつながることもある。
「過去は、未来をつくるためにあるものでしょう? 私たちに必要なのは、今であって、これから先の未来なんだから」
「過去にこだわらざるを得ない人間もいるんだ。それは、知っておかなければならない」
「だけど私はお母さんのこと、何も教えられていないよ」
 父親は一瞬だけ肩を震わせ、背を向けて仕事を再開した。

(つづく) 次回は2014年12月15日更新予定です。

著者プロフィール

  • 三崎亜記

    2004年『となり町戦争』で第17回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。同作はベストセラーとなり映画化もされた。著書に『刻まれない明日』(小社刊)など多数。